2013年1月30日水曜日

コンデジ


カメラが趣味だと言うほど詳しくはないが、若者時代に始めた水中写真にはそれなりにこだわりがある。

30年ぐらい前まではニコン製の水中専用カメラ「ニコノス」が王道だったが、その後、陸上用のカメラを防水ハウジングと呼ばれるケースに格納するスタイルが一般化した。


いまでは一般的なマクロレンズを使った接写撮影も30年ぐらい前は夢みたいな世界で、ニコノスカメラの先端にヘンテコな棒をくっつけて近接撮影する不思議な撮影スタイルも珍しくなかった。あれでは動く魚が撮れるはずもない。かなり切ない世界だった。

私自身は30年近く前に水中専用のコンパクトカメラを使い始めた。少しづつコンバージョンレンズとか外付けストロボを揃えて撮ってはみたが、ロクな写真が撮れなかったので間もなく一眼に移行した。まだ昭和の頃の話である。

ニコンのF401とかF801を強化プラスティックの安い特注ハウジングに入れて撮り始めた。F4も使ってみたが、機能は使いこなせず、重いし、デカイしで苦労した。その後カメラの世界も日進月歩で、随分様相が変わってきた。

若い頃にアーダコーダと買い増ししていたフィルムカメラと水中関連機材。投資した金額も高かった。合計すれば高級車が軽く変えるほどお金をかけていたのに、時代はいつの間にかデジタル全盛。泣く泣く愛着のある機材に完全に別れを告げたのは、ほんの3~4年前。それからようやくデジカメに移行した。

デジカメを使うようになってからも、電化製品の進化が激しいから、既にそれなりのクルマが買えそうなほどコストがかかっている。迷惑千万だが、格段に性能アップが実感できるから、ついつい新しい機材が欲しくなる。困ったものだ。


レンズをアレコレ変えて撮影できるのが一眼レフの魅力だ。私もまだキヤノン製の一眼レフをフィッシュアイズームレンズ用に限定して使っているが、このセットのデカさが最近少し億劫になってきた。

やはりミラーレス一眼の驚異的なコンパクトさを知ってしまうとそっちに全面移行したくなる。きっと来年あたりには普通の一眼レフとはオサラバしそうだ。

昨年購入したOLYMPUSのミラーレス一眼・E-PL3がなかなか快調なので今はこれが私のメインカメラというべき存在。


それ以前に購入したE-PL1に比べると遙かにすべてのレスポンスが向上している。予備機のE-PL1は改造してフィッシュアイレンズ専用機にしようか思案中。

E-PL3E-PL1ともにハウジングはOLYMPUS純正。あのメーカーは何とも物好きで、さほど売れるはずもない水中ハウジングを適価で作りまくっている。実にエラいことである。

そんなOLYMPUSに敬意を表して、コンパクトカメラ、いわゆるコンデジを新たに買ってしまった。

5年ほど前に一度コンデジを買って水中撮影に使ってみたのだが、結局すぐに放っぽらかしてしまった。わずか1年ぐらいでヤフオクに出品して処分した。

描写力、シャッターのタイムラグともに一眼に比べれば劣悪なレスポンスだった。あれから5年、かなり進化していると聞いたので半信半疑で家電量販店でいじってみた。

実売価格5万円前後の高級コンデジの性能にはビックリする。せっせと一眼のレンズを揃えてヘコヘコ撮影していることが悲しいことにすら思える。

ただ、私の場合、あくまで水中での撮影にいかに適しているかが重要になる。必ずしもハイエンド機が良いとも限らない。

で、見つけてしまったのが、3万円前後で買える中級機OLYMPUSの「TG-1」がそれ。


広角側25mmから望遠側100mmで使いやすいうえに、なんとF値が2・0である。それよりも焦点距離が驚きである。

これはピントが合う最短距離のことだが、広角側が15センチ、100mm望遠側は10センチという素晴らしさだ。スーパーマクロモードなる機能を使えば最短撮影距離は1センチだとか。なんともなんともである。

通常撮影の場合、小さい魚の接近撮影では10センチまで近づけるわけだ。おまけに画質がさほど劣化しない4倍ズームもある。一眼カメラ用の5万、10万もするマクロレンズに匹敵する威力だ。

上の画像にあるように専用のハウジング(防水プロテクター)も比較的安価。接写に限って言えば内蔵ストロボだけでもそれなりに水中世界が表現できるようなのでビックリである。

ちなみに20年前にこのぐらいの実力のカメラとレンズを水中で使うためには、ハウジングと外部ストロボその他諸々合わせて、最低でも40万円ぐらい必要だったレベルだ。

それが今では56万である。凄い時代になったものだ。


欲張りな私は、これに追加して撮影画角160度を超えるフィッシュアイコンバーターレンズも発注してしまった。外付けのストロボを使うためのグリップベースだとか、あれこれ備品も揃えた。

結局、大散財じゃないか~~。。げ~~!

