2012年9月28日金曜日

旅の魅力

旅に出たいな~。そんなことをいつも思っている。とかいいながら、今年も随分とアチコチに出かけてきた。我ながら自分のボヘミアン?ぶりが心配だ。

どうして旅に惹かれるのだろう。家に居場所がないからだろうか。いや、居心地の良い家があっても旅に出たくなる。1~2泊の短い時間でいいから、異空間に身を置きたくなる。

イマドキの若者は旅をしなくなったそうだ。実にもったいない。携帯とかゲームにお金を使ってしまうことだけが理由ではない。内向きでムダを避ける考え方も理由だ。確かに旅する時間は、旅に興味がない人から見れば大いなるムダなのだろう。

でも、大いなるムダのように感じる時間から得る刺激は確実にその人の糧になると思う。

若い時の旅でしか味わえない感覚は確かにある。感受性が柔らかい頃にさまざまな刺激を受けることは大事だ。オッサン、オバサンになってからだって旅に出れば刺激を受けるのだから、若い人には無理してでも旅に出ることを強く勧めたい。

旅の形はさまざまだ。人によって快適さはそれぞれだが、できれば自分の足で目的地までの移動を楽しんだほうがいい。

大型観光バスで至れり尽くせりなんてパターンは足腰が弱ってきてからでも充分だ。

バックパッカーになれという話ではない。レンタカーでもタクシーでも自転車でも徒歩でもいい。公共交通機関をせっせと調べながら移動するのもいい。自分の意思、自分のペース、自分の判断で動くからこそ見えるモノすべてが刺激になる。

そもそも旅の醍醐味は目的地にあるわけではない。目的地に着くまでの間とか、寄り道した時の何気ない出来事とか、「周辺事情」にこそ面白味がある。旅の思い出なんて、実際には目的地そのものではないことのほうが多いだろう。

若い頃、物凄く行ってみたかったアメリカのグランドキャニオン。一般的なツアーではちょろっと眺めるだけだが、とてつもなく憧れていた場所だったから、何もない現地のロッジに泊まって夕焼けと朝焼けを体験することにした。

それはそれは素晴らしい景色を堪能できた。でも私の思い出はそれではない。ロスからだったか、往路のプロペラオンボロ飛行機があり得ないぐらい揺れまくって、瀕死の気持ち悪さを味わったことが一番の思い出だったりする。

はじめてカリブ海に出かけた時は、トランジットでマイアミに降り立ったものの、市街地の治安が悪化中と聞き、空港近くの安ホテルの濁ったプールサイドで森瑤子の短編を何冊も読んでいたことを思い出す。

はじめて行ったヨーロッパでのこと。扁桃腺が腫れまくってホテルでうなっていた。ドイツの田舎町だったのだが、もうろうとしながら眼を開けると、髪も髭も金髪モジャモジャの男が間近から私を見下ろしていた。

真剣にキリストがお迎えに来たのかと思ったのだが、ホテルが呼んでくれた医者だった。本気で慌てたせいですっかり元気になった楽しい思い出がある。

国内旅行にもいくつも思い出はある。大学生の時に一人で出かけた秘湯の温泉。深夜に露天風呂に浸かっていたら、若い女性二人組が入ってきて湯船の出入り口近くに陣取られた。恥ずかしくて出るに出られなくなって、ユデダコ兄さんに変身したこともある。

鄙びたホテルの宴会場でやっていた「世界の歌謡ショー」なる演し物を覗きに行ったら、他にほとんど客がおらずに、オカマちゃんフィリピンシンガーに肩を抱かれながら熱唱を聴かされたこともある。

活字にするとアホみたいな話ばかりだが、そんなテンヤワンヤが楽しい。もっと重い話とかダークな話とか、思い出は無数にあるのだが、アホ系の話だけを簡単に例示してみた。喜怒哀楽全ての要素が予想せずに飛び込んでくるのが旅だ。だから旅に出たくなるのだろう。エピソードを並べ立てていたら、三日三晩思い出を書き続けられるぐらいネタはある。

すべてが糧になって今の自分を形作っているのだと思う。

旅の魅力は、つまるところ、結果より過程なんだと思う。仕事の世界では、どんなに過程が素晴らしくても結果がすべてだ。勝つか負けるか、ふたつにひとつでしかない。

旅の面白さは、勝ち負けでもなければ、結果も関係ない点だ。無事に帰るべき場所に帰り着きさえすれば、あとはすべてが非日常的な刺激に満ちている。いわば「旅舞台」とでもいおうか。

シナリオのない舞台で好き勝手なことを繰り広げる。そんな旅をいつまでもしていきたい。

2012年9月26日水曜日

ハマショーだらけ

ハマショーを好きになって35年近くになる。あれは中学2年の時、ウチにやってきた家庭教師のススメで聴き始めた。家庭教師相手にハマショーを誉めていれば勉強の時間が少なくなるわけだから一生懸命聴いた。

30年以上前、浜田省吾なるミュージシャンの名を知っている人は皆無に等しい状態だった。アマノジャッキーな私としては、「誰も知らない歌手」という点も大いに気に入った。

その1年ぐらい後に、カップヌードルのCMソングのおかげで、ちょっと有名になった。既に知っていた私としては少し鼻が高いような変な気分だった。

いま、ハマショー好きな人々と知り合い、「いつからのファンか」というお決まりの話題になれば、この「カップヌードル以前か否か」がひとつのポイントになる。

「カップヌードル以前派」である私は、こんなくだらないことで今も鼻が高いような変な気分を味わっている。

中学、高校と聞き進むうちに、フォーク、ニューミュージック系だったハマショーの世界は、ロック色、反骨色が強まっていった。

いつの間にか有名になり、時にはお笑い番組でイジられるぐらいの存在になっていった。(この抱腹絶倒の動画は私が一番好きな動画かもしれない)。

http://www.youtube.com/watch?v=SG0QVLCBhzo

こっちはだんだん大人になって、世の中は好景気に沸き始め、反骨よりも繁栄の中にいたかった私としては、バブルの頃あたりには、隠れキリシタンのようにハマショー好きをちょこっと内緒にしていた時もある。

その後、ハマショーもどんどん年寄りになり、反骨的な世界より大人の達観を歌うようになった。私も「隠れキリシタン」を脱皮し、昔のように良く聴くようになった。先日のオヤジバンドライブでも2曲選んだ。

