2012年8月31日金曜日

懐古

今日も更新できなかったので、アーカイブをふたつ載せます。来週から更新を再開しますので、懲りずに覗いてやってください。



★治郎八に憧れて
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2010/03/blog-post_19.html


★モデル体験
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2010/05/blog-post_14.html


2012年8月29日水曜日

小休止

夏休みを取ってフラフラと旅行中なので、今週はブログの更新を休みます。

来週月曜から更新を再開します。

ということで、アーカイブを載っけておきます。


★鬼子母神の大イチョウ
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2009/08/blog-post_21.html


★渋谷 15の酒
http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2009/05/15.html

2012年8月27日月曜日

ランチの罠

ランチが苦手だ。そう書くと妙だが、私にとって昼飯は難問である。

昼にしっかり食べたら夜の楽しみが半減する。「夜から男」、いや、「夕暮れから男」として生きている以上、昼間のすべてが「アウェー」みたいなものだ。

仕事の付き合いランチがない限り、基本的に昼飯は食べないか、ごくごく軽く済ませる。プリンとか大福とか甘いもので終わらせることもある。

なるべく飲食店にも行かないようにしている。ランチ競争の激しい都会では、妙にボリュームたっぷりのメニューばかりだ。喜んで食べたら夜に後悔するはめになる。

わびしさ覚悟でコンビニのおにぎり一個とかで済ませないと食べ過ぎてしまう。

まっとうなランチを食べる場合、ビジネスランチなどでもそうだが、軽く一杯引っかけることもある。

若者サラリーマンではないから、オッサン同士のランチだとビール1杯ぐらいは珍しくない。洒落た店だとグラスでシャンパンだ。

ごくたまに一杯が二杯になり、二杯が三杯になり、「まあいいか状態」に突入することがある。昼の酒は酔うと言われているが、確かに普通より酩酊しやすい。

きっと背徳感という魔法が加わるからだと思う。でもそれが良い。世の中の楽しみの多くが背徳感によって支えられているのだと思う。

子どもが隠れてエロ本を眺めるような感覚だろうか。全然違うか。


先日、日本橋のマンダリンオリエンタルで小洒落たランチを楽しんだ。地震にビビる私としては、高層階は苦手なのだが、さすがに東京のど真ん中だけのことはある。38階からの眺めは圧巻だった。

グラスのシャンパンを何度かお代わりしてビビる気持ちを落ち着かせる。酒飲みの言い訳ほどタチの悪いものはないが、まさにそれだ。

店の名前はその名も「ケシキ」だった気がする。正直、高級ホテルのダイニングにしては、テーブルの間隔が狭く、いまどきの新興ホテルの限界を感じた。あれなら1階下にあるバーラウンジのほうが居心地は良さそうだ。

コンサバ太郎である私としては、ここ10年ぐらいの間に増殖した外資系高級ホテルが、みな同じように見える。スノッブでとんがってる感じで、そのくせ、敷地の余裕の無さからか、全体に窮屈な雰囲気を感じてしまう。

帝国、オークラ、ニューオータニあたりの老舗の場合、スペースのムダがゆとりにつながっている。洒落っ気に欠けるとしてもイマドキホテルとは違うノンビリ感が味わえる。


マンダリンでは名物らしきハンバーガーを頼んだ。普通に美味しかった。この味に老舗の歴史だとか物語みたいなエッセンスが加われば最高なのだろうが、新興ホテルにそれを求めるのは無理がある。

古い東京をエコヒイキしてしまうクセのある私としては、景色だけが印象に残った。いや、ホテルオリジナルブレンドのハーブティーはウマかった。うっすらライチが香るような実にホッコリする紅茶だった。

別な日、九段下にある「トルッキオ」という店でランチタイム。自家製パスタがウリのイタリアンだ。穴場ムードは満点。せせこましい感じではないところがよい。

スパークリングワインをぶりぶり飲んでしまった。オリーブオイルにパンを浸し、上品に嗜んでいたつもりが、いつの間にかガブガブ状態になった。

朝に飲むシャンパン、略して「朝シャン」は、金色かつ泡が上に向かって上昇する風水的な縁起の良さで知られるが、「昼シャン」も最高である。その後の予定など強引に吹っ飛ばす力がある。


前菜も美味しい、パスタ麺もいい感じだ。残念ながら私が頼んだレバーペーストを多用したクリームパスタはクセが強くてムムムって感じだった。改めて夜に挑戦したい店だった。

こういうちゃんとした店のちゃんとした昼飯を食べてしまった日は、当然のことながら夜が楽しめない。一丁上がりになってしまう。そこが問題である。

酒を飲まなければいいという問題ではない。酒抜きだろうと昼間に満腹になった私の内臓は、夜のお勤めを拒否してくる。不仲の夫婦みたいな感じだ。

全然違うか。

そうはいっても、昼の酒はしょせん大酒にはならないし、そのおかげで夜抜きの生活になるのなら健康には良いのかもしれない。

結局、昼の酒の言い訳ばかり書いたような気がする。

日々反省である。

2012年8月24日金曜日

美人の尺度

ブータン国王の来日をきっかけに「国民総幸福量」なる考え方が知られるようになった。国民総生産に対するアンチテーゼだ。

欲求ばかりが渦巻く先進国には分が悪い考え方だろう。私自身、何一つ不自由のない環境で生まれ育って生きているのに、口を平けば不平不満ばかりつぶやいている。

猛省しようっと。

幸福度合いの話をいきなり引用したのは、「尺度」の難しさを書きたかったから。幸福度合いを小難しく書こうというわけではなく、今日は「美人」について考えてみたくなった。全然脈略が無くてスイマセン。

美人の尺度ほど分かっているようで分からないものはない。実際、時代と共に変遷しているようだし、国が違えば美人の基準も随分違うらしい。

クレオパトラとか楊貴妃とか、さぞ絶世の美女のようなイメージだが、九分九厘、今の価値観でみれば非美人だったと思われる。数百年とか数千年前の価値観などあてにならない。

日本では下ぶくれの顔に長い黒髪が、昔の美女の条件だったらしい。いまどきの蚊トンボみたいに細く、髪を茶色く染めた女性なぞ見向きもされなかったのだろう。

時代の違いだけでなく、いま現在でも国が違えば美人の尺度も異なる。ポリネシアあたりだったら太ってることが大事なことらしいし、アフリカのどこかの国では、わざわざ太って見せるためのパッドなんかも売っているらしい。