結果的にちっともお手軽ではなかった。金欠がいよいよ慢性化してきた。わが国の財政事情に似てきた気がする。

さてさて、今回の衝動買いの結果、私の中にある「コンデジはダメ」という思い込みが変化するのだろうか。楽しみではある。

重くてデカいハウジングの左右にタカアシガニみたいなアームと水中ストロボを装着して潜る姿をコッチョいいと思い込んでいた昭和の日々はもう遠い昔だ。いかにしてコンパクトにラクして撮影できるかが化石ダイバーとしての課題だ。

進水式は3月にフィリピンのMOALBOALで行う予定だ。それまでは風呂の中に水中マスクとシュノーケルを持ち込んで機能を試そうと思う。

変な姿だ・・・。

2013年1月28日月曜日

バカみたいな所得税


インフレに向けて頑張るというのも何となく変な話だが、アベノミクスとやらの影響もあって、この国の努力目標は「物価を上げること」。

景気回復への起爆剤として金融緩和の方向で進んでいる。まあ、理屈は分かるが、狙い通りインフレになったところで、人々の収入が増加しないままでは笑い話にもならないことは猿でも分かる。

先週、税制改正大綱がまとまったが、景気回復を狙う目的で企業向けの減税措置がいくつか決まった。交際費課税の緩和だとか、研究開発や設備当時コストへの減税、はたまた雇用や給与を増加させた企業への減税なども盛り込まれた。

大新聞など一般メディアも企業減税を評価する論調が多いが、額面通りに受け取る中小企業はどれだけあるのだろう。

無いと思う。

日本の企業は全体の9割が中小零細規模である。日本の企業のうち、全体の7割ほどは赤字企業である。すなわち法人税を納めているのは全体の3割程度。中小企業に限定すればその割合はもっと少なくなる。

法人税すら払えない企業にとって減税策は何ら意味をなさないわけで、今回の減税措置は一部の大企業しか恩恵を受けないのが現実。

さて、個人のほうに目を向けると、孫への教育費贈与に新しい減税策が登場したり、住宅ローン減税を拡充したり、それなりに景気刺激に道筋をつけた形をとってはいる。

とはいうものの、所得税の最高税率を上げたり、相続税の課税対象者を大幅に増やすなど、大元である基幹税は増税指向が鮮明になった。

来年から消費税がアップすることを考えれば、相対的に個人の負担はグッと上昇傾向にあるのが実態だ。

所得税の最高税率は40%から45%に変更されるが、実はこれによる税収増の効果は、わずか300400億円程度だといわれる。まるで税収増につながらないわけだから、ただのパフォーマンスに過ぎず、実にバカげた話だろう。

今回の改正で、わが国の所得税の税率は5%から45%までの7段階の累進制になる。所得に応じて負担がそれぞれ変わる仕組みだが、その実態は、中堅高所得者だけが集中して税金を取られている極めていびつな構造になっている。

所得税10%以下の階層が全体のどの程度を占めるかご存じだろうか。

私自身、せいぜい半分ぐらいだろうと漠然と思っていたのだが、実際には全体の84%がこの階層。100人に84人が税率10%以下の階層だ。

何のための累進制だかサッパリ分からない変な話だと思う。

所得税の累進税率はたいていの国が採用しているが、税率10%以下の階層の全体に占める割合は、先進主要国でもせいぜい30~40%程度だという。日本の特殊性が際立っている。

所得税は文字通り、収入に応じて負担する税制上の基本中の基本。これがいびつなのだから税制全体のいびつさは推して知るべし。

人より稼ぐことが悪であるかのような、まるで罰金のような制度になっている。リッチマンが海外脱出するのも当然の話だろう。

ちなみに、5%の最低税率を6%にするだけで60007000億円の税収増になるらしい。ついでに言えば、全体の84%を占める階層の人の所得税を僅か1%上げるだけで「兆」単位の税収が増加することになる。

わずか数百億円の税収増にしかならない今回の最高税率の引上げの無意味さを痛感する。

景気を刺激したいのなら、可処分所得の高い階層を刺激することが手っ取り早いのは当然の話。「金持ち優遇」などという決まりきった批判がすぐに出てくるが、現行制度が「金持ち冷遇」なんだから、そんな雑音は無視すべきだろう。

お金持ちにお金をジャンジャン使ってもらわないと景気など良くなるはずはない。

2013年1月25日金曜日

数十円の幸せ


ティーバック。

実に素敵な響きだ!

話の展開に期待した人には申し訳ないが、今日は「壇蜜」とか「飯島愛」の話ではない。

地味にお茶の話を書こうと思う。

あっちは「Tバック」、今日の話は「TEA PACK」とか「TEA BAG」のほうである。

お湯に入れて簡単にお茶を楽しむアレだ。

いっぱしの大人になってから、マズいお茶を飲むのが苦痛になった。かといって、茶葉にこだわってアレコレうるさいことを言うほど神経質ではない。

単にウヘ~、ウマいとホッコリできるお茶が飲みたいだけだ。

全国の窯場めぐりをした際に、ウマいお茶のために急須も色々と買ってきた。

急須といえば常滑焼が有名だが、個人的な趣味で行き着いたのは備前焼の作家物。土の特性もあって冷めにくくて気に入っている。

そうは言っても、中年男にとってお茶を入れる作業は正直面倒くさい。茶葉を捨てたり急須を洗うことを考えると億劫になる。

で、安直にティーバックに頼ることが増えた。

「ティーバックのお茶なんてマズくて飲めたもんじゃない」。少々乱暴な見方だが、常識的にはその通りである。「テキトーな安物」であれば、飲むだけ損みたいなものが多い。

私自身もティーバックのお茶など認めたくないタチだったのだが、最近になってウマいティーバックをいくつも見つけた。つくづく食わず嫌いならぬ、飲まず嫌いはダメだと痛感している。