さてさて、今日、こんな話を書き始めたのは、「ハマショー縛りのカラオケ大会」に参加したことを書きたかったからだ。

ハマショー好きが4人集まって、ただただハマショーだけを歌い続ける宴だ。

昔からの友人の他に、初対面の人が2名。普通なら少し構えちゃったりするのだが、なんてったってハマショーだ。すぐ打ち解けた。

場所は渋谷の高級カラオケボックス。8品だか9品だかの料理が勝手に順々に運ばれてくるし、アルコールは飲み放題。歌うことに専念するだけだ。


選曲するリモコンの「履歴」画像だ。当然、ハマショーだらけだ。実に芸術的だ。

我々の情熱と怒りは、このリモコンにも向けられる。「歌手別」で選曲しようと「は行」を選ぶと、候補として真っ先に出てくるのは「浜崎あゆみ」だという世の中の現実に噛みついたりしていた。

ハマショーは「パヒューム」より下の4番目か5番目の表示だ。実に大きな問題である。ということで延々とハマショーばかりの選曲を続ける。

宴の後半では、リモコンも根負けしたようで、いつの間にか「は行」の候補のなかでハマショーは2位に躍進することになった

40代、50代の大人が必死になってそんなことをしていた。

ハマショー縛りカラオケに参加してみた感想は、ただただ疲れたという一点だ。もちろん、物凄く楽しいし、大騒ぎできて最高だった。ただし、息を抜く暇がないのが難点だ。

静かな曲だろうと大昔の歌だろうと知っているわけで、原曲のマネをしてバックコーラスしたり、合いの手入れたり、忙しいこと甚だしい。

曲の合間はもちろん、歌っている最中だろうと、やれこの曲は80年代の終わりだったよね、とか、何枚目のアルバムに入っていた曲だっけ、とか話題は尽きない。

メジャーすぎる曲を選ぶと非難の声が飛んだりする。なんともコアな、なんともオタクな、なんとも奇々怪々な楽しい時間だった。

この壮絶な宴は、今後も定例化する見込みだ。結構大変なことだ。頑張らねばならない。

2012年9月24日月曜日

男と女

今日は思わせぶりなタイトルだが、特別改まった話を書こうというわけではない。女性は強い、男性は弱い。この普遍的な話をなんとなくブツクサと書きたくなった。

昭和の名曲だとか演歌の世界を見渡してみると、忍ぶ女性、イジらしい女性、薄幸な女性、けなげな女性が無尽蔵に登場する。


    ♪あなた死んでもいいですか

     胸がしんしん泣いてます

     窓にうつして寝化粧を

     しても心は晴れません

「北の宿から」 都はるみ




   ♪心が忘れた あのひとも

    膝が重さを覚えてる

    長い月日の膝まくら

    煙草プカリとふかしてた

    にくい 恋しい にくい 恋しい

    めぐりめぐって今は恋しい

「雨の慕情」  八代亜紀



    ♪口を開けば別れると

     刺さったまんまの割れ硝子

     ふたりでいたって寒いけど

     嘘でも抱かれりゃあたたかい

         ~~~

     恨んでも恨んでも からだうらはら

     あなた・・・山が燃える

「天城越え」  石川さゆり



数え上げたらきりがない。こんな感じの歌を聞けば男なら誰もがキュンとする。日本女性の素晴らしさが凝縮されているといっても過言ではない。

そうはいっても、残念ながらこれらは全部男の妄想であり願望だろう。その証拠に、しみじみシッポリ系の演歌の歌詞は、ほぼ例外なく男が作詞している。

男が勝手に描き出す「こうあって欲しい女性」を妄想している歌である。実に悔しい!

実際の女性はもっと現実的だ。叶わぬ恋に身をやつして、京都大原三千院あたりを歩いているヤツは間違いなくいない。

好いた男に会えないならば、割り切ってヨガスクールに通ったり、グランドハイアットでベチャクチャとランチを食っていたりする。

着てはもらえぬセーターを寒さこらえて編むこともない。ザックリした市販品のセーターのラベルをハサミでカットして、「これ、私が編んだんです~」とか平気でウソをついたりする。

バレンタインのチョコだって同じだ。手作りとか言いながら市販品をそれっぽい容器に入れ替える悪魔の所業をこれまで何千例も見てきた。

だいたい、平均寿命が10歳近く男よりも長いし、自分の身体から人間を産み落とすという必殺技を持つ生き物が、しっぽりしっとりと叶わぬ恋などにかまけているはずがない。頭の中は強くたくましく生きていくことで占められている。

あんまり力説していると私の身に何があったのかと勘ぐられそうだが、別に何も起きてはいない。強いていえば、ネット動画でカマキリの交尾シーンを見てしまったから、日頃の憂いが強まっただけだ。

それにしてもナゼだろう。必死に振り向いてもらおうとエンヤコーラと努力を続け、オレが守ってやるぜ~とか言いながら、心の中でアッカンベーをされる。深遠なる男の辛い世界が古今東西繰り返されている。

うーん、こんなことを一生懸命書いて一体何を主張したいのだろうか。自分でも分らなくなってきた。

何だかんだいって、時々こんな風に自分に言い聞かせないと、ニタニタデレデレとだらしなく女性を追いかけるばかりだから、本能的にブレーキをかけているのだろうか。

だいぶ前に読んだ筒井康隆の短編が面白かった。内閣から何からすべてを女性が牛耳る社会を描いた作品だったのだが、嫉妬や妬みばかりで政策や外交が短絡的に決められ、ぐっちゃぐちゃになっちゃうというストーリー。

男は結局、そうやって「女なんかじゃダメだぜ」と言いたい。いわば「男のほうがエラいんだからな」と思い込みたいのだろう。

そのくせ、気に入った女性が現われればせっせと貢いだり、甘い言葉をささやいたりして振り向いてもらおうと躍起になる。

バカ丸出しである。

女性は女性で、男のそういうバカを熟知した上で、自分達の覇権をしっかりと強固にしていく。おそるべしである。

無理して張り合ったりせずに、素直に軍門に下ったほうが賢明なのかもしれない。

男の哀れさ、切なさが身に染みる秋の頃である。鈴虫の音色がなぜか哀しく聞こえる。


2012年9月21日金曜日

最強のふたり

先日、時間があったのでふらっと映画を見に行った。さほど期待もせずに選んだのだが、最高に面白かった。大げさに言えば今まで見た映画の中でもトップレベルだと思う。

その映画は「最強のふたり」。フランス映画なのだが、アンニュイな?感じではなく、単純明快に楽しくホロリとさせる作品だった。

フランスでは国民の3人に1人が見た程の大ヒットを記録したそうで、ハリウッドもリメイクを決めたとか。

簡単にあらすじを紹介する。何かのサイトからパクってきた文章です。


●事故で全身麻痺となり車いす生活を送る富豪フィリップは、介護士面接にやってきて、開口一番「不採用のサインをくれ」と切りだした場違いな黒人青年ドリス(オマール・シー)に興味を持った。

