2009年6月30日火曜日

銀座 奈可久

禁煙は楽しい。最近の率直な感覚だ。訪ねる店が禁煙かどうかを気にしないで済む。くだらないことのようだが今までの私には大きな問題だった。

何かを我慢することって案外やっかいだ。わずか2時間程度、タバコを我慢することぐらい何でもないのだが、“我慢している自分”にイラだつ。

タバコが吸えないイライラではなく、我慢させられているという事実が気に入らない。筋金入りのワガママみたいだ。

だから、禁煙がほぼ成功している今、全席禁煙の店に行ってもイライラしないことが妙に楽しい。人格が丸くなった気がする。

逆にまわりのお客さんがスパスパ状態だったら、それはそれでOK。「もっと副流煙ちょうだい」って感じでクンクンしている。

禁煙のおかげで新店開拓への意欲がやたらと高まってしまった。暇さえあれば喫煙OKな店、全席禁煙の店を問わずアチコチ覗いてしまう。

銀座8丁目にある「鮨 奈可久」を訪ねたのもそんな気分でぶらぶらしていたある日のこと。

もともと6丁目、数寄屋通りの裏にあったのは知っていたが行ったことがなかった。六本木の「奈可久」、さかのぼれば「奈可田」がルーツなのだろう。

10年以上前、六本木の奈可久には何度か通った。いわゆる仕事をした肴や握りが実に美味しくて、変な言い方だが私にとって「ちゃんとした店」という印象が強い。

その後、六本木に行く頻度が減るとともにすっかり行く機会もなくなってしまった。

さて銀座の奈可久だ。8丁目の雑居ビルの6階に凛とした佇まい。ちょっと緊張感はあるものの、お店の人は丁寧かつ親切で、すぐに居心地の良い空間に変わった。

ツマミを多めにおまかせで楽しむことにする。途中途中で目についたもの、思いついたものも注文する。

高くつく頼み方だが、初訪問の際にちょこちょこ頼むより、多めに注文したほうがその店の価格帯を知るうえで参考になる。

白魚、カツオ、マコガレイと続く。
薬味の複雑な使い方、つけだれのバランスのよい味にニコニコしてしまう。

マコガレイは今まで食べたなかでも最高だった。ごく浅く昆布締めになっていて、ホントにほんのりと、分からないぐらいに昆布の香りをまとっている。旨味が絶妙に引き出されている感じで抜群。ノックアウトされた感じ。

アオリイカ、赤貝の刺身も味が濃厚でまったく文句なし。カスゴの刺身も締め加減がまさにいい塩梅。素直に旨い。

酒肴のハイライト的に出てきたのが蒸しアワビと煮たこ。江戸前の代表的な仕事を施してある。煮たこの味が個人的には濃すぎる感じだったが、昔からの味付けで酒のアテだと考えれば、あれはあれで正しいのだろう。

酒がグングン進んじゃったせいもあって、アナゴもつまみでもらう。いやはや官能的にふっくらと繊細な味わい。バンザイ。

なまこの酢の物も食べた。鮭の塩焼きも出てきた。さすがに結構お腹にたまってきた。握りは3~4貫ぐらいしか無理かと思ったが、結局バクバクと食べてしまった。

こはだ、アオヤギ、イカ、ヅケまぐろ、中トロ、ヒラメ昆布締め、ウニ、海老、マコガレイ。

覚えているだけで9貫も食べている。シャリがしっかり固めで嬉しい。ガッツリとしたシャリが好きな私はこの手のシャリにぶつかるといくらでも食べられそうな気分になる。

どれひとつ取っても不満なものが無かったのだから凄いと思う。やっぱり「ちゃんとした店」だ。“東京の正統な高級寿司”という単純明快な表現が的確だろう。

肝心のお値段はさすがに安くはない。かといって、場所と内容を考えるとビックリするような値段でもない。

やっぱり寿司は東京に限る。またしてもそんな真理を痛感する。

2009年6月29日月曜日

議員さんのベネフィット

遅くとも夏までには総選挙が行われそうなので、永田町のセンセイ達の動きが活発だ。ばたつく気配の一方で、各種世論調査などでは民主党優位の情勢は動かし難いようだ。

民主党の頑張りよりも自民党の失策が背景にあるわけで、自民党大物の落選は意外なところまで広がりそうだ。

大物議員すら危ないのだから陣笠議員はメロメロ。なかでも小泉チルドレンと称された面々は、その多くが選挙区すら決まらずに大あわて。

シンボル的存在だった杉村太蔵議員は既に出馬を正式に断念。裏側の密約説もアレコレ耳に入ってくる。ただ、密約説が浮上するぐらい彼は“大物”だったのだろうか。なんとも妙な話。

杉村議員といえば、当選した際のはしゃぎっぷりで名をはせた。アレはアレでひとつの功績だったかも知れない。

もともと、一般常識では当選の可能性はカケラもなかった彼だ。郵政選挙の変な突風が「ありえない当選」を生み出しただけ。はしゃぐのも無理はない。

無邪気だった杉村センセイ、毎月100万円が支給される文書通信費の存在に驚き、その存在を世に知らしめた。「年間100万だと思ったら、毎月ヒャクマンですよ!」と騒いでいた姿を覚えている人も多いはずだ。

彼のおかげで文書通信費の制度を知った人は多い。“通信費毎月100万円”といえば確かに大きな金額だ。厳格な使途報告は必要とされず渡し切り状態。

この制度は国会法に規定されたもので、「公の書類を発送し、公の性質を有する通信をなすため」とその目的が明記されている。この文言からして実に曖昧ではある。

曖昧さゆえに永田町の常識では、文書通信費は第二の給与という認識で捉えられている存在。すなわち、多くの国会議員が収入の一部と認識している。

「公のための通信費用」以外に利用したら立派な法令違反だが、犯罪として摘発されることはない。

かつて国会議員の公設秘書給与のピンハネ問題が国会を揺るがす大事件に発展した。逮捕者も出た。失脚者も出た。

税金でまかなわれている秘書給与を議員が収入の一部とみなしていたことが原因だ。本来の支出目的に関係なく、議員ならではのベネフィットを議員の収入と誤認する意味では、文書通信費だって同じだろう。

法律の趣旨と違った使われ方は断罪されるのがスジだと思う。議員待遇にまつわる制度改正は当の議員達が動かなければ何も変わらない。

選挙のことで頭が一杯のセンセイ達だが、自分達の足元がぬるま湯なら改革などおぼつかない。

2009年6月26日金曜日

デブの運命

先日、占い師というか霊能者的な能力を持つ人に私自身のいろいろなことを相談する機会を得た。

予約が殺到して3か月待ちは当たり前だそうだが、割と早く観てもらうことができた。
今日書くのは、さまざまに見透された私自身のことではない。

核心に触れる話をここで書くわけにはいかない。霊験が薄まる気がする。あくまで今日書くのは、その時も指摘された身体の話だ。

私を見透してくれた人は、いろいろな忠告をくれたのだが、なかでも気になるのが「これから先、太りやすいので気をつけたほうがいい」という忠告だ。

恰幅の良い中年男なら体重増加に用心するのは当たり前の話。誰かに言われてハッとするようじゃ仕方ない。

とはいえ、今回は様々なことで私自身のことを言い当てられちゃったので、デブに注意しろというお告げがやたらと染みる。

太りやすくなったのはいつ頃だろうか。というか、体重が落ちなくなったのはいつ頃だろう。30代中頃までは、落とそうと思えば、割と苦労せずに体重調整ができた。最近はサッパリだ。

代謝機能がまるで動いてないんじゃないかと思う。

もともと着ヤセするほうだったのだが、だんだんそういう次元ではなくなってきた。着ててもデブ、脱いでもデブだ。

グラマーと言ってごまかせる感じじゃなくなってきた。最近は、大事な場面で私のほうがデカパイで驚くことがある・・・。

お酒も好きだ。食べることも大好きだ。おまけに炭水化物には目がない。ついでに言えば甘いものだって好きだ。

先日も仕事関係の知り合いとランチに行ったのだが、店選びを間違えた。ビュッフェレストランに突撃してしまった。

場所は新宿のヒルトンホテル。「食べ放題」となるとすぐに勝った負けたと騒ぐ私だ。この日も当然、「圧勝」してしまった。

前菜系のもの、ローストした肉とかをチョロチョロ食べて終わりにしようと思っていたのだが、オーダースタイルのパスタをバカみたいに食べまくってしまった。

パスタとソースがそれぞれ7~8種類も用意され、好きな組み合わせで注文できるのがその店のウリらしい。ペンネとアラビアータソース、フェットチーネとクリーム系ソースみたいにアレンジできる。

“お好み”のパスタが茹でたて、作りたてで運ばれてくるわけだ。炭水カブラーの私としてはスイッチオンだ。結局、ひとりで5種類も食べてしまった。

一皿あたりのパスタの量は普通のレストランの6~7割程度だったので、ついついペロペロ食べてしまった。

一緒にいた人とあまり難しい話をしたくなかったので、ついついバカ食いに逃げたのかもしれない。

まあ太るのには理由がある。食べ過ぎが最大の理由だが、私の場合、食べ過ぎに至る身体的構造にも特徴がある。

胃が丈夫だったことに加え、食道が広いことで医者から驚かれたこともある。急いでかっ込んでも胸につかえたり、むせることはない。すぐに胃まで落ちていく。

だから脳に満腹指令が伝達されるのにタイムラグが生じる。食べ過ぎて死にそうになった頃に、ようやく満腹だという事実が脳にたどり着く。

だから太る。

中学生の頃はステーキを1キロ食べても太らなかった。高校生の頃はモスバーガーのテリヤキバーガーを一度に6個とか7個食べても太らなかった。

大学生の頃からちょっと怪しくなった。でもあの頃は1週間で7~8キロぐらい落とすことがさほど大変じゃなかった。やはりエネルギーが活発に燃えていたのだろう。

中年になって、逆流性食道炎が持病になった。これもきっと自衛のためだろう。本能的に暴飲暴食を抑止しようと身体がコントロールしたんだと思う。

でもまだまだバカ食いをしてしまう。先日も牛めしの松屋から持ち帰った大量の「肉および米」を摂取した。

牛丼は大盛りはやめて並を注文。そこまではいいのだが、別注の牛皿を追加して結局食べる時にトッピングしてしまった。

そのほかカルビ弁当の肉ダブルも注文した。カルビ弁当の場合、肉ダブルを頼むと「ご飯の大盛り無料ですが・・」と言われる。断るのも悪いので当然大盛りだ。

その重量にたじろぎながら持ち帰った。家族の誰かが少しはつまむだろうと思っていたのだが、誰も手を出さない。だから全部私の腹の中に収まってしまった。

多分、一食で2500キロカロリーは摂取したはずだ。

ところで最近、黒酢サプリの摂取と日々のお茶を黒豆茶に代えたことも影響したようで、血圧が正常の範囲に収まっている。

もともとは高血圧気味の私だ。体重が減ってもいないのに血圧が下がってきたということはついつい油断につながる。

デブだって血圧が正常ならいいじゃん、とか思ってしまうわけだ。

そろそろ「カニダイエット」を始めないといけない。富豪を名乗る以上、変な雑草みたいなサラダでダイエットなんてお断りだ。
馬とかウサギじゃあるまいし。。。

低カロリーで食べにくいカニをホジホジしながら、ハードリカーをチビチビ。このスタイルは相当カロリーダウンに貢献する。

もちろん、カニのてんぷらとかカニのフライとか、カニの押し寿司とかはNGだ。ひたすら、茹でたカニ、焼いただけのカニをほじる。酒のアテはカニミソだ。

これを北海道で実践しながら、旅先のウキウキ気分でいつもより長距離の散歩に励む。尿酸値とかそっち方面には目をつぶる必要があるが、体重調整という目的なら結構効果がある。