伊豆方面の名産である「ぐり茶」。作る時にぐりぐりするから、そんな変な名前がついたらしいが、濃く入れても渋くなりすぎないのが特徴。

渋い苦みが出ちゃう心配がないから、ティーバック向きだと思う。実際に濃すぎたかなあと思うほど使っても、甘味があって美味しい。

伊豆に旅行に行った際に何となく買ったのだが、すっかり気に入って、その後はネット経由で取り寄せしている。

ぐり茶の大手?らしい「杉山」という業者の製品なのだが、ついでに買ったほうじ茶のティーバックも実にまとも。

それ以外にも、プーアール茶とウーロン茶の葉をミックスした「プアロン茶」なるティーバック商品もウマい。食後に最適。クセになる味だ。


そこそこ高級志向のスーパーで常備している静岡の高級茶のティーバックもお気に入りだ。ティーバックとしてはかなり高価だが、ティーバックといえども「正しい緑茶」の味と香りが堪能できる。

飲むだけ損みたいなティーバックは、一袋あたり10円ぐらいの価格だが、高価な商品だと、一袋あたりの単価がその5倍、10倍ぐらいする。とはいえ、数十円の世界である。

ペットボトルのウマくもないお茶に150円も払うことを考えたら、気の効いた高級ティーバックを吟味するほうがマシだ。

お気に入りのティーバックを見つけるコツは、「一袋あたりの単価」なのかもしれない。富豪っぽい言い回し?になるが、単価が高いものを中心に選べば間違いは少ない。

贅沢批判はあろうが、自宅でお茶を飲む時間は大事な時間だと思う。朝の鋭気を養ったり、帰宅後は鎮静作用につながる。休日の午後には安息の友にもなる。

「たかがお茶、されどお茶」である。


デブ御用達の黒烏龍茶も味気ないペットボトルのそれより、お気に入りの茶碗とかマグカップで熱々の一杯を飲む方が気分がよい。

成城石井とか紀伊国屋とか、俗に高級スーパーと呼ばれる店のお茶売場には、「プチ贅沢系ティーバック」が結構置いてある。

石川県の名産である加賀棒茶のティーバックがあったり、中国茶でもジャスミンティーのウマいティーバックも見つけた。

いろいろと手軽に飲み比べられるし、職場や出先に持っていくのも簡単だし、凝り始めたら結構面白いかもしれない。

ティーバックに目覚めてから、まだ日が浅いのだが、調べれば調べるほど全国各地の銘茶もティーバック仕様が製造されている。

アレコレ取り寄せて楽しんでみたい。

2013年1月23日水曜日

ウツウツと…

テレビをつけると、日々「箸にも棒にも・・・」的な番組ばかり。もっと硬派で有意義な番組はないだろうかと常々思っているのだが、先日放送されたNHKスペシャルは硬派すぎて見終わった後、しばし動けなかった。

大袈裟ではなく、ウツウツとふさぎ込んでしまったぐらい重い内容の番組だった。

タイトルは「老人漂流社会」。NHKのホームページからあらましをコピペしてみる。


●●『歳をとることは罪なのか――』
今、高齢者が自らの意志で「死に場所」すら決められない現実が広がっている。
ひとり暮らしで体調を壊し、自宅にいられなくなり、病院や介護施設も満床で入れない・・・「死に場所」なき高齢者は、短期入所できるタイプの一時的に高齢者を預かってくれる施設を数か月おきに漂流し続けなければならない。
 超高齢社会を迎え、ひとり暮らしの高齢者(単身世帯)は、今年500万人を突破。「住まい」を追われ、“死に場所”を求めて漂流する高齢者があふれ出す異常事態が、すでに起き始めている。
 ひとりで暮らせなくなった高齢者が殺到している場所のひとつがNPOが運営する通称「無料低額宿泊所」。かつてホームレスの臨時の保護施設だった無料低額宿泊所に、自治体から相次いで高齢者が斡旋されてくる事態が広がっているのだ。しかし、こうした民間の施設は「認知症」を患うといられなくなる。多くは、認知症を一時的に受け入れてくれる精神科病院へ移送。
 症状が治まれば退院するが、その先も、病院→無届け施設→病院・・・と自らの意志とは無関係に延々と漂流が続いていく。
 ささいなきっかけで漂流が始まり、自宅へ帰ることなく施設を転々とし続ける「老人漂流社会」に迫り、誰しもが他人事ではない老後の現実を描き出す。●●


そんな内容である。かなりショッキングだった。

孤独な老後などと言うと、最初から身よりのない一部の人の話だと思いがちだが、番組で紹介されたのは、ごく普通の人達であり、誰にでも起こりえる現実が突きつけられていた。

子どもには恵まれなかったものの、夫婦で真面目に働いてきたお年寄りは、奥さんが亡くなった後、一人で生きてきたが体調を崩したことをきっかけに「漂流」。生活保護を受け、ようやく入れる施設が見つかったが、長年暮らした住まい(公団住宅)が業者によって「整理」されていく様子に涙を流す。ほとんどのものが捨てられてしまう。

また、あるお年寄りは夫婦と息子と3人で普通に暮らしていたが、奥さんが先立ち、その後、自分と息子さんが重い病気にかかる。治療費捻出のため、自宅を手放し「漂流」。簡素な宿泊所に入所中に亡くなる。亡くなる直前に「家族みんなで食事がしたい」と涙を流すシーンが強烈だった。

