2014年10月31日金曜日

大衆居酒屋の魔力


富豪になりたいと宣言しているものの、ちっとも富豪になれない日々である。アリバイのように銀座で寿司を食っただの高級ホテルのバーで飲んだだのと書いているが、その実態は大衆酒場でゲップを連発しながらクダを巻いている。

ホッピーにモツ焼きみたいなノリの店でホゲホゲ酔っ払っていると何だか身体中のアクが落ちていくような気がする。

大衆居酒屋には、肩の力が自然に抜けていく効能がある。でも、あまり頻繁に通い過ぎると肩の力が抜けすぎてフニャフニャになってしまう感じがする。主戦場にしてはいけないのかもしれない。

シュっとしたダンディー男を目指す私にとっては、まさに両刃の剣?である。

今日は「富豪」とは程遠い大衆居酒屋について考察?してみたい。

ここで言う大衆居酒屋とは、繁華街に数多く展開する小洒落たメニューを揃える居酒屋ではない。個人経営のディープな店である。若い女子のグループが見向きもしないような店だ。吉田類が行くような店のことである。

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2014/01/blog-post_24.html

BGMは昭和歌謡。はたまた、まるで無名の歌手が歌うこの先二度と聴く機会がなさそうな演歌である。

酎ハイ系はたいてい濃い目で、3杯も飲めばズドンと酔ってくる。モツ煮がウマいのだが、きっとゴキブリなんかもたまに煮込んじゃってるような雰囲気が漂う。

タタミイワシや変な煮物が代表メニューなのに、やたらとしょっぱい小ぶりなグラタンなんかも作ってくれる。

揚げ物もウマいが、その後に必ず胸焼けするような疲れた油を使っていて、刺身の色は変な色。そんな感じである。

まあ、これはあくまでもイメージである。

実際にはそこそこウマいものを食わす店も多い。ウマいといっても、グルメ本に載るようなものではなく、ネット上で美食家と称する人々が取り上げることもない。


たとえばマカロニサラダである。たかが、とはいえ、されど。である。大衆居酒屋の華といえるのがマカロニサラダやポテサラである。

不思議とディープな居酒屋になればなるほど、マヨネーズ指数が高くなる。マヨ味全開だとウマい。B級グルメならぬC級グルメの雄と呼んでもいい。

高価な純米大吟醸なんかにはちっとも合わない。ホッピーやナンチャラサワーにこそ抜群の相性を見せる。正しきニッポンのオヤジ向けジャンクフードだ。


これは池袋の某店で食べたレバカツである。上品とはいえないメニューだが、オヤジ飲みの現場ではヒーローみたいなものだ。ソースをかけてグワシ!って感じでかじりつく。

高級料理店では揚げ物にソースをべちゃべちゃつけて食べることはない。そのアンチテーゼのような大衆居酒屋ではソースは七味と並ぶ定番調味料である。

アジフライ、イカフライ等々、ソースの出番である。食後のゲップが妙に臭くなるような腐りかけの挽き肉を使ったメンチカツなんかもソースをしっかりまとわせて食べると最高だ。

世の中、やたらと熟成肉が流行しているようだが、大衆居酒屋の肉は大昔から熟成ならぬ腐りかけである。時代を先取っている。


カツ煮である。カツ丼のご飯抜き、すなわち上だけ。これをツマミに飲むのは至福の時間だ。豚肉がハムのように薄いのは御愛敬である。

まあ、ハムカツというシュールなメニューだって大衆居酒屋では珍しくない。あれはあれで不思議な美味しさがある。

カツ煮には充分濃い味がついているのに、ここにチョロっとソースを垂らしちゃうのもオツなものである。考えただけでヨダレが出る。

ソースといえば串揚げである。関西でおなじみのソース二度漬け禁止を謳う気軽な串揚げ屋さんもいつのまにか東京でもポピュラーになってきた。

これまた炭酸系のジャンクアルコールとの相性が抜群である。アブラギッシュオヤジ達の栄養源である。

このところ、胸焼けがおさまっているので、時々、そんな串揚げ屋にも出かける。食べ終わったらすぐに胃薬を飲み、食後3時間は身体を起こしておき、寝る寸前にも胃酸を抑える薬を服用すれば大体問題なしである。