来週あたり函館に行くことにした。

結局、今日はゲップの出そうな話をダラダラと書き続けてしまった。これもストレスのせいだろうか。。。

2009年6月25日木曜日

銀座 呉竹

アマノジャクの私にとって流行の店や行列が出来る店にいそいそ出かけるのは抵抗がある。本音では行きたくても、心の中で指をくわえてやせ我慢することもある。

実に無意味だと思う。でも仕方ない。性格はなかなか変わらない。どうしても裏路地の店とか、メディアに登場しない店とかに惹かれる。

銀座6丁目、三原通りのお寿司屋さんに飛び込んだのも何となく漂う隠れ家感に吸い込まれてのこと。

店の名前は「呉竹」。雑居ビルの地下、カウンター8席程度にさほど大きくない座敷があるお店だ。

夜の銀座を地図的な視線で見ると北側の数寄屋通りから下の方、すなわち南側に向かって外堀通りと中央通りまでの間が賑やかなエリア。中央通りより南側は途端に寂しくなる。

先日覗いてみた「呉竹」は、中央通りを越えて、寂しくなったあたりにひっそりと位置する。

函館に本店があるお寿司屋さんだそうだ。函館に数え切れないぐらい行っている私だが、こちらの本店は知らなかった。とはいえ、銀座で“函館系”のお寿司屋さんがあるのなら突撃しないわけにはいかない。

結論から言うと「珍味系居酒屋!」。悪い意味ではない。このひと言に尽きると思う。“銀座で寿司”という独特の感覚で訪ねると拍子抜けする。

お店の作りも雰囲気もお店の人の様子もいたってフツー。悪い意味ではなく、地方都市の街場のお寿司屋さんとか住宅街のお寿司屋さんといった飾らない感じ。

勝負デートとか、かしこまった席に利用する雰囲気とはちょっと違う。気取らずノンビリ旨い肴をつまんで呑むには悪くない。

実際に私が出されたのも酒呑みには堪えられないものばかり。

突出しに松前漬け風の一品とイカの塩辛。そしてもう一品、大きめな突出しとしてホッケの煮物が出てきた。さすが函館流だ。

刺身はホッケとソイ。いずれも昆布締めされて酒肴にピッタリ。水ダコも登場。こちらは今ひとつ。

塩辛風のタコの卵が登場。珍味太郎としては、この手の変なモノが出てくると俄然幸せになる。

私の喜びを察したのだろうか、大将がメフンを出してくれた。鮭の血合いの塩辛みたいなものだ。塩分取りすぎだ。でもウマい。

イカソーメンが出てきた。ポイントはタレ。イカのワタと醤油をあえたキモ醤油的に味わうと何ともハッピーハッピー。

続いて“いずし風”の魚が2点やってきた。北海道の正月料理に欠かせない“いずし”は、確か魚を乳酸発酵させるなれずしのこと。これまた酒の友にピッタリ。すっかり函館旅行気分だ。

大将とアレコレ話をしたのだが、よくよく聞くと函館の本店から送り込まれた人ではなく、本店は手下に任せて、オーナー大将自ら昨年から銀座に進出したらしい。単身赴任だそうだ。大変だろうが、ちょっと羨ましい。

この日、ビックリするほどウマかったのが蝦夷アワビの子ども。アワビに対する考え方がひっくり返るほど美味しかった。

口を濁していたから、禁漁品なのだろうか。貝から剥いたままそのまま食べた。醤油も塩もナシ。丸ごとパクッと食べた。

シンコとか新イカを食べた時と同じような衝撃だ。赤ちゃんを食べちゃった罪悪感と赤ちゃんならではの柔らかく無垢な食感が絶妙。一応、キモもまとわりついていたがエグみはなく、ただただ潮の香り。

生のアワビはコリコリと固いだけのイメージがあるが、赤ちゃんの場合、鮮度抜群の生でもまったく固くない。バンザイ。

ここまで書いてきた内容から見ても、お寿司屋さんというより海鮮郷土料理屋というジャンルで捉えたくなる。

冒頭で「居酒屋的」と表現してしまったが、正しくない。居酒屋にこんな気の効いたメニューは揃わないだろう。正しく表現するなら郷土料理屋が的確だろうか。

そろそろ握りを食べようかと思案中に北寄貝の貝柱が串焼になって登場。素材がホンモノだから素直に旨い。

クジラも出てきた。ベーコンとさえずりだ。ベーコンだけでなく、さえずりを出してくれるあたりが堪らない。焼酎を呑んでいたタイミングとバッチグーだ。

いやはや、上等なつまみを「これでもかっ!」とばかりに堪能した。ここが寿司屋であることを心の底から忘れていた。

隣り合わせた初老のオヤジ二人組と北海道話で盛り上がった。酔っぱらいオヤジの相手は面倒だと思っていたのだが、気付いたらコッチの方が酔っぱらいモード全開だった気がする。反省。

店の空気もそんな感じで気軽。入る前は身構えたくなるような気配だが、入ってしまえば普段着感覚で過ごせそうだ。

結局、握りは3貫だけしか食べなかった。
とはいえ、この場面でも“北海道全開”の3貫だ。珍しいオニ海老、ウニ、そしてマスコだ。

オニ海老はトロリと甘く、ウニはバフンウニの軍艦。ムラサキウニも小皿にちょこっとサービスで出してくれた。マスコは言うまでもなくドロリと私を悩殺。

最後に味噌汁も出てきて、さてさて結構なお値段かと思いきや、正直激安でした。

この店の路線、好きな人にはクセになりそうな感じ。個人的には職場が近くじゃなくて良かったと心底思った。通い詰めたら早く死んじゃいそうだ。

2009年6月24日水曜日

バカげた話

禁煙してまもなく2週間。やっぱり結構シンドイ。でもだんだん便利になってきたのも事実だ。ライターを探してうろつくこともない。深夜にタバコ切れに悩まされることもない。

タバコの吸える店では、さすがに近くから漂ってくる副流煙を喜んで摂取するぐらいで済んでいる。禁煙の店では、以前と違って柔和な顔で過ごせるようになった。

先週のブログでも書いたが、禁煙達成のためニコチンガムをはじめとするサポートグッズをアレコレ使っている。こんなものにお金をかけるのはバカみたいだが、そこそこ役立っている。

禁煙の話題ついでに、前から納得できなかった変な話について書いてみたい。

3年前から禁煙治療は健康保険の適用対象になっている。すなわち、タバコを吸うことは病気であって、禁煙するための医師の診療や処方されるグッズは国が費用負担しますよという仕組み。

つくづく不思議でバカみたいな制度だと思う。

たばこ事業法という法律がある。その目的は次のような内容。

「わが国たばこ産業の健全な発展を図り、もって財政収入の安定的確保および国民経済の健全な発展に資すること」。

なかなか崇高な表現で明文化されている。喫煙者はこの理念に積極的に協力、貢献しているわけだ。

こんな法律がある一方で、禁煙治療を保険診療でまかなうこと自体、なんかトンチンカンに思えて仕方ない。

たばこ産業を発展させようという国策がある一方で「喫煙者は病人です」と定義付けしている。ニコチンパッチとかニコチンガムのメーカーが相当な政治力を働かせたのだろうか。。。

タバコの習慣性は確かに厄介。やめるのに一苦労だ。でも、習慣性のあるものはタバコに限らずみんな同じようなもの。

子どもが夢中になるスナック菓子しかり、コーヒーやチョコレートの愛好者だって習慣になってしまえば簡単にはやめられない。

なかなかやめられないからといって病院が保険診療で面倒見るはずはない。そう考えると禁煙治療だけ特別扱いする必要はない。

健康保険が適用されずに困っている話は無数にある。不妊治療やガン治療に関する費用の中には保険適用が切望されているものも多い。

医療分野のことはよく分からないが、禁煙治療を保険対象にするより、もっと優先すべきものがいくらでもあるだろう。

喫煙者をさっさと禁煙させたほうが、将来発生する高額な医療費を抑えられるというのが健康保険でまかなうようになった一応の理由だ。

そんな屁理屈を言うなら、人間ドックだってみんな健康保険でまかなえばいいだろう。物凄い数の人から病気が早期発見されて、医療費総額が抑えられるかもしれない。

禁煙と喫煙を頻繁に繰り返している人もいる。ファッションとしての禁煙も存在する。そんな切実感のない禁煙だろうと医者にかかれば国民の医療費が投入される。

強力ニコチンガムや怪しげなニコチンゼロタバコ、ナゾの水蒸気をふかす電子タバコ・・。私が愛用中の禁煙サポートグッズはみんな高額だ。

もちろん自腹だ。7割を国にオッつけて3割負担で入手しているわけではない。タバコぐらい自分の意思でやめるべきだろう。

禁煙に必要なのは「医師」ではなく「意思」です。

2009年6月23日火曜日

キモ・キモ・キモ

冬の間、珍味の話をさんざん書いてきた。暑い季節の到来とともに話題に乏しくなってしまった。それでも私は珍味が好きだ。

もともと西洋料理が好みだった私が一気に和食方面専門に舵を切ったのは、20代後半の頃。目白台にあったお寿司屋さんに通い始めたのがきっかけだったように思う。

プライベートで一緒に旅行したり遊びに行ったりするまでの仲になった寿司屋の親方にアレコレと教えてもらった。

残念なことに親方は若くして亡くなってしまったが、今でも珍味の王様ともいえるアワビのキモを食べるたびに彼のことを思い出す。

20代の終わり頃から数年の間、すこぶる旨いアワビのキモをバカのひとつ覚えのように食べていた。決まって富山の銘酒・銀盤をお供にしていた。実に懐かしい。

まだ尿酸値という概念とは無縁だった。いつの間にか顔見知りになった寿司屋仲間のオヤジサン達に羨ましがられた。今思えば、年配のオヤジサン達はすいぶんと忠告してくれた。