「幸せの形」、「不幸な形」。それぞれ簡単にイメージは可能だが、つくづく表裏一体であることを痛感した。想像すら出来ない運命の複雑さを思い知ったような気分だ。

人間は一人で生まれてくるのだから、死ぬ時も一人。そんなことは分かっているのだが、どのような環境でどのような精神状態で最期を迎えるかは大きな問題だろう。

孤独死が社会問題になっているが、「漂流」を余儀なくされる人達が増えていることを思えば、変な言い方だが、誰に看取られることもなく自宅で人知れずポックリ死んじゃうことが、あながち悲惨なことではないようにすら思えた。

最近、20年、30年という時間が思った以上に早いことを感じ始めている。若い頃と違って20年前の出来事など、しょせんは今起きていること、今過ごしている世界の延長線上にあると感じる。向こう20年もあっという間に経ってしまうのだろう。

いやはや大変である。

身よりのない寂しさは想像すれば確かに不安だ。ただ、身よりがあるからと言って、邪険にされ、迷惑視される最晩年はもっと怖いようにも思う。

男の場合、根拠もなく漠然と奥さんや子どもに看取られて最期を迎えると思い込んでいる人が多い。実際には、奥さんに先立たれる人はいくらでもいるし、子に先立たれる不幸だってある。

修復不可能な夫婦仲を憂いて、明るい老後を目指して必死の思いで離婚したものの、重度のストレスからか、直後に癌が見つかり、離婚の翌年になくなってしまった不幸な中年男の実例を耳にしたこともある。

どの道を選べば幸せなのか、不幸の境目は
どこにあるのか。こればっかりは誰にも分からない。

日々、真面目に暮らせば大丈夫なのか、おとなしく地道に生きていれば幸福な最期が迎えられるのか、これもまた保証はまったくない。

考えはじめたらキリがない。ネガティブ思考でこんなテーマに悶々としていたら簡単に鬱病になってしまいそうだ。

ケセラセラで日々を過ごしたいものだが、時には私だって哲学的な気分になってしまうから困ったものだ。

最近、話題の詩集がある。90歳の詩人・加島祥造さんの「受入れる」である。



受いれる
すると 優しい気持ちに 還る
受いれる-
すると 運命の流れは変わるだろう すこし深くなり すこし静かになり 前とはすこし ちがった方向へゆくだろう



まったくそうなんだと思う。凡人が自然の摂理や運命に抗うことなど出来ないのだから、すべての事象をありのままに「受入れる」しかないのだろう。

なかなか、そこまで達観できないのがもどかしいが、ジタバタしないで悠然と過ごしていきたいと思う。

ちなみに、冒頭で紹介したNHKスペシャルは、124日午前025分から再放送されるようです。

2013年1月21日月曜日

珍味攻め


昨年の秋の血液検査では尿酸値をはじめ、たいていの項目が基準値を上回っていた。アウト判定だ。冬を前にそんな現実を突きつけられるのは悪いことではない。

冬は珍味が百花繚乱だ。日々、珍味摂取を続ければ身体に毒である。秋の段階で「ダメダメ判定」をくらえば、少しは気をつけるわけだ。

というわけで、このところ例年の冬よりは珍味摂取が少ない。困ったことだが、それはそれで、いざ食べる時のウマさや幸福感が増すから悪くない。


この写真は、銀座のお寿司屋さん「九谷」で食べた珍味寿司だ。叩いたカワハギの肝にトビコがまぶしてある。官能的な味わい、「壇蜜」のような味わいだった。

こちらのお店、そんなに頻繁に訪れるわけではないが、いつでも一風変わったツマミ類が食べられるので、珍味気分の時の恰好の止まり木になる。

このブログでも過去に何度かこの店の珍味を賞賛した。聞くところによると、それを読んだ人がお客さんとしてやってくることがあるらしい。握りをひとつも食べずに珍味だけ楽しんで帰った人もいたとか。

「富豪記者ブログ」もなかなか大したもんだ。


さて、オレンジ色の憎いヤツは東京ではまず出回っていない「イバラガニの内子」。受精前の卵子である。それを塩漬けで味わう珍味界のスーパースターである。その希少性は、ひばりか裕次郎か、はたまた、ちあきなおみが、いま目の前で歌うぐらい有難いことである。

毛ガニのほぐし身に少しトッピングしても「壇蜜」のような味わいだし、酒のツマミに最適だ。つくづくイバラガニが多く生息する北方領土を一日も早く返還して欲しい。

さてさて、この時期、和食系のどんな店に行っても「タラの白子」ばかり出てくる。有難いし、嬉しいのだが、あんなものを連日食べていたら死期を早めるだけなので、なるべく控えるようにしている。


そんななか、ある日、無性に食べたくなって上等な白子をフライにしてもらった。高田馬場の鮨源でのわがままオーダーだ。クリームコロッケのような雰囲気に仕上がるが、クリームコロッケよりも「濃い」。サクッとした食感の後にコッテリと白子の旨味が広がる。まさに「壇蜜」のような味わいだ(食ったことないが・・・)。

ウスターソースをちょろっと付けて味わう。官能的過ぎる。タルタルソースも相性がよい。白子としても、まさか自分がウスターソースと混ぜ合わされるなどとは夢にも思っていなかったはずだ。