空腹状態で乗り込む串揚げ屋はパラダイスである。次から次に出てくるものすべてが揚げ物である。ワンダフォ~!と叫びたくなる。

肉はもちろん、キスや海老、野菜だったらタマネギの串が最高だ。ふっくらした秋鮭や牡蠣、マイタケなんかもこの季節ならではだ。

先日は紅ショウガの串揚げなる一品を食べて結構感激した。B級、C級(その区分自体よくわからないが・・・)グルメの世界では紅ショウガは花形スターである。

たこ焼き、お好み焼き、屋台の焼きそばなど、紅ショウガが無ければ成り立たない。そんな「紅い色したニクイいやつ」を串揚げにしてソースをびっちゃり。最高だった。


ちなみに、真っ当なお寿司屋さんに行っても前菜用のツナサラダをドカ盛りで軍艦巻きにしてもらう。そんなフシダラな私の行動パターンは大衆居酒屋でジャンクフードを頬張ってグダグダ酔っ払っている副作用だと思う。

こんな話を必死に書いてしまったから、今夜の止まり木も間違いなくシュールな大衆酒場になるはずだ。

2014年10月29日水曜日

寿司飯ラブ


ウマく炊きあがったコメならドンブリで何杯でもかっこみたいぐらいコメが好きである。

この写真の豚丼のようにタレがコメに染みているヤツだったら上の具なんて無くたっていいぐらいだ。

どんぶりもの各種はもちろん、普通の白米、チャーハン、ピラフ、リゾット、パエリア、ドリアみんな大好きである。生卵かけ御飯、いわゆるTKGも大好物である。



暇な週末には寿司飯を自作する。食べ過ぎと分かっていても2合ぐらいペロっと食べてしまう。刺身よりコメを主役にしてガッついてしまう。

自作の寿司飯と言っても市販の寿司酢を合わせるだけだ。お気に入りの寿司酢を自分なりのこだわりの分量で使う。それだけである。

それでも充分ウマい。本マグロの赤身やイクラあたりをお供に寿司飯を頬張りながら録画済みの「太陽にほえろ」を見ているのが幸せな時間である。

今の時代、たいていの寿司屋では昔より寿司飯の味がマイルドになったように思う。昔はもっと酢が強いというか、味わいにメリハリがあった。

自作する場合、強めの味にするから白身魚などとは相性が合わないこともある。でも主役はあくまで寿司飯だ。好みの硬さに炊いたコメの食感と相まって、醬油すら無くてもペロペロ食べてしまう。

