2013年6月28日金曜日

フェティシズム


ウィキペディアって有り難いツールだ。この前ふと「フェチ」を調べたくなって覗いたら実に深い解説が載っていた。

「フェティシズム」についてのウィキペディアのページはこれです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%82%BA%E3%83%A0

意味不明の画像が参考に掲載されている点が凄い。このオッサン、どうしちゃったんだろう。でも、すごく幸せそうだ。

脚フェチとか、尻フェチとか安易にフェチ論議が展開されている昨今だが、もともとは、性的対象になり得ない服や靴などへの倒錯を指す言葉だったらしい。

そういう意味では、おっぱいフェチとかは正しくない使い方だったわけだ。

「性的対象の歪曲」。この言い回し自体が実に素晴らしい。なんだか高尚な響きがある。「性的対象の歪曲」。交響曲のタイトルになりそうな感じだ。

「性的対象の歪曲」!!

字面だけで萌え~って感じだ。

漢字フェチなのだろうか。

そういえば、子供の頃、十代前半ぐらいは、「性」だとか「尻」だとか、そんな文字を見るだけで目が鋭く反応していた。思春期は漢字フェチから始まるのかもしれない。

ある時、通学電車の中で学校の先輩が持っていた辞書を何気なく見せてもらったら、その手の漢字の箇所に赤ペンで印がついていて焦った記憶がある。

男のアホさはそんな頃から始まっているわけだ。

さて、フェチの話だった。

ヘンテコな性癖は誰にもあるもので、「オレはノーマルだぜ」とか言ってるヤツに限って、「あのコの鎖骨、たまんねえなあ」とか平気でつぶやいたりする。

自覚があるかないかだけで誰だって似たようなものだ。フェチの多くが男性特有のものらしいが、女性だって一皮むけば独特な趣味を持つ人もいる。


温水さんである。この人に物凄く性欲をかき立てられる女性もいる。温水さんには悪いが、どちらかといえばキモキャラのイメージだが、そこが魅力らしい。


石破さんである。この人にセックスアピールを強く感じるという女性にも会ったことがある。テレビに映し出されるだけで悶々とするらしい。

話がフェチからずれてしまった。いや、広義の意味?で温水さんも石破さんもフェチみたいなもんだ。

中学生、高校生の頃、友人の家に遊びに行くと、そいつがどんなエロ本を収蔵しているかが一大関心事だった。

白衣や婦警さんなど制服モノばかり揃えているヤツ、女性が縄で縛られたエロ本ばかり集めているヤツ、とことん金髪モノにこだわっていたヤツなど、まさに十人十色だった。

かつてベストセラーになり、映画化もされた「人のセックスを笑うな」という作品がある。何とも意味深なタイトルだ。聞くところによると、本屋の同性愛関連本コーナーの前で笑っている人を見て、筆者が思いついたタイトルだそうだ。

とても正しい考え方である。

人の嗜好はさまざまだから、それぞれを尊重しないとなるまい。宗教や文化と同じだ。互いに尊重し合わないと争いになるし、戦争ですら相互不理解が主な原因である。

Sの人、Mの人、体操着フェチの人、ピンヒールフェチの人、ミニスカフェチ、眼鏡フェチ、キモキャラフェチ、血管フェチ、はたまたデブ専、スカトロマニアに至るまで、個人の趣味嗜好だから目くじらたてずに尊重しないといけない。

一部理解不能だが・・・。

それ以外にも世の中にはいろんなフェチがあるらしい。

鼻の穴フェチ、出っ歯フェチ、足の裏フェチ、胸毛フェチ、脇毛フェチ、縫い跡フェチ・・・。まさに百花繚乱である。

私の場合、ここに書いてきたフェチにはまったく覚えはない。実にノーマルである。

いや、そういうヤツが一番怪しいのも確かである。

正直に言えば、エロ動画を見る時には、ついつい「グループもの」に目が行くし、「女性複数モノ」なんかをブックマークしちゃったりする。それはそれでフェチ的な要素があるのだろう。

それ以外にも、「相手の過去」にもの凄く萌え~ってなる場面も多い。我ながらちょっと変態だと思う。

その昔、ハンバーグおじさんこと菅原洋一が大ヒットさせた「知りたくないの」という名曲がある。


♪あ~なたの過去など、知り~たくな~いの~♪と高らかに歌い上げる。

「済んでしまったことは仕方ないじゃないの」、「たとえこの私が聞いても言わないで」等々、実に切ない恋心が綴られている。

私の場合も、相手の過去など知りたくはない。まあ、至極真っ当な感覚だろう。ところが、ところがである。困ったことに相手の経験してきた「そっち方面」に関しては根掘り葉掘り聞き出したくなる変な性癖があったりする。

それを聞いて妄想して、その切ない感じに身を焦がす感覚に陥って大爆発?である。

端的に言ってアホだ。精神的に何かが壊れているのかもしれない。

一応「過去フェチ」という立派なジャンルらしい。同好の人たちでオフ会とか開催したら凄く盛り上がりそうだ。

でも、果たしてそんな人がゴロゴロいるのだろうか。

気になって仕方がない。

2013年6月26日水曜日

コンドームの教え!?


先週このブログで、大人と子供の違いをアレコレ書いてみた。その後、走馬燈のように懐かしき若気の至りが頭に浮かぶ。

子供時代、若者時代は、純粋で視野が狭く日常をすべて厄介事みたいに感じていた。御苦労な日々だった。

今の時代の若者も同じだろう。あと10年、15年過ぎれば随分ラクになるはずだから、めげずに凌いで欲しいものだ。

などと、マジメぶった書き出しだが、そんな高尚な話を書くつもりはない。

若かった頃のバカっぷりを考察?しようと思っているだけだ。

色気づいてきた中学生の頃、ませガキだった高校生の頃、背伸びしたくて仕方なかった大学生や20代の頃。すべてに共通していたのが「カッコ悪いこと」への嫌悪だった。

もちろん、カッコいい、カッコ悪いの尺度自体が視野の狭いバカっぽい基準でしかなかったのだから実に滑稽である。

でも、そんなイタイケな感じが若さだったのだろう。

朝、セットした髪が乱れるのがイヤで体育の授業のプールはたいてい風邪気味で見学。人と会うときはいつも過剰に身なりに気を遣う。出かける店は新しくてオシャレ~なとこばかり。

いまでは大好きな喫茶「ルノアール」には間違っても入らない。居酒屋には見向きもせず、カタカナ名前の店でカタカナ名前の得体の知れないカクテルもどきを飲んでゲロを吐く。

クルマもピカピカにしないとデートにも行けない。雨が降るのが分かっているのにセッセとワックスがけ。尾崎豊の歌に感動したことなんかはトップシークレットで、洋楽のヒットチャートを必死に勉強。