冬の珍味といえば数々あれど、ボラの卵を物凄い手間をかけて変身させるカラスミを忘れてはならない。


今年も、母校の先輩であり、「築地のスター」である生田よしかつさんお手製の極上カラスミを入手させてもらった。


お世辞抜きにヘタな飲食店の自家製カラスミより数段ウマい。これさえあれば延々と酒が飲める。冬の宝物である。

とはいえ、ワケあって一人暮らしをしている昨今、チマチマ食べていても一向に減らない。というわけで、もったいないことを承知で「カラスミパスタ」を作ってみた。

オリーブオイル、塩、コショウ、ガーリック、鷹の爪に加えて、市販のチリガーリックパウダー、みじん切りパセリなんかを使ってオイル系ソースをちゃっちゃと作って準備。

カラスミは結構な分量を大根おろし器でパラパラにして、アルデンテに茹でた麺とあえて出来上がり。贅沢パスタの完成だ。

初めて作ったのだが、素材の良さのせいでアホみたいにウマい。我ながら料理の才能があると勘違いしそうなほどの出来映えだった。

つくづく写真を撮らなかったことが悔やまれる。そのぐらい真剣に作って真剣に食べてしまった。

ボラになるために生まれた何万、何百万単位の卵達はいとも簡単に私の胃袋に収まってしまった。あの卵達も、まさか自分達が鷹の爪とかオリーブオイルなんかとぐちゃぐちゃにされるとは夢にも思わなかったに違いない。

冥福を祈る。

私の体内に摂取された珍味達の怨念によって私の身体がどのように攻撃されているのだろう。春になったら血液検査に行こうと思う。

2013年1月18日金曜日

珍しい魚を追う


今日も海の話です。

ハタチの頃からダイビングを始めた。今ではせいぜい年に2回ぐらい南国リゾートでホゲホゲ潜るだけの軟弱太郎になった。今更ハード潜水に励んだら、死んじゃったりするだろうからホゲホゲダイバーでちょうどいいのだろう。

若い時はとにかく珍しい場所に行ってみたかった。カリブ海もジャマイカやケイマン、カンクンあたりの有名どころだけでなく、中米のホンジュラスとか南米に近いボネールにまで足を伸ばした。

エジプト・紅海にも行ったし、パプアニューギニアにも行ったし、25年以上前の珊瑚がピッキピキに元気だったモルディブにも行った。

インターネットが普及していなかった当時、一般的な観光地はともかく、マニアックな旅先の情報を収集するのは至難のワザだった。

海外に出かけるたびに現地で発行されているダイビング雑誌を購入し、辞書を片手にアマノジャク好みの旅先を探したりした。

初めてカリブに行った時は、航空券の安さを求めて飛行機を4回も乗り継ぐアホな行程で出かけた。でも情熱ぶりぶりだったから苦行を苦行と思わなかった。

エコノミークラスの狭い椅子に10時間以上一人でじっと耐えているのもちっとも苦痛じゃなかった。

ただ、昔からプロペラの小型機が苦手だったので、「川口浩探検隊」が行くような秘境みたいな場所に行けなかったことを後悔している。

インドネシアのワレア島とかラジャアンパットに行くのが夢なのだが、プロペラが必須らしいので多分夢のままで終わりそうだ。

タヒチやニューカレドニア、フィジーあたりの南太平洋に縁がなかったのも、超絶的に美しい離島には本島からプロペラ機で乗り継ぐ必要があるからで、決して物価の高さに脅えているわけではない。

さて、辺鄙な場所、日本から遠い場所で潜る魅力は、その近海にしかいない固有種に出会えることが大きい。

その昔、カリブにばかり出かけたのも、大西洋の固有種、カリブエリアの固有種を撮影したかったことが大きな理由だった。

★画像はクリックすると拡大表示されます。




黒色がシックな魚はフレンチエンジェルフィッシュ。カリブを代表する魚だ。初めて行ったカリブ海の潜水旅行では、初日の1発目から待望のコイツに出会えて大興奮。ところが、その後何回潜ってもどこを潜ってもコイツはごろごろいた。コイツしかいなかった。超普通種だった。

2枚目はフレンチエンジェルフィッシュの幼魚。ごろごろ泳いでいたフレンチエンジェルだったが、幼魚バージョンは貴重だ。フィルムに収められたので嬉しかった一枚。

3枚目は、カリブ固有種のイエローヘッドジョーフィッシュ。巣穴から顔を出してきょろきょろしながら暮らしているジョーフィッシュは私の大好きな魚。固有種だと聞いて俄然張り切ってフィルム一本をこの被写体だけに費やした記憶がある。





わけのわからないほど派手な色彩なのが、その名もクイーンエンジェルフィッシュ。普通に撮影するのに飽きたので、マクロレンズでアップで写してみた。

縞模様のブサイク極まりないのが、カリブでもメキシコ側のコスメル島あたりでしか見かけないスプレンディッド・トードフィッシュという魚。日本の魚類分類では「ガマアンコウ目ガマアンコウ科」なんだとか。

ガマアンコウって何じゃそりゃ?という感じだが、まさしくそんな感じだ。

この魚を心ゆくまで撮影するため、大枚はたいてコスメル島でボートとガイドをチャーターした。環境保護に厳しい島なのだが、人の目がなかったうえ、高田純次みたいなメキシコ人ガイドが妙にハッスルしてくれた。この魚を無理やり穴から引っ張り出して全身まで撮影するという暴挙にでたことは内緒だ。

普段はちょこっと巣穴から顔だけ覗かせている魚なので、図鑑だろうが水中写真マニアのストック画像だろうが、この魚の全身画像はまず見ることがない。そういう意味で貴重な画像だ。

