2013年4月26日金曜日

距離感


お隣の国でちょっとした問題が起きているそうだ。

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2013042200162

日本人観光客が激減しているらしい。そりゃそうだろう。正直に言えば、もっと減っているかと思った。

ここ何年か前の韓流ブームに違和感を覚えていた人は多い。もちろん、作られたブームだからさほど強固に定着するとは思えなかったが、ちょっと考えれば、今のような空気になることは誰でもわかる話だ。

ここ何年もの間、アチラの俳優や歌手なんかに無節操にギャアギャアと入れ込み、アチラの国を舞い上がらせ、勘違いさせちゃった日本人にも問題があったのだろう。君子は淡交精神じゃないとダメだ。変に冷え込んだ昨今の状況はこれまでのトンチキぶりのツケと言ってもいいだろう。

私自身、陶磁器を目的とした韓国への旅を何度もしてきた。ひょいっと行ける距離だし、それなりにウマい食事も楽しめて気軽な旅の目的地として重宝していたが、うっとおしい韓流ブームの到来とともになぜか行く気をなくした。韓流ブームの反動による関係冷え込みによって尚更行く気にはならない。

日本と朝鮮半島との様々な事情を考えれば、そう簡単に蜜月状態になることは難しい。善し悪しとかそういう次元ではない。それが純然たる現実だ。

人間の狭量さと言ってしまえばそれまでだが、攻撃的な対応を続けられれば、冷静な大人の対応にも限界はある。どっちがどっちという話ではなく、どちら側にもそういう根がくすぶっている限り、スッキリというわけにはいかない。

世界中、どこの国でも隣国とはあまり仲が良くないみたいだ。近すぎるから余計なことまで気になったりする。市井の人々の近所付き合いと同じレベルなのかもしれない。

大事なことは結局、距離感の保ち方につきるのだろう。

今日は、イマドキの嫌韓問題を書くつもりではなく、「距離感」がテーマだった。

軌道修正。

つくづく最近は、人間のセンスは距離感の保ち方に尽きると感じることが多くなった。そう思うほど、距離感に関してイラつく場面が増えたような気がする。

仕事上の付き合い、知人、友人、家族、親戚はもちろん、まったくのアカの他人まで、日常生活のあらゆる場面で人との関わりは避けられない。

人と人が快適に過ごすためには「気配り」とか「配慮」が欠かせないわけだが、これって突き詰めれば「距離感の取り方」に他ならない。同義語と言ってもいい。

パワハラ、セクハラ、イジメに離婚、虐待に至るまで、距離感が間違っていることが
根本的な理由だ。

もちろん、言うは易し・・・で、適度な距離を心がけても相手の受け取り方によって印象は変わるから難しい。

配慮したつもりが薄情と呼ばれることもあるし、献身的な行いが鬱陶しいと一蹴されることもある。

要は相性にもよるのだが、問題は「ピントのズレた自分勝手」を恥ずかしいことだと認識できるかどうかだろう。

私自身、エラそーなことは言えないが、少なくとも、その時々や場面に応じて、相手との距離感が適切かどうかを自問自答するような人間でいたいとは思っている。

なんか書きぶりが大げさになってしまった。

距離感と言ってもさまざま。場の空気の読み方しかり、文字通り、物理的な身体の間隔もそうだ。ヘンテコな人が結構多いことに驚く。

電車の座席の感覚の取り方、道ばたの信号待ちで立っているときの距離感、列に並んでいるときの間隔、歩きながら道ですれ違う時の距離感でも「なぜだ!」と言いたくなるほど、見ず知らずの人に近づかれることがある。迷惑な圧迫感に時々たじろぐ。

だだっ広い大浴場、ましてや混雑していないのに、妙に近くで湯に浸かり始めるオッサンなんかに遭遇すると、蹴っ飛ばしたくなる。私にはソッチの趣味はない。異性だけで充分だ。

物理的な距離がつかめないということは、周囲に気が回っていない何よりの証だ。ご当人はお気楽だろうが、お友達にはなりたくない人種だ。

見知らぬ人はともかく、面識のある関係だと、物理的な間隔、距離というより、お互いの関係性を勘違いしているパターンにイラつくことがある。

シラけた雰囲気を読めないで打開することをちっとも考えない人、相手の都合を斟酌することなく時間を浪費させる人、相手が不快になるポイントを察知できない人、自分の価値観が相手と寸分違わないと思い込んでいる人等々、例を挙げればきりがない。

親しくもないのに、やたらとスキンシップをとってくるオッサンも困る。やたら肩をたたいたりして親密な様に振る舞われても困ってしまう。

相手が美しい女性なら、顔見知りでなくてもドシドシ触ってもらいたいが、オッサンのタッチは迷惑極まりない。

とはいえ、女性のいる飲み屋で、馴染みでもないネエサンにドシドシ触られるのは苦手だ。膝に手を置かれたり、腿をこちらに寄せてきたり、わざとらしくて不快だ。

10代、20代の頃なら素直に喜んだかもしれないが、こっちは立派なオッサンである。どこか清楚というか、おしとやか系に惹かれる。

とかいいながら壇密が好きなんだから果たして本当のところはどうなのだろう・・・。いやいや、やっぱり節度ありきだと思う。

飲み屋さんついでに言えば、銀座のクラブなんかで「開店○×周年記念」とかの祝い事によく遭遇する。ああいう場面でもオーナーママさんの「客との距離感」はさまざまだ。

あくまで控えめにアピールするパターンとドッカーンとアピールするパターンのどちらかだ。

その店のお客さんがどちらの路線を好むか次第だから、善し悪し云々ではないのだろう。でも、客が主役なのか店が主役なのか、客との距離感という意味で、店ごとの個性があって面白い。

個人的には「私が、私が」的にドッカーンとアピールされるのは苦手である。「グイグイ来る」のが仕事だろうから仕方がないが、さりげなくスマートに接してもらわないとついつい足は遠のく。

家族との距離感だって、家族という言葉の呪縛ですべてお構いなしになるのはダメだ。私の周りでも破綻しないで長々と夫婦関係を維持している人々は、総じて適度な距離感を保っている。

元は他人同士だからそれが最低限のマナーだろう。子供との距離感もしかり。成長とともに一人の人格が育ってくるわけだから、距離感に無頓着だと無用なトラブルを招く。

あれこれ書いたが、好きな人には、くっつきたくなって追っかけ回して辟易とされるパターンが私の実際の姿である。

そんなもんだ。

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