他人の同情にウンザリしていたフィリップは、不採用の証明書でもらえる失業手当が目当てというフザケた態度のドリスを採用する。そこから始まった異文化ふたりのセット生活。

クラシックとソウル、高級スーツとスウェット、文学的な会話と下ネタ――。全てにわたりふたりの世界は衝突し続けるが、やがて互いを受け入れ、とんでもなくユーモアに富んだ友情が生まれ始める。その友情は周りの人々、さらには彼ら自身の運命をも変えていく。

背負った障害はブラックジョークで笑いとばし、それまでは思いつきもしなかった、新しい挑戦に満ちた日々に繰り出して行くふたり・・・・。


というストーリーだ。



フランス映画だし、出てくる俳優の顔も誰も知らない。主演の二人はもちろん、脇役陣も実にいい味を出していた。階級差が厳然と存在するフランス社会の風刺もたっぷりで見応え抜群だった。

実話をもとにしたストーリーだとか。なかなか考えさせられる。

人との関わり、人との相性、ちょっとした接点が、凝り固まっていた思い込みや感性をも大きく変えることがあるのだなあと感心した。

物凄く気分が良くなる映画なので、わざわざ見る価値はあると思う。

最近、CG全盛でドンパチピカドンガッチャガチャみたいな映画が多いが、個人的にはあまり騒々しい映画は好みではない。

じっくり、かつ、さほど重くない範囲で人間模様を描いたような映画が好きだ。漫画でいえば「黄昏流星群」とか「人間交差点」とか、その手の余韻系?に惹かれる。例えが変でスイマセン。

昨年公開された岸谷吾郎主演の「夜明けの街で」という作品も、そんな感じだろうと思って見たのだが、とんでもなく恐ろしい人間の葛藤を描いていた。今だにふと思い出しちゃうぐらい怖さのインパクトが強かった。

話がそれた。

映画の話を書いては見たが、映画鑑賞が趣味ですと言えるほどのレベルではない。もっと無理して時間を作ってでも見に行くべきだが、駄作にあたるとその後しばらくは映画熱が冷めてしまう。

読書と同じで良質な映画をたくさん見れば、何気なく自分の糧になるはずだから、もっと意識して映画館通いをしたいと思う。

私の場合、映画といえば「寅さん」である。ここでドン引きしてはいけない。1作1作を見れば、お気楽大衆娯楽作品ではあるが、あれだけ長期間にわたって醸成された独自の世界観は、単なる娯楽作品を超えた「宇宙」を持っている。

大げさでスイマセン。

48作すべて見ることで、登場人物の歴史も刻まれていく。小さな子どもだった寅の甥っ子の「満男」も思春期、青年期を迎え社会の厄介さを身をもって知ることになるし、「さくら」のダンナである「博」にしても、血気盛んな職人から経営に悩む管理職になる過程では独立騒動も起したり、いろいろ大変だ。

変わらないのは「寅次郎」だけである。ここがミソだ。あっちフラフラこっちフラフラ、悩み多きふりもしてはいるものの、結局はフーテン暮らし。

観客はそれぞれの立場で映画に感情移入する。オイちゃんだったり、おばちゃんだったり、さくらやタコ社長だったり、それぞれの役柄に自分を当てはめながら笑ったり泣いたりする。

もちろん、戦後の社会を真面目に生きてきた日本人だから「寅」に自分を置き換えて感情移入する人はいない。みんなが「寅」を困った身内だと思っている。でも愛している。

さすがに勝手気ままな生き方を誉めるわけにも行かないし、叱責する側という立ち位置は変えられない。でも青臭い「満男」は純粋に寅オジサンに憧れを抱いたりする。

結局、誰もが本音の部分では、寅みたいに勝手気ままに生きて、出来るものならフーテン生活だってしてみたいわけだ。

私が寅さんシリーズにはまったのは30歳を過ぎてからだ。きっと、フーテン暮らしへの漠たる憧れが芽生え始めた頃なのだろう。

柴又の寅さん記念館に行った時は、出題された寅さんクイズは全問正解だったし、渥美清さんが亡くなった頃に発行された関連出版物も山ほど購入した。

これを書いているだけでまた初期寅さんあたりが見たくなってきた。

ちなみに、渥美清さんが亡くなった時に政府から国民栄誉賞が贈られた。至極当然である。でもその裏には隠れたエピソードもあった。

まだ渥美さんが元気だった頃、いつだかの政権が国民の人気取りのために国民栄誉賞の贈呈を検討したことがあったそうだ。

その時は結局見送られたのだが、その理由は「国民にフーテン暮らしを奨励することになる」というものだったらしい。

政治家とか役人の頭の固さというか、幼稚さ、おバカぶりには心底あきれる話だ。

国民の息抜きに大いに貢献した寅さんをそういう見方で評価していたとは情けない話である。

なんか話がとっちらかってしまった。

2012年9月19日水曜日

真に受けます

このブログでも何度も書いてきたオヤジバンドのライブが無事終了した。思った以上に楽しい時間だった。来ていただいた皆様にこの場を借りて心から御礼を申しあげます!

会場となったのは南青山のライブハウス「MANDALA」。当日まで行ったことがなかったので、ノコノコ本番の日に出かけていって、その本格的な感じにたじろいだ。

「やっべ~な~」。気持ちを表わすならこの一言。出番の3時間半前に会場入りしたのだが、その時点で既に当日出演する他のバンドがリハーサル中。これがプロレベルだし、迫力があるし、ビビった。本気で家に帰りたくなった。

実際の出番になったら、さも落ち着いたフリをして軽口MCに励んだ私だが、実は、会場入りしてから本番までの3時間半は、緊張でヘロヘロ、ボロボロだった。

変な汗は出るし、身体中は火照るし、3時間の間に胃薬は2回も飲むし、一本1000円のユンケルを2本も飲んだ。

出番まであと40分ぐらいになった時には、控え室で芋焼酎をクイクイ飲みはじめた。20分ぐらいで少しポワンとした感じになったので、あれはあれで大事な準備だったと思う。

本番前のリハーサルでは、音合わせのあと、2曲しか演奏できなかったのだが、ここ3ヶ月「血みどろの練習」に寝食を忘れて取り組んだ(大ウソです)ので、あとはオジサン達持ち前の図々しさで乗り切ろうと腹をくくった。

そして、出番がやってきた。この時点で疲労困憊だったのだが、それをおくびにも出さず、余裕があるフリをしながら小一時間のステージをこなした。友人、知人の声援ってあんなに心強いものだとは思わなかった。感謝感謝である。

日常生活の中で、あそこまで緊張したり、白くなったり、身体から変な汁(汗ではない。汁だ)が出てくる感覚を味わうことはない。結婚式の主賓のスピーチだろうが、大勢の人を前にした講演会の講師だろうが、美女との初めてのベッドインだろうが、この日の緊張に比べれば鼻歌モノだ。