「そんなもんばっか喰ってると後々大変だぞ」。若い私にはまさに馬耳東風。ケッ!っていう感覚だった。

今になって当時の忠告が身に染みる。後悔先に立たずとは良く言ったものだ。

今は無きその目白台の店では、知らぬ間にいろんなことを覚えた気がする。酔っぱらい方や飲み仲間との距離感、寿司屋での流儀とかいろいろだ。

馴染み客の中では圧倒的に若造だったせいで、お客さん達に随分と可愛がってもらった。大手企業の経営者や高名な学者さん、世界的なオーケストラ指揮者、天声人語の執筆者OBなんかも顔を見せていた。勉強するつもりなんかなくても勉強になった。

珍味の話を書くつもりが思い出話になってしまった。

さて、アワビのキモの話だ。画像は池袋の隠れた名店「鮨処やすだ」で出された“アワビのキモメシ」だ。見るからにヨダレ太郎になれる。

アワビ自体は好きなほうではないのに、キモだけは別。いにしえの目白台の店では、ブツ切りを特製ポン酢とモミジおろしたっぷりで味わうのが定番だったが、最近はいろんなパターンで食べている。

画像のキモメシ。見るからに反則だろう。旨いに決まっている。この店の酢飯は割としっかりした味付けなので、肝と一緒にグジャグジャにすると良いバランス。ゴマと海苔がアクセントになって、納得の風味。

いつの日かどんぶりで大量にかっ込んでみたい。。。

「鮨処やすだ」は、本来は握りが非常に美味しい。寿司飯に対する工夫を怠らない大将の情熱がなせるワザだと思う。珍味ばかり喜んでは申し訳ないと思う。

ダラダラと呑んでしまって、握りを4~5貫しか食べられないことが多い私は、いつもちょっとした後悔とともに店を後にする。「握りをもっと食べておけば良かった・・」。酔っぱらいながらそう思うことが多いわけだ。

そうはいっても、この画像のような珍味皿を出してもらっちゃうと性懲りもなくニンマリとアルコールを舐めはじめてしまう。

味の濃厚な明石のタコ、ウズラの卵黄を落としたコノワタ、そしてこの時期ならではのマスコのすじこだ。やっぱり珍味は捨てがたい。結局、尿酸値とのニラメッコはこれからも続く。

キモ!何とも愛すべき存在だ。その響きだけでウットリだ。もし私が作戦将校なら作戦成功の伝聞符号は「トラ・トラ・トラ」ではなく「キモ・キモ・キモ」にするだろう。

さてさて、まもなくサンマ様がやってくる。「サンマのキモ」。想像するだけでヨダレが出る。「サンマのキモ」と活字を入力するだけで興奮する。

変態みたいだ。

2009年6月22日月曜日

草食系でいいのか

やたらと耳にする「草食系」という言葉が気になる。温和で何事にもガツガツしていないイマドキの腑抜けた男性のことを指す言葉だ。

もともと女性との関係に積極的でない若者をイジる表現だったようだが、そっちに積極的にならない男性なら、結局仕事を始め社会で頑張っていくパワー自体が乏しいということ。

人畜無害で優しいとなれば、確かに場面によっては人気者だろうが、そんな連中が増殖することを喜んでいていいのだろうか。

覇気のない若者の存在は、社会を映す鏡のようだと思う。もっとも、今の若者が子どもの頃から見てきた世の中を考えると少し気の毒になる。

ここ20年ぐらいの社会情勢の低迷は、それ以前の時代と比べて確実に深刻だろう。明るい未来を思い描くような話題に乏しい。

経済だろうが政治だろうが、モラルハザードが相次ぎ、私利私欲が正義みたいになり、出る杭は打たれ、結局、すべてが閉塞感の中で低迷している。

何年か前に日米中韓4カ国の高校生を対象にした意識調査でも情けない結果が出ていた。

「成績が良くなりたいか」、「希望する大学に入りたいか」という項目で、日本の高校生は4カ国中最低。「食べていける収入があればのんびり暮らしたい」という将来像を選んだのは日本の高校生がトップ。

こういう感覚の若者が増殖する社会に活力は生まれない。「草食系」と称される連中はいまさら望み薄だが、それより下の世代や子ども達がもっと希望を持てる社会になって欲しいとつくづく感じる。

それまでの価値観や情操的なものを全否定するところから出発した戦後の近代教育が残した結果が現在の社会の在り方なんだと思うと薄ら寒い気がする。

懐古趣味とか国粋主義的発想ではないのだが、日本人が日本人らしくあった時代をついつい考えたくなる。

以前、将軍家十八代当主でもある徳川記念財団理事長の徳川恒孝さんから、非常に示唆に富んだ話を聞いた。

コンプライアンスとかコーポレートガバナンスとか称して有難がっている考え方は、本来江戸時代には既に日本の商道徳として存在していたという話。

勤勉、正直、誠実を旨とした商道徳は、明治維新後百数十年でいびつになり、いまになって横文字にして見つめ直しているだけだという指摘だ。

徳川さんの持論というか考察では、それに関連して教育分野の話につながる。日本人が本来持っていた道徳的概念は驚異的に高い水準だったそうだが、この部分がフニャフニャしてきたことが根っこの問題だと。

江戸末期、西欧諸国からの来日外国人が共通して感嘆したものは日本の教育水準の高さ。識字率がどうのという以前に日本人の日本人らしさを支えていたのが、物凄い普及率だった寺子屋教育だという。

寺子屋教育の特徴は実践的学問だけでなく、道徳的価値観の形成に力を入れていた点。この部分が高い志と向上心に富んだ人材を出自階層に関係なく輩出したわけだ。

いわゆる“デモ・シカ教師”が子どもにおもねるような今の教育が行き詰まるのも当然だと思う。

現在、日本の国家予算のうち、教育関連予算は支出内訳順の5番目ぐらいに位置する。5兆円を遙かに超える金額が投入されている。防衛予算よりも高額な水準。こんな巨額な税金を投入して教育をしてきた結果が草食系の大発生だとしたら嘆かわしい。

毎年毎年5兆円以上使って去勢されたような活力のない人材を作り続けるのなら、ある意味、天文学的な税金の無駄遣いだろう。

今日は久しぶりに真面目モードで書き殴ってしまった。。。

2009年6月19日金曜日

いよいよ禁煙だ


こういうお節介な注意書きが気にならない日がやってきそうだ。いよいよ禁煙生活をはじめた。ブログに公開した以上、後戻りは出来ない。

実は禁煙にトライしてから1週間が経った。いけそうだ。人生二度目の挑戦だ。前回は2か月以上禁断症状に苦しんだが、一発で成功して3年の間タバコと縁を切った。

今回のきっかけは、変な夢を見たこと。ノドの調子が悪かった私に高名な医師が、ごくごく初期のガンがあることを告げる。医師はその場でレーザーか何かで焼き切って、「ごくごく初期の芽のようなものだから心配ない」と言った。

その後、経過を見せに行った際に、ノホホンと構えていた私に別の若い医師がショッキングな事実をコソっと告げる。

「ステージ4に近い状態なので、まめにチェックが必要」だと。夢の中とはいえ、絶望感が私を襲った。死んじゃう・・。

明け方、目覚めた時に妙にその夢がクリアだったので身震いした。と同時にもうひとりの私が心の声を囁く。「禁煙するなら今だぜ。。。」。

単純な私は、その瞬間から禁煙生活に突入。あらかじめ準備していた禁煙グッズを総動員する。

アメリカでまとめ買いしてきてもらったニコチンガム。このブログでも書いた(2月27日付)水蒸気を煙のように吹き出すパイポのような電子タバコ。そしてお茶の葉っぱだけでタバコの気分を味わえる禁煙草がその中心メンバーだ。

こうしたグッズよりも今のところ有効なのが「マインドコントロール」だ。以前、何かで読んで以来、禁煙トライの際に試そうと思っていた方法だ。

要は、「禁断症状が苦しくてつらいというのは、あくまで“刷り込み”であって、単なる思い込みに過ぎない」という思考を徹底すること。

文字にしてみるとアホみたいだが、これが結構効く。急に禁煙するとイライラしたり、冷汗が出たり、自律神経も乱れるといった定説がある。この現実を現実と捉えずに、しょせん「そういう風に言われてきただけ。ただの言い伝えであって、意外になんともないんだよ」と一生懸命思い込むわけだ。

こんな単純な方法だがどうやら効果があるらしい。自分の性格が単純馬鹿野郎みたいでシャクにさわるが仕方ない。

思えば、世の中の多くの事が「刷り込み」や「思い込み」で動いている気がする。お化けがいると思うか、いないと思うかで夜道を歩く時の気分も変わる。

素敵な女性から好かれていると思い込めば幸せな気分になれる。すべて思い込みのなせるワザだ。

宗教にはまる気持ちだって同じだ。思い込み、刷り込みに左右される場面って意外に多い。人間の糞尿だって臭いと思うのは単なる刷り込みだという説もあるらしい。

1~2歳児ぐらいだと、糞尿方面が臭いものという教えが染みついていないため、むしろ「好ましい匂い」と認識しているという高尚な話を本で読んだことがある。

どうして下品な方向に話がそれてしまうのだろう。禁煙話に戻る。

前回の禁煙時には、相当つらい思いをした。ホントにきつかった。でも、ひょっとするとキツイ、つらい状況と闘っている行為に酔っていたのかも知れない。

頑張っている自分を誉められたい、という得体の知れない葛藤のような心理が影響していたようにも思える。

ここまで書けるようになったら大したもんだ。ここまで書いたら格好悪くて挫折できない。もう成功も目の前だ。成功する自信がなければ人に言ったり、書いたりはできない。

ところで、偉そうに書いてはみたが、実はまだタバコもどきのお世話になっている。「ハーブタバコ」というシロモノだ。

上で書いた「禁煙草」は杜仲茶の葉っぱとシソの葉っぱを紙巻きにしてタバコ風にした異常にマズい代用品なのだが、「ハーブタバコ」も同様の趣旨。

成分表を見ると要はハーブ系の葉っぱが原料。ナントカフラワーの葉っぱとかレタスの葉っぱとかアレコレ書いてある。何はともあれ「ニコチンゼロ」がウリだ。

一応、紙を燃やすのでタールは含まれているようだが、「ニコチンゼロ」だ!。
でも恐ろしくマズイ。おまけに高い。

画像左の怪しい葉っぱが描かれている黒いパッケージは1個800円、左側が1個520円だ。高くてマズイという実にふざけた商品だが、こいつらのお陰で禁煙初期を助けてもらっている。

正確にというか、正直に言うと「禁煙」は出来ていないことになる。「禁煙」ではなく、あくまで「禁ニコチン」だ。

煙はいまだ1日5~6本は吹き出している。この部分もやめられたら禁煙完成だ。予定では、6月中には「ニコチンゼロタバコもどき」も“卒煙”する予定だ。

もうひとつ正確に言うと「禁ニコチン」も達成していないことに気付いた。ニコチンガムをバリバリ噛みまくっているから、ニコチン摂取は続いている。

おまけに日本で認可されているニコレットガムの2倍のニコチン含有量のものを愛用中。こちらも一応6月中に“卒ガム”を計画している。

まずいハーブタバコでタールを摂取して、まずいニコチンガムでニコチンを摂取している。こう書くと私は一体何をしているのだろうとヘコむ。

でもそんな領域に踏み出した以上、明るい未来が待っている!