寿司飯が大好きなくせに街でお寿司屋さんに行くと、酒のツマミばかり食べて、握りは2~3貫ぐらいしか食べないことが多い。

もっと食べたい時もあるのだが、太っちゃうから我慢する。そんな欲求不満が週末の寿司飯ドカ食いの理由かもしれない。


寿司飯と一口に言っても、結構アレンジは可能だ。この画像は寿司飯で焼おにぎりを作ってもらった時のもの。

酢の風味のおかげで独特のウマさがある。スダチをチョロっとだけ垂らして食べても美味しい。

魚を乗っけて食べるだけではもったいない。温めてダシをかけてもウマいし、関西の冬は蒸し寿司もポピュラーである。

蒸し寿司は東京では滅多に見かけない。私自身、初体験は30歳過ぎの頃だった。京都のお寿司屋さんで食べて感動した。

一般的なのは蒸籠に詰めた寿司飯の上にアレヤコレヤと具材が乗っかりキンシタマゴで彩られて出てくる。

酸味のある寿司飯が蒸されてホカホカしている感じが東京人にとっては凄く新鮮だ。

ちょこちょこ訪ねる銀座の寿司「さ久ら」では、たいてい蒸し寿司を注文する。この店の場合、1貫分の握り寿司をそのまま蒸して、アンをかけて食べるスタイル。



出された時と、混ぜ合わせた時の画像である。日本酒をグビグビ飲んだ後でこんな素敵な一品を食べたら自動的に笑顔満開になる。

甘鯛とかその手の魚がある時なら尚更食べたくなる。アンの味、すなわちダシの味と酢飯の酸味が調和してホッコリする。

うどん、おでんの例で分かるように今や「関西風」が絶対権力者のように日本的な食べ物の世界を席巻している。

東京人として悲しい思いもあるが、ウマいなら仕方がない。蒸し寿司もいろんなアレンジとともに東京でポピュラーになっていいと思う。

蒸し寿司と違って完全なる邪道ではあるが、コメ好きにとって堪らないのが、寿司飯の洋風アレンジである。


この画像は、ホッキやホタテをバター炒めにしてもらった残り汁、いや残ったソース?で寿司飯を炒めてもらった時のものだ。

酢飯の酸味がアクセントになって、斬新な複雑味が楽しめる。これを食べたいから貝類のバター炒めを注文してしまう。


こちらも寿司飯をちょこっとだけリゾット風に仕上げてもらった一品である。考えてみれば、ちゃんとした美味しい寿司を食べずにこういう注文ばかりしているのはタチが悪い。

分かっているならヤメればいいのに、酔っ払い始めるとすぐに調子に乗ってしまう。寅さん流に言えば「思い起こせば、恥ずかしきことの数々・・・」である。

痩せようと思ってはいるのだが、自分の食のパターンを思えば痩せるはずはない。それでも「彦摩呂」や「石ちゃん」よりはスリムだから良しとしよう。

2014年10月27日月曜日

他人の関係  小指の思い出


12月のオヤジバンドライブに向けて練習も佳境に入ってきた。3年連続ともなると、前回よりも前々回よりも上を目指そうという意識が働く。

いわば、勝手に自分たちの首を絞めているような感じもある。まあ、そういう状況も楽しまないと終わった後の充実感を得られないから頑張らないといけない。

オリジナル曲はまだ無い。どことなく聞き覚えのある昔の名曲が中心だ。じゃないと来場者の皆様も退屈してしまう。

といいながら、オリジナル曲を作る意欲はチョッピリある。ちっとも上達しない私のギターの腕前がそこそこのレベルになったら披露したいと密かに考えている。目標は来年である。

先日、わがオヤジバンドの結成メンバーから嬉しいプレゼントがあった。練習を覗きに来た際にお土産にくれた鯛焼きのことではない。

オリジナル曲の音源である。以前、調子に乗っていくつか詩を書いたことがあるのだが、彼がそれをカッチョ良く曲に仕上げてくれていた。

自分が書いた詩がそれっぽい曲になったわけだから、何となくドキドキした。作曲者の彼が吹き込んだ歌唱付き音源を聴きながら妙に興奮してしまった。

「佐村河内さん」もあんな気分だったのだろうか。全然違うか・・・。

作曲してくれた彼とは高校生の頃、学園祭のために1日だけ即興バンドを組んだことがある。その時も2曲ばかりオリジナル曲を作った。この時も私が作詞、彼が作曲だったのだが、この時はやっつけ的に作った感じだった。

それに比べてこの日聴かせてもらった新曲は完成度が高かった。何かのパクリ風でもなく、メロディーラインも歌詞のイメージに合致している。

手前ミソ、自画自賛の極みだが、いつか自分でも弾き語りできるように頑張ろうと決意した。



甘噛みに肩が染まる
 吐息に濡れる夜~
  ・・・(略)・・・
溺れていたいロータスの花が開くまで
  ・・・(略)・・・
はじらいも剥き出しのまま熱く
険しく踊り続ける
 ・・・(略)・・・
狂おしく咲く
スパイダーリリーのように
                ♪