でも反省してます。

白と黒の刀みたいな魚は、正確な名前を忘れてしまった。刀みたいだから確かナンチャラ・ソードフィッシュだった気がする。

さてさて、お次も固有種が多かったエジプト・紅海。どことなく中東の海っていう雰囲気があって楽しいところだった。プロペラ機に乗る必要もないので、再訪したいエリアだ。



アラビア~ンな雰囲気を漂わす魚は、その名もアラビアンエンジェルフィッシュ。一応、固有種という扱いなのだが、日本でも生息していることが確認されているそうで、「セダカヤッコ」というさえない和名もある。

この魚の会心のショットが撮れなかったから紅海には必ずリベンジに行きたいと思っている。

黄色のペアはゴールデンバタフライフィッシュ。いわゆるチョウチョウウオである。これも固有種なので一応記録しておいた。

固有種に限らず珍しい魚、写真派ダイバー垂涎の魚にも随分遭遇してきた。オタク系ダイバーと話をすると、私も随分と希少種を見てきたようで、妙に羨ましがられる。

とはいえ、希少種の多くがヘンテコリンな姿をしていることが多い。






上から順番に全長1センチちょっとのピグミーシーホース、ニシキテグリの仲間で非常にレアなピクチャードラゴネット、砂地に漂う葉っぱに化けているツマジロオコゼ、これまた葉っぱにしか見えないカミソリウオ、そして派手さに由来する名を持つフリソデエビだ。出会えたら嬉しいのだが、写真に収めてみると得体の知れない姿形にゲンナリすることもある。

この手のヘンテコ系も可愛いが、やはり前回のこのブログに載せたようなワイド系の気持ち良い写真に比べると、そんなに「萌え~」とはならない。



こちらは、ワヌケヤッコとイナズマヤッコだ。英名でエンジェルフィッシュと呼ばれる種類は和名は「ヤッコ」である。ヤッコさんたちには美しい装飾を施している魚が多く、見ていて飽きない。

この2種類のヤッコは比較的珍しいほうで、そこそこ撮れているので自分としては満足している。

マクロレンズの機能を最大に引き出すほどの近接撮影をしなくても、ほどほどの魚をほどほどのアップで撮影していたほうが分かりやすい写真になるから、今後はそういう路線も増やしてみようと思う。

なんだか、前回と今回で30枚以上の水中画像を載せてしまった。過去の撮影画像を整理していたついでに作業したのでご容赦願いたい。

ここ数年、南国旅行に行くと出歯亀カメラマンとして、プールで水着女性を隠し撮りする悪いクセがついてしまった私だ。

昔、純粋に水中撮影に励んでいたピュアな心を取り戻すためにも、今度出かける場所は、洒落たリゾートなど無い秘境を選ぼうと思っている。


2013年1月16日水曜日

熱病はじまる

B型の人間は凝り性だと良く言われる。それなりに当たっていると思う。私の場合、凝り性というか、興味のないことには一切関知しない偏った感覚で生きている。

熱しやすく冷めやすい面もあって、ある時、急に何かに没頭し始める傾向がある。

水中写真を撮り始めてから気付けば25年以上になる。もっとも、すべて独学であり、コンスタントに寒い海にでも潜りに行くようなマメさはない。キャリアから言えば超ベテランだろうが、実質的にはヘッポコだ。

でも、周期的に俄然、会心の作品を撮影しようと熱くなり出すタイミングがある。

どうやら、このところそのタイミングに入り始めたらしい。過去に撮影した画像を眺めては「南国行きたい病」がふつふつ沸騰し始めてしまった。

ここ数年、水中撮影に出かけても昔ほどには変質者的執着心が湧いてこない。サラッと撮影してそこそこの満足感で良しとしている気がする。

20代や30代半ばに撮影したお気に入りの画像を見ているとつくづくそう思う。

●画像をクリックすると大きいサイズで見られます






これらの画像は20代から30代の頃、一生懸命にフィルムカメラで撮影した。この頃は、撮影枚数の制限があるせいで一枚一枚シャッターを丁寧に押していたように思う。

一番上のアジの群れは、我ながらフィッシュアイレンズ(魚眼)を効果的に使えていると思う。群れの動きや群れの大きさを写し込むためには、相当神経を使ってファインダーを覗いていたはずだ。

ニコンの一眼レフを水中撮影用ハウジングの格納して使っていたから1回の潜水でカメラ1台で最大36枚しかシャッターはきれなかった。撮り放題のデジカメを使う今とは、おのず集中力が違っていたのだと思う。

3枚目の貝殻に隠れているカエルウオの写真もお気に入りだ。こんな顔でもこちらを威嚇しているのだが、どことなく歌っているようにも見える。

普通はただの穴やすき間から顔を出す魚なのだが、この時は、たまたま貝殻に身を潜めたので、じっくり丁寧に撮影した覚えがある。




美しく群れている魚を撮影するのも好きだった。今では砂地に這いつくばってヘンテコな小魚の顔のアップとかを狙う癖がついてしまったが、やはり海の雄大さを感じさせるワイド写真は単純明快に気持ちがよい。

上の2枚はバラクーダの群れ。オニカマスだ。マレーシアのシパダン島で名物の「バラクーダ玉」に遭遇した時に撮影した。接近撮影するダイバーを入れて群れの迫力を写した1枚と、群れにぶつかるぐらいの距離で撮った1枚。