流行こそが絶対だと信じて、安っぽいヘンテコな服を買い込む。誰が何を買った、誰が何を持っているとか、人の行動が気になって横並びのちょっと先頭を目指してばかりいた。

いやはや大変な労力である。

社会人になって何年か経った頃、大人の正しい忙しさに巻き込まれるまで、そんなファニー?な感覚で生きていた。

いまやすっかりテキトーで大ざっぱになり、目指す人間像が「高田純次」になった私だが、時々、あの頃の「無意味な情熱」が妙に懐かしくなる。

エラそーに書いているが、見方を変えれば今は老け込んだだけである。若造精神も時には必要だろう。

オッサン的な図々しさは正直言って快適である。その理由はひょっとすると自分への甘やかしに過ぎないのだろう。

もっと、傍若無人になったり、恥ずかしがったり、いろいろと自意識過剰になった方が緊張感を持って過ごせるのかもしれない

思えば、若い頃はあんなに大変だった「コンドームの購入」という作業だって今では何も感じない。寂しい限りだ。

いまでこそ、コンビニでも普通に売られているが、当時は近所の薬局で買うか、薬局の前に置かれた自販機で買うしかなかった。

薬局もいまのようなバラエティーショップ的な雰囲気ではなく、ムスっとしたオジサンやオバサンに面と向かって「コンドームください」と、厳かに、かつ明瞭に言わなければならなかった。

モゴモゴ言おうものなら「え、なんでっしゃろか?」と聞き返されるから、こっちも真剣に一発勝負に出ていたわけだ。

高校生の少年には結構キツかった。指でOKマークを作って「コレください」と言えば、コンドームという固有名詞を発声しないで済むと聞き、けなげに試したりした。

なんて可愛かったんだろうオレ、って感じだ。

いまでは単なるケダモノである。ドラッグストアのレジが妙齢の美人店員だろうと微塵も恥ずかしさを感じない。おまけに店員さんが気を利かせて別な袋に入れようとしてくれるのを制止して、むき出しで持って帰ったりする。

大人になるということは、そういうことだ。でも、何か面白くない。もっと恥ずかしがったりしてみよう。そのほうが楽しそうだ。

学生時代は、女の子とどこかにシケ込む?のも一苦労だった。まず、誘うときの恥ずかしさ、緊張感。それを突破してもシケ込む場所に入るときにはビビリモード全開だった。

予算的にラブホは高嶺の花だった。たまに奮発しても安めの場所を選ぶから、妙にドンヨリしたところに入っちゃって気まずい思いもした。

当時は渋谷あたりにあったレンタルルームにお世話になった。ビビリながら入った受付で学校の先輩に鉢合わせして焦ったこともある。

ああいう形態は今は絶滅したのだろうか。当時は若者が巣くう繁華街には結構アチコチにあった。同伴喫茶の発展系だったのだろう。

同伴喫茶と異なり、完全個室でソファは背もたれが倒れるタイプ。ちょっと洒落た作りがウリで、口八丁手八丁で女子に「同行」してもらうことばかり考えていた。

いかにも必死な感じだった。命がけでそんなことばかり考えていた。下ネタに限らず何でもかんでも一生懸命だし、精一杯だった。いま思い出すと妙に切ない気分になる。

若さの特徴は、何かに熱中するときは頭の中にそれだけを充満させて一心不乱になる点だろう。不器用だが、情熱という意味では立派なもんだ。

オッサン的思考は、物事をまっすぐに見ないし、最初から半分ブレーキを踏んだまま、小さくまとまっているような感じだ。

いわば、分別ヅラにあぐらをかいているような日常である。

自分でこれを書きながら改めてそんなことを実感してしまった。何事も文章にしてみることは大事だ。

我ながら有意義な考察?になった。老け込まないためにも、バカっぽさを厭わないで日々を過ごすようにしよう。

2013年6月24日月曜日

あまちゃん 女優 ビンビン


NHKの朝ドラ「あまちゃん」を欠かさず見ている。ハマっている。脚本の面白さ、出演している俳優陣の巧みさもあって毎朝8時が楽しみだ。テーマ曲もウキウキする。

朝ドラを一生懸命見たことは数えるしかない。「ちゅらさん」、「ふたりっこ」、あとは20年ぐらい前に鈴木京香をブレイクさせた「君の名は」ぐらいである。

「あまちゃん」の場合は、見られない日は録画予約までしている。過去にないハマり方だ。宮本信子は文化財級だ。昔から小泉今日子は苦手だったが、実にうまいポジションを獲得したと思う。アッパレである。

平泉成、杉本哲太、吹越満、荒川良々あたりの脇役陣が見事に機能しているし、世代を問わず楽しめる上手な作り方だと思う。

主演のコもいいが、親友役の橋本愛がいい感じだ。昨年NHKで放送されたドラマ「はつ恋」で主人公の木村佳乃の少女時代を演じていたときに知った女優さんだが、将来性タップリだと思う。

俳優の世界、とくに女優の世界は美貌に関係する要素が大きいから大変だと思う。美人なんて毎年毎年生まれ出てくるわけで、トップで活躍し続けるのは並大抵のことではないだろう。



だいぶ前に「大原麗子物語」というドラマを見た。ナンバー1女優の苦悩と下り坂をたどっていく現実が哀しい話だった。

うまい具合にオバさん役、お婆さん役に転換できればいいのだろうが、あれほど一世を風靡した女優だから事はそう簡単ではなかったのだろう。その点、松坂慶子なんかは実に上手な転換ぶりだ。

それにしても全盛期の大原麗子ほど日本中の男性をシビレさせた女優はいないのではないか。

ムードという言葉の正確な意味は分からないが、まさに「ムードたっぷり」だった。眺めているだけで惚けてしまう感じ。

いまどきの女優のようにそこらへんを歩いていそうな親しみやすさとは違う。「絶対にそこらへんにいないけど、なぜか身近にいてくれることを妄想したくなる」希有な存在だった。

早逝が悔やまれる。

夜の街で、話のとっかかりとか、会話に詰まったホステスから「どんな女優さんが好みですか?」とか尋ねられることがある。

たいてい、「室井滋」とか「片桐はいり」とか「吉行和子」とかの名をあげて、空気をドンヨリさせる私だ。そんな質問をされてもとっさに名前は出てこない。

「檀れいが嫌い」という一言はすぐに出るのだが、好きな方はなかなか思い浮かばない。

人生で恋い焦がれた芸能人はキャンディーズ時代の蘭ちゃんと十代の頃の桜田淳子ぐらいである。

その後は、夢の中になぜか出てきた香坂みゆきがちょっと気になったこともあった。

変な夢はそれ以外にもあった。交差点でクルマにはねられた女性を助けたら、なぜかその人が木村佳乃で、助け起こした瞬間、これまたなぜか「あなたが好きだったんです」と告白されるアホな夢だった。