歌詞の一部である。少し官能的な路線を目指した。といいながら、カッコつけて言葉をつないでいるだけで素人まる出しである。

東南アジアでよく見かける独特の形をした百合科の花がスパイダーリリーである。夜になると怪しく元気に咲いているイメージがあったので、それを素材にしてみた。

作曲してくれた友人からは歌詞の追加を何カ所か求められたので完成まではもう一息である。

ギターのコードは難しくないらしい。まあ、私にとってはどんなコード進行も難解なのだが、必死に練習すれば1年もすれば弾き語りできるんじゃないかと甘い期待を抱いている。

さてさて、作詞の真似事をして感じるのは昭和歌謡の詩の世界の凄さだ。後世に残る名曲ともなれば凡人には思い浮かばないような詩がたくさんある。

今年、不倫ドラマとして話題を集めた「昼顔」のテーマ曲として使われたのが「他人の関係」である。

昭和人なら誰もが知っている一曲だ。原曲は金井克子の怪しげな風貌と独特な振り付けで大ヒットした。私自身、小学生の分際でよく口ずさんでいた記憶がある。

https://www.youtube.com/watch?v=y-33EmJVgnU



  逢う時には いつでも 他人の二人
  ゆうべはゆうべ そして今夜は今夜
  くすぐるような指で ほくろの数も
  一から数え直して
  そうよ はじめての顔でおたがいに又も燃えるの

  愛した後 おたがい 他人の二人
  あなたはあなた そして私はわたし
  大人同士の恋は 小鳥のように
  いつでも自由でいたいわ
  そして愛し合う時に何もかも
  うばいあうのよ

  逢う時には いつでも 他人の二人
  気ままと気まま そして大人と大人
  逢うたびいつもちがう口づけをして
  おどろきあう その気分
  そうよ はじめての 顔でおたがいに  又も燃えるの

  愛した後 おたがい 他人の二人
  男と女 そして一人とひとり
  あなたは私のこと 忘れていいわ
  迷ってきてもいいのよ
  私何度でもきっと引きもどす 
  もどしてみせる
                    ♪


いやはや官能的である。ホクロの数も一から数え直すわけだ。昭和歌謡の奥深さ極まれりって感じである。

回り道のような言い回しで核心部分はストレートに表現しないのが特徴だと思う。

♪あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ~♪

山口百恵だって、そんな路線の歌詞で話題をさらった。聴いている側の想像力を膨らますような狙いがニクい。日本語の面白さでもある。

私ごときの作詞レベルなど鼻くそである。昭和歌謡並みのセンスある歌詞が作れるようになるためには地獄の特訓を積んでも難しそうだ。

「他人の関係」の作詞は有馬三恵子さんである。昭和を代表する作詞家の一人だが、代表曲の一つである「小指の思い出」も実に素敵な歌だと思う。


https://www.youtube.com/watch?v=tS24d0fCFfA


あなたが噛んだ 小指が痛い
きのうの夜の 小指が痛い
そっと唇 おしあてて
あなたのことを しのんでみるの
私をどうぞ ひとりにしてね
きのうの夜の 小指が痛い

あなたが噛んだ 小指がもえる
ひとりでいると 小指がもえる
そんな秘密を 知ったのは

あなたのせいよ いけない人ね
そのくせすぐに 逢いたくなるの
ひとりでいると 小指がもえる

あなたが噛んだ 小指が好きよ
かくしていたい 小指が好きよ
だれでもいいの 何もかも
私の恋を 教えてみたい
ほんとにだけど いえないものね
かくしていたい 小指が好きよ
                   ♪


エロティックなのに可愛いと表現すべきだろうか。メロディーもよかったが、この曲に関しては単純に歌詞の完成度の高さが大ヒットにつながったことは確かだと思う。

抱いた抱かれたといったストレートな表現はない。ただ「ゆうべ、あなたが小指を嚙んだ」という言葉だけで、エロティックな情景が目に浮かぶ。プロの技である。

考えてみれば、これまで結構な時間を生きてきたから、私だって人並みかそれ以上に諸々な経験を重ねてきた。

ムード歌謡とか情念的な演歌みたいなシチュエーションだってたくさん遭遇した。それなのに、いざ、歌詞を書いてみようと意気込んでみても平々凡々な言葉しか浮かんでこない。