他にも毛深いことが美人の尺度になっている国とか、長い首が魅力的だということで、変な首輪を使って首を伸ばすような人々もいる。

美人かどうかだけでなく、「好み」が加わったら一層混迷度合いは深くなる。

男性諸氏ならその名を知っている「成田アキラ氏」などは、非美人のあの時の顔に無性に興奮するという話を何かで読んだことがある。好きこそ物の上手なりである。意味不明か。

ミスユニバースとかで優勝したり上位に入るアジアの女性も、白人の尺度から見た美人なんだと思う。どこか野性的というかエキゾチックといおうか、日本人の平均的な尺度から見ると「うーん?」というパターンも珍しくない。

以前、バンコクの安飲み屋街を徘徊していた時に、「あっちの店のコは白人好み、日本人だったらこっちの店がいいよ」みたいな話をよく聞いた。

確かに見比べてみると、はっきりと傾向が別れていた。白人が好む女性が多い店では、「類人猿系」がずらり。昔の漫画「ゴリラーマン」の女性版みたいな感じ。ニカっと微笑まれると後ろ足でその場から去りたくなる感じだった。

それでも、居並ぶ白人男性は物凄く幸せそうで、「審美眼」のややこしさを痛感した。

そういえば、サッカー・なでしこの不動のエースは欧米ではモテモテらしい。

そういうことだ。

かくいう私も当然、美人は好きである。誰だってそうだろう。多分、自分の尺度は世間一般と同じだとは思うが、中学生ぐらいの頃は、毎朝のように電車で出会う「へちゃむくれ」ちゃんのことが気になって仕方がなかった。あの感覚は何なんだろう。

「好み」に関しては、あまり明確な基準はない。強いて言えば、猫顔より犬顔、キツネ顔よりタヌキ顔に惹かれる。

小太りグラマー系が好きだと思っていても、気になる人がスリムだったら、痩せ型が好みになるし、髪の長さとか背の高さとか、一応、好みはあっても、お相手によって変わったりする程度だ。

基本的に場当たり的な好みを貫いて生きてきたように思う。気になる人が好みであり、好きになった人が好みだ。いい加減なようでいて、それが真実だろう。

事細かに好みのタイプ、特徴を羅列できるような人は、逆に胡散臭いと思う。きっと誰かの幻を追いかけているだけだと思う。

それにしても、何をだらだらと書き綴っているのだろう。しょうもない話に終始してしまった。

まあ、いつものことだが。。。

2012年8月22日水曜日

鮨源でゆるゆると

ゆるゆるとお寿司屋さんで酒を飲む時間が大好きだ。

馴染みになった店のカウンターでホゲホゲと好きなペースでわがままな注文を繰り返していると、ついつい長っ尻になってしまう。

ちょっと前までは新規開拓を目的にふらっと知らないお寿司屋さんに入っていく趣味?があったが、最近は勝手知ったる店ばかり行くようになった。

冒険心が足りなくなるのは老化の証しだから、ビビりながら知らない店の暖簾をくぐる機会も増やそうとは思う。

でも、やはり慣れ親しんだ店の居心地は捨てがたい。そこが住宅街の冴えない店だろうと、マグロの色が黒かろうが、客層がその筋の人ばかりだろうとも、本人が止まり木としてお気に入りなら問題なしだ。

そういう店を持っていることこそが大事で、ネタの良し悪しなどは二の次なのかもしれない。

さて、私が頻繁に出かけるのは高田馬場の鮨源。会社からタクシーでワンメーター程度で着くので、週に一度は顔を出しているだろうか。

かれこれ15年近く前に初めて訪ねた。ここ10年ぐらいは結構なペースで出かけている。

学生の街にしては高級志向で、デフレ一辺倒のあの街の飲食店の中ではお値段も最高峰?かも知れないが、私の会社を起点にすれば半径3キロぐらいの場所に、あれだけ充実したネタを揃えている店は見つからないので有難い。





この時期、冷酒が飲みたい時は、タイの肝を焼いてもらったり、炙ったサンマをポン酢で食べさせてもらったり、バテ気味の時は、月見トロロをどんぶりで出してもらったりしている。ガッツリいきたい時は、鮮度抜群のネタを使って天ぷらも頼んでしまう。

焼酎をロックでくいくい飲む時は、上物の馬刺しをニンニクスライスと共に食べたり、生きているホッキ貝なんかをバター炒めにしてもらったり、小骨の一切無い刺身用のアジをフライにしてもらったり、好き勝手に楽しんでいる。



もともとは突出し用に作られていたツナサラダも、いつの間にか寿司ネタとして食べまくる日々だ。上等なマグロを使うわけだからコンビニのシーチキン手巻きとは比べようもないウマさだ。

ツナ軍艦をスカイツリー状態に盛ってもらったり、巻き寿司にしてもらったり、お土産で次の日の朝飯にしたり、今の私にとっては必要不可欠な食べ物だ。

帝国ホテルやデパートなんかにも支店を持つ店なのだが、職人の皆さんの異動がないため、店の空気感が昔から変わらない点もありがたい。お運びのおねえさんも入れ替わらないため、私がタチの悪い酔っぱらいだと言うことをいちいち教える必要がない。

食べ物の美味しさも大事だが、意外とそういう部分も通いやすい要素になっているのだろう。





シンコもだいぶ大きくなってきた今、新イカが出てくる季節だ。赤ん坊のほっぺたみたいに、はかなげで柔らかい食感が堪らない。

生サバもウマい。上等なマグロの赤身などでも感じるのだが、薄切りした刺身を重ねて握ってもらうと空気の関係だろうか、旨味が引き立つ感じで何個でも食べられてしまう。

穴子もその日の気分で白と茶を選べるし、茹で海老は、生きた車海老をその場でボイルしてくれるから、マズいわけがない。

鮮度がいいだけではなく、煮ハマグリや白身の昆布締めも安定してウマい。即興でヅケ握りも頼める。生で食べる海老だって常時3種類ぐらいあるし、質の高いネタが数多く揃っているから、連日のようにお邪魔しても飽きずに過ごせる。

寿司道を極めます、みたいな顔をして客まで修行させられるような変な緊張感の中で食べるのも寿司なんだろうが、やはりゆるゆる飲みたい時はワガママに過ごしたい。そういう意味ではワンダフルな店だと思う。

まあ、これだけ誉めておけば、気の効いた珍味小皿が山ほどサービスで出てくるだろう。。。。

2012年8月20日月曜日

韓流ブームの結末

隣国が騒がしい。ウリウリと自己主張を繰り広げる韓国の大統領の暴走ぶりには困ったものだ。

日本生まれということもあって、就任当初は知日派とも言われていた韓国の大統領だが、政権末期を迎えて迷走しているのだろう。

個人的な意見だが、あの人の人相が年々悪くなっているように見えていたのだが、こんな展開になると、さもありなんと思いたくなる。

世界のどこの国を見たって、隣の国とは仲が良くないのが普通だろう。コトを荒立てる必要はないが、ことさら無理して仲良く振る舞おうというこれまでの政治や外交の姿勢を見直すタイミングなのかもしれない。