おかげで、その後半年ぐらいは、木村佳乃をテレビで見るたび、「好きなタイプじゃないのに困っちゃうんだよな」とつぶやいていたアホな私だった。

さてさて、「女優」と聞いて頭に浮かぶのは大原麗子の他に「栗原小巻」である。超絶的な美人だった。「松原智恵子」も美しかった。「名取裕子」や「坂口良子」もタマランチンだった。

美しい人は見ているだけでこっちが嬉しくなる。人に見られるために美人に生まれたのだろうから、世の中の美人さんは皆さん女優さんになればいい。

話は変わるが、先月、シンガポール空港で一枚の大きなポスターにしばし見とれた。なんとも美しい女性が起用されていた。



帰国後に調べてみたら、リー・ビンビンとかいう中国の女優だった。聞くところによると大の日本嫌いだそうだ。反日女優という呼ばれ方もあるらしい。

出演したハリウッド映画の日本公開用ポスターから自分の写真を外せと申し立てるぐらい日本が嫌いなんだとか。

ちっともビンビンしない話である。最悪だ。

ということで、ホレやすい私が、ちっともホレずに済んだ。

ああ~、大原麗子サマが懐かしい。今度の週末はレンタルビデオ屋に行って、いにしえの出演作品でも探してみよう。

2013年6月21日金曜日

据え膳、エロ本


気付けばすっかり中高年である。頭の中に浮かぶことは若い頃と同じなのに、世の中では十二分に成熟した大人になってしまった。

肛門屁の出口、いや、光陰矢の如しである。

最近、ふとした瞬間に「若い頃はこうだったな~」とか「子供の頃は何であんなだったんだろう」と懐かしい記憶が甦る。



この画像は、江戸川橋にある鰻屋さん「はし本」での一コマ。上等なウナギを腹一杯食べたあとの画像だ。

この店、すぐそばにある老舗鰻屋の「石ばし」の陰に隠れがちだが、相当美味しい。惜しむらくは、鰻重が並と上の2種類しかないことだ。ご飯が見えないほどナンセンスに?ウナギがどっかり載っかった鰻重は用意されていない。

富豪記者的には少し寂しい。でも、それが世間に迎合していない職人気質のようにも思えて悪くない。腹八分目もオトナのたしなみとして必要だ。

白焼きもウマいし、値段も良心的だし、穴場だと思う。肩肘張らずに、サンダル履きで出かけられそうな気安さがある一方で、味のほうはバッチグーだ。

さて、空になったお重を見ながら思ったのが、「高校生の頃はウナ玉丼だったなあ」というミョーな感慨である。

ウナギが食べたくても、さすがに高校生の小遣いでは厳しい。おとなしくシェーキーズの食べ放題に行けばいいのに、鰻屋さんの廉価サービス品であるウナ玉丼を食べることが多かった。

親子丼の鶏肉の代わりにコマ切れのウナギがちょこちょこ入っているドンブリだ。隣の席のオッサンが鰻重を食べているのを恨めしくチラ見しながら、早く大人になりたいと願っていた。

あれからウン十年、いまや鰻屋さんで一番デカい鰻重を当然のように食べている。実に大人である。

白焼きも頼んで、うざくやう巻きも鎮座させて冷酒をグビグビ飲んでいる。オッサンの完成形である。

よくわからないけど感慨深い。

感傷的とかそんなセンチな感覚ではなく、ただ漠然と若い頃の悶々とした感じが懐かしく感じる。

カッコつけて飲んでいただけだったお燗酒が心の底からしみじみウマいと感じたり、フォークとナイフの格式高い?食事の場でちっとも緊張しない感覚とか、「気付いたら大人だった」という場面はたくさんある。

飲み過ぎて吐きまくらなくなったのも同じことだ。もちろん、その分、オッサン的ウザったさを身にまとうようになったのも確かだ。

どちらがいいかといえば、オッサン生活のほうが若者生活よりも快適だ。

いつのまにか根拠のない思い込みから解放された感じ。自然と力みも無くなっていた。

あらゆる分野の「ねばならない」という強迫観念みたいな思い入れが単なる呪縛だと気付いて、その外側でホゲホゲ過ごせるようになったのだろう。ウッシシである。

他人様からの目線や風評、噂話なんかにも若い頃は敏感だったが、いまではそんなアンテナはすっかり錆び付いている。それでもちっとも困らない。

男だから女性への興味は退化していないが、それでも若い頃とは随分と違う。

俗に言う「据え膳」を目の前にした時、若い頃なら「しなければならない」と頑張ったが、いまでは眠気が優先すればシレっとした顔で帰っちゃう。かなり大人である。

若い頃は、風邪引いて熱があっても「据え膳」に手を出すのが当然だと思っていたし、「据え膳」が土偶みたいな顔でも、時には目をつぶりながら頑張ったりした。

我ながら御苦労なことだった。

なんだか話の方向性が分からなくなってきた。

さてさて、子供と大人の分かれ目はいろいろある。代表的なのはエロ本を平気で買えるかどうかだろう。

また下ネタに戻ってしまった。

中学、高校ぐらいまでは、駅の売店で売っている平凡パンチとかGOROの表紙が目の隅に入るだけでザワザワした気持ちになった。堂々と買うには勇気が必要だった。

本屋に行ってその手の雑誌を買うにも、勇気を振り絞ったあげく、別の本と重ねて隠し気味にレジに持っていったりした。

その後、ハタチも過ぎたあたりから恥ずかしさもなくなり、欲しいエロ本が見当たらなかったら、レジの人に探してもらうぐらい図々しくなった。

まさに「大人の階段の~ぼる~♪」である。

もっとさかのぼれば、空き地に捨てられていた雨でガビガビになった怪しい雑誌なんかを宝物のごとく拾ってきて「愛用」した。実に切ない話だ。あんなものにウキウキした自分の世界観が哀れである。

それほどまでに愛したエロ本ともすっかりご無沙汰だ。大人になるということはエロ本との別れを意味することなのだろうか。

いや、先日会った旧友は今もエロ本に夢中だという。都内で歯科医院を開業する小学校時代からの友人だが、休診日にコンビニで買ったエロ本を喫茶店で読みふけることが楽しみだとか。

立派である。ヤツのやんちゃな感性は日々のエロ本によって支えられているのだろう。

見習ってみようと思う。

2013年6月19日水曜日

殿堂入りのとんかつ


時代の流れに負けて使い始めたスマホには1600万画素のカメラがついていた。実にムダなスペックだが、私もブロガーのハシクレである。ちょこちょこと画像をアップするわけだから有効に活用しないとなるまい。