でも物凄く楽しかった。極端に音程を外すこともなく、喋りのほうもそこそこ好反応をもらったので、バンド結成後初めてのライブにしては上出来だったと思う。寿命はチョット縮んだが・・・。

アコースティックギター2本とボーカルだけというシンプルな構成にしては、いろんなアレンジが出来たと思う。

練習の時は何度も失敗した部分を本番ではスッとこなせたり、練習でスムーズだった箇所を本番でトチったり、やはりステージには「魔物」がいるみたいだ。

でも、総じて、この日の魔物は我々に味方してくれたようだ。はじめて聞いてくださった方々には、そこそこ余裕をもって演奏していたように見えたのではなかろうか。

そのあたりが「オヤジバンドの底力」である。細かく言えば「バンドの底力」ではない。あくまで「オヤジの底力」だ。

ギター巧者のリーダーが泰然自若みたいな雰囲気を醸し出しながら、ド緊張していたのを私は見逃さなかったし、アルペジオを奏でるバンマスの指が硬くなって、ソロ歌唱の際には、攻めるべき箇所を守りに入りながら歌い流したことも知っている。

私自身、声の震えを隠すように歌い方を工夫した。そんなもんだ。

心のザワザワを上手に封印しながらシレっとやり過ごす。まさに年の功だ。

終演後、皆様からさまざまにお誉めの言葉をいただいた。メールでも有難いお言葉をちょうだいした。

面と向かって「ヘタだったなあ」、「大失敗だったなあ」、「気持ち悪かったぜ~」とか言うような残酷な友人・知人はいないから、多分に社交辞令ではある。お誉めの言葉を真に受けるわけにはいかない。

いや、今回ばかりは真に受けることにした。図々しく人様からお金を取ってバンド活動をお見せした以上、継続していくためには、誉められた部分を真に受けて調子に乗っていくしかない。

「グッときた」、「気持ちよかった」、「カッコよかった」、「輝いていた」とか、「船越エーイチローが歌ってた」、「漫談かと思った」とかさまざな評価をいただいた。

ここでは恥ずかしくて書けないような過分なお言葉もいただいたし、「次回も必ず来る」という多くの声は物凄く励みになった。

真に受けます。

ちなみに、ライブ翌日の朝、体重計に載ったら前の日よりも2、5キロも体重が減っていた。打ち上げや二次会でしっかり飲んだのに減量になっていた。よほど変な汁が出たのだろう。実に健康的だ。

調子に乗って、アコギバンドは今後も継続することになった。今後もオジサン3人組は、モチベーション維持のために、傷をなめ合い、お互い大げさにおだて合いながら精進することにします。

2012年9月14日金曜日

エエ格好しい

子どもの頃の外食といえば、西洋料理か中華料理だった。大人数でテーブルを囲みワイワイと楽しむものだった。

いまでこそ、飲み屋とレストランが混ざったような店は多いが、昭和のあの頃は飲み屋は飲み屋、食べ物屋は食べ物屋として明確に別れていたような記憶がある。

家長であった祖父が肉好きだったせいで、ステーキ屋みたいな店には頻繁に連れて行ってもらったが、お寿司屋さんとか割烹みたいな和系の店には縁がなかった。

その反動もあってか、大人になるにつれ、お寿司屋さんのカウンターとか、小料理屋のカウンターとか、こぢんまりとシッポリ過ごせる店に憧れた。

ドラマ「相棒」で右京さんの別れた女房がやっている小料理屋なんて、テレビで見るたびに憧れる。なかなかあの手の風情のある店は存在しない。

30歳ぐらいの頃、「カウンターでシッポリ過ごせる店探検」を本格的に始めた。これまで随分あちこちを覗いてきた。お寿司屋さんに限らず、おでん、焼鳥、割烹、小料理など、ジャンルを問わずに訪ねてきた。

基本は大衆的すぎずに、一人でも居心地が良いこと。これが中々難しい。ちょっと小洒落た店は椅子の作りから「おひとりさま」を想定していない。極端な場合、ベンチシートみたいになっていたりする。

大衆的すぎる店にも問題はある。居酒屋評論家?の吉田類とか、なぎら健壱が通いそうな店には独特の魅力があるが、「しっぽり」とは程遠い。隣のオヤジと原監督の采配を語り合ったりして結構忙しい。

陽気なお客さんばかりならともかく、明日の朝には首吊りそうなオヤジがタメ息をついていたりすると「気」を吸いとられそうになる。

高級すぎても窮屈だが、適度な上質感が漂う店であって欲しい。

そんなことを書こうと思って書き始めたのではない。若かった頃の苦労?を思い出したのが今日のテーマのきっかけだ。

苦労といっても笑い話みたいなものだ。小料理のカウンターで、いっぱしの顔して座ったものの、基本的な知識が欠如していて困ったことは数え切れない。

メニューなど無い店で「ホヤが入りました」とか「コノワタお好きですか」とか「えびしんじょ出来ましたけど」とか言われて苦悩することが多かった。

洋食モノとか子どもっぽいメニューばかり好んで食べて生きてきたから、それらの名前を言われてもそれが何なのかサッパリ分からなかった。

「ええ、まあ」とかわけの分かんない返答を繰り返し、出てきたものを口にしてウゲっと思ってもウマそうに食べたりして、正しい大人の姿を目指した。

だいたい、食べ物の好き嫌いが人一倍激しく、どう転んでも偏食太郎なので、いろいろ出てくる食べ物の半分以上がウマいと思えない。

菜の花和えだの、おひたしだの、芋の煮っ転がしとか、さすがに今ではウマイマズイぐらいは分るが、当時は味覚がお子ちゃまだったから大変だった。

野菜方面は生まれつき忌み嫌っていたから、そんなものに身銭を切って過ごす時間は、一種の修行みたいな感じだった。

「それ、うまいでしょう。いまが季節ですからねえ」とか、渋い声の大将に言われると、何も知らないクセに「もうそんな季節ですねえ」とか、適当に返事したり、さもウマそうにうなずいたり、まるで喜劇だった。

切り身の魚ばかり食べていたから、丸ごと出てくる魚料理にも苦労した。季節によっては、どこの店に行ってもサンマの塩焼きを勧められた。

実際にウマいからそれ自体は構わないのだが、いっぱしの大人ぶって座っている以上、綺麗に平らげないと格好悪い。毎回、毎回、血のにじむような?努力で食べ続けた。

渋くて迫力のある大将の目の前に座ってしまった日には、小骨も平気な顔でがんがん食べた。口の中にぐさぐさ突き刺さる痛みをこらえて、心底満足そうに「もう秋の風ですな~」とか言って頑張った。

