パラリンピックに関するニュースの扱いが少ないという指摘をアチコチで聞いた。なかなか難しい問題だ。
身体障害者のためのパラリンピックに対して知的障害者を対象にしたスペシャルオリンピックスなどは、もっと注目度が低いわけだから、メディアの扱いを言い出したらキリがない。
テレビや新聞は視聴者や読者の求めるものを優先して報道する。そのテーマへの関心が低ければ扱いも当然小さくなる。当然のことではあるが、そこに障害者問題が絡むと微妙な空気が流れる。
障害者問題の難しさはここにある。「障害者に目を向けないことは悪」、「障害者に優しくない人は冷たい人」みたいな少し窮屈な方程式が存在する。
障害者への接し方や考え方は、人それぞれであり、一方的に決めつけたり強制できるものではない。
「高度医療が障害者を生き残らせている」という発言で批判を浴びた鹿児島県阿久根市の市長も、市長という立場での発言に批判が集まったわけで、個人の考えまで糾弾しようとしても無理がある。
もちろん、そういうことを公に発信して悦に入っている神経というか、品性の低さには個人的に呆れる。まあそれも現実だろう
私自身、ダウン症の子を持つ親として障害の世界を少しは覗いてきた。まだまだ“ビギナー”だが、いろいろな考え方や現実に接する。
高度医療のお陰で障害者が幸せに生きているケースはもちろんある。それを健常者の“上から目線”で得意気に語りたい御仁がいるのも仕方のないことなのかもしれない。
わが家のダウンちゃんは、有難いことに身体的な発達が比較的順調だ。大きな理由は生後数ヶ月で始めた専用の赤ちゃん体操だろう。専門医の指導によって早めにスタートしたことが影響しているようだ。
赤ちゃん体操自体が医療機関の指導によるものなので、いわば高度医療のおかげで育っている部分があるわけだ。
実際に障害と向き合っていると、第三者からの親切は何より有難い。社会の支えがないと成り立たないことを痛感する。ただ、変な同情だけで対応されると少し困るのも確かだ。同情より的確な指摘の方が有難い。
同情という感情はなかなか厄介だ。有難いと思うべきかも知れないが、根底に「可哀想だ」とか「不幸なんでしょう」という哀れみの前提がある。
「同情することが思いやり」みたいな認識が世の中には根強いが、これには少し違和感がある。「思いやり」と「同情」は大きく異なる。ちょっと口はばったいが、そんな思いにとらわれることは少なくない。
なんかクドい言い回しになってしまった。障害者への接し方、障害者問題の捉え方については「同情より理解」をお願いできるととても有難い。
そう考えると闇雲にパラリンピックのニュースの扱いを大きくすることが正しいかどうかは微妙だ。
競技自体の面白さ、選手へのキャラクター的関心度合いが広まった上でメディアの扱いが大きくなるのなら素晴らしいが、もともとマイナーな競技だから現実は厳しいだろう。
「理解」してもらうのに何が一番大切か。まずは障害の実際について知ってもらうことしかない。
知らなければ何も出来ないし、思いも及ばない。教わっていないことに対処できないのはどんなジャンルも同じだ。
英語を教わっていない人が英語で話しかけられたら、ただただビックリして、恐怖心すら覚える。逆に英語をそれなりに知っていればその範囲で対応可能だ。
私自身、障害者問題に関して教育を受けた記憶がない。周囲に障害を持った人がいれば自然と「知る」ことは出来たのだろうが、そんな機会や経験がなかった。多くの人が同様だろう。
もちろん、私自身、仮に障害者問題を学んだり、経験したからといって、障害者に対して思いやりを持てたかどうかは分からない。いまだって思いやりの気持ちを持てているか怪しい。
ただ、少なくとも、「まったくの無知」であることと「何となく知っている」ことの差は大きいと思う。
簡単なことでいいので「へえ、そうなんだ」と感じるような機会を多くの人に経験してもらえると嬉しい。
声高に「差別を無くせ!」みたいな演説をぶつつもりはない。綺麗事ではなく差別は必ず存在する。
障害うんぬん以前に、デブやハゲはもちろん、服のセンスが悪いとか、趣味嗜好が特殊だというだけでも平気で差別される。
私自身、「五体満足なら男の子でも女の子でもどっちでもいい」みたいな言い回しを平気でしていた。少し考えれば障害を持つ人にとっては差別的表現でしかない。
今でも職場で「めくら判を押すなよ」とか言ってしまう。差別意識が有る無しに関わらず、差別と感じる人がいる以上それはやはり差別だろう。
ただ、そうした「言葉狩り」に矮小化した差別論議はあまり生産的だとは思えない。言葉狩りだけがひとり歩きすれば、結局は“危うきに近づかず”になってしまう。「理解」どころか「知ってもらう」ことすら難しくなる。
悪意に満ちた差別、意図的な差別は別だが、そうではない無知や未経験を理由にした“ライトな差別”とはうまく付き合っていくしかない。
その上で、差別を「区別」ぐらいに収めてもらうことを考えていきたい。
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