2010年4月2日金曜日

“彼”の話

昔に比べてやたらとオカマが目立つような気がする。テレビのバラエティー番組もオカマの品評会みたいだ。

オカマという言葉も一応差別表現の範疇に入るみたいだが、ニューハーフという言葉だとピンとこない。ゲイとかオナベとか定義はいろいろあるようだが、あえて分かりやすくオカマという表現を使うことにする。

私は昔からオカマちゃんが苦手。若い頃は結構そっち方面の人に好かれるタイプだったらしく、学校をサボって昼寝場所にしていたポルノ映画館では随分と変なオヤジの接近遭遇を体験した。

オカマバー方面にも何度か連れて行かれたが、いつも最後には無礼なオカマに本気で腹を立てる始末。

「男ならシャキッとしやがれ」ってつい思ってしまうのだが、その考え方自体がチョット固定観念にとらわれすぎなのかもしれない。

昭和の後半に亡くなった私の祖母などは、若い時分にオカマさん達と随分交流を持っていたらしい。それこそ日本のゲイバーのはしりである銀座「青江」のママさんなんかも私の実家に遊びに来ていたそうだ。

祖母は自由な発想の持主だったので、昭和30年代当時でもその手の人達への理解があったのだろう。それに比べて私の度量の狭さは問題だ。無粋なことかもしれない。

金子みすずの詩みたいになっちゃうが、「みんな違ってみんないい」という考え方もある程度必要だろう。

わが家にやってきたダウン症ベイビーのおかげで、最近は私の中で「個性」の定義が広がっている。うちの子も健常児と比べても意味はないし、ダウン症も見方によっては「個性」とも言える。

そう考えると、世の中で活躍中のオカマちゃん達に対しても彼らの路線を単純に「個性」だと認識したほうが建設的なのかも知れない。

ウダウダと書き連ねてしまったが、ここまでは前振り。今日のテーマを書こうと思ったのは先日会った旧友がきっかけ。

およそ25年ぶりの再会。とはいえ、幼稚園から高校まで一緒だったので、さっさと少年時代モードに戻ってバカ騒ぎした。

この友人、仲間うちで“彼”と表現される。“”が付くところがポイント。単なる彼ではなく、あくまで“彼”だ。

平たく言えば「彼女」と表現したいタイプだというニュアンス。高校時代には何かのイベントの際に近隣の女子校から拝借してきたセーラー服を着てアイドル歌謡を熱唱していたような記憶がある。

男子校だったので、“彼”には独特の存在感があったが、私の場合、中性的な連中の理解者ではなかったため、どちらかといえば敬遠していたような覚えがある。

そんな“彼”もいまや立派な「先生」だ。そっち系の患者さんも多いみたいだ。思えば、“そっち系”の人々は世の中に想像以上に存在するわけで、そうした面々を理解できる先生は非常に貴重な存在だろう。

いまでこそオカマちゃんや中性的人物への理解が広まってきたようだが、それも先駆者あっての話だ。

まだまだ若作りの“彼”もいまや立派な中年なので、先駆者の一人だろう。良く分からないが、今のポジションを得るまでそれはそれで苦労もしたはずだ。

最近売れっ子の「椿姫彩菜」というそっち系のタレントがいる。確かに可愛い。正直、ちょっと萌える。

男子校出身を一種のウリにしているが、その男子校は我々の母校でもある。いわば“彼”の延長線上に彼女がいるわけだ(大げさか)。

さてさて、“彼”と騒いだ日の話。幼稚園から同窓だったメンバー数人で痛飲。4才ぐらいから18才まで一緒だった顔ぶれだ。四半世紀ぶりの再開でもすぐにワイワイガヤガヤだ。

二次会でカラオケスナックへ突入。酔うほどにキャッキャキャッキャと“彼”は“彼女”になっていく。

絵に描いたようなソッチ系のノリだ。それまでは一応紳士然としていた“彼”だが、確実に“解放”に向かっていく。熱唱するのは聖子ちゃんソングだ。

男同士の飲み会のはずが、なぜか妖艶モードも漂う。ソッチ系が苦手なはずの私も単純にはしゃぐ。自ら進んで禁断の世界を覗いてしまった。

やはり食わず嫌いではダメだ。

別な旧友の携帯画像には、私と“彼”のあられもない姿が記録されてしまった。

あの画像、一応、浮気現場の証拠写真になり得るのだろうか。だとしたら高値で買い戻さないといけない。

いくつになっても日々勉強だ。

2 件のコメント:

  1. >私と“彼”のあられもない姿

    広岡瞬さんと男性のスクープ写真を
    思い出してしまいました(微笑)

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  2. コメント有り難うございます!
    懐かしいですね、「広岡瞬」。
    この名前をご存じの方だと私と同年代ですね。

    あの頃、沖雅也もそっち系で話題沸騰でしたね!

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