ということで、記念すべき画像1発目は「とんかつ」である。最初に載せる画像がインスタント麺とかソースの瓶とかだと残念な感じだから、とんかつで正解だ。

許されることなら毎日3食でも食べたいのがとんかつだ。肥満、胸焼け、逆流性食道炎等々のオトナの事情によって滅多に食べないが、この日は貴重な情報を入手したので腹ぺこ状態で食べに行った。

情報源は、高田馬場・鮨源の職人さん。「近くにアホみたいにウマいとんかつ屋がありまっせ」というタレコミだ。CIAやKGBも真っ青な国宝級の情報だった。

高田馬場には、知る人ぞ知るとんかつの名店「とん太」があるのだが、訳あって長い間訪ねていない。情報によると、そこよりも満足できるスペシャルな店らしい。胸が張り裂けんばかりのドキドキ感とともに行ってみた。

店の名前は「成蔵」。高田馬場のシュールな老舗「餃子荘ムロ」のすぐそばに佇んでいた。

平日の夜8時過ぎなのに満席だ。相当な人気だ。割とすぐに席に案内される。ジャズなんかが流れていて、カフェ風の作り。こういう路線のメシ屋さんは個人的には好きではない。

サービスは至って普通だが、全体にスローなリズムだ。カウンターで調理するコックさんは2名、何気なく見ていたのだが、こちらもアセアセ動き回るわけではなく、どこかゆったりと作業している感じ。

カフェ風の雰囲気、キビキビとは違うテンポ、ついでにいえばメニューに酒のツマミになりそうなものがない。おまけに身の厚いとんかつを頼んだから出てくるのに時間がかかる。

そんなこんなで、短気なオッサンである私は、連れに向かって「こういう店はイヤだ」とか「もう来ないな」とかブツクサ文句を連発していた。

そうこうしているうちに、とんかつ登場。一口食べてみた。とっさに「また来ようぜ~」と叫ぶ私。笑顔爆発、バカ丸出しである。

衝撃的にウマかった。店の雰囲気とかメニューがどうたらとか、そんなことはミジンコみたいに極めて小さい話である。

あれだけウマいとんかつを食べさせてくれるならBGMが例え民謡だろうと、席が相席だろうが構わない。いや、立食だろうと気にしないで食べに行きたいぐらいだ。

ついでに言えば、箸がないから手で食えって言われても受け入れてしまいそうだ。

もう一つついでに言うなら「何じゃこりゃ~!」という印象だ。「太陽にほえろ」で松田優作扮するジーパン刑事が凶弾に倒れたときのセリフだ。そのぐらい驚愕に値する味だった。

ちなみにこの店では、1000円ぐらいから各種定食が用意されているが、この日は自慢の逸品らしい「シャ豚ブリアン」というベタなネーミングの特ヒレカツと、レギュラーメニューではない限定品の金華豚の特上ロースカツをオーダーした。

金華豚は3600円、特ヒレは2300円ぐらいだったろうか。両方で50人以上にマックのハンバーガーをご馳走できる金額だ。とても高価ではある。

隣の席の客が食べていた普通のヒレカツも充分に美味しそうだったから、なにも最上級品にこだわる必要はないのだろう。マックのハンバーガーを10人ちょっとで食べる値段で極上の幸せが味わえるわけだ。

でも、周囲の若いお客さんに比べたら私の人生の残り時間は確実に短いから、ここぞとばかりに奮発してみた。

ちなみに、私がいつも金銭換算の例えに使うマックのハンバーガーだが、このブログで書きすぎたせいで?、まもなく単体で570円の高額商品が登場するらしい。それはそれで正しいことだと思う。

さて、冒頭の画像は両方を混ぜて撮影した。やはりロースの脂はチトきつい。最初のうちは甘味タップリの脂が嬉しいのだが、3切れ目ぐらいからはヒレのしっとり感に惹かれる。そのあたりは単に好みの問題だろう。

肉のうまさはもちろんだが、衣が軽い点が素晴らしい。ちっともクドくない。事実、バクバク食べまくったのに、食後の苦しさ、胸焼けとは無縁だった。

実はとんかつの他に、大きなエビフライとメンチカツも頼んだ。それだけの揚げ物大会にもかかわらず、食後が爽やかだったのは奇跡だと思う。

エビフライがまた絶品だった。浅草や銀座あたりの歴史のある高級洋食屋も太刀打ちできないレベルと言っても良いかもしれない。

エビフライは一本から注文できるそうだ。次回は3本ぐらい頼んでタルタルソースをべろべろ舐めながら生ビールとともにグビグビかっ込んでからヒレカツと対峙したいと思う。

変な話、この店のとんかつを食べて思ったことは、「健康は大事だ」という一点である。胃腸の状態が健全でなければ、揚げ物をニコニコと大量摂取することは難しい。

日々の摂生に努めようとガラにもないことを思いながら膨れあがった腹を撫でながら帰路についた。

2013年6月17日月曜日

負けてしまった


いつまでもガラケーを使い続けようと思っていたが、アチコチから四の五の言われてスマホを入手した。

負けた感じがする。

http://www.nttdocomo.co.jp/product/smart_phone/f06e/index.html

ガラケーは近いうちに作られなくなるという脅しみたいな話を信じて切り替えてしまった。

実は2年前にスマホに移行したことがある。いじってみたが、あまりのウザったい感じにイラついて3時間でやめてしまった。ドコモショップに戻って元のガラケーに復活させて、以後平和に暮らしていた。

富士通のガラケーの特徴は超絶的にプライバシーを保護する点だった。シークレットモードの優秀さ?は呆れるほどで、世の中では浮気ケータイとか称されていたらしい。とても活躍してくれた。

いや、品行方正な私だから、そんな機能は必要ない。ということで、いよいよスマホに移行したわけだ。

2年前の教訓のせいで、スマホは新規契約にして、ガラケーと平行して使ってみた。スマホの何たるかを理解してから一本化する作戦だ。

で、シコシコいじってみた。というか、社内のシステム担当者に付きっきりで色々教わった。

で、そこそこ理解できたので、ついにガラケーとおさらばして一本化することにした。

ドコモショップがマヌケなおかげで、たかだか機種変更に2時間半も時間を取られた。聞くところによると、そんな事態は「ごく普通のこと」らしい。

日本中で、あんなにバカげた時間の浪費が毎日毎日繰り返されているかと思うとゾッとする。わが国の経済効率にとって凄まじい損失だと思う。

近年の国力低下は、携帯だのスマホだのが一因じゃないかと思ったりした。

さて、スマホだ。正直に言って、ガラケーから移行する意味はあまり感じない。むしろ不便になった部分も多い。

時代の流れだからと言って、我慢させられる状況がちょっと腹立たしい。

ほんの20年ぐらい前までは、あんなものに生活を支配されていなかったのだから諸行無常である。

女の子の家に電話して、お父さんが出ちゃった時の切なさとか、待ち合わせ場所に遅れたら飲み会の場所がまったく分からず右往左往したような「ワビサビ」?が無い社会になった。

