2011年10月19日水曜日

ラブレター

ラブレターについて考えてみたくなった。実に唐突だが、先週見に行ったフェルメール展に刺激されて、ついそんなことを思いついた。

先週後半は京都にいたのだが、そこで見たフェルメール展は、何よりもタイトルが秀逸だった。


「フェルメールからのラブレター展」である。もちろん、17世紀オランダの伝説的画家が書いた手紙を展示しているわけではない。手紙を書いている女性、読んでいる女性など作品の主題におかれた「手紙」というキーワードに起因する命名だ。

ただ「フェルメール展」と表示されるよりも色気がある。想像力を働かせる効果もある。事実、絵が描かれた時代に手紙が果たした役割や意味を考えさせられた。

当時、世界を股にかけていたオランダの船乗りにとって、手紙はかけがえのないものであり、気が遠くなるほどの時間を経なければ相手に届かないシロモノだった。

アジア方面に出した手紙が届くのが1年後、それに返事を書いてもらっても、届くまでやはり1年。結局、2年もの歳月が一往復に必要となったそうだ。

電子メール全盛の今、その時代の人々が味わったであろう、枯渇した感じや焦燥感、寂寥感、はたまた身が焦げるような感じは想像もつかない。たとえ味わえたとしても、そんな感情に耐えることは出来ないような気がする。

フェルメールの絵画自体の素晴らしさ、光と陰の卓越した表現もじっくり堪能したつもりだったが、見終わって思い返すと、絵画よりも時代背景と手紙の意味ばかりが印象に残ってしまった。

作品の中に描かれた人々が実際にどんな思いで手紙に向き合っていたのか、一体どれほどの切なさで一通の手紙を読みふけったのだろうか。そんなことばかり頭に浮かんだ。


平和な時代にノホホンと生きていることがつくづく有難い。いつ届くか、本当に届くのか分からない状況のなかで、隠した一通の手紙にすべてを託す極限状態を経験せずに済む時代に生まれたことを幸運だと思う。

手紙が人の思いを運ぶ限られた手段だったからこそ、手紙をめぐる悲しい話は切なくて仕方がない。

シベリアに抑留された人々が、越冬のために日本方面に飛ぶ鶴の足にこっそり手紙を巻き付けていたという話を聞いたことがある。

どんな思いだっただろう。普通に考えれば、そんなものが届くはずはない。それでもすべての思いを鶴の羽に託した気持ちを想像すると胸が痛くなる。

ちなみに手紙をつけた鶴が日本にちゃんと飛来した話もあるそうだ。しみじみ泣ける。

さてさて、私自身、最後に手紙を書いたのはいつだろう。改めて考えてみると、今年は一通も書いていない。それで済んでしまうお気軽な生き方を反省したくなる。

恋文ともなると、それこそ最後に書いた年代すら覚えていない。一応、電子メールという文明の利器によって大切な人に気持ちを伝えることはあるが、ちゃんと手紙を書く機会は無くなってしまった。

たいていの人がメールで簡単に要件を伝えられる世の中だ。一文字ずつ気持ちを綴る作業と、キーボードなり携帯画面を叩く作業とはやはりイメージが異なる。

もちろん、闇雲にアナログこそエラい、デジタルは安直でイカンと決めつけるのも時代にそぐわない。電子メールでも充分に胸を打つ内容を表現することは可能だし、実際にそんな内容のメールをもらえば、当然、消去などできずに大事に保管したりする。

いい歳した大人の男が絵文字とかデコメに凝るのは気持ち悪いので、私は一切、その手の機能は使わない。そうはいっても、こちらが受け取るメールは、いまやそうした飾り文字で大賑わいだ。あれはあれで面白い。不思議なもので、送り手の人柄や雰囲気をしっかり反映している。

そう考えると、心がこもっていないとか、味気ないとか、機械的で冷たいといった決まりきったメール批判自体が、既に時代遅れなのかも知れない。

実際に、あの大震災直後にもらったメールからは、しっかりと緊迫感が漂っているし、怒らせた時のメールは、どことなく読み返したくない雰囲気が滲み出ている。

歯が浮くような内容を書いてもらえば歯も浮くし、機械文字がベースとはいえ、状況や場面によって気持ちを通じ合わせる役割をしっかりと果たしている。

まあ、これほどまでに社会に浸透した以上、電子メールは、手紙とは別個の位置付けで人々の思いを運ぶ道具としてより重要なインフラになっていくのだろう。

さてさて、とっちらかった話をまとめに入ろう。

人生で5万通ぐらいラブレターをもらってきた私だ。少しは気の利いた考察をしてみたい。

ラブレターというか、恋文的メールを間違って違う相手に送ってしまった経験がある。誤送信だ。あの時の恥ずかしさは人生でもトップ3に数えられるぐらい強烈だった。

本来送るべき相手にも送り直したが、不思議なもので、誤送信した時点で、そこに書いた内容が二人だけの共有事ではなくなってしまった残念な感覚があった。

ラブレター、恋文の肝は、結局この「恥ずかしさ」と「秘めごと共有感覚」に尽きる。

関係ない人に見られてしまった時の恥ずかしさはもちろん、当事者同士だろうと、昔書いた恋文を突きつけられたりしたら死ぬほど恥ずかしいはずだ。

色恋沙汰とは、突き詰めれば「恥のさらし合い」そのものなんだろう。お互いを知り合っていく作業自体、恥ずかしいことの積み重ねだ。だからそれを言葉で表現する恋文は、恥ずかしさの集大成だ。

進んで恥をかける心理状態が、いわば熱にうなされている証拠だ。そして、気持ちを文字で残すということ自体が、安易な気持ちではないという覚悟にも似た感情を示す行為だ。

恥を隠さない、恥をいとわない。意識しているか否かに関係なく、恋文、ラブレターの意義は、そうした人間の素直な心を表現する点にあるのだろう。

ラブレターや恋文をめぐる逸話は、文豪とか国家の指導者とか、意外にも老境に達した人にまつわるものが多い。成熟した人間だからこそ表現できる情熱があるのだろう。

私の人生後半戦の目標は、年甲斐もない行動で人様から後ろ指を指される年寄りになることだ。恋文ぐらい毎日のようにスラスラ書けないとそんなジイさんにはなれそうもない。

精進してみようか。

2 件のコメント:

  1. 手紙、書いてみたいけど「重っ」っていわれそうで恐いですね。大体字すらあまり書いてないです。
    でももらったら嬉しいでしょうね~。5万通すごい!

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  2. 字を書かなくて済む時代になりましたよね。

    街で趣味のよい便箋やハガキを見つけても、
    結局買わなくなりました。文化的に衰弱する感じとでもいいましょうか。。。。

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