食べ物のウマい、マズいは極めて個人的感覚である。ピーマンをウマいと感じる人もいれば、鮒鮨をウマいと感じる人もいる。はたまたカレーライスが苦手な人もいれば、寿司が食えないなんて人もいる。
最近つくづく思うのだが、味覚は結局、気分によるところが大きい。
普段は大好きな食べ物でも、喧嘩している相手と一緒ならウマいと思えないし、大絶賛されている料理だろうと、その店の感じが最悪だったらウマくは感じない。
逆に、冷凍ご飯をチンしたお茶漬けだって、大好きな人と笑い合いながら食べたら美味しく感じる。
そんなものだろう。
究極的には、一人で平常心で雑念抜きに食事と向き合えば、それがウマいかマズいかは簡単に判断できる。でも、それだけでは面白みに欠ける。
気分の良さを、機嫌の良さが加味されてこその美味しさだろう。
なんだか大げさな書きぶりだが、こんなことを書き始めたのは、走り書きしていたメモに、お寿司屋さんでの感激ぶりが書いてあったから。
中年になると、物事をよく忘れる。そのためちょくちょく、自分の名刺の裏とか、そこらへんの紙切れに大事なこと、気付いたことなんかをメモする。
メモ書きするのはたいてい酔っ払った時だから、2~3日もするとすっかり忘れている。読み返してみて、ひとりでフムフム感心したりする。
寿司屋で感激したのは、先日のハワイ旅行直後のこと。たかだか1週間の旅行だったのだが、旅行中は和食とは無縁で日本酒も焼酎も飲まず、肉ばかり食べていた。
「寿司食いたい病」「日本酒酒飲みたい病」は5日目ぐらいから顕著になっていたので、帰国早々にいつもの「鮨源」に出かけた。
ここは、惰性でなんとなくノレンをくぐる時もある。座るなり、「今日は寿司の気分じゃないなあ」と感じることさえある。それでもいつもウマかったな~と帰路につく。
メモ書きしたその日は、頭の中でナマモノと酢飯が乱舞するほどだったので、いつも食べているようなものでもビンビンに私の味覚を刺激した。
気分で味が変わることを改めて痛感した。伯楽星とか新政の冷酒をカピカピ飲みながら妙に過敏になった舌が、赤身のマグロの酸味や白身魚の旨みを感じまくる。水茄子の漬け物の食感にまで武者震いするほど歓喜する。
上の具だけ食べてもウマい、シャリと混ぜて食べてもウマい。メロメロだ。ウニの磯っぽい甘味、イクラのジュルリンとしたまろやかさ。この時ばかりは壇密がご開帳して誘ってきてもお断りしたと思う。いや、断らないと思う。。。
毛ガニである。甲羅の中にはタップリのミソ、ほぐした身がどっさり盛り込まれ、これまた冷酒を引き立てる。先月、わざわざ函館にこれらを食べに行った時よりウマい。飛行機代を損した気分になる。
滅多に食べないものではないのに、ことごとく感激した。味覚の不思議である。
普段は食べないような料理を1週間食べ続けること。これを徹底すれば、そのあと食べる自分の好きなものがいつも以上に美味しく感じる。
考えてみれば、会話も弾まなくなったドンヨリした家庭でも、飽き飽きするほど食べ続けている奥さんの手抜き料理をほんの1週間食べずにいるだけで似たような効果があるかもしれない。久しぶりに味わえば、相当ウマく感じるはずだ。
グルメだなんだといっても、しょせん気分や思い込みが味覚を左右する。
私の場合、旅に出ると、その土地土地の珍しいものや名物をがつがつ食べたがる。その場所に来ている高揚感も手伝って、たいてい美味しく感じる。冷静になればウマくも何ともないものも多いのに、甘甘の判定になる。
旅先で感激したものを東京で食べても感激しない。こればかりは不思議だ。沖縄で飲む泡盛は最高だが、東京では普通だ。宮城のずんだ餅も東京では食べたいと思わない。
きりたんぱ、鯛飯、ちゃんちゃん焼き、ほうとうにちゃんぽんに味噌カツ・・・、どれも旅先では大感激してワシワシ食べるのだが、なぜか旅から戻ると食べようとしない。
それが現実だ。
なんだか箸にも棒にもひっかからない話をグダグダ書いていたら、また旅に出たくなってしまった。
帯広あたりに豚丼でも食べに行こうか。いつも涼しい釧路での魚介攻めとセットで出掛けようか、こう暑いと北の方に目が向く。せっかく身軽な立場になったのだから、もっとアチコチにぶらぶら出掛けてみようと考えている。
夏の終わりにでも実行してみよう。
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