河合隼雄さんか誰かが「昔を懐かしんでばかりいるヤツは進歩を受け入れられないヤツだ」と言っていた。実に的確だと思うが、ことケータイ・スマホのジャンルに関しては、アレがなかった時代が素直に懐かしい。

まあ、私自身、あの便利さにドップリはまって生きているが、何となく大きな手に騙されているというか、丸め込まれている気がしてならない。

スマホのせいで、毎月のコストがキツくなった若者は、あの小さな機械を存分にイジることだけを優先するから、旅行には行かず、ファッションにはお金をかけず、クルマにも興味を持たないそうだ。

男たるもの、若いうちは旅に出てさまざまな刺激を受けるべきだ。女の子の尻を追いかけるためのアイテムに夢中になることも大事な修行だ。家に引きこもってファッションやクルマに興味も持たず、カチャカチャと機械いじりに没頭してばかりでは寂しすぎる。

困ったものだ。こっちの老後の福祉を支えてもらわないといけないのだから、もっとアクティブに活躍して欲しい。

などと、ジジむさい説教調になってしまったからこの辺にしよう。

ケータイが無い時代の男女の切ない別れの曲を思い出した。敬愛するハマショー閣下の名曲だ。

高速の渋滞に巻き込まれて待ち合わせ場所に行けないことを別れの合図と受け取る切ないストーリーが昔ならではだ。

お時間のある方はゼヒ聞いてみてください。

http://www.youtube.com/watch?v=AF7PWhRb4WI


2013年6月14日金曜日

かき氷!!


かき氷。子供の頃の夏休みを思い出すキーワードだ。

まぶしい日差し、セミの鳴き声、匂い立つ木々の緑。そして、台所から響くガリガリと氷を削る音。

都会育ちの私でも、郷愁をそそるそんな夏の光景を鮮明に覚えている。

赤や緑のシロップを垂らすと頼りなげに壊れて沈む氷。溶けきらないうちにガツガツとスプーンでかっ込む。シロップの色で舌を変色させながら、眉間の奥がツーンと刺激されてたじろぐ。

昭和の子供の夏のあこがれがかき氷だった。

その後、過剰なまでのクーラーの普及によって、昔よりかき氷の権威?は低下したように思う。

夏の節電が世の中の基本になりつつある今、「かき氷復古の大号令」が全国各地に吹き荒れて欲しいものだ。

ということで、スペシャルかき氷を食べた話を書こう。

場所は目白にある老舗和菓子屋「志むら」。1階の店には名物の「九十九餅」を買う人が次々と訪れる。2階、3階の喫茶室が夏のオアシスである。

地元では有名な「志むらのかき氷」。池波正太郎のシンコではないが、私にとってここのかき氷を食べないと夏が来たとは言えない。



生いちご・850円。これがここのかき氷の石原裕次郎的存在だろう。初めて食べる人はまず驚嘆する。

「生」とわざわざネーミングされていることがキモだ。やはり「生」は良い。最高だ。

オッといけない。いちごの話だ。

かき氷でイチゴと言えば、毒々しいまでの赤い着色料シロップが定番である。私自身、そう信じて疑わずに何十年も生きてきた。

この店の場合、シロップではない。わかりやすくいえばジャムみたいなソースみたいな、そんな表現が的確だ。

いちごそのものの立体感も堪能できる。優しい粉雪のような得も言われぬ食感の氷と一緒に味わうと悶絶する。革命的な驚きがある。

家で食べていた素朴なかき氷や、そこらへんの甘味屋がやっつけ仕事で出してくるかき氷とはまるで違う。「こんな世界にまで格差があったのかよ」と変な感慨がある。

850円である。マックのハンバーガーを8人にご馳走する予算があっても、このかき氷は食べられないわけだから驚きである。

なんか最近はこんな例えばかりしている。100円マックに恨みはないのであしからず。

ご近所の人は必ず行くべきであり、遠方の人でもわざわざ食べに行ってもいい逸品だと思う。



この日は、「黒蜜きなこ」も注文した。正直、個人的にはこっちの方がウマかった。一口食べて「こりゃあ、たまらんちん!」と叫んだほどだった。

黒蜜きなこと氷の競演である。正しきニッポンの中高年なら涙を流して喜ぶ味である。

近所の人は何があっても食べるべきだし、例え海外在住の人でも飛行機に乗って食べに来てもいいと思う。

まるで店の回し者のようでシャクだが、アマノジャッキーである私でも斜め目線で寸評できるようなシロモノではない。素直に美味しい。

毎日食べてもいい。

これを書いているだけで、もう食べたくなってきた。わが社からチャリをぶっ飛ばせば5分やそこらで行ける。

行くことにする。

ということで、オチがなくてスイマセン。


かき氷バンザイである。

2013年6月12日水曜日

高価なラーメンと高価なオムライス


モノの値段が高いか安いか。こればっかりは相対的だから時に厄介だ。

3千万円のフェラーリ。確かに高い。でも、2年ぐらい乗っても値落ちせずに売却できたりする。500万円ぐらいのアメ車を2年乗り回した後の価値暴落を考えたら、断然フェラーリが安い。アメ車を買う人のほうが散財という意味では“お金持ち”である。

ある人にとって喉から手が出るほど欲しいものを別な人はゴミとして捨てる。そんな価値の多様性を表す話は世の中にゴマンとある。

もっともらしく書き始めてみたが、とくに意味はない。先日食べた「高い食べ物」を思い出していたら、つくづく「値段と価値」は複雑怪奇なものだと感じた。




あっさりした画像だが、実は2540円のラーメンである。薬味は別皿でタップリ用意される。パーコーメンだから揚げた肉の分が割高になるのは分かる。でも、それだって和牛ステーキが乗っかっているわけではない。普通のラーメン屋でチャーシューをブリブリ追加するぐらいの話だ。

でも、すんごくウマい。美味しさを表現するボキャブラリーが乏しいことが残念だ。スープを一口すするだけでジンワリ滋味が身体中に染み渡る感じ。パーコーも甘みを感じる肉とスープと適度に馴染んだ衣のコンビネーションがバッチグーである。

赤坂にあるキャピトルホテルのカフェレストラン「ORIGAMI」での一品である。

ホテルメシだからある程度の値段になるのは仕方がないが、コレが食べたい気分の時には値段のことは忘れてむさぼる。

高いけど、まあいいか、また食おうって感じで納得する。

普通のラーメン屋のラーメンなら600円とか800円だ。安い店ならその半額ぐらいも珍しくない。人気の店だと1000円ぐらいのラーメンもある。

正直、ヘンテコなドブ水みたいなスープが用意されるイマドキのつけ麺に1000円も払うなら、2540円のパーコーメンのほうが充実感がある。

味の好みは人それぞれだが、ギトギトと不健康そうな脂がぐちょぐちょ浮いている汚水のようなスープを有り難がるよりマシだと思う。

吉原のソープ通いを人生の喜びとする知り合いがいる。彼のポリシーは「大衆店に3回行くなら高級店に1回行け」である。

真理だと思う。

2万円の店に3回行くなら6万円の店に1回行けと言うことだ。私も男だ。経験上?、とてもよく分かる話だ。

そういうことだ。どういうことだ?