首脳が交互に行き来するシャトル外交だって、今回の騒動で中断するのしないの言える程度の重要度なんだから、無理して毎年実施する必要もない。

アチラの国の内政的な求心力を高めるために事あるごとにいちいちイチャモンを吹っかけてくるような相手とは心を開いて付き合おうというのが無理な話。

オトナの対応とか、金持ち喧嘩せずなどと威張ってみたところで、考え方や風習、文化が違う相手には屁の突っ張りにもならない。あくまで冷静に淡い付き合い、ビジネスライクな付き合いに終始すればいいと思う。あの方々とは淡交精神でいいんじゃないだろうか。

「個人個人は悪い人じゃない」。アチラを擁護する人が使うお決まりのフレーズだ。もっともだろう。個々の人がどうこうというワケではない。団結してヒステリックな対応をする体質が問題だから、個人的な人のつながりだとか、友人付き合いまで色メガネで見ることもあるまい。

いずれにせよ、外交儀礼もわきまえないオヨヨな人物を大統領に選んでしまったアチラの国の民度を考慮したお付き合いをするしかないのだろう。

要はこちら側もあまり過敏にアチラの動きに反応しないほうが賢明だ。朝日新聞をはじめとする反日大好きの一部メディアがオーバーに騒ぎ立てるのがいつものパターンだが、あの幼稚さもそろそろ飽きられる頃だ。

私自身、陶器好きが高じて何度も韓国を旅した。キムチも好きだし、冷麺も好きだ。チャミスルをロックでカーッと飲むのも好きだ。

伝説的存在になっている「白磁の人・浅川巧」の伝記を読んで感銘し、爪の垢でもと思って親韓派になろうとしたこともある。無理だったが・・・。

ついでに思うところを書くとすれば、一連の不誠実なアチラさんの対応の根っこには、近年アホみたいに過熱した「韓流ブーム」が少なからず影響したと見るのが妥当だろう。

映画やドラマ、コールガールにしか見えないアイドルのオネエチャンに至るまで、猫も杓子もと言いたくなるほどの「洪水状態」に違和感を覚えていた人は相当な規模にのぼると思う。

現に私が韓国を旅した時も、韓流映画のロケ地めぐりとかで異様なテンションでバカ騒ぎしている日本のオバチャン軍団を目撃した。あれが氷山の一角なら、アチラの人々の日本人を見る目が変わるのも仕方あるまい。

それぞれの趣味嗜好だから、正面切って「みっともないですよ」とは言えないが、狂乱的な韓流礼賛が招いた結末が、ギクシャクした日韓関係だとしたらシャレにならない話だ。

過ぎたるは及ばざるが如し。そういうことだと思う。

2012年8月17日金曜日

一人暮らし

ここしばらく一人暮らしをしている。

家族が長期で旅行に行ったのが理由だ。一応、まだ逃げられたり、捨てられたわけではない。

実に爽やかな日々だ。もう少し寂しい感覚に陥らないといけないらしいのだが、日々熟睡できるし、すこぶる快適である。

もともと自宅で食事を摂る機会も滅多に無かったので、不都合はないし、クリーニング屋さんは不在でも回収・配達をしてくれる。寝る時ぐらいしか帰らないから家が汚れることもない。

ちっとも不便じゃない。男の場合、寂しさとか不便を感じないと家族の必要性に気づかないらしいから、今の私は実にビミョーな感じだ。

毎週お見合いを繰り返している幼なじみがいるのだが、ナゼいまさらイバラの道を選ぼうとするのだろう。もったいない気がする。ひょっとすると偉大な求道者なのかもしれない。幸運を祈りたい。

まあ、人間なんて誰もが「隣の芝生」を見ながら生きているから、正解などどこにもないのだろう。人生すべてがバクチみたいなものだ。

さて、一人暮らしの話だった。

社会人になっても実家暮らしだった私が初めて一人暮らしをしたのは24歳の時だった。

仕事が忙しかったこともあって、会社から遠くないマンションを借りた。

あの時の解放感は今でも覚えている。何でも揃っている実家に比べれば、不便極まりなかったが、「我が城」みたいな気分の高まりは強烈だった。初めて月に降り立った宇宙飛行士の高揚感と同じだろう。大げさでスイマセン。

実家の有り難さを切々と感じたのも一人暮らしのおかげだ。トイレに入って紙がないことに気付いたり、カップラーメンを食べようにも箸すらなかったりすると、実家の存在自体がドラえもんのポケットに感じた。

その後、実家に行って、ありとあらゆる日常雑貨をクルマに乗せきれないほどパクってきたことも懐かしい思い出だ。

熱を出して寝込んだ時なんかは、一人暮らしのわびしさを感じたが、そうは言っても、優しく看病してもらえないなら、誰かがいるより一人でヒーヒー言っているほうが気がラクだったりする。

その後、結婚して離婚して小さいながらも一戸建てに一人で暮らしていた時期もある。あの時も一人になった理由が理由だったので解放感に浸って不便は感じなかった。

気分一新とばかりにリビングのカーテンを全部イルカの柄に変えて「何じゃこりゃ」状態になったのも懐かしい。お盛んな年頃だったので、隣近所の人には、いろいろな女性の出入りを不審に思われていたかもしれない。

一人暮らしの良い点は、散らかし放題に出来ることと裸族で過ごせること、いろいろとやりっ放しにしておけることだ。後々自分の身にしっぺ返しは来るのだが、あの放埒の快感は捨てがたい。

ゴキブリ登場という有事の際には、いちいち誰かと結婚したくなった。虫が苦手な私にとってアイツを退治するのは命懸けである。ビビって血圧が200ぐらいにになる中、逃してなるものかと必死になって格闘する。

闘い済んでヤツの残骸を前に立ちすくむこと数時間。なかなか処分できない。せめて誰かと婚約しようかと切に思った瞬間だ。恨みと共にヤツが生き返るような気がして手が出せない。目もそらせない。

といっても放置は出来ずに意を決して、割り箸をセロテープでつないで長い棒にして、その先にセロテープなどを装着。これで遠くからでもヤツを貼り付けて動かす。窓から隣地に遺体だけを振り落としたりしていた。