センスが根本的にないのか、はたまた感性が腐りかけているのか、大いに問題である。

危険な色恋に没頭しないとダメかもしれない。せいぜい頑張ることにしよう。

2014年10月24日金曜日

カリブ海とか紅海とか

今年は結局、潜水旅行に出かけないで終わりそうだ。学生時代に始めたダイビングは通算のキャリアこそ30年近いが、ここ数年はすっかり海に行く機会が減った。

ブランクを1年以上開けないことを自分の中のルールにしてきたが、去年の5月に潜ったのが最後だから全然ダメである。

最近も石垣島に潜りに行こうと誘ってくれた人がいたのだが、歌手活動?が忙しくて断念してしまった。

来年こそは仕切り直そうと思っているが、どうなることやら。まあ、せっかく長続きした趣味だから続けるようにしたい。

20代の後半から30代の前半はそれこそ無理やり時間を作って「遠い海」を目指した。何かに取り憑かれたようにカリブ海に通っていた時期もある。

地球の3分の2が海である。日本自体が海に囲まれているのだから近場でガンガン潜ればいいのに、当時の私にとっては、遠ければ遠いほど冒険心がくすぐられた。

遠くへ生きたくなる感覚、それを億劫に感じない感覚は若さの特権だったのだろうか。

飛行機の狭い座席に10数時間押し込められ、そこから2度3度と乗り換えて到着するハードな日程もヘッチャラだった。今は毛嫌いしているプロペラの小型機にも我慢して乗っていた。

情熱に突き動かされていた。あそこまでの熱さが今の自分には足りない。すぐにノンビリゆったり楽な方法を選んでしまう。

反省しないとダメである。自分で自分の行動を退屈なモノにしているわけだから、若い頃を思い出して邪念抜きに猪突猛進すべきだと痛感する。

さて、南国の話だった。

バリバリダイバーがこぞって出かけるパラオやモルディブなどにも行ったが、元来のアマノジャク気質のせいで、どこかマイナーだったカリブ海に惹かれた。

英国領グランドケイマン、メキシコ側のカンクン、コスメルには2~3回づつ出かけ、ジャマイカ、ホンジュラス、ボネール、キュラソーにも足を踏み入れた。

普段潜っていた太平洋と比べると大西洋側の海は生き物の様相も随分と異なり、浜辺から眺める海の色もどこかソーダブルーのような印象的な色合いだった。

何度も行くうちに、結局、魚種の豊富さでアジア海域のほうが圧倒的に面白いことを再認識したが、カリブ海リゾートの陸上の雰囲気に魅せられて、一時期はハマっていた。

英語もしゃべれないくせに随分と無鉄砲だった。でも、あの一生懸命さは、いくつになってもどんな場面でも絶対に大事なことだと思う。

結局、好きなことを無鉄砲を顧みずに堪能することが遊びや趣味の醍醐味なんだと思う。

イマドキの若い人は冒険心で旅に出ることが少ないらしいが、実にもったいないことだ。

「遠い海」といえば、エジプトの紅海も印象的だった。ロンドンを経由してようやくカイロに降り立ったのに観光もしないで海沿いのリゾート地へ乗り継いで潜ってばかりいた。

砂漠気候、すなわち雨が降らず、川もないエリアだけに海中の透明度が素晴らしかった。いま思えば、もっとノンビリとリゾートの時間を楽しめば良かったと思うが、当時はただ水中にいることが幸せだった。