それにしても2540円のラーメンって、値段に関してはヘンテコである。牛丼一杯250円の時代である。10人が横一列に並んで牛丼をかっ込んでも2500円である。

そう考えると混乱しそうになる。でもウマいから仕方がない。もしかすると「高価なラーメンを食ってるんだもんね」という高揚感も味覚に影響しているのかもしれない。




こちらは2300円のオムライスである。卵はフワフワ、中のケチャップライスにはプリプリのエビがどっさり、そしてドミグラスソースは深い味わい。実に官能的である。

でも、マクドナルドのハンバーガーを23人が横一列になってかじりつく時の値段と同じである。100円ショップで買ってきたカップ麺を23人にご馳走できる値段である。凄い話だ。

これまた脳の回路が「贅沢な一品を食べちゃってるんだぜ」という部分に引っ張られて、ことさら美味しく感じていることも否定できない。

大げさかもしれないが、オムライスは日本の伝統工芸品?である。デパートのレストラン街で出てくる980円ぐらいのトロトロオムライスだって十二分にウマい。

もの凄く美味しくても2300円はさすがにビミョーである。一定レベル以上のオムライスであれば、目隠しされて値段も聞かずに味比べさせられたら2300円が圧勝するとは限らないだろう。

などと、どうでもいい話を延々と書いてしまった。

何だかんだいっても、「日本の洋食」が私の大好物である。ついついその道の高級品にトライしたくなる。

20代の頃、老舗の洋食屋で5千円ぐらいのハヤシライスを食べて財布が悲鳴を上げたこともある。今風に言えば心が折れた感じがした。無意味な闘いというか、意味不明な修行みたいだった。

ちなみにキャピトルホテルの場合は、洋食界のスター?である「スパゲッティーナポリタン」が2500円である。チト謎めいた値段設定である。

まあ、安すぎる洋食の場合、そこらへんの定食屋メシって感じだ。大正、昭和初期に日本人が出会った洋食の高揚感と官能的な喜びに浸るには相応の値段は覚悟しないといけない。

そういいながら、高級洋食の適度な価格帯が掴めないまま、すっかり中高年域に入ってしまった。


計測不能のエンゲル係数は気にせずに、食べられるうちはドカ食いを続けていこうと思う。

2013年6月10日月曜日

川柳


誕生日
ローソク吹いて
立ちくらみ


こんな切ない川柳ばかりを集めた「シルバー川柳」という本が売れまくっているそうだ。


編者は「全国有料老人ホーム協会」という社団法人。そんなお堅い団体が募集している高齢者をテーマにした川柳の入選作がまとめられている。発行した側もバカ売れ状態にビックリだろう。


目覚ましの
ベルはまだかと
起きて待つ



起きたけど
寝るまでとくに
用もなし


朝っぱらから絶好調である。高齢者のあっけらかんとしたパワーはさすがだ。


万歩計
半分以上
探し物


無農薬
こだわりながら
薬漬け


恋かなと
思っていたら
不整脈


深刻は
情報漏れより
尿の漏れ


妻旅行
おれは入院
ネコホテル


手をつなぐ
昔はデート
今介護


延命は
不要と書いて
医者通い


究極の自虐ネタのオンパレードである。そんなネタで勝負されたら、中年世代には勝ち目がない。でも面白い。

自分自身、ヨレヨレになったときに洒脱な川柳をどしどし生み出せるような明るさと明晰さを持っていたいと心底思った。

この手のクスッと笑える川柳と言えば、もう25年ぐらい前から恒例になっている第一生命による「サラリーマン川柳」だろう。

我が社が発行する新聞のコラム欄でも毎年のように紹介している。私自身、コラムを書く際のネタ枯れの時に助かったこともある。

こちらは高齢者だけが主題ではないので、シルバーとは違った趣がある。



言葉より
別れの予感
絵文字なし


赤い糸
無理に引いたら
切れちゃった


恋人が
いるかと聞かれ
「はい いります」


地球より
俺にやさしく
して欲しい


脱毛に
娘は通う
父悩む


エコな人
昔でいえば
セコい人



風刺がきいて楽しいものが多い。毎年恒例となったことで、入選作にはその年々の話題や著名人ネタが盛り込まれているのも特徴だ。


ダルビッシュ
一球だけで
わが月給


クラス会
あのマドンナが 
デラックス


ペと言えば
母はヨンジュン
父加トちゃん


ざっとこんな感じだ。

日本人のDNAに染みついている「五・七・五」調のリズムに合わせた日本語の奥深さを楽しめる。

堅苦しい言い方になるが、俳句や川柳って、日本語の語彙の豊富さや微妙なニュアンス、音感の特徴が混ざり合った文化的遺産といえよう。

それ以外にも、以前このブログでも取り上げたが、「七・七・七・五」の音律数でまとめる都々逸、「五・七・五・七・七」の短歌・狂歌など風流な言葉遊びが楽しめる定型詩がいろいろある。

学校でじっくり教わったわけでもないのに、生活の中で、何か気の利いたことを言おうとすると、こうした音律数が染みついていることに気付く。

わずか十七文字の川柳の世界が、数百文字の駄文より遙かに核心を突く。そんな面白さと奥深さが言葉の魅力なんだと思う。

2013年6月7日金曜日

男気、男らしさ、女々しさ


この頃、「男気」という言葉について考えてしまう。

きっかけは、身長差がウリだった芸能人カップルの離婚騒動。間男に嫁を寝取られたタレントが、多くを語らず淡々と離婚報告をした姿が「男気がある」と評価されたとか。

それって「男気」なのだろうか。単なる常識じゃないのか。お気の毒な話だが、それこそ大っぴらにする話ではないから、男気ウンヌンという次元では無いと思う。

その程度で男気があると評価されるなら、堂々と人様の家庭でコトに及んだ間男のほうが凄い。私の場合、旦那持ちの奥様の自宅でヘコヘコがんばる根性など無い。ついでに言うなら、それを連れ込んだ嫁だって、肝っ玉の据わり方という意味では男気タップリだ。