この8月、まだまだ一人で過ごす時間は多いので、ゴキブリとの遭遇だけは避けたい。キッチンや冷蔵庫の周囲にはなるべく近づかず、自分の部屋の中だけにいるようにしている。

狭くはない家なのだが、ここ最近家にいる時は6畳程度の自分の部屋だけに籠もっている。余ったスペースを一時的にでも誰かに貸せれば小遣い稼ぎになりそうだが、その人が色っぽい後家さんだったりすると厄介なので我慢の日々だ。

やはり一人暮らしは適度なサイズの家に限る。

悲観的観測なのか、希望的観測なのか微妙だが、将来、というか老後はきっと偏屈な一人暮らしジジイになるような気がする。

その時の夢は和洋折衷の平屋に住むことだ。20畳ぐらいのリビングと8畳ぐらいの寝室と四畳半ぐらいの書斎、ついでに熱燗をすするための和室があって、純和風の風呂と大きめの物置部屋だけが配置されている家だ。

和室の端には縁側があって小さいながらも庭には池。鹿威しがコンとか響いて、桜の頃にハラハラ落ちる花びらを愛でながら静かに往生する。

うーん、悪くない。

なんか話が支離滅裂になってきたのでこの辺で。

2012年8月15日水曜日

卑怯か否か

最晩年を迎えている戦争体験者が語る生々しい当時の記憶。こんな企画がメディアを賑わす時期だ。

やはり8月は日本人にとって特別な季節であり、戦争などカケラも知らない私でさえ、当時の悲劇的な状況に思いを馳せる。

元軍人の告白などでは決まって「卑怯者になりたくない一心で・・・」といった表現を目にする。あの頃の日本人を突き動かしていたのは、この言葉に尽きるのかもしれない。

「卑怯者」。最近、めっきり聞かれなくなった言葉だ。権利ばかり声高に主張し、責任や犠牲を二の次にするヌルくて卑しい風潮が21世紀のわが国の世相だろう。

偉そうなことを書いている私自身、すぐに楽な方に逃げたがり、命の洗濯とか、癒されたいなどと甘いことばかり言っている。

卑怯なことは本能的に避けるように生きているつもりだが、あの時代の中年の男に比べれば極めて情けない姿だと思う。

まあ、自分のことは棚に上げよう。

卑怯か否か。この一点でコトの是非を判断する思考性はやはり大事だろう。実に単純な基準だが、大半の悩ましい問題はこの一点でクリアになる。

問題に直面した時、微妙な判断を強いられた時、常に卑怯か否かという基準に照らして判断すれば、後々後ろ指をさされる事態にはならないはずだ。

利己的に過ぎる結果偏重主義が罷り通る今の世の中では、結果を生み出す過程で、卑怯か否かという真っ当な判断基準がないがしろにされ、卑しい暴走が多発する。

いつのまに世間の金科玉条みたいになった「コンプライアンス」などという言葉も、卑しい暴走を抑えるためにカタカナ言葉を有難がって使っているだけで、昔の日本人には必要の無かった言葉だ。

卑怯か否か、恥ずべきことか否か、身体に染みこんでいたこの基準があれば変な外来語を引っ張り出して大げさに構える必要はなかったわけだ。

「責任逃れ」だとか「頬かむり」だとか、その程度の言葉で非難される事件や問題の大半が、実際には「卑怯」が根本的な理由だと思う。

怠慢や無責任を追及する時は「卑怯」という表現に置き換えた方が的確だし、インパクトも強い。積極的に卑怯という強い言葉を使うことで、日本人の美徳である気高い精神性が刺激されるような気がする。

放射性物質の流出が今も続く原発問題。「想定外」とかいう言葉で誰も責任を取らない現状はどう考えても異常だ。これ以上「卑怯」なことはないと思う。責任が放置されたままでは改善などあり得ないのはバカでも分かる話だ。

原子力安全委員会、原子力安全保安院。事故を防ぐために設けられている国家機関であり、莫大な税金を使って運営され、原発のすべてに全面的な権限を持つ。

東京電力は、一連の構図の中では末端機関に過ぎない。そんな末端機関ですらコストカットなどの反省ポーズを見せているが、絶対的存在のはずの両機関は知らん顔で済ませている。

試しに両機関のホームページを覗いていただきたい。勇ましく使命だとか役割を厚顔無恥にさらし続けて悦に入っている。おぞましく醜いインチキ集団だろう。天下一品の「卑怯者」だ。

2012年8月13日月曜日

団結力

今年の流行語大賞には「団結力」がノミネートされるような気がする。

オリンピックの大舞台で「団結力」が大きな力になったことは間違いない。競泳、アーチェリー、サッカー、卓球、フェンシングなどなど、ニッポンの団結力に随分と感動させてもらった。

旅行するにも酒を飲むにも「おひとりさま」が好きな私としては、自分のそういうエゴな部分をチョット反省したくなった。力を携えてコトにあたる素晴らしさを改めて見直したい。

震災復興だって団結力が不可欠だし、何かにチャレンジしたり、何事をやり遂げるにも団結力は欠かせない。

話は変わるが、造反ドミノが続く民主党の内情などは、団結力のかけらもないお粗末ぶりが際立ってきた。まさに断末魔だ。

オリンピックで感激させられた日本チームの団結力に比べると、あのズッコケぶりはハチャメチャだろう。党内でまったく団結できないクセして、ヨソ様である自民・公明とヘタな団結を画策する。

自民党も実にビミョーだ。消費税増税でヘナチョコ民主と「団結」しちゃって、政権奪取への追い上げムードは一気にしぼんだ。

公然と造反して、表面上はスジを通した格好になった小泉ジュニアの評判だけが上昇する始末。なんだかなあって感じだ。

またまた話が飛ぶ。

団結という話題ついでに、日頃感じていた税金の話を書いておきたい。

「富裕層」とか「高所得者層」という名のマヤカシについてだ。

来年から所得税の給与所得控除に制限が設けられることになった。給与収入に応じて差し引ける、概算の必要経費みたいな制度だが、改正後は、収入1500万円を境に控除額が打ちきりになる。

理由はただ「高所得者だから」という乱暴な話。労働組合が支持基盤の民主党政権らしいコスッカライ政策である。

1500万の給与をもらっている組合員はさすがにいないだろうから、支持母体の顔だけを立てた政策と言えよう。

1500万円が高所得者かどうかといえば、一応「高」の部類に入るだろう。各種統計データから見ても相対的に見ればそういうことになる。

だとしても、1500万円を境に、その上の所得階層を一律同じ扱いにするという考え方が実にバカげている。暴力的発想だろう。

年収5億円、10億円の本当のリッチマンと年収1500万とか2千万の人が同じ土俵で税制上は区分されるわけだ。自分より10倍、100倍稼いでいる人と同じ枠で型にはめられるわけだから、傍若無人と表現しても大げさではない。