全席禁煙の旨い店にも行ける、飛行機に乗ってヨーロッパだって行ける、豪華客船にだって乗れる、宇宙飛行士にだってなれる!

ついでに言えば、刑務所にだって入っていられる!。いいことづくめだ。

なんかハイな気分だ。どうやら黒いパッケージのハーブタバコに怪しい効能があるという噂は本当かも知れない・・・。

2009年6月18日木曜日

鮨 よしき 銀座

銀座8丁目界隈といえば、お寿司屋が山ほどあるエリアだ。お隣同志がお寿司屋さんなんてことも珍しくなく、同じビルに3件も寿司屋が入っているのも見たことがある。

ぶらぶらと散策しながら気になっていた店に突撃してみた。まだオープンして2か月だという。一応、1階に店舗があるのだが、少し奥まった感じがあってまるで目立たない。

小さめでひっそりめ。この手の店はつい覗きたくなる。店の名前は「鮨 よしき」。まだ30代の若い大将が一人で切り盛りしている。

カウンター7席程度のサイズ。小さい店だが圧迫感はない。靴を脱いで上がるお座敷風カウンター。座ってしまえば妙に落ち着く。空いていたので、アグラをかいてビールをグビグビ。

近頃は肩肘突っ張らかった修行僧みたいな若者が小難しい顔をしている寿司屋が多いようだが、こちらの店はほんわかムード。気取った感じはなく、かといってドンくさい感じでもない。

店主の様子とか人柄のせいもあるのだろう。地方都市で地元の人に愛されている小料理屋みたいな雰囲気。初訪問なのに、ものの10分でくつろぐことができた。

若い大将が一人、飲み物の用意から何までこなす。正直、大丈夫かなとも思ったが、出される料理が実に誠実かつ美味しい。入店後30分ぐらいで再訪を決意した。素直に穴場だと思う。

もっとも銀座の寿司屋に求めるイメージは人それぞれ。凛とした緊張感が漂ってこそ銀座の寿司屋だと考える人には、少し路線が合わないかも。

靴を脱いだアットホームな雰囲気で若くて屈託のない大将と対峙する。こういうスタイルが好きならオススメだろう。

この日はたまたま空いていたので、混雑時にどういう流れになるかは分からない。だいたい一度訪ねたぐらいで店の善し悪しをアレコレ語っても仕方ないが、私にとっては、早いうちに2回、3回と訪ねたくなる店だった。

ツマミをアレコレもらって飲み始めた。蒸しアワビと毛ガニが少しづつ登場。それぞれペースト状になったアワビのキモ、鮮度が良い証のオレンジ色のカニミソが一緒に用意されていたので、珍味好きの私としては大満足。

ハタの昆布締めも締め具合がちょうど良い。全体に上品な味付け。素材の鮮度も良いし、素材のいじり加減も適度。

トロステーキが出てきた。一見、ありがちだが、山ワサビをしっかり用意してある。北海道出身のお寿司屋さんの多くがこだわる山ワサビは、主にイカや貝類に合う印象があったが、トロステーキにたっぷりつけて食べると脂分のくどさが中和されてバッチリ。

聞くところによると、私がたまに顔を出す銀座7丁目の「鮨 九谷」でも働いていたキャリアがあるそうだ。北海道系の店に妙に思い入れがある私にとっては、そんな偶然も楽しい。

つまみをいろいろもらってから握りに移行。昆布締めやヅケ、軽く締めたアジなどをパクつく。生魚をシャリに乗っけるだけの北海道観光飲食店系とは比べるまでもなく、良い素材に適度な仕事を施しているのが特徴だろう。

海老の酢じめはその象徴だ。土佐酢でシメた海老の握り。私には正直、酢が強すぎる印象があったが、酢ジメ好きな人にとっては独特な味わいがクセになるかも知れない。

大将によるとカニ酢をヒントにしたらしい。昔どおりの寿司で知られる神田の笹巻毛抜き寿司の海老も確か酢ジメしてあったと思うが、そんな感じかも。

私がとくに気に入ったのが、梅だか酢で漬けたナガイモの巻物。海苔の上からシソの葉を巻いてある。シソの味が強すぎないので、なんとも軽やかでサッパリする。

芳醇な香りのウニも当然のように海苔無しで出てくる。気のせいか最近は、上等なウニを食べさせてくれる店が増えたような気がするが、こちらの店も北海道出身の大将だけに間違いのないウニが楽しめた。

最後に出された吸い物がまた優しい味わい。薄味だけどアラの旨味が充分効いていて素直に美味しかった。

まだ若い大将は、力まず自然体に仕事をしている印象があった。30代の前半や中盤頃なんて、焼肉やガーリックぶりぶりの料理ばかり好んで、旨みを活かした淡い味わいなんてピンとこないのが普通だろう。その点、大将は私よりも随分若いのにキチンとした味わいに仕上げるのだから素直に感心する。

誠実にキチンと手をかけた料理を出すには、ひとりで切り盛りする環境はキツイはず。疲れちゃっていろんな部分が後退しないことを祈りたくなった。

お勘定も実に真っ当。ちょっと応援したくなる感じだ。

2009年6月17日水曜日

二つの迎賓館

意外にその存在を知らない人が多いのが京都にある迎賓館。迎賓館といえば、東京・赤坂のそれが有名だが、京都迎賓館は2005年に開館した和式の施設。

東京への遷都前に皇居だった場所(京都御苑)にある。6千坪の敷地に4800坪の規模で建築された。総工費は200億円を超える。

東京の迎賓館でさえ、年間利用実績は平均しても7~8回程度なのに、もう1カ所同様の施設を作ることには結構な批判もあった。でも、完成してしまえば批判の声も弱まり、なんとなく当然のように存在し続ける。

京都迎賓館は、日本の伝統洋式に則って、伝統的な工芸品など匠の技で彩られている点が特徴。世界に冠たる伝統文化を持つわが国を理解してもらうには分かりやすい施設だろう。

個人的には、京都迎賓館は大いに「アリ」だと思う。税金関係の新聞を発行する関係で、いろいろな税のムダ遣い問題を見聞きしてきたが、ただションボリと倹約するばかりでは意味がない。一見ムダに見えても意味のある施設までひっくるめて糾弾しても仕方ない。

問題なのは、東京の迎賓館のヘンテコぶりにあるのだと思う。いまさら言っても仕方ないが、どこかの国の猿マネみたいな建物はいつ見ても不自然だ。一応、立派には見えるが、日本的な様子はまったくなく猿マネをされた本場の賓客が見たら滑稽なんだと思う。

あそこに最初からまっとうな日本的迎賓館があれば、京都に作り直す必要はなかったはずだから、その点では、京都迎賓館は大いにムダ遣いといえる。

でも、赤坂迎賓館の異様さに国が気付いたからこそ京都に作り直したという見方も出来る。極論すれば、「脱亜入欧」のスローガンを掲げてきた明治以降の近代化のネガティブな副産物が2つの迎賓館なのかもしれない。

最高級国賓迎賓施設の姿形を日本の伝統とはまったく異なる欧風宮殿風にしちゃったマヌケぶりは、北海道で行われた昨年のサミットにも脈々と受け継がれていた。

英国の古都の名前を冠したホテルをメイン会場にしてしまったセンスは、一部の識者が大問題として指摘していたが、まったく同感だ。

例えるならイギリスの郊外にある「kyoto hotel」とか言う場所がサミットメイン会場になるようなもの。悪い冗談だろう。

もちろん、日本的なものすべてが正しいわけではない。現代社会の生活に純日本式を求めることは難しいし、そんな考えもまた異質だ。

私だって、乗っているクルマはアメリカ製、今日着ているスーツはイタリア製、ネクタイはフランス製、下着は台湾製、メガネは中国製だ。腕時計に至っては、タイ製のニセモノだ。昨夜食べたカニも多分ロシア産だ。

そんなインターナショナルな私だって、いざ大事な客人をもてなそうとしたらちゃんと考える。日本の魚や鶏や牛を日本の米や酒でもてなす。中国野菜なんかでもてなそうとはしないし、急場しのぎの西洋琉もてなしは無理。

そう考えるとつくづく赤坂の迎賓館が気に入らない。何か恨みがあるわけではない。むしろ、中学生の時、初めて交際した女の子とロマンチックなデートをした思い出があるほどだ。それでもあの建物は見るたびに違和感を覚える。

ところで、2カ所の迎賓館はそれぞれ一般参観が可能だ。高額な税金を投入して作られ、高額な予算とともに運営しているのだから、希望者に見せることは大事なことだろう。

ただ、この一般参観、毎年夏の暑い盛りに1週間~10日間程度のわずかな期間しか実施されない。おまけに抽選に当たった人だけが対象。競争率は3~10倍程度と狭き門。

お上がもったいつけるのは何でだろう。もっともらしい屁理屈があるのだろうが、せっかく作った自慢の施設ならもっと開放していい。

賓客もなく、一般参観もない、がらーんとした日が1年の大半を占めているわけだから、その部分は税金の大いなるムダ遣いだ。

暇な公務員はゴマンといるのだから、そんな連中を見張りにでもして、一般参観を大幅に増やしたほうが行政サービスとして正しいと思う。

2009年6月16日火曜日

銀座 一宝 交詢ビル

銀座をぶらつくことが多い割には、一種のランドマークである交詢ビルには足を踏み入れたことがなかった。

隠れ家的な路地の店とか、雑居ビルの地下とか上階の店が好みなので、あまりそそられない。

とはいえ、赤坂離宮が入っていたり、私の実家・荻窪にあった韓国料理屋が進出したことは知っている。やたらと高いトンカツ屋にも行ってみたいと思っていたが機会が無かった。

先日いまさらながら初訪問。行った店は、上に書いたどれでもなく、てんぷら屋さん。「一宝」という店だ。

最近、てんぷらモードのスイッチが入ることが多い。胃もたれしない、胸焼けしないてんぷらがあると聞けば行ってみたくなる。

「一宝」は関西の名店だそうで、やたらと軽いてんぷらを出すことが特徴だと聞いた。行かねばなるまい。江戸っ子としては、最近の関西絶対みたいな食文化の風潮が気に入らないが、胸焼けが持病なのでおとなしく関西系の軍門に下るべきと判断。

平日のまだ早めの時間、お客さんはいない。シックな高級感がかえって寂しげ。交詢ビル全体にそんな空気が漂っていた。はやりすたりの影響をモロに受けるこの手のランドマーク的テナントレストランの宿命だろうか。

関西系をことさら実感させるかのように、ちょろっとした前菜に続いて、お吸い物が登場。ハモの吸い物だ。てんぷら気分の私にとって、あっさり系のお吸い物などお呼びじゃなかったが、さすがに美味しい。
滋味あふれる味。文句なし。ズビズビと飲み干す。