だから私にとってエジプトの記憶といえば魚のことばっかりである。

遠い海、遠い場所に出かけると、心細さとか疎外感を感じるのが常である。そんな感覚を妙に楽しく感じるM?っぽい性格のせいで、どの旅もすべて楽しい記憶しかない。

自分の無力さ、ちっぽけさ、まるで頼るもののない状態をヒシヒシと感じることで、ある種、心のデトックスみたいな清々しささえ感じる。

自分と向き合う瞬間が持てることが旅の面白さだが、「遠い場所」になればなるほどそんな感性が強まるような気がする。

カリブ海で見たドラマチックな夕陽、紅海で見たやたらと高くて広い空。普段の生活の場からはあまりに遠いせいで、いつも見ている夕陽や空とは異質なものに見えてくる。

そんな情景に心が揺り動かされた日々を思い出すたびに、年齢を重ねても感性を劣化させてはいけないと自分に言い聞かせている。

昔から、若いうちに旅をしろと年配者達が口を酸っぱくして言っていた意味はそこにある。

若い時に受けた刺激はその後の人生において栄養になるし、年齢を重ねた時に自分の感性が腐っていないかの尺度にもなる。

もちろん、「遠い場所」で得る刺激は若者だけでなく、中高年になっても大事な体験だろう。

若い頃には持ち合わせなかった「大人の眼」があるのだから、年輪を重ねた「眼」にその場所の景色がどう映るのか、それを感性がどう消化するのかを楽しめばいい。

こんな事を書いていたら、また旅に出たくなった。マイルもやたらと貯まっているし、思い切ってどこかに行きたいけど、あれこれ野暮用もあるからしばらくは無理そうだ。

旅にまつわる格言は山ほどある。

「旅は人を謙虚にさせる」

「旅は自分自身の中へ行くこと」

まったくその通りだと思う。

2014年10月22日水曜日

酒の歓び


なんだかんだと酒浸りの日々だ。惰性で飲んじゃいけないと分かっていても、飲みたくなっちゃうから仕方がない。


これからグッと冷え込む季節だ。当然、酒飲み欲求は強まる。熱燗モードのスイッチも既にオンである。

こんな事を書いているとさぞや酒が強い男みたいだが、飲める量は大したことはない。

最初に生ビールを2杯ぐらい、その後、日本酒だったら2合半程度で満足する。4合ぐらい飲むと前後不覚である。

昔から二合半の酒は「こなから」と呼ばれる。飲み屋さんやおでん屋さんの店名として見かけた人もいるはずだ。小半とも書くらしい。

一升の半分の半分という意味で、適量の酒の意味合いでも使われる。まさに私程度の酒量は適量ということになる。

時々はチャンポンして延々とアホみたいな量の酒を飲み続けることもあるが、そうなると次の日は夕方までヘロヘロである。

日本酒、焼酎、ウイスキー、カクテル等々、場面に応じて何でも飲む。ウマい中華料理が目の前にあれば紹興酒が欲しくなるし、スペイン料理だったらカヴァをグビ飲みする。コンビニで売っている男梅サワーも嫌いではない。

一緒に食べる料理ありきでその日の酒は決まる。昔の大酒飲みは手の甲に塩を盛ってそれを舐め舐め安酒をあおっていたが、私の場合、塩しかツマミが無いなら酒を我慢できちゃう程度である。

さて、冒頭の画像は帝国ホテルの中にある穴場バーでのワンショット。本格的なバーに行く時は基本的に食後である。ツマミはほぼ無し。

こういうシチュエーションだとウィスキーのロックをチビチビ飲むことが多い。カクテルは同行者にお任せして、こちらはボウモアあたりで葉巻をプカ~である。

何年か前に首相時代の麻生さんが「ホテルのバーは安いんだぞ」と発言して批判されたが、確かに街場の洒落たバーでボッタクられることもあるから、あながちマト外れではない。

ホテルのバーの良さは「ちゃんとしてる感じ」に尽きる。酒はTPO次第でヤサグレた雰囲気を醸し出すきっかけになってしまう。「シュっとした感じで嗜む」ケースなら老舗ホテルのバーが最適だ。

先日、遅めの時間に妙齢の女性と某ホテルのバーで飲んでいた時のこと。会計を頼んだら若いボーイが「お部屋付けになさいますか」と聞いてきた。

その日、部屋など取っていなかった私はビックリである。ちょっと焦った。まあ、そう見えたのなら光栄な話?である。いや、そんなにエロ満開な顔をして飲んでいたのだろうか。ちょっと複雑だ。