水中写真は、マクロ、すなわち接写レンズを使った近接撮影を好む人が多い。海の透明度や被写体に関わらず、比較的、手軽に綺麗に撮れるのが理由だ。

私自身、マクロ撮影も好きだが、もともとはワイド系の写真に憧れて水中写真を始めた。海に潜らない人でも水中環境の神秘さを感じられるような写真が撮りたかったからだが、ワイド撮影は思った以上に難しいのが難点。

レンズの画角が狭ければ広がりのある画像は写せない。魚眼レンズなら画角は180度だ。これだけ広範囲に被写体をカバーするレンズだと、ちょっと構図の向きがずれただけで自分の足とか身体の一部が写り込んでしまうし、メインの被写体にぶつかるぐらい近づかないとボンヤリと間延びした画像になってしまう。



この2枚もそんな苦労?のうえの作品。ピンクのソフトコーラル、プルメリアの花びらともにレンズを覆う半ドーム状の防水ポートにくっつくぐらい近づけている。冒頭で紹介したアジの群れの写真も同様だ。

ドーム状のポートの厚みというか、奥行きは10センチ弱だから、レンズから被写体までは10センチほどの距離になる。

被写体からほんの4050センチ離れれば、対象物は随分向こうの方に写っている感じになる。今日の画像の一番上から2枚目もその典型例だ。太陽光に照らされて浅瀬を泳ぐ魚は、こう見えてもカメラから4050センチぐらいの距離。手を伸ばせば触れるぐらい近いのだが、こんな雰囲気になる。

いわば、被写体が大きくて、その上でかなり接近できないと使いにくいレンズだ。


ということで、この15メートルぐらいあったデカい海亀はキスするぐらいの距離で撮影。シャッターをきったあと、ヤツは案の定、私のカメラとぶつかった。私の大事な大事なドームポートが傷物になったのではないかと大いに焦った懐かしい思い出がある。

なんだかんだ言いながら小さい魚をマクロレンズで接写できた時の快感も捨てがたい。全長数センチのハゼなんかを逃がさないようにソロリソロリ近づいて瞬殺ならぬ瞬撮できた時は思わずガッツポーズである。

フィルム撮影の頃は、旅から帰って現像に出してみないと出来映えがまるで分からないから、常に撮影旅行中は不安でいっぱいだった。あの感覚が妙に懐かしい。

今では撮影したその場で、それこそ水中で撮影結果が確認できるわけだから、便利な反面、ドキドキ感がない。ワビサビにかけるというか、何とも贅沢だが、面白味がないのも事実だ。






懐古趣味ではないが、フィルム時代に撮ったお気に入りの画像を見ると、最近の自分の不甲斐なさが許せなくなってきた。

この春にも東南アジア遠征を決行しよう。あの頃を思い出しながら邪念抜きに水中撮影に没頭してみようと思う。

2013年1月11日金曜日

鉄っちゃん


鉄道マニアの気持ちが少しだけ分かるようになってきた。もちろん、知識やマメさという点では、まったく素人なのだが、最近妙に特急とか長距離列車に憧れる。

現実から逃避行したいのだろうか。逃避行のイメージは飛行機より列車だ。根拠はないけどそう思う。寅さんだって必ず列車旅だった。

寅さんは、急病のリリィさんに会いに行くために羽田空港に行ったものの、柱にしがみついて飛行機が怖いとダダをこね、通りすがりのスチュワーデスにつられてようやく機上の人になったほどだ。

だからフーテン気分には電車旅である。

年末年始に随分とテレビ番組を録画した。便利な番組表機能のおかげで地上波、BS問わずあれこれ選んだ。いまだに半分も見ていない。


選んだ番組の多くが旅番組だった。BSだとマニア向けみたいな世界の鉄道旅を紹介する番組が結構多い。旅心がくすぐられまくってしまった。

今年はまだ350日ほど残っているから、海外の寝台特急に乗ることを目標にしようと考えている。候補はバンコクから出ているオリエンタル急行か、ベネチア~パリ間、もしくはバルセロナ~パリ間を走る特急だ。

言語の問題はあるが、個室に陣取ればあとは座禅でも組んでいればいい。結構楽しそうだ。きっとなんとかなるだろう。

数年前に思い立って寝台特急に乗ってみた。それが人生唯一の夜汽車体験だ。

時間があると一人で函館に行きたくなる習性がある私だ。ある時ふと変わった行き方に興味がわいて通りすがりのJR中野駅の緑の窓口で、数日後の寝台特急の空席を尋ねてみた。

人気のカシオペアは取れなかったが、北斗星は個室に空きがあった。一人で個室を占有すると結構な金額になるのだが、自分を富豪だと言い聞かせて衝動買い。クレジットカードってやつはホントに悪魔みたいな存在だ。

で、乗ってみた。かなり楽しかった。


十数時間も電車の個室に閉じこもるわけだ。退屈といえば退屈だし、やることがないといえばやることはない。でも、それが魅力である。

何もしない贅沢とでも言おうか。何も出来ないといったほうが正しいのだが、都会で暮らしているとそんな時間はなかなか無い。

何かしたくても出来ないわけだから、ハナからノンビリするしかない。ジタバタ出来ない時間とでも言おうか。これがとても新鮮だった。

キザったらしく表現すれば、自分の内面を見つめる時間、自分と語り合う時間がイヤというほどある。

人間50年近く生きてくると、いろいろと厄介なことで心がささくれだってくる。酒に逃げたり、放埒三昧の行動でごまかすこともできるが、時には沈思黙考したいときもある。

寝台特急に閉じこもって、ただただ静かな時間を過ごせば、神経をゆる~い状態に弛緩させることができそうだ。

まあ、裏返せばいとも簡単にウツっぽくなるということだから、あまり哲学的になってもいけない。適度に「壇蜜のグラビア」を眺めたり、iPodで落語でも聴いたほうがいいかもしれない。