いつのまにか、サンマの塩焼きを上手に食べられるようになった。見栄っ張り、エエ格好しいだけで精進を重ねたようなものだ。

ある日、初めて入った店で「お客さん、魚が本当にお好きなんですね。そんなに綺麗に食べる人は珍しいですよ」と言われた。

泣きたくなるほど嬉しかった。大人になった日はいつか?と尋ねられたら私はあの日を選ぶ。

会話するタイミング、間の取り方、ペース配分。活字にすると大げさだが、酒席には酒席にあった時間の過ごし方がある。もちろん、正解なんてない。それでもその人なりのスマートさや粋な感じを意識することは大事だろう。大人のたしなみだ。

私自身、決してお行儀良く飲み食いするタイプではない。それでも、若い頃に背伸びして、ひとりポツンと恥をかいたりして自分なりのパターンを作ってきたのだろう。

スマートに、粋に、風のように飲み歩きたいのだが、なかなか難しい。一生かけて精進しないとならない課題だ。ちょっと大げさか。

2012年9月12日水曜日

ライブ間近

いよいよアコースティックバンド、略してアコギバンドのライブが間近に迫ってきた。

血のにじむような努力と汗の涙と怒号飛び交う猛練習を経て(大ウソです)、なんとか形が整ってきた。と思う。

意気込んで私が作詞したオリジナル曲は、諸々の都合でお蔵入りとなってしまった。多分、来年大晦日の紅白で発表することになりそうだ。

演奏するのは7~8曲。平成の曲は1曲だけで残りはすべて昭和だ。当時のニューミュージックというか、フォークというか、そんな感じの曲や、歌謡曲も取り入れた。アコギで奏でると結構格好良くアレンジされるから面白い。

演奏は卓越した二人の技能のおかげで問題ない(何気なくプレッシャーをかけているわけだが…)。あとは私がちゃんと歌えるか、真っ白にならないかという心配だけだ。

先日、初めてスタジオ練習に行った。アンプを通したアコギの音、マイクを通したボーカルの音との調整が目的だ。

などと偉そうに書いてみたが、生音とは違う感覚に多少戸惑った。やはりカラオケとは異質な世界だ。当たり前か。

素人バンドだから持ち時間すべてをジャンジャカ演奏するほどレパートリーの幅が広いわけではない。必然的に曲の合間に適度に喋らないとなるまい。

そのあたりもそこそこ考えないといけない。なかなか厄介だ。

ここ3ヶ月ほど、何度も集って練習してきた。率直に言って終わってしまうのが残念だ。ライブをやりたいというより、定期的に集まってジャカジャカやって、一喜一憂して、反省会と称して飲んでクダまいた時間が終わってしまうのが残念無念である。

世の中に無数にあるオヤジバンドは、きっとこの感覚が楽しくて全国的に増殖しているのだろう。

大人の男が友人達と酒を飲む場合、たいていは昔話か難しい話か、不健康自慢あたりが話題の中心だ。バンド練習の後の酒は、本番当日へ向けた課題に熱くなったり、楽曲をネタにしたアホみたいな笑い話だったり、なかなか楽しい。それこそライブ感がある。

10年ぐらい前まで、割と真面目に草野球に精を出していたのだが、あの頃の感覚と似ている。炎天下でボールを追うのは終わったあとのビールのためだった。

週末の昼間に大汗かいて、その後にグビグビ飲んでいた時間が草野球の醍醐味だった。

東京ドームでも試合をしたことがあるが、深夜というか明け方の低料金枠で借りたので、終わった後の飲み会が成り立たずに面白くなかった。

やはり、夏の真っ昼間の河川敷が最高だった。いつも通った蕎麦屋で生ビールとカツ煮(カツ丼のご飯抜き)で反省会をするのが無性に楽しかった。

ある時期は、旧友達とカヌーを趣味にしようと企んだこともあった。何人かが組み立て式のカヌーを購入し、教室まで通ったりした。何度も出かけたカヌー遊びも、結局は河原とか湖畔でのバーベキューとビールが主目的になった。

オトナの趣味って結局、その後の「反省会」が楽しみの多くを占めるのかもしれない。

子どもの頃の部活の連帯感みたいな感覚にアルコールがトッピングされるわけだから楽しくないはずがない。

さて、バンドの話だ。つくづく、誘われた時に「いえいえ、オイラなんて」とか「滅相もねえ」とか、もっともらしくイヤがったり、遠慮しなくて良かったと思う。

図々しく「面白そうだね、やるやる」とか言って子どもみたいに手を挙げた自分のバカっぽさに一時は頭を抱えたくなったが、なかなか得難い経験が出来た。

日々の生活とはまるで関係のない事柄に没頭する時間は想像以上に精神衛生面でプラスの効果を発揮する。

なれない音楽活動?に精を出した時間はとても愛しい時間だった。ギターの二人から退場宣告を受けずに済むなら続けていきたいものだ。

2012年9月10日月曜日

日本的なもの

いつまでも若造気分の私だが、世の中の人口分布においては、どう逆立ちしても若者ではない。

10代、20代の頃の話が、もう四半世紀以上前だったりするわけだから、見る人が見ればいっぱしの長老だ。

30年ぐらい前、初期青春時代とでも言おうか、高校生ぐらいでイキガっていた頃、格好いいものといえば、「アメリカ的なもの」だった。

ヨーロッパよりアメリカ、身に付けるものや食べるもの、聴いていた音楽、見ていた映画、追いかけたい流行すべてがアメリカ追随だった感じだ。

アメリカによる戦後ニッポンへの洗脳の凄さを今更ながら痛感する。「日本的なもの」の全否定から出発した戦後の教育や社会の雰囲気作りの成果をもろに受けて育ったのだろう。

いまでこそ、小洒落た和風ダイニングで若者がデートしているが、四半世紀前なら横文字の店でカタカナ名前の食べ物を一生懸命食べるのがイケてる?若者の姿だった。

「日本っぽい店」はオッサン専用の小料理屋とかだけで、若者のテリトリーではなかった。

外食自体がここ2~30年で急速に一般化したことも理由だろう。ハレの日以外には外食などしないのがごく普通の日本人の姿だったから外食といえば、普段馴染みのない食べ物が中心。必然的に家庭で食べるような料理を出すような和風居酒屋とか和風ダイニングなどは見当たらなかった。

そんな事情もあったとはいえ、昭和50年代の若造にとっては、「日本的なもの」はスタイリッシュに見えなかったのも事実。いま思えば滑稽だが、そんな空気が漂っていた。

日本に上陸したての「ウェンディーズ」とか「シェーキーズ」なんかはオシャレな店だったし、「アンナミラーズ」とか「イタリアントマト」だって、流行のアイテムだった。

「ポパイ」とか「ホットドックプレス」などの若者向け雑誌も、なんでもかんでもカリフォルニアが一番だぜ!みたいなヘンテコリンな路線で若者を洗脳していた。若者も純だったから無条件でそれを信じた時代だった。