年収2~3千万円と言えば、中小企業のオーナー経営者が多く含まれる。ある意味、日本の経済を根っこで支えている階層である。

このクラスをイジメ抜いて意味があるのだろうか。税制上もそうだし、各種の給付についても、たかだか年収800万とか1千万円あたりで足切りされ、たいていの給付金は貰えない。

子ども手当だって、結局、年収900万円前後で線引きされて、導入当初の話とはまるで違う「高所得者イジメ」が当然のように行われるようになった。

つくづく思うのだが、団体の有無がこうした乱暴な政策に影響している。世の中にはありとあらゆる同業者団体、職能団体、思想団体が存在する。

自分達に不利な動きがあった際には、団結して対応して悪影響を最低限に抑えようと機能するわけだ。行政、立法サイドでも当然、然るべき加盟者数を誇る団体からの要望には耳を傾ける。

一個人が正論をブツよりも、エゴ丸出しだろうとも数を背景にした団体による圧力は当然威力を発揮する。

そう考えると中堅高所得者層の団体など世の中に存在しないわけだから、実に弱い立場ということになる。

年収1千万円から5千万円ぐらいの所得階層の人々による団体があったら、少しはハレンチな政策にブレーキがかかるのではないだろうか。

それこそ団結力だろう。

当然、それ以下の所得階層の人々からは金持ちのエゴだのワガママだの、批判されるのだろうが、あくまでも、年収5億、10億クラスの階層と同じ土俵で国の政策ターゲットになることがバカげているという点は声を大にして主張すべき話だと思う。

2012年8月10日金曜日

夏バテとスタミナ

今年の夏は例年よりも身体がキツい。若い時よりはクーラーも弱めに使って、時にはクソ暑い中でも温かい飲み物を摂取しているのだがダルさが抜けない。

この夏は、ウナギ、馬肉、トロロあたりを意識して多めに食べている。ほぼ毎日、ローヤルゼリーとか高いユンケルなんかも飲んでいる。

なのにダルい。

そう考えると列挙してみた「元気になるはずのもの」はすべてマヤカシなんだろうか。そうは思いたくないのだが、そう思ってしまう。

逆に、それらのスタミナ源をまったく摂らずにいたら、今よりダルくなるのだろうか。そんなはずはない。

ということは、うなぎもトロロもユンケルもすべて「気のせい」という理屈になってしまう。実に困った問題だ。


水道橋に「京城苑」という焼肉屋さんがある。昔ながらの風情の店だが、なかなかウマい肉を食わせてくれるので時々出かける。

肉以外にも辛めのクッパとかニンニクとか元気になりそうなメニューをアレコレ頼んだ。画像のようにテーブルの上は赤色ばっかりである。

それでもエネルギーがわき上がってこない。唐辛子パワー、キムチパワーでも夏バテを退治できない。

別な日、俗に「蹴とばし」との異名を持つ元気の源・馬肉をしこたま食べようと銀座の「こじま屋」を訪ねた。この店は、桜鍋の店ではなく、あくまで馬の焼肉が中心だ。




刺身類も豊富なのがよい。新鮮な馬のレバ刺しは、甘味があってレバー特有のコクもしっかりあってオカワリしたほどだ。

店も洒落ていて、馬肉専門店というイメージとは異なり、若者がデートに使っても不自然ではない雰囲気。なによりも牛や豚より遙かに低カロリーという点も馬の魅力だ。

牛のレバ刺しが追放されてしまった以上、この手の店でレバ刺しの官能的な味わいを楽しむのが正しい「臓物食い」のたしなみだと思う。

頼んだモノが全部美味しかったのだが、翌朝、特別な生理反応が起きるわけでもなく、夏バテ解消とはいかなかった。

続いてはウナギだ。

7月にやたらめったらウナギを食べ続けた。そのせいで元気ハツラツになったわけでもないので、ウナギがスタミナ源だとは思わなくなったが、そんな些末なことを気にする私ではない。暑い季節だと少なくとも週に2~3回は鰻重の香りが脳裏をよぎる。



池袋にある「まんまる」というウナギ屋さんに立て続けに2回行った。ウマいもの不毛の地である池袋でフツーにおいしいウナギが食べられるだけで有難い。

珍しい各部位の串焼きも一本から注文できるし、ウナギのタタキとか揚げ物とか、結構豊富なメニューが特徴的だ。

蒲焼きも関西風と関東風の両方に対応しているし、ひつまぶしもあり、うな茶漬けもあり、ウナギ好きにはオアシスみたいな店だ。

問題はちゃちな居酒屋風の店の造りと、BGMに流れるビートルズだろう。ビートルズが嫌いなわけではない。ウナギで一献という気分の時に「ヘルプっ~!」とか歌われても嬉しくない。

まあ池袋だから仕方がない。

串を3本ほどもらって生ビールをグビグビ、白焼きが運ばれてきたら冷酒をクイクイ、最後に鰻重をワシワシかっ込む。

これで1時間ちょっとあれば充分。風情に乏しいというか、風情どころではない雰囲気は池袋だから我慢するしかないが、ひとりでホゲホゲしたいとか、せっかちにウナギで飲みたい時には使い勝手がいい店だと思う。

何を食べても元気が出ないとか言っている私だが、日々、こうしたメニューをがっついていることを思えば充分元気なんだろう。

まあいいか。

2012年8月8日水曜日

鴨とかガチョウとか

今日は食べ物の話。

野菜より魚、魚より肉が好きという人が日本国内で7500万人ぐらい存在すると思うが、基本的に私もそんな一人だ。

肉といっても、馬も羊もワニも食用が存在するし、それぞれがそれぞれの旨味をもっているから、一概に「肉」を語るのは難しい。

一般的に牛、豚、鳥が御三家的位置付けだろう。日本人の感覚だと価格や好みもこの順番で認識されることが多い。

若い時は私自身がそんなパターンを信じて疑わなかったが、近年は鳥、豚、牛が好物の順番になった。正確に言えば、牛の前か、豚と同点で馬が位置するような感じだ。

食にうるさいフランス人が喜ぶジビエは鳥系が主役だし、2本足の生き物なら親以外は食ってしまうという中国でも、高級料理は鳥方面である。

鳥と書くより鶏と書いた方がピンとくるが、今日はあえて鳥の字を使いたい。鴨とかアヒルとかガチョウとかそっちを含む「鳥類」の雰囲気が色濃くなる。


中華料理の中で、ひときわエバっているのが北京ダックだ。私も大好きだ。一度でいいから、紹興酒を片手に北京ダックだけを10本以上延々と食べ続けて幸せに浸りたいのだが、ついつい専門店に行っても、クラゲとか海老とか余計なものを注文してしまう。