でも、あのボーイさん、一言でいえばバカである。もし私が内緒で部屋を取っていて、その下心をまだ女性に明かしていなかったとしたら台無しである。損害賠償モノ!である。

幸い?な?ことに、その日はそんな予定がなかったから「事故」には至らなかったが、実にオッソロしい話である。

話は変わる。

バーで気取って酒を飲むよりもそこらへんのヘタれた飲み屋で安酒を飲む機会のほうが残念ながら?多い。


最近のお気に入りは梅たたきサワーである。梅干しをグジャグジャにしながら、おかわりのたびに梅干しを追加する。モツ焼きと合わせると至福である。

4杯目ぐらいになると、追加してグジャり続けた大量の梅干しがジョッキの下3分の1ぐらいを占拠するようになる。こうなると実にウマい。独特の風味が出てくる。

でも、これって梅干しの成分を考えると間違いなく塩分過剰である。梅という健康的なイメージにダマされている?が、要は不健康な飲み物を嬉々として飲んでいるわけだ。


不健康酒といえば、毛ガニの甲羅酒である。鮮度の良い毛ガニを堪能した後、カニミソを適量残しておき、カンカンに熱くした日本酒を注いでもらう。

ミソの甘味が加わってウヘヘのヘ~って叫びたくなるほどウマい。まあ、カニミソ自体が尿酸値だのそっち方面に確実に害があるわけだから、しょっちゅう飲んでいてはいけないシロモノである。

冬になれば燗酒がウマい。身体中がジンワリするあの感覚は、日本人に生まれて良かったと痛感する場面だと思う。

基本的に和食系が基本なので、これからの季節は日本酒にお世話になる機会が増える。

日本酒の場合、普段の食生活に合うだけでなく適度なアルコール度数も影響して、油断するとついつい飲み過ぎる。

カロリーも高いし、翌朝に残りやすいのが困りものなので、日本酒を選ばない時は焼酎である。

これからの季節、芋焼酎のお湯割りは欠かせない。「宝山」シリーズの「綾紫」あたりをお湯割りにすると、ふくよかな香りが楽しめて物凄くウマい。是非お勧めしたい飲み方である。


昭和の男たちが愛した酒といえばウイスキーである。いまでは他のアルコール類の台頭で勢力は弱まってしまったが、これはこれで味わいがある。

オネエサンが相手してくれる店はウイスキーが主流だ。なぜか焼酎だと気分が出ない。酒なんてモノは結局は気分に左右されるから、ああいう場面ではウイスキーが収まりが良い。

本当は竹鶴とかマッカランが好きなのだが、銀座に出ると私は常にオールドパーである。あまり好きな銘柄ではないのだが、在りし日の祖父が愛飲していた銘柄なので、長く通っている店ではほぼ100%オールパーをキープしている。

もともとは祖父を偲んで飲み始めたのだが、最近はこのウィスキーの名前の由来であるイギリスの絶倫スケベ爺さんにあやかる気持ちのほうが強くなってきた。

パーじいさんの逸話を紹介した過去記事は下記ご参照。

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2008/03/blog-post_10.html

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2009/12/blog-post.html

明治の元勲達や田中角栄さんも愛したオールドパーに肩入れすることは、自分が昭和人であるというアイデンティティーの確認と、死ぬまでエロを追及したいという願望の表れである。

酒の話を書いていたのに結局そっちに話題が移ってしまった。

煩悩バンザイである。

2014年10月20日月曜日

カラオケボックス


いつのまにか街の景色の一部になったのがカラオケボックスだ。40代後半以降の世代から見れば、若い頃には存在しなかった場所である。

30年前ならカラオケ自体が年配者のシブい嗜みであり、若者のレジャーではなかった。20年ぐらい前にはワイワイ歌いながら騒ぐパターンが定着していたが、それでも「ボックス」ではなかった。