その後、バブルの頃があって、そこからまた疲弊して意気消沈したニッポンには、自然発生的に「内向き」の空気が広がり、政治やオピニオンの分野でも徐々に右側の論調が広まってきた記憶がある。

アメリカの洗脳が解けたというより、ごくごく当たり前の適度な愛国心や正論が普通に語られるようになっただけだが、ほんの2~30年前に比べてれば様子が変わってきたのは確かだと思う。

気味の悪い右傾化は感心しないが、当たり前のレベルで自国に愛着心を持つのは必要だし、それすら覚束なかった昭和後半の迷走状態のほうが不自然だったと思う。

今では、「日本的なもの」は和モダンという言葉に象徴されるように全般にデザイン力のアップも加わって、充分にお洒落な存在になっている。

建築物や空間しかり、着るものもしかり、Jポップなる表現で日本の音楽が独自の道を開き、邦画も昔より断然活気がある。良いことだと思うし、昔より健全化が進んだように思う。

そうはいっても、国の元気の無さに引きずられて内向きになってしまった若者は、海外に出かけることもせず、ションボリしているから困ったものだ。

元気の無さとか、外に向けるエネルギーの弱さが、国内に目を向けさせる要因だとしたら恐いことだが、それでもヨソの国の猿マネばかりを格好いいと信じ込むよりはマシなのだろうか。

今日は書こうと思っていたことと全然違う内容になってしまった。そんな日もあるか。

よく分からない話に終始してしまってスイマセン。

2012年9月7日金曜日

裁判の日々

「不幸とウソが溢れている場所」。わが社の顧問弁護士が裁判所をそう評していた。

なかなか味わい深い表現だと思う。

ここ1~2年、裁判沙汰をいくつか抱えているため、頻繁に東京地裁に出かけている。法務担当みたいなもので、昔から仕事に係わる紛争には必ずタッチしてドタバタしてきた。

もちろん、そうそう厄介な紛争が起きるわけではない。長年会社をやっていれば仕方がない程度の頻度だ。最近はたまたまいくつも重なってしまい、すっかり裁判所通いにも馴れてしまった。

いま抱えているのは、攻める案件ばかりなので、守る案件よりもやり甲斐?はある。残念なことは、物凄く勉強してコトに臨んでも、解決してしまえば、その知識がその後は役に立たないことばかりだということ。

トラブルになるような話は個別性が強いから、商法とか民法を必死に頭に入れたところで、その後の仕事や私生活の上で理論武装につながるわけではない。毎度毎度、まるで違った事件を担当する弁護士とか裁判官はつくづく大変だと思う。

たいていの訴訟事案は、裁判官が強引に和解を勧める。双方に対して、「アンタに不利な判決出すぜ」という趣旨のブラフを乱発して、双方を妥協させようとする。

つい最近終わった案件では、相手方がたび重なる和解提案を拒否し続けた結果、一審でほぼこちらの主張が通った判決が出た。相手側が控訴したことで、高裁に舞台が移ったのだが、高裁で強烈な和解の強制?を受けて、ほんの少し妥協して終結させた。

裁判官は基本的に判決を書きたくない。これが日本の裁判制度の大原則。判決を下せば、当然判例として記録に残るし、控訴されてひっくり返れば、原判決を書いた裁判官にとっては当然マイナス評価になる。

和解といえば聞えはいいが、実際には強制的に妥協させられるというのが実態だ。

先日も、最終弁論のあと、裁判官に呼ばれて強引な和解提案を受けた。やれ負けるだの、やれ勝ちスジじゃないなど、やれ勿体ないだの、ぐいぐい攻めてくる。

多くの場合、味方であるはずの顧問弁護士まで裁判官の肩を持つ。「この辺が潮時ですよ」、「これ以上粘っても結果は大差ないですよ」、「今後の時間と労力を考えたらこのあたりで妥協しましょう」等々。法律的な素人である一般人は多くの場合、腑に落ちない和解を選択する。

先日の案件では、わが社の顧問弁護士もイケイケモードになってくれたので、裁判官の強制和解提案をうまく突破できた。こちらに不利な判決が出る恐れもあるが、そうなったらそうなったで考えればよい。

それにしても弁護士さんもいろいろだ。こう言っちゃあ何だが、物凄くオツムの弱い相手方弁護士にあたった時は、心底困った。裁判官さえもタメ息を乱発するほどの誤った思い込みに支配されているセンセーだった。

最初はそれが作戦なんだろうと思ったのだが、どうやらそんな高等戦術みたいな話ではなく、純粋に「バ○丸出し」だった。おかげで無駄な時間が膨大に費やされた。結果は同じにせよ、時間の浪費は無視できない損失だ。

変な話、不利な裁判に巻き込まれて、ただただ結論を先延ばししたければ最適な弁護士だと思う。そんなのに限って国会のナントカ委員会に参考人出席して意見陳述をしていたりするからタチが悪い。

左方向に思いっきり偏っている弁護士も厄介だ。本筋に関係ないくだらない些末なことばかりネチネチ追及するのが生き甲斐みたいな連中が多いように感じる。

政治討論番組でも、あちら側に偏った政党の面々は、たいていが似たような風貌で、口をとんがらせて四の五の言う。個人的にあの手の人々が苦手なので、そっち系丸出しの相手側弁護士が出てくると不快になることが多い。

まあ、不快になっただけで相手の思うつぼだろうから、表面上はニコニコ対応するようにしている。

そのほか、「カッコつけちゃってる弁護士」も困ったものだ。最近実際に遭遇したのだが、映画とかテレビの見過ぎみたいな若い弁護士にはビックリした。いちいちカッチョエエから笑える。

私自身が証人として法廷に立った際、カッチョエエ先生は、証人台の横にピタって立ちどまって、証言する私に一生懸命プレッシャーをかけようと頑張っている。

めげずにアーダのコーダの証言する私にシビレをきらしたのか、証言台の上に置いてあった私の資料を、脈略もなく撤去してくれと裁判官に要求する。

おまけに証言の途中で、カッチョよく異議だの何だの言葉を挟んでさえぎろうとする。こちらのペースを乱そうと必死な感じだった。

カチンと来た私は「文章の読み方を教えてやってんじゃねえあか」と少しだけ声を荒げてしまい、裁判官に叱られてしまった。

腹を立てた段階で負けなのかもしれないが、私がチョッピリ?声を荒げた後は、おとなしく弁護人席に座ったままだったから、カッチョエエ先生も思惑が外れたのだろう。

その弁護士の経歴を調べたら、全然関係のないビジネスの世界から法曹界に入った人物だったので、確かに異色なタイプなんだろう。格好はいいのだが、彼が作ってくる準備書面は、一般論に終始するだけでポイントが不明瞭。法廷でパフォーマンスすることだけが得意分野なんだろう。

