小、中、高校と通った懐かしの母校に行ってきた。クルマで横を通ることはあったが、中まで入ったのは25年ぶりぐらいだろうか。当時の面影を残した部分に思わず見とれる。
あそこの3階の窓から教師に水をかけたなあ、とか、このグランドの中心点に長時間立たされていたなあ、とか、あの校舎の地下に先輩から呼び出されたなあ、とか、学園祭のフォークダンスの練習名目で女子高生をあの部屋に連れ込んだなあ、とか真面目に過ごした年月が甦った。
印象的だったのは学校全体の広さ。当時、我が物顔で過ごしていたせいか、さほど広いイメージはなかったのだが、いざ歩いてみると結構広い。きっと自分が謙虚な人間になったんだろうと解釈してみた。
母校に行ったのは友人の奥様のお通夜が目的。慣れ親しんだチャペルはまったく変わっていなかった。暑い夏の日、冷房など無かった校舎に耐えられず、半裸でチャペルで涼をとっていた恥ずかしい過去が甦る。
若い頃ってどうしてあんなに罰当たりだったのだろう。今更ながらゾッとする。中年になった今、慣れ親しんだチャペルの荘厳さに初めて気付いたような感覚になった。
友人の奥様はまだ40歳の若さ。子どもの行く末をまだまだ見守りたかったはずだ。誰もがいつかは命の灯が消えるにしても、その年月の長短にはどうしようもない不条理もある。自分の身に置き換えて考えてみても無念という言葉しか思い浮かばない。
この夏、小学校以来の同窓生が不慮の事故で亡くなった。10歳の娘さんを残して旅立ってしまった。やはり、子を持つ親として、ただただ切ない。ご遺族の心の平穏をただ祈りたい。
話は変わるが、私が大好きな映画に「ゴースト・ニューヨークの幻」がある。見方によっては子どもっぽい勧善懲悪モノとも言えるのだろうが、私にとっては何度見ても泣ける。いや、正確に言うと号泣してしまう。
何度も見返しているが、主人公がまだピンピンしてる映画の前半から早々に泣きモードに入ってしまう。“こんなに仲の良い二人なのに死が訪れてしまうのか”という感傷が私の涙腺をゆるませる。
映画では、ゴーストになった主人公が残していった恋人を守ろうと活躍するわけだが、とにかく「触れられないもどかしさ」がやたらと切ない。
ゴーストになった主人公からは相手の存在が見えるのだが、当然、相手からは見えないし、触れることが出来ない。
ゴーストの先達からモノを動かす“技”を伝授されて、扉越しにコインを動かすシーンがある。恋人がコインの動きを指でなぞり、死んだ恋人が自分の側にいることに気付き、コインを通して間接的にゴーストと触れあう場面が一番泣ける。
たとえ見えようが、その存在を感じようが、どうしても叶わないのが「触れること」だろう。こればかりは、空想小説だろうとホラー映画だろうと大体共通している。
そう考えると愛する人と触れあえるという単純な行為がいかに有難いことか痛感する。
ついでに個人的なスピリチュアル体験の話を書く。私自身というか、私の家族に起こった話だ。亡くなった祖母の初七日法要の後、家族みんながバラバラの場所で同時に鈴の音を聞いた。
旅行好きだった祖母は、それこそ世界中で鈴を土産に買ってくるほどの鈴コレクターだった。そんな祖母が挨拶するかのように軽やかに鈴の音を鳴らしていったらしい。
実はこの時、親戚を含めた10人近くのうち、鈴の音を聞かなかったのは私一人。私以外は全員が聞こえたそうだ。スピリチュアル系の感度に少しだけ自覚がある私としてはちょっと切ない思い出だ。聞き漏らしたのか、私だけ無視されたのか、きっと前者だろう。
家族としては、鈴の音が気のせいだったとか、偶然だったとは思わない。やはり旅立ちの挨拶だったんだろうと素直に理解している。でも、その時も最後の最後に握手とかハグとか、そういう触れあいをともなうお別れをしたかった。
寒くなってくると娘のベッドに侵入する私だ。暖をとるのに適度なサイズなので、ついつい湯たんぽ代わりに扱う。
熟睡している寝相の悪い娘は、時にパンチやキックを私に繰り出す。膝蹴りが股間を直撃すると寝ている娘に仕返しをするほど怒る私だが、そんな「ぶつかり合い」も間違いなく「触れあい」に他ならない。
愛する人の成長を見守ることが出来ずに、無念を抱えて旅立っていく人からすれば、そんな下らないやり取りすら二度と叶わない。そう考えると、つくづく当たり前の瞬間瞬間の大事さ、有難さ痛感する。
先に逝く人が残してくれる教えを今更ながら噛みしめたい。
0 件のコメント:
コメントを投稿