ちなみに「間男」って言葉もすっかり復権?したみたいで笑える。古き良き昭和の香りが漂うような、どこか郷愁をそそる「まをとこ」という響き、なんとなく好きだ。

話がそれた。

男気を辞書で調べると

「男らしい気質。弱い者が苦しんでいるのを見逃せない気性。義侠心」

だとか。

「男らしい」という言葉自体が抽象的だ。男の特徴はさまざまだ。乱雑とか乱暴だったり、ぶっきらぼうだったり。はたまた、幼稚でつまらないことに熱くなるという特徴もある。

それらがすべて「男らしい」なら、ゴミ屋敷に住んでいるオッサンや、特殊な執着心タップリのオタクの皆さんも「男気」に溢れた人々ということになる。

「男らしい気質」の最たるものは、女性を追いかけたがる点だろう。屁理屈みたいな話だが、突き詰めればスケベ根性丸出しで生きている人は「男気バリバリ」ということになってしまう。

やはり、「弱いものが苦しんでいるのを見逃せない気性」という意味合いのほうが「男気」を測るには的確だろう。いわゆる義侠心だ。

「義侠」とは、強気を制し、弱いものを救うという意味だ。今ではヤクザ者の専売特許みたいに使われているが、大塩平八郎とか赤穂浪士とか、歴史の節目節目で義侠心を持った先人が登場した。

歴史上の偉人に限らず、身近なところにも義侠は溢れている。震災ボランティアに汗を流す人々は、それこそ義侠心の塊だろう。そういう活動をいとわない人のことを「男気溢れる人」と呼ぶべきだろう。

他人の救いになることを率先して出来る人は心から尊敬に値する。私など普段エラそうなことをブツクサ言っているくせに、義侠心で脇目もふらずに活動したことなどまるで無い。情けない話だ。

震災支援とかの特殊な事態に遭遇しなくても、普段から美しい義侠精神を持って生きている人は多い。

街中や乗り物の中で、身体の不自由な人にサッと自然に声掛けや手助けに動ける人を見ると、自分の無能さに呆れる。つくづく口先だけの綺麗事は無力だと思う。

なんだか話がこんがらがってしまった。

今日は冒頭の間男騒動をとっかかりに、男女間における「男気」を考察?しようと思っていたのに、全然まとまらない展開になってしまった。

男女間における「男気」、いや「男らしさ」ほど定義が難しいものはない。「黙して語らず」が男らしさである一方、なりふり構わず何かを訴え続けることだって一種の男らしさのようにも感じる。

たとえば「女々しい」という言葉は、男性に向かって使う言葉である。男の言動、様子を表すための言葉だから、本来的に女々しいこと自体が男性の特徴でもあるのだろう。

我慢して寡黙を通すのも男らしさであり、、女々しいこともまた男らしさである。

男らしく生きたいと肩肘張って過ごしていても、女々しい根性や女々しい方向に突っ走りたい衝動も同時に抱えている。

それが生身の男なんだと思う。


2013年6月5日水曜日

映画の話


今日は映画の話。といっても、映画館にマメに出かけるほどの映画好きではない。BSで放送されていた昔の作品なども交えてアレコレ書いてみたい。


ヒッチコック監督の1958年の作品「めまい」。ストーリーの面白さ、少し怖いようなドキドキする展開、あっと驚くラストのどんでん返し等々。非常に面白かったのだが、そんなことより主演女優キム・ノバックの美貌が衝撃だった。

好みだとかタイプだとか、そういう低次元の発想を超越したビックリ仰天な妖艶美に圧倒された。ドヒャーという感じだ。画像はネット上で勝手にパクってきました。スイマセン。

さて、キム・ノバックだ。「昔の女優」。まさにその一言。単に「魅力的」とか「親しみやすさ」とか、そういうお手軽感の外側に存在する異次元的かつ超絶的な美人だろう。

オードリー・ヘップバーンの妖精のような美しさとは違う独特な雰囲気。寄らば斬られるぐらいのオーラが出ている感じ。

当時は売れっ子だったようだが、私としては、初めて知った存在だし、他の作品を見たことがないのでこの1作だけの印象だ。この映画、その部分だけでも見る価値アリの映画だと思う。

全然、作品と関係ない話でスイマセン。

続いては山田洋次監督の「東京家族」。個人的には期待外れの作品だった。昭和の小津作品へのオマージュだとのことだが、それに縛られ過ぎ。

全体のテンポやセリフ回し自体が不自然にゆるゆるしていた。あの味わいがウリなのだろうが、万人ウケとは違う世界観だと思う。演じる人々も、その雰囲気に縛られてしまった感じで、もったいない印象。

次に行きます。北野武監督の「アウトレイジ」。続編である「アウトレイジ・ビヨンド」を見る前に「1」を見ておこうと、レンタルビデオ屋で借りて見た。「ビヨンド」はイマイチだったが、「1」の面白さに唸った。

公開時には単なる暴力映画だと思って敬遠していたが、改めて観てみると、人間の醜い欲望や業が見事に掘り下げられていてちょっと感動した。

たけし監督は何だかんだいって鬼才なんだろう。改めてそう感じた。でも、監督を誉めるより、私が言いたいのは「三浦友和、萌え~」である。渡辺謙のライバル役として悪辣エリートに扮した「沈まぬ太陽」あたりから大好きな俳優になった。

そろそろ安売り紳士服の広告キャラクターはやめればいいと思う。松方弘樹のシルクのパジャマの広告と並んで、個人的に名優のああいう仕事はあまり好きではない。

これまた全然映画に関係ない話でスイマセン。

続いて「私の奴隷になりなさい」。壇密の主演作である。だいぶ前の話だが、暇に任せて場末の映画館に見に行った。

その後、この映画をこっそり見に行ったことをFacebookには恥ずかしくて書けなかったことを、結局Facebookに書き込んでみたら、大勢の人々から「いいね」を押してもらったから良しとしよう。

感想は特になし。強いて言うなら「壇密よ、有り難みが無くなるから、そんなに脱ぎまくらないでくれ」である。

続いては、久しぶりに映画館まで行って鑑賞した映画の話。

現在公開中の「くちづけ」という邦画だ。主演は竹中直人。監督は堤幸彦。

http://www.kuchizuke-movie.com/

その昔の売れっ子漫画家(竹中)が、妻に先立たれ、知的障害のある娘(貫地谷しほり)と二人で暮らしている。

縁あって知的障害者のグループホームに暮らすことになった親子と周囲の人々とのふれあいを描いた物語である。

あまりアレコレ書くとネタバレになるので遠慮するが、精一杯明るく楽しく描かれてはいるが、見終わった後に爽やかな感覚にはなりにくい。個人的には笑える場面で笑えなかったし、泣ける場面でも泣けなかった。

