子どもの頃の思い出とかトラウマはいくつになっても甦ってくる。いくつか例を出してみる。
10歳頃に初めて行ったスキー合宿で、初日の朝にすっころんでウェアの中まで雪まみれになってから、スキーとは無縁の生活だ。
同じく小学生の頃、東京タワーの蝋人形館に行ってから連夜のように恐怖でうなされたので、いまだに東京タワー自体が嫌いだ。
祖父がたまに連れて行ってくれたので浅草の街が今も好きだし、仲見世通りの揚げまんじゅうは今も必ず買ってしまう。
揚げまんじゅうは、この歳になって食べると30分ぐらいで胸焼けが起きるのだが、分かっているのに買ってしまう。子ども時代の感動が強かったから、一種の呪縛のようになっている。
思い出やトラウマはとくに食べ物に顕著に現れる気がする。マウンテンデューを自販機で見つけるとつい買いたくなるし、オロナミンCを牛乳で割って飲む気持ち悪いテレビコマーシャルは今も記憶にある。
即席ラーメンは「サッポロ一番」か「チャルメラ」、焼きそばは「ペヤング」。この方程式もきっと「最初の衝撃」が大きかったからだろう。後発のうまい商品が出てもついつい思い出の商品に手が伸びる。
正しいオッサンとしてお寿司屋さんでグダグダ過ごすことが多い私だが、この行動パターンも幼い頃の思い出、トラウマが多分に影響している。
わが家は代々江戸っ子だ。私が敬愛する祖父も浅草生まれの「モボ」だったわけだが、なぜか江戸っ子がお得意のはずの寿司にはさほど興味がなかった。
子どもの頃、祖父に連れて行ってもらった外食といえばほぼ100%洋食だった。普段使いの店からハレの日に使う店まで和食屋に行くことは無く、西洋料理屋で肉ブリブリというパターンだった。
お寿司はたまに出前で取るぐらいだった。出前の寿司は量も決まっていて、どうでもいいカッパ巻きとかが寿司桶のなかで結構な面積を占有している。食べ盛りの少年としては、満腹にならないし、欲求不満ばかりが残った。
ごくたまに母親にせがんで近所のお寿司屋さんに連れて行ってもらっても、バカ食いされて散在するのを嫌った母親は、「最初にセットものを1人前食べてから追加しろ」とか細かく指示を出す。
なんかいっぱい食べたら悪いような気になるし、ドカ食いグセがある少年としては、小ぶりな握りがチョロチョロ出てきても一瞬にして口に運んで呑み込んでしまう。やはり満足感にはほど遠かった。
当時は回転寿司が誕生していなかったので、寿司をバクバク食べるという世界に憧れていた。寿司がバクバク食べられないことが一種のトラウマになっていたような気がする。
その頃、家の近所に新規オープンしたお寿司屋さんが、「30分食べ放題」みたいな開店イベントを実施しているのを知り、母親に連れて行ってもらった。
意気込んで行ったのの、店中に溢れかえる人人人。強欲そうなオッサン達が競い合うように大声で板前さんに注文しまくっている。
その喧噪たるや凄まじく、“お育ちのよいお坊ちゃま君”?である私などは、ほとんど注文が出来ない。ボソッと「マグロください」とつぶやいてみたって、殺気立っている板前さんには届かない。
結局、ロクに食べずにすごすごと退散した悲しい思い出がある。
「オトナになったら毎日お寿司屋さんに行こう」。そんなことを心に誓った記憶がある。
こうした経験が私を「お寿司屋さん好きのオッサン」にした理由だ。
20代の頃は回転寿司でオトナ食いに励んでいたが、「もっとオトナっぽくお寿司屋さんに陣取りたい」という欲求がつのり、20代後半あたりで運命の店?に出会う。
会社から遠くない目白台の閑静な場所にあったお寿司屋さんだ。店の親方は当時40代半ばだっただろうか。見た目も腕も醸し出す雰囲気も私がイメージする「格好良い板前さん」そのものだった。
あの店で覚えたり教わったりしたことは物凄く多い。私の食べ物に関する知識の大半はあの店で身に付いたようなもの。
器が好きになったのもその店がきっかけ。骨董、焼物マニアの常連さんに感化された親方にこれまた感化された私という構図で、ぐい呑みや徳利への興味が強まり、そのメンバーで地方の窯場巡りの旅をしたこともある。
最低でも週に一度は通っていた。いろいろなジャンルのお客さんとも随分お付き合いさせてもらった。10年近くその店に通って大人になったような気がする
親方が急逝して店はなくなった。気付けば私もあの頃の親方と同じぐらいの年齢になった。素直にいろんなことを教わっていた頃が懐かしい。
中途半端に知識をひけらかすようなダメなオヤジになってしまった今、スポンジのようになんでも吸収できたあの頃の感性を忘れてはいけないとつくづく思う。
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