てんぷらは確かにやたらと軽かった。油自体が違うらしい。衣をでっぷりまとっているわけでなく、はかなげな軽やかさ。死ぬほど食べても胸焼けしないで済みそうだ。

正直、10年若かったら物足りなく感じたと思う。浅草あたりの真っ黒ベチャベチャてんぷらは論外だとしても、生粋の東京人にとっては、軽すぎるのも違和感がある。この辺は好みの問題だろう。

逆にこの店のてんぷらをしょっちゅう食べたら、他の店のてんぷらがクドく感じるのだろう。逆流性食道炎に加え、黒酢の摂取し過ぎで胸焼け大将の私にとっては有難いてんぷらと言えよう。

代表選手である海老はノーマルで一本、その後、シソ巻きで一本、そして、食事後半に再びノーマルで一本出てくる。このパターンは結構嬉しい。

写真は稚鮎のてんぷら。衣が薄いので素材の味が良く分かる。出てきた食材はさすがにアレレというものは無かった。

私が気に入ったのはコーンのてんぷら。ほぐしたコーンをさらっとあげている。天つゆをベチャベチャつけて食べたがる私だが、これだけは塩で食べてみた。スナック菓子みたいで美味しかった。

宗教上の理由で野菜を遠慮している私は、他の野菜を2品ばかりキャンセルして、コーンを3回も出してもらった。コーンは果物?だからOKだ。

途中、小ぶりのまんじゅうが口直しのてんぷらとして登場。ほくほくの揚げ饅頭だ。一番美味しかったかも・・・。

最後のてん茶も軽さは変わらず。だし汁ではなくホントのお茶でお茶漬けだ。ワサビが多めに用意され実にいい塩梅で味わえる。

問題はアルコールの値付け。あれじゃダメ。どうでもいい焼酎がグラス売りで2千円とか3千円。銀座値段といってもやり過ぎだろう。その部分だけで充分店の評価を下げちゃうことにもなる。

結局のところ、胃腸や食道に問題があって、アルコールも控えなきゃいけない人が、それでもてんぷらを食べたいときには最適な店だろう。

あんまりそんな人はいないか・・。

2009年6月15日月曜日

民と官

 その昔、根拠もなく聞かされた話に次のようなものがある。
「アメリカの納税意識は高い。建国の精神が背景にあるから国民の納税姿勢が旺盛で、日本よりも脱税を恥ずべきことと認識している」というもの。

一応、もっともに聞こえる話だが、実際はそんな綺麗事は眉ツバで脱税や節税に必死になる人はゴマンといる。世界中、国民性を問わずそうそう真面目な話はない。

アメリカ社会の特徴でもある旺盛な寄付意識だって、しょせん寄付することで大きな節税効果が得られることが背景にある。

以前、アメリカの税務行政や会計事務所事情を視察する機会があった。遊んでばかりいたような旅だったが、それでも興味深い話は結構聞くことが出来た。

ある晩、あちらの国税庁にあたるIRSの税務調査官を長年勤めた人物と懇談する機会があった。印象的だったのは「こんなに世間に脱税が多いとは役人時代は思わなかった」という話。

民間人がいかに役人に対して本音で接していなかったかを退職してから痛感したらしい。それが現実だろう。

どこの国だって同じだ。「民」と「官」の間にはそれぞれが考えているより遙かに高い壁が存在する。

7月になると例年、多くの税務職員が税理士として第二の人生を始める。一応、民間人としてスタートするわけだ。

「官」の体質だった人が「民」の感覚に急転換できないのは確かだが、それでも徐々にこなれてくる例をいくつも見てきた。

国税OBということで、「OB税理士」と称される彼らだが、いい意味で官と民の橋渡しになってもらうことを期待したい。

とはいえ、実際には、税の世界のハレンチトラブルに一部のOB税理士が暗躍していることも事実だ。

税務署に顔が効く、国税局に子飼いがいる等々の甘言で脇の甘い企業経営者らを餌食にする。その手の怪しい話は税金関係の新聞を発行していると頻繁に耳にする。

もちろん、OB税理士に怪しげな期待をよせる懲りない面々が多いから、つまらない罠にひっかかる。困った話。

もみ消すとか、手心とかいうヤバい系の次元ではなく、着地点を見出すという点でOB税理士の力量が有効活用される場面は実際に多い。役所の思考や行政の段取りに絡む微妙なさじ加減に通じていればこその能力だろう。

この辺の微妙な機微に触れる話は、世の中に出回っている税金解説本では扱っていない。税金の解説誌でも触れないテーマになっている。

報道系の路線を明確にしているわが社の専門新聞や税理士業界の経営情報紙では、この手の話題を掲載することが多い。

税務関係の怪しい事件が起きるとテレビや大新聞の記者が、なんだかんだとわが社の記者連中に接触してくることがある。もちろん、簡単に貴重な情報を出せるものではないが、興味深い情報が別な角度から入ってくることもあってムゲにもできない。

税金関連の媒体は数多く存在するが、単なる解説や広報に終始しているものが大半。ナマのレア情報が必要ならわが社の2媒体はオススメです。

2009年6月12日金曜日

幸福実現党


「幸福実現党」が騒々しい。世間一般に騒々しいかどうかは知らないが、わが社の社屋のすぐそばにこの地区の拠点がある関係で、選挙カーがしょっちゅう集まっている。

社屋の前の道路に3台ぐらい選挙カーが止まっていると、見ようによっては、わが社がアチラさんに街宣を仕掛けられているみたいで気分が悪い。

いわずと知れた「幸福の科学」がはじめた政党だ。衆院選では全選挙区に候補者を立てるらしい。さすがの資金力だ。

宗教団体と政治といえば、公明党の存在が代表格だが、個人的に思い出すのがオウム真理教だ。まだ凶悪テロ集団という認識が広まっていなかった‘90年当時、衆院選に登場。私の実家の選挙区から尊師サマが出馬したため、いたるところで不思議な光景を見た。

♪ショーコー、ショーコー、ショコ、ショコ、ショーコー♪。。。

当時、大ボリュームで流れていたテーマソングが耳にこびりついた。いつの間にか口ずさむようになり、いまだに酔った時なんかに歌ってしまう。彼の等身大マスコットが近所の住宅街を練り歩いていたことも鮮明に覚えている。

テロ集団と同列に語っては「幸福の科学」に怒られそうだ。今日は、宗教団体うんぬんを書くつもりはない。選挙の話。

さて、幸福実現党だ。選挙活動は奇抜なスタイルではなく、ごく一般的な様子。選挙カーもごく普通。選挙ポスターもオーソドックス。はたしてどんな結果になるのだろうか。

いきなり出てきた政党が全選挙区に候補者を立てるなどという例は聞いたことがない。多分史上初だろう。選挙に出る際の供託金だけで軽く10億円を超える。得票数が伸びなければ没収だ。

たかが供託金だけでこのスケール。総費用はどのぐらいになるのだろう。想像もつかない。百億円単位になってもおかしくない。

世のマスコミも反応に困っちゃっているような感じがある。選挙戦が動き始めたらどんな空気になるのか、これまた想像がつかない。

同党が高らかにうたっているのが、「憲法9条改正 北朝鮮のミサイルから日本を守ります」ということ。ポスターなどもこの点を強調している。

同党ホームページを見ると、2番目に大書きされているスローガンは税金に関するもの。

「消費税・相続税全廃。あなたの財産を倍増させます」とのこと。

消費税廃止はお馴染みのスローガンだが、「相続税全廃」をうたっていることが凄い!ついつい関係者には資産家が多いのかと思ってしまう。富裕層の味方かも知れない・・・。

まあ相続税問題については、私も何年も前から廃止論者だ。税収規模やいろいろな角度から見ても廃止はアリだと思う。

既存政党の中にこんな公約を掲げているところがない以上、同感しちゃった私は幸福実現党に清き一票を投じないといけないのだろうか。。。ミサイルからも守って欲しいし・・・。

冗談はさておき、幸福実現党の登場ってある意味、時代の空気を象徴していると思う。要は、「自民党も民主党もどっちもどっち」という閉塞感が背景にある。

はたして有権者が期待を寄せているのは既存政党なのだろうか。どうも違うような気がする。もちろん、二者択一を迫られれば、どっちにしようか考えるが、どっちもどっちの体質であることは誰もが見抜いている。

既存政党に対する手詰まり感を打破する第三極に期待する声は多いが、現状ではそうした気配が乏しい。日本新党ブームが起きた頃のような胎動は感じない。

確かに日本新党以後の政界の右往左往、政党の節操なき離合集散に辟易とした有権者は多い。そうした場当たり的対応にウンザリした人々の前に現れた小泉さんが圧倒的人気を集めたのも当然だろう。

強力なリーダーシップ、カリスマ性に人々は惹かれた。こそこそとアッチにくっつき、コッチにくっつきという政治屋さん達の日和見体質に飽き飽きした大衆心理が小泉さんにワシづかみされたわけだ。

さてこの夏にはいよいよ総選挙だ。有権者の飽き飽き感、政治への厭世観みたいな感情はどこに向かって弾けるのだろうか。

向こう1,2か月の間に政界地図に地殻変動が起きる可能性もある。選挙後に大きな離合集散が起きる可能性もある。

最終的に国民の審判と異なる形で収まる可能性もあるが、どういう結論になるか興味は尽きない。

2009年6月11日木曜日

神楽坂 ステファノ

幼稚園から高校まで通った学校と目と鼻の先ということもあって、神楽坂には妙な思い入れがある。最近は、少し観光地的な要素が出てきてしまったが、個人的に“東京人のための東京”というイメージがあの街にはある。

神楽坂駅と飯田橋を結ぶ通りを中心に独特の風情が漂う路地がいくつもある。一時期、夜の神楽坂をフラフラ呑み歩くことにはまった時期もあったが、“渋い系”を愛する人にはたまらない店がいくつもある。

数年前、テレビドラマの影響でワンサカ人が押し寄せたので、ちょっと足が遠のいたが、今でも好きな街のひとつだ。

先日、久しぶりに赤城神社近くにあるイタリア料理「ステファノ」を訪ねた。普段、西洋モノを喜ばない私だが、この店は特別。今まで一度たりとも不満に感じたことがない。和洋折衷のこの街に溶け込んでいる名店だ。

最近はすっかり和食一辺倒になった私だが、若かりし頃は、むしろ和食を有難がらずに外食といえば焼肉かイタリアンばかりだった。

当時評判だった都内中心部のイタリア料理屋にも随分通った。それなりにウマいマズいは分かるつもりだ。神楽坂「ステファノ」は間違いなく美味しい店だと思う。

ひょんなことからオーナーさんとのご縁があって3~4年前に初めて訪問した。個人的な経緯のせいでひいき目に言うのではなく、素直に何を食べても美味しい。端的に表現すると「センスの良いプロが誠意を込めて丁寧に作った味」。