障害者を家族に持つことというテーマを重々しい角度とは違う視点で取り上げた点では画期的だと思う。ただ、非常に現実的、かつ救いの無い残酷な結末が切ない。こういうテーマをエンターテイメントに昇華させるのはなかなか難しいのだろう。でも、ある意味とてもリアルで、綺麗事で済ませなかった部分がキモだろう。

もう一つ、とても穏やかな気分になった映画について書いてみる。

上記の「くちづけ」を観に行った日の深夜にたまたま数ヶ月前に録画してあった映画を観た。切なくて、少し残酷な点では、奇しくも「くちづけ」と相通じるものがあった。

「きみに読む物語」という10年ほど前のアメリカ映画だ。原題は「THE NOTEBOOK」。邦題のネーミングが実に秀逸だ。

ある療養施設に暮らす高齢の女性。その女性に物語を読み聞かせてあげる同年代の男性。読み聞かせている物語自体が本編となる作品だ。名作「フライド・グリーン・トマト」にも似た世界だ。

物語は1940年代のアメリ南部の町。ひと夏の恋で終わるかと思われた若者の熱い情熱と、その後の人生の変転。そして現在に至る…。

勘の良い人なら割とすぐに年老いた男女の関係は分かるが、たとえストーリー展開が見えちゃっても、一途な愛の尊さに心打たれる素敵な作品だ。

アメリカ人が創るこの手の「永遠の愛情モノ」は、さすがに出来が良い。わざわざレンタルビデオ屋に行く価値はあると思う。

それにしても、死ぬまで仲の良い夫婦関係って実に偉大なことだ。そういう生き方が出来れば、それだけで天国行きの切符を手に入れたようなものだろう。

相手を愛おしいと思ったまま晩年を迎えられたら、それこそ人生でも最大の幸運だと思う。

刹那的に生きている人は、生き方を考え直す良い教材になりそうだからゼヒ観ることをお勧めする。

というか、私自身が何度も観て勉強しないといけないのかもしれない・・・。

2013年6月3日月曜日

クレジットカード


クレジットカードを使い始めてウン十年。整理してきたつもりだが、今も結構な枚数を持っている。ポイントや各種特典を考えると、1枚に絞った方がトクだが、そうもいかずに複数のカードホルダーだ。

実際、海外でキャシングする事態になったとき、なぜか使えるカードと使えないカードがあったりするし、口座引き落としの時間差も捨てがたいので、複数持っていたほうが何かと便利だ。

世界中どこでも使えるという意味ではVISAが一番なので、それを複数、その他にダイナースとか、法人カードとか、アメックスも活用している。

アメックスのプラチナカードは10年以上は使っているだろうか。当時、やたらとそそる案内に引っかかってゴールドカードから乗り換えてしまった。

それから数年経って、ブラックカードが登場した。そのせいでプラチナの位置付けはよく分からない感じになってしまった。

ブラックカードへの移行も当然のように勧められた。この時の案内が、これまたイヤらしかった。

名前も番号も刻印された現物の黒光りカードが送られてくる。「さあ、今からすぐに使えます」という趣旨だが、「とっととバカ高い年会費の餌食になりやがれ」という印象があったので、さすがにパスした。その後、二度と案内が来ないから、アメックスのブラックは乱発されずにキチンと運営されているようだ。

でも年会費が30万円ぐらいするはずだから、どう逆立ちしたって元は取れない。まあ、元を取るとか取らないとか言ってるような性質のものではないから仕方が無い。

ヘリとかプライベートジェットもすぐ用意してくれるらしいし、銀座あたりの高級ブティックで貸し切りショッピングもアレンジしてくれる。

私の場合、そんなサービスを必要とするほど時間に追われてないから、アメックスの誘惑にホイホイ乗らずに済んだわけだ。

プラチナだって年会費10万円を超える。自動的に各種の保険が付帯するが、それにしても高額だ。でも何となくやめられないのは24時間電話対応してくれるプラチナデスクのおかげだ。

旅行好きにとっては世界中の航空券や列車、船なんかの手配、ホテルの優待料金のチェックを瞬時にしてもらえるのは有り難い。

それ以外にも、一定のホテルであれば部屋のアップグレードやレイトチェックアウト、無料朝食サービスが受けられる。

シェラトンやウェスティンなどのスターウッドグループ、メリディアンなどのアコーグループ、その他の大手ホテルチェーンでも、プラチナカードを持っているとホテルグループの上級会員に無料で登録できる。

それ以外にも、世界中の空港ラウンジの無料パスとか、プラチナデスク経由で手配した旅行関係については、キャンセルした場合のペナルティー費用を補填する保険なんかも付いている。

とかいいながら、私の場合、潜水行脚のために比較的僻地の宿に泊まることが多いから、なかなか特典を使い切れていない。有名ホテルがあるような場所にしょっちゅう行くなら大いに意味はありそうだ。

そう考えると、年会費に見合う恩恵は全く受けていないことになる。最近は、航空券の手配も旧友が旅行会社にいる関係で、いろいろわがままを聞いてもらえる。ホテルだって、インターネット限定のヤケのヤンパチみたいな投げやり価格を探すのが楽しい。

ここまで書いてきて、今更ながら年会費のムダが気になってきた。その分、老後のために貯金した方が堅実だ。いや、そんなことでは日本経済がダメになるからもう一踏ん張りしようか。

思いは千々に乱れる。どうしたもんか。

というわけで、プラチナカード用のサイトから今現在の期間限定特典を調べてみた。ふむふむ、豪華客船「飛鳥Ⅱ」の世界一周クルーズが紹介されている。全部で100日以上の旅程だ。

一番高い部屋で1名あたり2700万円もする。ドヒャーである。一応、プラチナカードホルダーへの特典もしっかり用意されている。「旅行代金の2%分のクレジット」をくれるそうだ。54万円である。これなら年会費の元が取れそうだ。よし!

いや待てよ。ワイシャツ1100円のクリーニング屋を見つけて喜んでいる私にとって、2700万円の船旅はあり得ない…。

さっきもペヤングソース焼きそばを心からウマいと思って頬張っていた私である。豪華クルーズなんてガラではない。屁のカッパである。なんか言葉の使い方が間違っている気がする…。

なんだかアホバカ話になってしまった。

もう四半世紀以上も世話になっているクレジットカードだが、考えてみれば、簡単にローン、すなわち分割払いが可能だし、チャッチャとキャッシングも出来てしまう。

私の場合、若い頃からそういう使い方に頭が回らなかったせいで、今まで支払いに窮したり、ゴタゴタした経験に遭わずに済んでいる。

金利の計算が苦手だとか、分割払いがいくつも重なるのが怖かったという幼稚な頭脳のおかげで無難にカード生活が出来たようなものだ。

賢くないことも時には役に立つ。賢かったら大きな失敗と隣り合わせで生きるようなものだろう。


バカでいいや…。