こうして書いているだけでまた寝台特急で一夜を過ごしたくなってきた。前回乗れなかったカシオペアは、全席禁煙だと思っていたのだが、喫煙部屋もあるらしい。次回はそれを狙うか。でも、北斗星の昭和レトロ感も良かったから悩ましい問題である。

偉そうに書いてみたが、要は年始早々、遊ぶことばかり考えている私だ。

2013年1月9日水曜日

ドツボにはまる


壺を眺めてウットリする時間が増えた。一時期、やたらめったら壺の収集に精を出したが、人にあげちゃったり捨てちゃったりで、今では気に入った数点だけが手元にある。

もともと徳利の収集に凝り出したのが壺に興味を持つきっかけだった。丸味を帯びた徳利が好きで掌で転がしているだけで気持ちが落ち着く。

そもそも酒を入れる器だから、酩酊という異次元に連れて行ってくれる装置でもある。当然、愛しい存在だ。小さめの注ぎ口から中は見えない。覗いても闇だ。そこがまたいい。

中国の故事に「壺中の天」がある。壺の中に別天地があるというロマンチックな言い伝えだ。まさしく徳利の中には俗世間とは別の素晴らしい世界が隠れているのだろう。

というわけで、徳利を大きくしたようなフォルムの壺が好きになっていった。大きくなれば壺中の別天地も広いはずだという思い込みが壺にハマったきっかけだ。

冒頭の画像は、越前の古壺だ。一応、数百年前のものという触れ込みで大枚はたいて手に入れた。肩から胴にかけてのぽってりとした形が大らかで好きだ。抱きつきたくなる。たまにコッソリ抱きついたりしている。

形状からして大昔の種壺だろう。口の広い大壺の中にも好みのフォルムのものがあるのだが、あの形は骨壺だった可能性もあるため、恐ろしくて手が出ない。種壺系の形であれば、変な怨念も無いだろうから身近において楽しめる。


年の暮れにとある美術館で壺を中心とした展示会を見る機会があった。日本の古い窯場6カ所の総称である「六古窯」のものばかり集めた展示だった。わが家で偉そうに鎮座している古越前の壺が中々大したものだと確認できて嬉しかった。

骨董の壺の場合、当然、作家と呼ばれる陶芸家が作品として作り上げたわけではない。誰かに鑑賞させるという目的がないため、実に素朴で大らかに出来上がっている。この点が一番の魅力だ。名もない陶工が生活のために黙々とロクロを挽いた感じが単純明快に潔い。

実用雑器としての美。大正から昭和にかけて提唱された民芸運動の精神そのものだと思う。まさしく「用の美」だ。

現代陶芸家の壺も何度か購入して手元に置いてみたのだが、なんとなく面白味が無い。キッチリした壺は存在そのものがカタブツ女みたいで鬱陶しい。カタブツ女の関係者の方、スイマセン。。。古壺を真似た一見大らかな現代壺も長く眺めていると、その大らかさが作為的に見えてくる。どこかわざとらしく感じてしまう。

どんな美女でも「私って綺麗でしょう?どうよ、まいった?」って言われたら蹴飛ばしたくなる。さりげなくないものには醜悪なものが多い。それと同じだと思う。

もちろん、圧倒的に美しい美術工芸品はそれはそれで素晴らしい。とはいえ、アマノジャッキーが私の使命?でもある。こと壺に関しては「作家サマの作品」より「実用品」に魅力を感じる。

まあ、好みや相性で大きく変わるから私程度の鑑識眼などアテにはならないが。


この画像は、現代作家モノの大壺だが、ウマが合うというか、なんとなくシックリくるので大事にしている。備前焼の土に美濃焼の代表的な釉薬である志野釉をかけて焼いてある。その名も「備前志野」だとか。

焼物ファンであれば、その邪道ぶりに首をひねりたくなる組み合わせだろう。正直、土と釉薬がマッチしているとは思えない。両方の良さを殺し合っているようにも思える。

でも、なんとなく好きだ。強引にアレンジしちゃった「無理な感じ」が妙にケナゲというか哀れというか、いじらしい感じがして気に入っている。

褒めてるのかケナしてるのか微妙だが、アマノジャッキーである私にとっては、なんとなく手放せない壺だ。


傘立てに使われている壺は、常滑の古い壺だ。ウソかホントかこれも数百年前のものという触れ込みで買った。でも何となく怪しい感じがして、気に入らないまま傘立てに身を落としてもらった。

玄関先だし、不注意でぶつかったり、転がしてしまうのだが、不思議と割れたり欠けたりしない。妙に頑丈だ。きっと壺自身が私に対して「オレはニセモノじゃない!」と意地を見せているのだろう。そのうち、装飾用に昇格させてやろうと思っている。

壺のことばかりアーダコーダと書いてみたが、結局のところ、人生、「ドツボ」にはまらずスイスイとうまく泳いでいきたいと思う今日この頃だ。