お店の大きさはトラットリアにありがちなサイズだが、リストランテを標榜する。実際、アレコレ食べてみればその奥深さが痛感できる。

フランス料理ではないので、表現が的確ではないのだろうが、ギャルソン君の優秀さもこの店の特徴のひとつだろう。その日のオススメ、客の希望を混ぜ合わせて、柔軟にメニューを組立ててくれる。

種類豊富なメニューはあるが、彼とやり取りした上で選んだほうが楽しい。無知な人には親切に、詳しい人にはそれなりに、全体のバランス、組み合わせを考えながらメニューにないものも柔軟にオーダーできる。

人当たり抜群の彼のファンはきっと多いのだと思う。カギになるスタッフの存在が店の居心地を大きく左右する見本だろう。

もちろん、いわゆるお馴染みさん相手でなくとも、柔軟にメニューをアレンジしてくれる。オーナーの姿勢なのだろうが、そういう柔軟さがごく普通のことになっている。それ自体が上等なサービスだろう。

まあ、高級レストランであれば、柔軟性が求められて当然ではある。ただ、この店の場合、お客さんを心底楽しませようとする店側の気配りが感じられるので実に気持ちのいい時間が過ごせる。

この日、前菜には、サラダ仕立てになっている丸ごとの毛ガニを頼んだ。カニ好きな私にとっては、イタリアンで毛ガニのミソを堪能できたので万歳。

ほぐした身がさほど味の強くない香草とレモンで味付けされている。鮮度の良いミソもトッピングされており、これも混ぜ合わせればカニ好きオヤジもニンマリ。スパークリングワインが生ビール並みの勢いで進んでしまう。

パスタは、スモークした白身魚を載せたトマトベースのショートパスタと、自家製ソーセージを多用した肉ガッツリ系のスパゲッティを半分ずつ。文句なし。プロの味。

チーズだけで作ってもらったリゾットも食べる。くどいものが食べたい気分ならこれに勝るものは無し。数種類のチーズのミックスだろう。複雑味と歯ごたえがバッチグーで、スパークリングワインはずんずんと私の食道を通過する。

メインは勧めてもらったウサギ肉。火加減、ソースの味ともに不満はゼロ。相変わらずスパークリング攻撃は続く。結構酔う。

デザート?にまたまたパスタを追加注文。こういうことをしているから私の体型は立派なままだ。

でも甘いものを食べる余裕があるのなら、この日食べ損ねたオリーブオイル系のパスタを是非追加したかった。。。恥を忍んでオーソドックスにアサリのスパゲッティを追加。
ヒッヒッヒ!

ギャルソン君の話を聞いているとついつい凝った料理を注文したくなるが、レベルの高い店だとシンプルな一品がたまらなく美味しい。このアサリスパも抜群でした。空腹だったら3皿ぐらいは飽きずにいけそうだ。

こちらのオーナーさんは、北イタリアの出身。大げさなアクションと大声を張り上げる闇雲にラテン系なイタリア人ではなく、知的で大人な優しい紳士。「ベルルスコーニ」みたいなタイプでもない。その点も魅力的。

炭水化物好き、タンスイカブラーな私が以前から考えているのが、前菜もメインもいらないからパスタやリゾットをひとりで5種類ぐらい注文すること。

そんな非常識でふしだら?な計画は、こちらのオーナーさんの真摯な表情を見るとついつい言い出せない。

2009年6月10日水曜日

ネオン街と下心


自宅、いや自室にサウナを置いて2か月以上が過ぎた。まだ飽きない。分割払いを後悔しないで済みそう。どうやら私の勝ちだ。

週末を含めて週に3回は汗ダラオヤジになっている。比較的低温(65度)なので、結構長い時間入っている。20分から30分を3セットぐらいだ。

当然、何かを読みたくなる。初めの頃は読みかけの小説や雑誌が中心だったが、最近はすっかりマンガになってしまった。いい年したオヤジがマンガに夢中っていうのも格好悪いが、密かにはまってしまったのが「女帝」シリーズ。

九州・熊本でつらい目にあった娘が夜の世界に飛び込み、最後には銀座のクラブのオーナーママとして女帝に成り上がっていく話。

10年以上も前の作品で、ドラマ化もされたらしい。夜の蝶達に聞いてみても、十人が十人詳しく知っている。

25巻ぐらいにおよぶ長編だ。おまけに主人公の娘が祇園の芸妓になって新たな女帝になっていく続編も28巻もある。合わせて50数巻だ。サウナの友として最適だ。サウナに入る時だけ読むように決めているので、まだまだ楽しめる。

ドラマチックに描かれる夜の銀座。現実の世界でもドラマは無数にあるのだろう。ホゲホゲ呑んでいるだけの私には、ドラマ的な展開はやってこない。

いろいろ艶っぽい話を聞くこともあるが、さすがにここで書けないようなスペシャルな体験にはなかなかめぐりあわない。

以前はこちらのエネルギッシュさに比例して少しは色っぽい話もあったが、もう枯れてしまったのだろうか。達観の域に入るには若すぎるので、もっと頑張らないといけない。

先日、少しばかり馴染みのおねえさんと密談中、いまさらながら“真理”を見つけた。だいたい下ネタ中心の私だ。気付いた真理もそっち方面の話。

おねえさんがたにとって、扱いやすい、というか御しやすいタイプの客は、ギンギンギラギラと口説きモードになる客だという。必死に頑張っちゃっている客ほど術中にはまるのだろう。

考えてみれば当然だ。追いかけることに喜びを感じ、綺麗どころの思わせぶりな様子に燃え上がり、舞い上がる。古今東西、健康な男性のサガだろう。

社交の場であり、止まり木としての場所であっても、女性陣が主役の店には、口説くことだけが生き甲斐みたいな客も多い。

それ自体は責められる話ではないが、ギンギンギラギラモードに突入すれば、その流れに飲み込まれて、頻繁にお目当てのおねえさん目指して通ってしまう。

おねえさんから見ればヘッヘッヘだ。

逆にいえば、ガツガツしていない客のほうが扱いが難しいということになる。実際にそうらしい。確かにガツガツしていない客を相手に思わせぶりな態度で誘ってもしょうがない。ある意味、おねえさんがたも対応に困るかもしれない。

そういう私はどっちだろう。もちろん、聖人君子ではないし、エロ系には正直なほうだ。かといって、夜の街で口説きモードバリバリになるほど無粋な男ではない(はずだ・・・)。

こんな私も、お世辞9割以上ではあるが、おねえさんがたからお誉めいただくこともある。口説きまくらない、威張らない、絡まない等々、ざっとそのあたりが理由のようだ。

逆にいえば、根性ナシの臆病者みたいなものなので喜んでばかりもいられない。ただ、これって前述の“真理”から見ると、ある意味、扱いにくい客ということになってしまう。

結局、ガツガツしていたら適当にあしらわれて玉砕し、逆にガツガツしなければチャンスすら到来せずに扱いにくい客ということになる。

どっちに転んでも、“素敵な展開”は起こりえないということになる。実に切なく悲しい結末だ。これこそが真理だと思う。

もちろん、いちいちそっち方面を目的に酒場通いをしているわけではない。こんな当然の真理を突きつけられてもそれはそれ。
日常をリセットするためにも懲りずに足を運ぶ。

なんか理屈っぽいことを書いてしまった。

そうは言っても、バリバリの下心を紳士ぶって隠しながらコッソリ妄想を抱く私だ。まったくしょうもない・・・。
そんな日々だ。

2009年6月9日火曜日

佃喜知

上等な大人の居酒屋。ありそうでなかなか無い。住宅街は別として、新宿や渋谷など繁華街の規模が大きくなればなるほど見つからない。若者向けのチェーン店居酒屋ばかりが幅を効かせている。

銀座の場合、とくに6~8丁目あたりは、客の年齢層が高いため、大人向けの飲食店は多いが、場所柄、気軽に居酒屋的ノリで使える店は案外見つけられない。

数寄屋通りに位置する「佃喜知」は、そういう観点からすると貴重なお店だろう。ジャンル分けするならば、料理屋さんというよりも居酒屋に近い。でも、至極真っ当な食べ物を出す。

真っ当な、という言い方は正しくないかもしれない。非常に美味しい魚料理を楽しめる。

1年前に100メートルほど移動して雑居ビルの3階に構える。移転前は数寄屋通りからちょっとそれたディープな路地にあった。

以前の店内は狭く、オジサンがワシワシと呑み食べ談笑する雰囲気は、新橋、有楽町的世界を少しばかり上等にした感じで、なんともいえない空気が漂っていた。

移転後、小綺麗になって、ややゆったりした。快適になったが悪く言えばフツーな感じになってしまった。でも、魚河岸料理と看板にうたう魚の旨さは相変わらずだ。

久しぶりに訪ねた日、注文したのは、刺身盛り合わせ、鰯の梅煮、焼きタラコ、焼き椎茸、ぬか漬け、クジラの竜田揚げ、シジミの味噌汁などなど。

文字にすると実に面白くないラインナップ。奇をてらったものはない。ただ、そこがポイントで、素材が良いからストレート勝負で充分。

創作料理みたいな意味不明なシロモノが苦手な私は、何の変哲もない名前ばかり並ぶお品書きに逆に惹かれる。この日は焼き魚を注文しそびれたが、何を食べても満足する。かつて旬のサンマの塩焼きが死ぬほど旨くて泣きそうになったのもこの店だ。

お刺身は、この店の特徴でもある上等なマグロの中落ちが抜群。その他、カツオ、シマアジ、タコ。どれも味が濃かった。満足。

焼きタラコも素直に美味しい。火加減も良い感じ。正しい日本のタラコ。

この店の良さは、画像や文章で伝えるのが難しい。大人が安心して、肩肘張らずに旨いものを食べながら酔っぱらう場面には最適。

お客さんの大半がまさにオヤジ。女性連れよりもオヤジ連ればかり。オヤジのオアシスなんだと思う。

私にとっては、時たま顔を出す勝ち組クラブ「M」の真ん前という立地が良いのか悪いのか微妙なところ。

「佃喜知」で濃厚なオヤジモードに身を置いた後は、目の前の店で綺麗どころに消毒してもらいたくなる。「M」のおねえさん達のせいで、ヘベレケオヤジからチョイエロオヤジに脱皮する。

このパターンにはまると、せっかく出かけた銀座でも半径20メータルぐらいで4~5時間過ごしてしまう。
なんとも微妙だ。

2009年6月8日月曜日

似ている人

新宿の沖縄料理屋でビックリするほど欽ちゃん(萩本欽一)そっくりな人を目撃した。どこから見ても欽ちゃんだ。目元、口元、髪型までそのまんま欽ちゃん。でも別人。他人のそら似にしても度を越していた。

小料理屋ほどの大きさの店だったので、欽ちゃんが入ってきた途端に店中の視線が集中。不思議なことに欽ちゃんは和服姿で難しい顔をしている。

店にいた私は、耳をダンボにして欽ちゃんの話に聞き耳をたてる。ところが、まったくの別人。声と話し方が完璧に違う。欽ちゃんの顔からまったく別人の声が出ている光景は不気味だった。