鶏もブヨブヨしたブロイラーを除けば、皮のウマさは比類無きものだ。あのジューシーな旨味は鳥の叡智そのもの?だ。

鶏ですらそうなのだから鴨とかガチョウとか、ひと癖ある連中の皮のウマさは悶絶モノである。


先日、北京ダックの専門店である「全聚徳・銀座店」に久しぶりに出かけた。ここの北京ダックは皮だけでなく、肉もしっかり加わっているので食べ応えがある。

お馴染みの北京ダックを巻いてもらう前に、焼きたての皮に砂糖をまぶして食べさせてくれるのが、この店のウリだ。

一見、砂糖ですかあ・・・と少し引きそうになるが、口に入れると顔がフニャフニャになるぐらい美味しい。ジュンワリ広がる皮からにじみ出る油が砂糖と溶け合って身震いしたくなる。

紹興酒と合わせたら、ついつい尖閣問題も忘れそうになる。


皮付き肉を巻かずに、そのまま甜麺醤をつけて酒肴にするのも悪くない。鴨肉の旨味は紹興酒と最高の組み合わせだと思う。

その昔、頻繁に香港に通っていたことがある。日本ではあまり見かけないガチョウのローストを食べることが楽しみだった。

正直、鴨とガチョウの違いなんか分らないが、甘めにローストされたガチョウの皮もまた世界遺産に認定したくなる美味しさだ。尖閣問題を忘れそうになるほどだ。クドいか。

有名店「ヨンキー」には必ず出かけた。旅行者が機内持ち込みでお土産にするほどウマいことから「フライング・グース」という俗称まであるほどだ。ご多分にもれず、私も帰国便にはたいていこの店のローストを持ち込んでいた。

ああ、久しぶりに食べたい。

東京であの手のローストのウマい店があったら是非教えて欲しい。

さて、ダックに話を戻す。

先日、面白い料理に出会った。北京ダックならぬ「四川ダック」だ。そんな料理が存在するとは知らなかったが、また食べに行きたいと思わせるほどウマかった。


神楽坂にある「芝蘭」という店の名物料理だ。取り分けてしまった後の画像なので雰囲気が伝わらないが、しっかり味付けされた皮付き肉が複雑な味わいのスープに浮かんでいる。

せっかくパリッと焼き上がっていたはずの皮がスープでしなびちゃったら意味がないなあと思いながら食べてみた。

予想に反して、スープを吸った皮が絶品だった。似ている料理がないというか、他に例えようのない不思議な味わいだったのだが、物凄く深みのあるスープと鴨肉が絶妙にマッチしていくらでも食べられそうな味だった。

「知らなかった味」、「予想外のウマさ」にこの年になって出会えると無性に嬉しい。おまけに“鳥方面”のスターである鴨を使った料理だったから必然的に私はご機嫌麗しくなった。

憎しみ合っている人同士が、こういう料理を共に食べれば、すぐに仲良しになれそうな味だった。今度、鬼嫁と来てみようか。うーん、、あまりのブラックジョークにわれながらビックリだ。

バカですいません。

この店、本格的四川料理の店だから、麻婆豆腐とかのその他の料理はかなり辛い。仲良しの人が仲たがいしたくなるほど戦闘的な辛さだったりする。仲たがいしている同士で来たら殴り合いになりそうだ。今度、鬼嫁と来てみようか。うーん、惨殺されそうだからやめよう。

アホですいません。

なんか良く分からないオチになってしまった。

2012年8月6日月曜日

不倫とか浮気とか山路さんとか

お節介で煩わしいルールが最近どうも気になる。暑いからだろうか。いや、やっぱり一昔前より妙に鬱陶しい制約とか規制が増えたような気がする。

ゴミの分別のあの異常なまでの細かさは何なんだろう。個人情報という錦の御旗によって、なんでもかんでもオモテに出てこない風潮は何なんだろう。女性専用車両だけでなく男性専用車両を作らないのは何でだろう。誰もいない場所まで路上禁煙が徹底されているのはナゼだろう。

挙げればきりがない。

アイドリングはダメだ、タクシーの後部座席でもシートベルトをしろ、等々、どんな場面でもがんじがらめだ。

おまけに浮気はするな、不倫はダメだなんて言われる(一般的にはダメなんだろう!?)。いちいち息苦しくってしょうがない。

大阪の橋下市長が何年も前の浮気でメディアから叩かれたのは記憶に新しい。公人になる前の話だし、その女性とトラブルになったわけでもないみたいだし、何を騒いでいるのかと不思議だった。

正直私は、橋下さんは好きではない。でも、あの騒動だけはバカらしくて同情したくなった。

浮気だ不倫だといっても、刑事罰が問われるわけではない。姦通罪が存在した頃は、立派な法律違反だったわけだが、そんな罪状がない以上、国家としてそれを刑事事件に値しないと認識しているわけだ。ちょっと強引な論法でスイマセン・・・。

オトナの了解事とか、大らかさとか、そういう概念がすべて悪いことかのような空気が世の中をつまらなくしている元凶だろう。

かつてフランスの大統領が婚外恋愛が発覚した際に記者に対して「それがどうした?」と聞き返した。大したもんだ。確かに大統領の職務とは無関係だろう。

かつての日本にも傑物はいた。戦後活躍した政治家・三木武吉は、演説会で対立候補から「メカケが4人いる」と非難された際に、「4人ではなく5人だ」と訂正した上で、「みんな年を取ったので、捨て去るような不人情なことは出来ないから養っている」と応戦して喝采を浴びたそうだ。

うーん、実に潔い。

話を戻す。そもそも人間として大切なことは「男は男、女は女」という基本を忘れないことである。何を当たり前なことを言ってるんだとお叱りを受けそうだが、この考え方はとても大事だ。

結婚した途端に男は男でなくなり、女が女でなくなる感覚が強すぎはしないか。まったくの思いつきだが、その遠因は、上っツラだけのキリスト教的結婚スタイルが導入されたことだと私は睨んでいる。

犬じゃあるまいし、あんなウソっぽい指輪をハメさせられて喜ぶようになってから、極端に窮屈な道徳観が絶対視されるようになったのではないだろうか。

夫である前に男、母である以前に女である。それが普通なのに実際は逆転している。

結婚という形を選んだことで、たかだか20歳代とか30代前半で男や女でなくなる。ゲゲゲって感じだ。人間としてまるで不自然な話。そんなものを貫き通そうというほうが無理がある。