まあ、ウチの弁護士センセイだってそれなりに問題はあるから、あまり偉そうなことは書けない。

端的に言って弁護士任せだとコトはうまく運ばない。当事者側が真剣に原資資料作りに励んだり、主張したい点を明確にしなければ中々話を通じさせることは難しい。

ただただ地味な作業だ。資料の発掘と、その資料の証拠付けなど文書の作成作業が労力の90%だろう。面倒で仕方がない。

平然とウソをつく相手にバカ正直に対応するだけでもダメだし、攻撃すべき点は執拗に攻撃しないとラチがあかない。気が弱く温和で優しすぎるガンジーさんも真っ青の平和主義者である私にはもっとも向かない作業ではある。

今抱えている案件はすべて終結に向けたメドが見えてきた。さっさと終わって欲しい。民間の常識では考えられない裁判進行のノロノロぶりと四角四面の細かい形式的な積み重ねにはウンザリだ。

それ以前に地裁の喫煙室が煙くてイヤなので早々に解放されたいと思う。

2012年9月5日水曜日

北の味

北海道の道東エリアへの旅では、ホテルめし、というか旅館めしが中心だったので、地元のうまい魚を出す料理屋さんには、昼1回、夜1回の計2回しか行くことが出来なかった。

旅館めしも悪くないが、大型ホテルのバイキングはビミョーである。楽しいことは楽しいのだが、さすがに唸るほどウマいものには出会わない。

今回もある晩、北海道でも最大規模のバイキングを謳う宿に泊まって、80種類もの品数を揃えるバイキング会場に行った。

80種類だ。凄いスケールだ。座席の上には、何がどこに置いてあるかが分かる料理地図まで置いてある。さすがにワクワクする。

でも、楽しいのは最初の5分ぐらいで、いざ料理を取りに行っても、青い色した不気味な流氷カレーとか、大勢の客がグチャグチャにしちゃった刺身なんかが私の食い気をゲンナリさせる。

いつどこで獲れたか怪しいタラバとズワイの脚も山盛りだ。知床まで来て、冷凍の水っぽいカニなど食べたくないから、10本ぐらい食べただけでやめる。充分か。

鹿肉ハンバーグもマズいし、結局、伸びてしまったミートソーススパゲッティを食べて満腹になった。

30年前なら喜々として全種類食べる勢いだったはずだが、さすがにもう無理だ。一番ウマかったのは、屋台風のスペースで作ってくれたイチゴミルク味のかき氷だった。


知床へ向かう途中の網走市内の人気店に昼に寄った際には、キンキを堪能した。刺身で喜び、アラ汁で納得して、軽く炙った状態のにぎり寿司で満足した。高価な魚になってしまったが、やはり本場の釣りキンキはわざわざ味わいたい逸品だ。

この「花のれん」という店では、キンキを中心に旬の魚介類が豊富で昼間から飲むにも最適な店だ。私が敬愛するタラバの内子はルイベ状で出てきたが、酒のアテにちびちび味わってニコニコできた。



小鉢の中で僅かに残った内子までペロペロ舐めたいところだが、いっぱしのオトナだからそんなことはできない。フレンチのソースをパンに絡め取って食べるように、寿司飯を使って内子の残りを食べ尽くす。最高だ。

話は変わる。

北海道の夏といえば毛ガニだ。カニラバーの私としては、冬の日本海のズワイも好きだが、あれはあれで高すぎるし、毛ガニのミソの魅力が何といっても最高だと思う。「身詰まりの良い生きた毛ガニ中型サイズの茹でたて」に勝るカニはないと勝手に思っているので、今回もそんな逸品を狙ってみた。

知床・ウトロ温泉地区に店を構える「番屋」という料理屋さんの評判が良かったので、ある晩、出かけることにした。

事前に電話して、生きた毛ガニの中型サイズはあるかを確認。色よい返事があったので、ウキウキ出かけた。


予約した時間に遭わせて、まだ温かみの残る毛ガニが登場。ウッシシだ。身も甘いし、ミソもたっぷりだ。イメージ通りの絶品毛ガニだった。


ミソのアップだ。鮮度の良い証拠がこの色合いだ。そのまま舐めても良し、カニの身にトッピングしても良し、ウヒョヒョのヒョだ。

いつのまにか、カニフォークで毛ガニをほじくるのが達人レベルになってしまった私だ。長い時間、幸福な気分が続く。

毛ガニほじほじの楽しさは、もう身が無さそうに見える殻のすき間からボソッと食べ応えのある身を取り出す瞬間に尽きる。得したような、善行を施したような明るい気持ちになる。快感以外の何ものでもない。

耳そうじの最中に意外な大物がゴソッと出てくるようなスペクタルな感じとでも言おうか。とにかく気絶するほど悩ましいのが毛ガニホジホジの時間だ。


カニとランデブーしている合間には、ツマミで頼んだ生ウニとか塩辛を楽しむ。箸休めどころか、箸大忙しである。甲羅に少しだけミソを残しておいて、カンカンに熱くしてもらった日本酒をもらって甲羅酒も堪能した。カニ様のすべてを有難く味わい尽くした。



タラバの内子と外子もあったので、両方もらう。いい感じに味付けがしてあって冷酒がクイクイ進む。日本人で良かったと心底思う瞬間だ。

鹿刺しだの牡蠣だのイクラだの、その他にもあれやこれや注文したのだが、私の記憶には毛ガニ様と内子外子兄弟様と冷酒しか残っていない。酔っぱらい完成だ。あのままクルマにはねられて死んじゃっても成仏できそうなぐらい心が穏やかになった。

「食」という文字は「人」を「良」くすると書くそうだが、まさにウマい食べ物は、精神を格段に浄化させる作用があると思う。


その他、今回の旅で印象に残ったのは、内陸側の養老牛温泉の湯宿「だいいち」で出されたヤマメの刺身。身が肉厚で弾力や甘味ともに申し分なし。この年になると、まったく初めての味に出会うことは少ないのだが、生ヤマメは初体験。かなり満足できた。