なぜこんな話を書いたかというと、多くの人が言ったり言われたりする「誰それに似てる話」が、私の場合どうも最近エスカレートしているから。

私は「船越英一郎」らしい。1週間に3回ぐらい言われることもある。2時間ドラマの帝王であり、一応、悪者キャラとかイジメられるタイプではないのでその点は有難い。

以前、田舎の温泉宿で方言バリバリのお婆さん軍団に「アレま、船越さんがおるよ」と追いかけ回されたこともある。真剣に本人だと思われた。否定すればするほど船越疑惑がエスカレートして心底まいった。

どうしてお婆さんという種族は、思い込んだらトコトン突き進むのだろうか。。

最近では、私の娘までテレビに映る彼を見るたび「パパ・・」とか言っている。

確かに似たような系統の顔なのだろうが、自分ではそこまでソックリだとは思っていないのだが。

でも、何かの番組で彼の大学生時代の写真が紹介された時、私は少し複雑な気分だった。その写真、私の大学生当時とソックリだった。

夜の街では、話題に乏しい初対面のホステスさんが、いきなり私の顔を見るなり、船越話を始める。こっちだって、初対面の女性にしょっちゅう「こんにちは船越です」と挨拶してウケを狙うこともあるから仕方ない。

バリバリの二枚目路線ではない船越ならば、似てるとか似てない話も他愛ないものだ。

よく「エビちゃんに似てるって言われるんです」とか「わたし、山田優ちゃんに似てるらしいです」とか真顔で語っている人々がいるが、あういう図々しいウソは問題だ。

私だって若い頃は今より20キロぐらい体重が少なかったし、髪もふさふさだった。「ガッチャマン」に似ていると言われたほどシャープな輪郭だった。

図々しく二枚目タレントに似ていると言われて調子に乗ったこともある。

キザに目覚めた思春期の頃、キザゆえに「沖雅也」と呼ばれたことがある。もちろん、私はあんなに整った顔ではない。でも「太陽にほえろ」でスコッチ刑事に扮していた沖雅也は純粋にダンディーだったので、ちょっぴり嬉しい気分だった。

しかし、直後に彼は自殺。そして同性愛オヤジとのスキャンダルで持ちきりになり、私も急きょ、そっち系統のあだ名(“日影さん”“涅槃”等々)がつけられてしまった。

それ以外にも中学生の頃、金八先生に出ていた「沖田浩之」に似ているという話になった。全然似ているとは思わなかったが、ドラマの中のエラソーな態度が中学生時代の私と共通していたのかもしれない。

なんだかんだ言って彼はアイドルだった。「E気持ち」という実にビミョーな名曲もヒットした。似ていると言われたことは喜ばないといけない。

でも年増女優とのスキャンダルやスッタもんだの末、やっぱり自殺してしまった。

今はただ船越英一郎が元気でいてくれることを願う。自殺なんて事態になったら何とも不気味な連鎖だ・・・。

変なスキャンダルとか変な宗教にのめり込んでワイドショーを騒がすようなことも避けて欲しい。必ず、飲み屋でネタにされるだろうから、私としては陰ながら彼のさりげない活躍を願うしかない。

ちなみに自分の老後を思い描く時、ついつい私が思い描く私自身の顔がある。英一郎の父親である「故・船越英二」だ。

水谷豊主演のいにしえのドラマ「熱中時代」の校長先生だ。まああんなに洒落た年寄りになれたら本望だが・・。

2009年6月5日金曜日

ベルルスコーニになりたい


ずいぶん前にこのブログで「小池百合子になりたい」と書いたことがある。機を見るに敏、権力の下で泳ぎ渡り、その頃ちょうど、防衛省の天皇と呼ばれた事務次官との暗闘が報じられ、結果、次官失脚という結論に至った。