もちろん、サカリのついた動物みたいに、闇雲に異性を追っかけろという話ではない。たとえ、夫婦同士であろうと、結婚したからといって、単なる「父ちゃんカアちゃん」にならずに、男と女であり続ける努力が必要だ。

たまたま家庭の外に好きな人が出来てしまったからといって、人の道に外れているとは思わない。煩悩深き人間だからこそそういうことも起こりうる。単純に人間臭いだけの話。

かつて石田純一が「不倫は文化だ」と語って大バッシングを受けた。あれも「不倫から芸術や文化が生まれることもある」という話が曲解されたわけで、彼の言いたかったことは一般論としては正しい。

あの騒動も、しょせんは男や女を捨ててしまった人達が、悔し紛れや妬みの発想でバッシングしたのだと思う。

そんなものは開き直りだというご指摘もあろう。その通りである。ただ、人間なんて自分の思ったことを貫くには開き直るしかないし、開き直らなければ何も進まない。

開き直ることも、これまた人間臭いことで、大いに結構だと思う。

大阪の橋下さんの件もそうだが、大衆はそんなにリーダーに対して聖人君子像を求めているのだろうか。決してそんなことはない。

子どもの世界ですら、クラスの人気者は決して「お勉強ちゃん」ではない。ガリ勉の石部金吉よりも、どこか危ないところもある人間臭いヤツが支持を集める。

そういう意味で、唐突だが、個人的には、野田さんよりも麻生太郎のほうがよほどマシだったと思っている。麻生さんの方がフツーにヤンチャなことをしていそうだし、人間臭い感じがある。

アチコチ話が飛んで恐縮だが、タレントの麻木久仁子ともう1人別な女優と二股騒動を巻き起こした「山路さん」を覚えているのだろうか。ナントカ通信社代表の「山路さん」だ。

あの人は今、女性週刊誌に人生相談のレギュラーコーナーを持っている。メディアからは散々女性の敵だと叩かれていたのに、「人生経験豊富なナイスミドル」みたいな位置付けで、世の主婦からの色恋の悩みなんかにマジメに回答している。

大衆の潜在意識の実相を思い知らされる。結局は、「山路さん」的なものを忌み嫌うのではなく、どこか面白味のある人物として認識しているのだろう。

世の中みんな「山路さん」になってしまったら、それはそれでマズいのだろうが、もう少し「山路さん」的な空気は広まってもいいと思う。

「おもしろきこともなき世をおもしろく」。最近、このフレーズばかり頭に浮かぶ。

2012年8月3日金曜日

レトロな魅力

飲食店の問題点を舌鋒鋭く指摘するのはスマートなことではない。誉める分には問題ないが、ちょこっと食べた体験だけで悪口を書き殴ったりするのは反則だろう。

とか言いながら、ついつい文句を言いたくなるタイプの店がある。文句というか、背を向けたくなるタイプの店だ。

「寿司・うなぎ」とか「天ぷら・焼鳥」とか、同じ看板にジャンルの違う専門料理を謳っているタイプの店だ。

居酒屋とか食堂みたいな路線なら不自然ではないが、それっぽい専門店みたいな店構えで、「異種格闘技」みたいな看板を掲げていると、どうしても中途半端な仕事ぶりを想像してしまう。

以前、旅先で「カレー・寿司」と書かれている看板を見たことがある。遠目からは「カレー寿司」に見えたのでビビった記憶がある。

お店の都合や事情もあるだろうから、看板料理に何を掲げようと他人がとやかく言うことではない。そんなことは百も承知だが、「カレー・寿司」の店はちょっと不気味だ。

まあ、あくまで個人的な思い込みである。こんなことを書いていながら、以前「焼鳥・寿司」の両方を看板に掲げる店にハマって何度か通ったことがある。

都内西部の某繁華街にあった店なのだが、門構えも立派で、キャパも広め、地元の人には結構知られた店だった。驚くべきことに寿司も焼鳥もマトモでウマかった。それぞれ、ちゃんとした職人が仕事をしている正統な感じ。まさに目からウロコだった。

さて、本題に入ろう。四の五の書いてみたが、どっちつかずの店よりも「専門店の矜持」みたいな雰囲気はやはり客としても有難い感じがする。

土用の丑の日に、普段はウナギを扱わないような日本料理店が、ここぞとばかりにウナギの看板を出したりするのは何となく好きではない。

ウナギが食べたければ、ウナギ一筋に精魂込めている店のほうに足を運びたくなる。



秋葉原に程近い「明神下神田川」にウナギを食べに行った際に注文した「うざく」と「う巻き」だ。ウナギの名店といわれる店の多くが、ウナギ以外にサイドメニューが無いから不便で仕方がない。用意されていても、せいぜいこの二つぐらいだ。

あくまで鰻重がやってくるまでの露払いのような役割だ。チビチビ酒を飲む際のお供である。

この店は、昔ながらの古い家屋が特徴だ。昭和レトロというか、ただの遺物というか、要は古めかしさがウリだ。悪くない。

ジャズを流すようなモダンなウナギ屋には興味がない私としては、こういう風情の中で人生を噛みしめながらウナギを味わうのが大好きだ。




「古い建物がウリの専門店」といえば、江東区森下にある「みの家」も独特だ。先日、10年ぶりぐらいに訪ねたのだが、10年程度では以前来た時とまったく雰囲気が変わっていなかった。

タイムスリップしたような感じだ。いや、時間が昭和40年代ぐらいで止まったままになっている雰囲気。

この店は馬肉専門店。桜鍋の老舗だ。下足番がいて、昔ながらの設えの広間で、あぐらをかきながら鍋を突つくスタイル。

気取りとは無縁の店だが、いまどきの外食事情の中では決して安い店ではない。若者が気軽に満腹になるのは難しい価格設定だろう。でも特製味噌と甘い割り下で食べる馬肉は問答無用にウマい。

カロリーは牛や豚よりも遙かに低く、おまけに精力アップにもってこいなのだから、夏バテで疲れた大人こそ通うべき店だろう。

タテガミの刺身をつまみにキュッといっぱい引っかけて、ぐつぐつ煮える鍋にさっと肉を通し、まだピンク色ぐらいの加減で生卵にべちょっとつけてハフハフモグモグする時間はこの上なく幸せだ。