ちなみに、ここで書いたような逸品以外の一般的な魚介類は、正直言って東京の名店で食べていたほうがウマいのが現実だろう。

それを言っちゃあ元も子もないのだが、観光客相手に最上級の物は出てこないし、そもそも上等な魚貝は東京相手のほうが高値で捌けるわけだから当然のことではある。

まあ、それでも旅行気分、旅情とともに味わう気持ちの高揚感は捨てがたい。何だかんだ言っても、これからも北の味を求めてフラフラ旅に出たくなるのだろう。

2012年9月3日月曜日

知床観光

旅行する際は、たいてい滞在型でブラブラするだけのことが多いのだが、先日出かけてきた北海道では、真面目に観光してみた。

さすがに朝早くから見たくもないところを回るのはイヤなので、そこそこヌルいペースで道東方面を周遊してみた。

羽田から紋別に飛び、サロマ湖経由で知床に入り、知床半島を縦断して羅臼側に抜け、南下して標津方面の酪農地帯をぶらついて中標津空港から帰ってきた。

道東は、3年ぐらい前に網走に流氷見学に行ったぐらいで私には未踏の地。いつも道南でイカとかウニとかカニばっかり頬ばっていることが多いから、いろいろと新鮮だった。

世界遺産・知床は、冬にオオワシ見学に行きたい場所なのだが、以前に「寅さん」を見てから爽やかな時期にも行ってみたいと考えていた。

寅さんでは、三船敏郎扮するガンコな獣医とその娘の竹下景子をめぐって、寅さんがドタバタするのが知床・ウトロだった。今回も旅行前に見返して、現地で撮影地らしき「現場」を生で見て一人興奮していた。


4時間近くのクルーズも楽しんだ。知床半島の突端、まさに最果ての場所まで運んでくれる観光船は、真冬になると網走で流氷クルーズに使われている船。地ビールを飲みながらホゲホゲと遊覧してきた。

お決まりの「知床旅情」は出航後しばらくして加藤登紀子バージョンが船内に流れる。森繁バージョンに期待していた私としては腑に落ちなかったのだが、そこは、さすがの森繁だ。知床岬の突端に着いたら、船の内外に大きな音で本家本元・森繁版の知床旅情が流れた。グッときた。


小さく灯台が写っている先が知床の先っぽ。日本地図で出てくる北海道の右上の先端だ。現地に行ったせいで、天気予報なんかで表示される地図のそこばかり見てしまう変なクセがついてしまった。

このクルーズは半島沿いにただただ進んで、突端で折り返すため、大型船なら揺れの心配もない。海側からしか見ることのできない大自然の優美な姿を堪能していたら、思ったほど退屈せずに過ごせた。

海上から見上げる空の姿も空気が澄んでいるせいか、ただただ広く青い。日頃、くだらない雑事で脳みそが疲れている人には最適な息抜きになる感じだ。


初日に紋別空港で借りた1500㏄のマツダなんとかは、まあそこそこ快調に山道を走ってくれた。野生のエゾ鹿とかキタキツネなんかにも何度か遭遇して、都会っ子の私は妙に興奮した。

函館あたりで魚貝系珍味攻めばかり楽しんでいるようでは味わえない体験だろう。大学生の頃、自慢の四駆で北海道を一周した時には、林道ばかり走ったのに鹿もキツネも出てこなかったが、今回は拍子抜けするぐらい簡単に出てきてくれた。



知床半島を縦断して羅臼側にでれば、海岸通りから至近距離に北方領土が見えた。国後島だ。わずかに2~30キロの距離だという。

領土問題で何かと騒々しい昨今、あれほど近い場所に占領されたままになっている領土があることを改めて実感した。

ついでに思ったのだが、あの島が日本の領土で、インチキに占領された事実、さっさと返しやがれという趣旨の看板や標識が、景観を壊さない程度にもっともっと設置されて然るべきだと感じた。



写真で見ても凄く近くに感じる。そして凄く大きな島だ。実際に、先祖の墓参りすら出来ずに眺めているだけの人もいるわけだし、悲惨な歴史や固有の領土である経緯など、もっともっと教育現場などで教えるべき題材だと痛感した。

さて、羅臼を南下するとサケの遡上で知られる標津川に出る。妙に立派なサーモン博物館みたいな施設があったので、期待もせずに立ち寄った。

サケといえば、国民魚といってもいい存在だから、そんなサケのアレコレが分かって意外に面白かった。私もイクラ太郎として生きているわけだから真面目に見学した。

すぐそばには標津川が流れており、施設の一部である橋からは川を遡上してくるサケを見ることができた。おまけに川の横に設置してあるサケ管理用の生け簀での作業も間近で見られた。


川から生け簀に入り込む仕組みが出来ており、一定数以上貯まるとオスメスや大きさで選別して川に戻したり、受精・生育用に分類している。なかなか見られない光景だったから、イクラ・ラバーとしては、作業員に話を聞いたりしてちゃんと勉強してみた。イクラへの愛情はこれまで以上に強くなった。

標津から内陸側に入っていくと、北海道でも有数の酪農地帯が広がる。実に快適。海江田万里、いや、海原千里、いや、一望千里の眺めに心が洗われた。


愛車のマツダなんとかを何度も止めては景色に見入りたくなる。何気なくヒマワリ畑が広がっていたり、どこを見ても絵になる光景だった。東京周辺ならこのあたりのごく一部の景色を移管するだけで、週末は大混雑の名所になるはずだ。

美瑛や富良野ばかりに人気が集まっているが、このあたりの雄大な景色は非常に魅力的だと思う。数え切れないほど北海道に旅行した私が言うのだから間違いない。



海側ばかりだったので、最後の宿泊地は養老牛温泉を選んだ。「ようろううし」と読む。ヘンテコリンな名前だが、他の道内の地名と同じでアイヌ語を無理やりアレンジしてそれっぽくネーミングしたらしい。

ヒグマが出てきそうな川沿いに露天風呂があって、秋の風に吹かれながら命の洗濯が出来た。道内で数十羽しかいない天然記念物のシマフクロウが遊びに来る宿として有名な湯宿に泊まったのだが、この日は現われず。前日、前々日は餌付け場にやってきたらしい。

まあ、そんなところで運を使わないほうが良いと解釈してガーガー寝た。

最終日は、中標津空港に行くまで時間があったので、マツダなんとかをかっ飛ばして摩周湖に向かった。布施明が熱唱する「霧の摩周湖」だが、好天だったので「マシューブルー」を堪能できた。


あくまでも静かな湖面は鏡そのもので、雲を映し出して例えようのない程美しかった。行方不明になって隠遁生活をおくるなら、こんな場所が良いなどと不謹慎な想像が脳裏をよぎるほど神秘的だった。

高校の修学旅行でもバスから降りずに寝てばかりで、観光名所を見て歩くことが苦手な私なのだが、今回の旅は、そんなフラチな考えを改めるきっかけになったかもしれない。

だらだら書いてしまったので、北海道で食べたウマイものの話は次回にします。