久しぶりにわが家のダウンちゃんの話を書く。今年の初めにこのブログでヤツのことを書いてから7ヶ月が経った。7ヶ月前の内容を今と比べて読み直してみると、わが家のダウンちゃんの発育の遅さを痛感する。
まだ赤ん坊レベルだ。可愛いと言えば可愛いが、せっかちな江戸っ子である私としては時にイラつく。まだまだ私自身、修行が足りない。
ダウン症は一種の発達障害と位置付けられている。要は、すべてにおいていちいち遅い。時間がかかる。うちのチビは年が明ければ4才になるのだが、いまだに話さない。意味不明の言語らしきものが増えたので、専門家に言わせると良い兆候だという。
よく噛んで食べるものを与えないといけないらしい。そうはいってもヤツは麺類ばかり要求する。なかなか固いものを食べるチャンスがない。固くなくてもヨーグルトみたいな食べ物は咀嚼によい効果があるらしい。いろいろ工夫しないといけない。
いずれ話せるようになるのだろうが、はたしてどれだけ明瞭になるか怪しい。健常に生きてきた自分からすると不思議だ。見たところ口の形、口の中の形は普通なのだが、なかなか喋らない。
「バイバイ」は「バ~」だし、「オイシイ」は「オイチ」とか「オッチ」だし、「ごちそうさまでした」に至っては「ッタ」だ。最後の一文字だけだ。省略しすぎ。
明瞭に発音できるのは「パパ」ぐらい。いまだに「ママ」が言えない。私としても鬼嫁の手前、「パパ、パパ」言われるとチョット困る。早く「ママ」と言えるようにならないと何かと家庭内の空気に問題がある。頑張って欲しい。
まあ、そういいながら実に緩やかに進歩している部分もあって微笑ましい。あまりのノロさのせいで、健常児の育児だったら気付かないようなちょっとした進化でも喜べる。
「糸巻き巻き」とか「グルグルドカン」とかのジェスチャーである腕を胸の前で交差させながらグルグル回転させる動作が最近突然できるようになった。いままでは広げた腕をヒラヒラさせていただけだから大進歩。そんなことでも大喜びできる。誉めてやると得意になって笑う。なかなか楽しい。
8月も保育園に通って周囲の子ども達から随分と刺激を受けた。週に2回通っている支援学校は夏休み明けの9月から再開したが、どうも座学的なこと、勉強に関わることはすべて苦手らしい。そういう点は私に似ている。
思えばおむつ着用の時間がとても少なくなった。起きている間はほぼパンツ着用だ。失敗もほとんど無い。トイレをきちんと知らせるようになったことは1年前に比べて大いなる進歩だ。喜ばしい。
とはいえ、オシッコだろうと「大」のほうだろうと全部が股間を押さえながら「チー」という表現だ。
洋服の脱ぎ着も一応、自分でやろうとする意識が出てきた。全然できないのだが、自発的にやろういう動きが出てくれば、あと2~3年ぐらいでこなせるようになるだろう。
いちいちノンキに待たないといけないのがおっくうだが、こっちも健康でいてやらないと、いずれするであろうキャッチボールとか、自転車乗りの練習なんかの際にこっちが老人になっちゃいそうだから大変だ。
他にもこの1年で、公園のすべり台の階段をずんずん一人で上っていけるようになったし、オモチャを大きなオモチャ箱に入れられるようになった。寝る前に眼鏡を外して決まった場所に置くことも覚えた。
手の動きで「~をちょうだい」という要求ができるようになった。置いてきぼりにされたときに恐怖感を覚えるようになったなど随分進化している。
そういえば歯磨きらしきことも一応毎日やっている。毎日、歯ブラシを突っ込みすぎて吐きそうになっているが、原理原則は分かってきたようだ。
合併症も無く、とくに持病がないことはつくづく有難い。私自身、うちのチビのおかげで様々な障害を持つ子ども達の存在を知ることができた。そういう面では恵まれた状況で育っているウチのチビにも何かしらの役割というか使命があるのだろうと感じる。
そうこう言いながら、いま私が気になっているのが上の子だ。小学校3年生の女の子だ。いろいろややこしくなる手前の年齢だ。
先日から『障がいをもつこどもの「きょうだい」を支える』という本を読んでいるのだが、案の定、娘に接する私の態度の多くが“問題あり”みたいだ。ちょっと考えさせられる。
たかだか9歳だ。少し特殊な弟を持ってしまったという事情を考えると、親から見て「よい子」であればあるほど危険度は高いらしい。
分け隔てなく接するよう心掛けているが、状況が状況だから微妙な部分もある。理解させようとしても限界はある。理解してくれているだろうという親の希望的観測は子供心にどう影響しているか考えないといけない。
先日、私がずーっと家で不機嫌にしていた時のこと。かつて私がライブの土産に買ってきた子ども用の「ハマショー」のTシャツを娘が着てきた。随分と趣味の悪いデザインのTシャツなので、多分ご機嫌伺いだろう。
娘のせいで不機嫌だったわけではなかったのだが、娘がそういうところに過敏に反応していたのならマズい。ちょっと繊細というか神経質だ。考えすぎだろうか。
まあ、そんなことをイジイジ考えていても仕方ない。「ケセラセラ」でいかねば、こっちもバテる。また今度じっくり考えることにする。
また話が飛ぶ。
それにしても残念なのは、ダウン症という名称だ。多くの人が“アップ、ダウン”のダウン、すなわち、「下」とか「落ちる」とか、ネガティブなイメージの言葉が由来だと思っている。
実際の由来は、「ジョン・なんとか・ダウンさん」という研究者の名前が元になっているだけの話。決して上下の下という意味合いではない。
この研究者の名前が、アップさんだったらアップ症だったし、エルメスさんならエルメス症だったわけだ。よりによってダウンになっちゃったのは実に残念。
相変わらずいろいろ葛藤もあるが、ウチのチビの福笑いみたいな顔を見ていると、束の間だがフワっとした気分になれる。随分助けられているのかもしれない。
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