格好良く気取った店が主流の東京で、ある意味、どっしりとホンモノっぽい東京の雰囲気が味わえる店だ。

さきほど書いた「明神下神田川」にしても「みの家」にしても、古めかしい建物自体をウリにして、昔から同じ仕事を粛々と続けていることがお店のウリになっている。実に羨ましい。

実は私の職場も半世紀以上の歴史を持つ自社ビルである。近隣ではウチの会社はレトロビルとか言われたりする。

仕事も専門分野を長年極めているのだが、飲食店とは違うから「建物が古い」、「同じ仕事を続けている」ということが、お客様の支持を集めることにはならない。「古めかしい会社」などという表現はちっともアドバンテージにはならない。

うーん、実に微妙だ。建物の古さが仕事上の武器になるはずもなく、地震の時にはビビるだけだ。困ったものだ。

おっといけない。話がそれてしまった。

まあいいか。どうせだから遺物みたいなレトロな建物の専門料理店を食べ歩くことを趣味にしようかと考えている。

2012年8月1日水曜日

初恋

NHKでやっていたドラマシリーズ「はつ恋」を今更ながら見てウルウルした。


6月、7月と毎週火曜の夜に放送されていた全8話のドラマだったのだが、まとめて録画してくれた友人のおかげで一気に見ることができた。

いやあ感激した。ストーリー自体は荒唐無稽なのだが、演出の力と俳優の演技力によって、どんどん引き込まれてしまった。

情感たっぷりだった。さすが国営放送だ。くだらないバラエティー番組やちんけなドラマばかりの昨今、久しぶりに丁寧に作り込まれた心を揺さぶられるドラマだった。

井原剛志と木村佳乃の組み合わせだ。派手さはないのだが、実に情感たっぷりに40代の男女の切なさを演じていた。木村佳乃の年下の旦那役の青木崇高という若い俳優も実に良かった。

とにもかくにも「切ない」。この一言だ。ドラマに求めるものは、楽しさか切なさのどちらかだろう。「心が切れるような思い」を意味する切なさを徹底的に追及したこのドラマは大人の心にうったえる出来映えだった。

8月にはBSで再放送も予定されているから、見過ごした人には是非おすすめしたい。

ドラマでは初恋のせいで、男も女も人生の歯車が大きく狂うわけだが、そんな強烈な初恋経験を持っている人って実際にいるのだろうか。

世の中では同窓会シンドロームなる言葉が飛び交っている。いっぱしの大人になってから同窓会で再会した男女がネンゴロになってしまうパターンだ。

そういうノリって後ろ向きな行動でカッチョ悪いし、感心しないというのが私の考えだ。まあ、私自身が男子校出身でそんな機会やチャンスが無いから半ばヤッカミでそう思っているだけかもしれない。

過去に見知っていた人とどうこうなってしまうパターンは、要するに一から面倒な段取りを踏まずに済むというお気軽感が特徴だろう。

色恋なんてものは、面倒なことに直面してナンボだと思うが、ファストフードみたいな手っ取り早い路線に触手が伸びてしまうのも分らなくはない。誰だって安直なほうを選びたくなる。

まあ、そう断定しちゃうと話が発展しないので、ちょっと見方を変えてみる。

昔の知り合いと再会して心が揺れ動くのは、格好良く言えば、無垢だった自分自身に出会えるからだろう。心の底から相手に惹かれるというよりも、単なる郷愁みたいな感覚だ。輝いて見える「美化された過去」に逃避したくなる心理が働くのだと思う。

郷愁という感覚は実に厄介だ。都合の悪い過去にはフタをして、懐かしく思い返したいことだけを美しく尊いものだと錯覚する。そこに純真だった頃の少年少女の幻を見てしまえば、いとも簡単にロマンスモードに切り替わる。

私の場合、過去に親しい関係だった異性と積極的に係わりたいとは思わない。一般的に女性より男性のほうが、過去の恋愛をひきずりやすいと言われているが、はたしてそうだろうか。

幼い思い出は幼いままに封印する方がマシだと思う。幼い時代の交際相手に10年、20年経ってから再開してシタリ顔で人生なんかを得意になって語られても嬉しくない。

私自身、年齢相応に過去に親しく付き合った女性はいたが、今になって会いたいと思う人はほとんどいない。社会人になりかけの頃にお付き合いした“事実上の”初恋相手ぐらいだ。

その人とは、関係を解消してから10年ほど経った時に、ひょんなことで再会したことがある。30分ほどの消化不良気味の再会だった。きっとその時の物足りない印象が強いせいで、今でもそんな気持ちになるだけなんだと思う。

そもそも初恋といっても単純ではない。「初めて感じた恋心」なのか、「初めて気が狂うほど没頭した色恋」なのか、定義付け次第でずいぶん印象は変わる。

前者は近所の幼なじみとか幼稚園の先生だったりする。後者は大人になってからの恋愛体験だろう。ある意味、「振り返ってみた時に、もっとも強烈で切ない思い出」が「事実上の初恋」だと思う。

私の場合も「初めて感じた恋心」は、小学校3年生ぐらいの時に久しぶりに会った幼稚園の先生だったと思う。もしくは、小学校5年生の時に通わされた塾にいた可愛いい女の子だったかもしれない。

小学校の時から男子校だったから、両方とも強く印象に残っている。

学生時代はちょろちょろと色気づいてヤイノヤイノと縦横無尽に?頑張っていたが、演歌の歌詞が浮かぶようなドロっとした色恋沙汰を経験したわけではない。

やはり、石川さゆりとか森進一とかテレサテンとかケーウンスクが熱唱するような切ない物語に身を置いた記憶は社会人になってからの色恋だろう。

子ども時代とか学生時代は、言ってみれば親のおかげで「生かされている」段階だ。社会人になれば一応自分で「生きている」状態になる。そんな自負が芽生えた頃の恋愛体験を私の場合は「初恋」と呼びたくなる。

あまり初々しくないが、そういう観点で思い返してみると、誰もが漠然と思い返す「初恋」も随分いろいろなバージョンがあるのではないか。

などと分ったようなことを書いているが、そんな感覚もしょせんは自分の年齢と共に変化していくのかもしれない。

60代、70代になった時には、初恋という言葉をどういうイメージで捉えている自分がいるのだろうか。実に興味深い。

まかり間違って80代になって正常に脳が働いていたとする。初恋に関して同年代のジジババと縁側でひなたぼっこしながら語り合う時には、「初恋ってえのは、やっぱし40代以降の色恋のことじゃな」とか「いやいや50を過ぎなきゃ恋の味なんて分るめえ」とかブツクサ言っているかもしれない。

その日のためにまだまだ枯れるわけにはいかない。