旧弊の象徴である大物次官と闘い、最終的には駆逐したような図式になったことで、小池氏の株が上がっていた頃の話だ。

「誰それになりたい」というテーマを定期的に書くとしたら、今の私は「ベルルスコーニ」を迷わず選ぶ。

「ベルルスコーニになりたい」。言わずとしれたイタリアの首相だ。この人、無敵だ。率直に凄い。イタリアのメディア王であり、ACミランまで持っていた人だ。

好き勝手なことを発言するセンスは、わが国のメディア王?ナベツネさんレベルではない。

一部報道を引用してみる。あまり詳しくなかった人でもきっとファンになると思う。


~~~2006年のイタリア総選挙。ベルルスコーニはまず、1月の党大会で「投票日までセックスをしない」と変な公約をし、3月には「毛沢東時代の中国は赤ん坊を茹でていた」と発言。中国から猛抗議を受け、4月の投票日数日前にいたっては、対立候補の支持者たちに対して「キンタマ野郎がこんなにいるなんて考えられない!」と放送禁止用語を連発。その後、街中で「私はキンタマ」Tシャツやバッジがたくさん売られる事態を招いてしまったのである。~~~


一国のトップだ。滅茶苦茶だ。でも国民的人気が高いらしいから魅力的な人であることは間違いない。

これ以外にもアメリカのオバマ大統領について「若くてハンサムで、そして日焼けしている」と発言したことは記憶に新しい。おまけにこの発言への批判に対する弁解が凄い。

「オバマ氏を、ちょっとうらやましく感じて称賛したつもりだった。誰だってナオミ・キャンベルやオバマ氏のように日焼けしたいと思うだろう?それと同じことだ」。

まさに突き抜けている。G7加盟国トップの発言だとは驚きだ。

また、イタリア系の妻を持つフランスのサルコジ大統領には、「あなたの妻は私があげた」と語り、国際舞台でも言いたい放題。恐るべし。

最近は、20歳年下の夫人から離婚を要求されているようで、現在も18歳になったばかりの女性とのスキャンダルが話題になっている。

ベルルスコーニさん、72歳だ。なんてタフなんだろう。イタリア人はいろんな意味でイタリア人なことは分かっているが、この人はイタリア国民統合の象徴みたいに思える。

首相の座につくのは3度目。かつては疑獄事件で刑事被告人になったにもかかわらず、リベンジをやってのける。おまけに3度目の政権獲得後1年ほど経っても支持率は60%前後をキープというからタダものではない。

豊富な資金力、巧みなメディア情報操作ゆえの高い支持率というネガティブな分析もあるが、それだけで人気を維持できるほど大衆は甘くない。たとえイタリア人でも。。。

私はイタリア人ではないので、よく分からないが、これまで数々の問題発言を繰り返しても、「またアホなことを言った」という感じで流してもらっていることがうらやましい。

流してもらっているのは国内だけではない。気のせいか世界的にシャレで済んじゃっている感じすらある。

まさに地球規模で「しょうもないなあ、あのオッサン」で済まされている。

ベルルスコーニさん相手に必死になって抗議したり、熱く反応することは、かえって格好悪いことにすら思える。

その域に達しちゃっている凄さがベルルスコーニさんの圧倒的存在感なんだと思う。

つくづく、ベルルスコーニになりたい。

2009年6月4日木曜日

銀座 一羽

銀座・並木通り沿いの雑居ビル地下に構える焼鳥屋に行ってきた。店の名前は「一羽」。銀座らしいとも銀座らしくもないとも言える雰囲気の店。

妙にモダン。焼鳥屋のくせに男同士で行くにはたじろぐような感じ。ワインセラーが存在感を醸し、重厚かつスタイリッシュなインテリアが特徴的。

格好付けすぎてわざとらしいほどではなく、その空間に身を置いても、こっ恥ずかしくなるレベルではない。その点は使い勝手が良さそうだ。

ご馳走してやろうって誘ってるのに「エ~、ヤキトリ~?」とか言う馬鹿娘がいるが、そういう連中が「ワーイ、オシャレ~!」とか喜びそうな感じ。(よく分からない例えでスイマセン)。

飲み物メニューも豊富でワインリストもしっかり。店員さんも、「ウィーッス!」とかは言わない。そこそこ上質感を意識しているようだ。

さてさて肝心の焼鳥について。まあ普通。そのひと言しかいいようがない。銀座の有名焼鳥店「伊勢廣」あたりに比べればもちろん劣る。とはいえ、一般的な街場の安い焼鳥屋よりは美味しい。そんな感じ。

場所を考えれば妥当な値付けだろう。店の雰囲気が気に入るのなら高くは感じないレベル。

奥久慈軍鶏、伊達鶏をラインナップして、珍しい部位も用意している。焼鳥という食べ物は、誰もがお気に入りの店を持っているような世界だ。私にとっては「ごく普通」の味わいだったが、人によって印象はいろいろだろう。

私がこよなく愛する自宅近所の焼鳥屋“T”では、「白レバのタタキポン酢」が一押しメニュー。今回行った銀座の店にも同様のメニューがあったが、さすがに我が地元の圧勝。

銀座という場所柄もあるのだろうが、アレコレ変わったメニューも用意されていて、串を食べなくても酒の肴には困らない。その点では小洒落た居酒屋的用途に向いている。

軟骨がトロトロになるまで煮込まれた一品なんかもあってチョット楽しい。串焼も正統な焼鳥だけでなく、創作系の変なソースがかかった変わり串もいろいろあって飽きさせない。

まあ、変わり串メニューがあること自体、正統派の串焼のレベルが極上じゃないことの証とも言える。ちょっと辛口になってしまった。

名店と呼ばれるレベルではないし、そういう方向に進化することもなさそうな店だ。ただ、逆に銀座あたりで名店と呼ばれる店の窮屈感がウザったい時には、すこぶる使い勝手の良い店だと思う。

2009年6月3日水曜日

館ひろし


先日、とある結婚披露宴で乾杯のスピーチを仰せつかった。適当にお茶を濁しちゃえという悪い考えも頭をよぎるが、当事者達にとっては一世一代の場面だ。ちゃんとそれっぽいことを言わねばならない。

乾杯の挨拶は、過去にも何度かやらされた。友人代表スピーチも随分とやらされた。割と人前で喋るのは経験豊富なほうなのだろうが、正直いつもうまくいかない。

書くことは仕事柄なんとかなるが、喋るのは苦手だ。過去にも柄にもなく講演会の講師を引き受けて白くなったことが何度かある。

大勢の人の目が一斉にこちらを見ていると思うだけで俄然緊張する。自意識過剰というわけではない。一人につき2つの目玉がこっちを見る。100人いれば目玉は200個だ。怖い。過去に500人ほどの会場で偉そうに喋る機会があったが実に目玉が1000個だ。卒倒しそうになった。

ラジオとかマイナーなテレビで何かしゃべらされたこともあるが、スタジオで大勢が見ているわけでもないのに結構冷汗をかく。どうにも得意になる気配はない。

結婚披露宴の場合、自分が喋る順番とか、自分の前に喋った人が固い路線だったのか、やわらか系だったのかでも、一応話のパターンを変えようと試みる。

会場のお客さんの年齢層や様子で喋る内容を変えるほど器用ではないが、一応、それなりにいじらしく考える。うまくはいかないが結構苦労しているわけだ。

褒めちぎればいいのか、くさせばいいのか、どちらも行き過ぎるとシャレにならないし、それなりに苦労する。

披露宴でのスピーチの思い出はいろいろある。なかでも印象的だったのが、古くからの友人が何度目かの結婚をした時の話だ。

割合、堅苦しい感じの宴席ではなかったので、私もそこそこヤワラカ系の話を喋った。会場のノリも良く、調子に乗ってアレコレ話をした。最後は新郎の父親をダシにシンミリ系の話でまとめ、珍しくうまくコトが運んだ。

意気揚々と私が席に戻ったタイミングで司会者が次の登壇者を紹介した。出てきたのは「館ひろし」だ。どう逆立ちしたって私より500倍くらい格好いい姿形で登場した「館ひろし」が低音のアノ声でささやく。

「こんばんは、館ひろしです」。

私だってまだ若かったし、喋っている間は、会場にいる“新婦友人”とかを意識して良からぬたくらみを抱いていたのだが、新婦友人達は「館ひろし」が出てきて、キャアとか言っている。

反則だろう。館ひろし。

会場にいた人にとって、その日の記憶や印象や思い出は100%まぎれもなく「館ひろし」だ。私の頑張りなど誰も覚えちゃいない。

その日、二次会の会場で、私とともに披露宴に出席していた友人からは「そういえばお前もなんか喋ってたな」と言われた。「館ひろし」が会場の空気をすべてさらっていった。

それ以降、披露宴などでスピーチを頼まれる際には、私は必ずこう聞くようになった。

「館ひろしは来るのかい?」。


さてさて、冠婚葬祭いろいろあれど、なんだかんだいって「婚」の場に呼ばれるのは嬉しい。笑っていればいいし、難しい顔を無理に作ることもない。幸せをお裾分けしてもらえるし、ついついアルコールも楽しく消費する。

最近は、私も人の親になったせいだろうか、新郎新婦の家族席が気になる。親御さんがどんな表情をしているのか、いつ泣き顔を見せてくれるのか、そんなことに興味が湧く。

今回出席した披露宴では、新婦の父親がジャズミュージシャンだったそうで、バンドメンバーを引き連れ何曲も演奏していた。

新郎新婦の家族といえば、たいていは会場の隅っこで小さくなっているが、そんな因習に必ずしもとらわれる必要はないと思う。どんどんオモテに出てきて騒いじゃっても一向に構わない気がする。

儀礼の場だから仕方ないが、一番親しい人達から順番にひな壇から遠い席に陣取る。本当は一番近くで晴れの姿を見ていたいはずなのにシステム上、なかなかこのスタイルは崩れない。

自分の娘が嫁ぐ頃までには、このシステムが崩壊していることを切に願っている。

2009年6月2日火曜日

鮨源 カツオざんまい

ひょんなことで1週間ほどの間に同じお寿司屋さんに3回も行った。このブログでも何度か書いた高田馬場・鮨源だ。

会社の近辺で、上質な寿司をそれなりのユッタリ感で堪能できる店は希少だ。大都会・池袋に会社があるのだが、池袋はチェーン店居酒屋の牙城で、大人向きの店は少ない。

池袋でも目白寄りに位置するわが社からは高田馬場は行きやすい。お客様とかを連れていく場合、ちゃんとした寿司屋に会社からタクシーでワンメーターで行けるのは貴重だ。

もう10年ぐらい前から顔を出しているため、快適に過ごさせてくれる。板前さんの異動もほとんどないので安心して座っていられる。

場所柄、銀座・六本木あたりのお寿司屋さんよりお得感があるのだが、ネタの質は東京でもトップレベルだと思う。わがままな注文にも応えてくれるし、私にとっては有難い存在。

上等なホッキ貝を「ホッキバターにして」とか、生きている車海老を「エビフライにして」とか、邪道な事も受入れてくれる。

さて、2日おきぐらいに顔を出した3回ともカツオのタタキを頼んだ。旬のカツオの皮目あたりを炙ってもらい、ニンニクを漬け込んだ特性醤油に生ニンニクスライスを投入。ガッツリジュワっと旨味を堪能。

今回訪れた3回はそれぞれ違う相手と行った。すべて男性だったので、迷わず私は毎回カツオのタタキを注文。毎回ニンニク太郎だ。

どうも最近、最愛の娘が私と距離を取りたがるのはこのせいかもしれない。

思えば、大学生の頃、行きあたりばったりに四国を旅した際に、「カツオにはニンニク」という世の真理を学んだ。

20年以上前のことだ。都内でも今ほどポピュラーに各地の郷土料理を食べるような感覚はなかったと思う。カツオ自体は珍しくもないが、生ニンニクとセットで食すイメージは当時の私にはなかった。

高知の郷土料理屋でカツオの横にドッサリと生ニンニクが盛られていた時の印象は今でも鮮明に覚えている。店の人にアレコレ聞いた記憶がある。

「土佐では、ニンニク臭いことは決して失礼じゃないゼヨ」とか言われた。ホントだろうか。

その後、違う店でもカツオの押し寿司を注文したら、寿司飯の中に細かくブツ切りにされた生ニンニクがまぶしてあった。ドラキュラだったら悶絶死しそうな料理がいっぱいあった。

都内でも最近はカツオのタタキにニンニクスライスが供されることは普通だが、薄っぺらいのが申し訳程度に2~3枚というパターンも多い。

その点、さすがに鮨源は大衆店ではない。その場でわざわざスライスしてくれるわけだから、困っちゃうぐらい出してくれる。良いのか悪いのか微妙ではあるが素直に有難い。

カツオの話ばかりだが、その他もすこぶる旨いものが多い。上等なボタンエビ、甘エビの向こうを張って素晴らしいのが茹で車海老。

生きていた車海老の茹でたてあったかバージョンだ。ミソも入れて握ってくれる。茹で時間の長短だって聞いてもらえる。このあったかボイルエビを食べるたび、「ナマや活ばかりが威張るんじゃない」と心から思う。

他にもいろいろ書こうと思っていたのだが、空腹の絶頂にあるので、もうやめた。

旨いモノを食べに行くことにする。今日も鮨源に行くのだろうか。。。

2009年6月1日月曜日

成功体験

世の中、どんなジャンルにも言えることだが、うまくコトが運んだ記憶とかラッキーだった記憶は強烈に印象に残る。

失敗は一刻も早く忘れたいが、うまくいったことはいつまでも記憶に刻まれる。俗に言う「成功体験」という感覚だ。

この成功体験にとらわれてしまうと、一種の呪縛のようなもので、その後の進歩とか前進を妨げる。

たまたま、女性を口説くことに成功したセリフを違う女性には爆笑されたり、ある人には喜んでもらえたプレイが別な人には「痛いわよ」と怒られたり・・・。

「成功体験」の話が「性交体験」にズレてしまった。軌道修正。

失敗の裏にはたいてい成功体験が潜んでいるのだと思う。

ビジネスの世界もそうだ。二匹目、三匹目のドジョウがそうそう見つからないように、ひとつの成功が呪縛を招くことは多い。

成功体験の厄介なところは「次も成功したい」という気持ちが、「成功するはずだ」という思い込みに変わってしまうこと。ズルズルと変化や進化を拒否して前例にとらわれる。

世の中をとりまく昨今の閉塞感は、日本中がそんな感覚に陥っていることも一因だろう。

経済分野の低迷は今や挨拶代わりの状況だが、対応策を講じるにも、いにしえの成功体験が邪魔をしているように感じる。

戦後半世紀、わが国は世界の歴史から見てもまれな急激な経済成長を体験した。強烈な成功体験だ。そしてこれが今も政策が編み出される際の発想の根源になっている。

生めよ増やせよ、所得倍増、先進国入り、そしてバブル。それぞれの時代にそれなりの不況やトラブルがあっても全体的には上昇気流の中での話。しょせんは右肩上がりを前提とした流れの中での問題だった。

さてさて今の時代を俯瞰してみると、どうやら不況という単純な言葉では説明できない状況にある。いわば構造的な転換期。

知り合いの公認会計士が、これからの企業は、売上げや利益について過去の数値からひとケタ無くなってしまうぐらいの覚悟が必要と語っていた。確かにそうかも知れない。旧態依然の発想のままだと、まさに秒殺される時代だろう。

私の会社でも、慣例を打破しようと考えても、ついつい過去の延長の発想が主流になる。アダルトビデオの制作、販売に進出するとか、極端な舵取りだって真剣に検討しないといけないのかもしれない。

本来業務とか付随業務、新規業務とか何気なく線引きして扱う風潮はどこの会社でもあると思う。でも、これ自体がきっと危険な発想なのかもしれない。

ところで、人口が当然のように増加を続けていた時代は過ぎ去り、若者の数も減少中。おまけに草食系が大繁殖しているらしい。

元気なおじいちゃんおばあちゃんばかりの世の中に、去勢されたかのような若者が点在する社会に向かって確実に進んでいる。

これまで漠然と認識されていたこの国の国民性とか特色というシロモノも必然的に変化していくことになる。

個々人の人生観、職業意識だって様変わりしていくわけだが、国の政策を見るとどうにも「成功体験」が邪魔をしているように見える。

経済対策は、場当たり的なもの中心。あくまで既存の制度の小手先修正ばかり。一から生まれた制度など滅多に聞かないし、制度が完全に撤廃されたような話もない。

税制審議を見ていても結局は、前時代の発想があくまで基本。このブログでも何度も書いてきたが、金持ち優遇を極端に嫌う発想だってそうだろう。

右肩上がりの時代なら、成功者も右肩上がりに豊かになっていたわけだから、国としては執拗にそうした階層からの富の再配分を狙った。

現在のようなめまぐるしく、混とんと世相の中では、成功者から収奪することより、成功者を育成する発想が絶対必要だし、そのためには成功者、すなわち金持ちをヨイショしなけりゃ始まらない。

日本人は、勤勉性とか実行力とか根性とかを元に忠実に何かをトレースする作業が得意だ。完璧な模倣がどんどんレベルアップにつながり、しまいには模倣していた元をも上回る質のものを作ったりしてきた。

素晴らしい特色だが、その分、設計力とか構想を練る力に劣るらしい。国が将来のビジョンを描けずに迷走しているのは、そうした特性の証かもしれない。

なんかまとまりがなくなってきた。

要は昨今の経済政策は、しょせん戦後成長期の成功体験を元にした、いわゆる対症療法的な意味合いが強い。根本治療ではない。

慣習、前例が命の官僚支配が続くかぎりこのスタイルは変わらない。結局は政治の責任ということ。

古くて新しいテーマだが強力な政治の力が問われている。自民でも民主でも構わないが、問題は官僚の絵図とは違うリーダーシップを発揮できるかどうかだ。

今年は総選挙の年。旧弊支配からの脱却が実現できるかどうか、せめてそのきっかけになるかどうか。

数十年後の歴史の教科書にトピックとして記載される出来事になるぐらい意味の大きい選挙が間近に控えている。