あくまで、カラオケが楽しめる飲み屋さんで、それこそステージに立って見知らぬ客の視線を浴びながら歌うのが普通だった。

いま、繁華街を見回せばカラオケボックスだらけである。ビル一棟まるごとというパターンも珍しくなくなった。

学生だと平日の昼間は一人500円程度で何時間でも歌い放題らしい。喫茶店より安上がりかもしれない。我々オジサマ世代の人間が学生の頃にカラオケボックスがあれば随分世話になったはずだ。

その昔、変なスナックに行くと「1曲200円」とか平気で取られていた記憶がある。通信カラオケなど夢のまた夢で、ヘンテコなサイズのカセットを機械に差し込んで曲を選んでいた時代の話だ。

変われば変わるものである。私の青春時代はケータイもカラオケにも無縁だったという事実にギョっとする。今更ながら加齢を象徴しているようで気が滅入りそうである。

さてさて、カラオケボックスである。接待とか仕事関係で使うことは滅多にない。と書こうとして意外に何度も経験していることに気付いた。

パーティールームと呼ばれる20~30人ぐらい入れる部屋で、仕事上お世話になった人の慰労会名目で賑々しい宴会を何度かやったことがある。

狂乱のコスプレ歌合戦みたいな感じだった。あまり上品な集いではなかったので詳細は省く。

やはり、カラオケボックスはプライベートの遊びの場面で活用するものだろう。男同士というより、男女混合パターンが自然だ。

男女2人で行くパターンもあるが、女性との関係性によっては個室に二人という感覚を妙に意識しちゃって落ち着かない。ビミョーである。

先日、ひょんなことから不思議なカラオケボックス体験をした。

といっても、残念ながら色っぽい話ではない。カラオケボックスを舞台に色っぽい事件に遭遇したこともあるが、その話は激しいのでナイショである。

某日夜、銀座の寿司屋でのこと。中途半端な時間だったせいで店は貸し切り状態。そんな時間帯をあえて狙って行ったから狙い通り珍味をツマミにアーだのコーだの楽しく飲んでいた。

大将とのバカ話も弾み、彼の唯一といえる趣味が歌うことだというテーマで盛り上がった。

で、お客さんがいないことをいいことに、突如、近場のカラオケボックスに出向いて歌合戦に突入することになったわけだ。

近隣のスナックで歌おうという話だったのだが、週末でどこも混雑。結果、野郎二人で歌に徹する覚悟を固めて高級カラオケボックスに乗り込んだ。

休みなく交互に歌い続けた。なぜか二人とも最初から最後まで延々と濃いめのモヒートを飲み続けながら熱唱。気付けば実に3時間が経過。お互いヘロヘロ。

ほぼ同年代の二人だったので、あーでもないこーでもないと寸評しながら、ひたすら歌った。

大将もノリノリだ。深夜、我々が熱唱中の頃にも寿司屋に客が来たらしいのだが、若い衆に任せちゃって店に戻らずじまい。下駄履きのまま「雪の華」なんかをうなっていた。

私もノリノリだ。馴染みの客ではあるものの親しい友人というほどではないから、最初は何だか落ち着かなかった。でも、歌の力は偉大である。後半は男2二人でデュエットしながら絶叫モード。

モヒートを運んでくるオネエサンのビミョーな視線がちょっとだけ痛かった・・・。

なかなか面白い時間だった。

ボックスゆえの閉塞感が親密感をアップさせるし、何より当事者だけの世界に没頭できるから、世の中がカラオケボックスだらけになるのも分かる。

この日利用したカラオケボックスは金曜の深夜になると唖然とするような価格設定になる店。お勘定を見てぶったまげたのは御愛敬である。

まあ、日々の出費はすべて人生の授業料である。などと気取ったことを言って割り切るしかない。

オネエサンが拍手と愛を注いでくれる店で歌ったほうが安上がりだった。ちょっと複雑な気もするが、いちいち女子の見え透いたオベンチャラを相手にしていても仕方ない。

いずれにせよ、飲み屋のオネエサンをアフターに連れ出し、淡い期待?を胸に抱きながらカッコつけて歌うよりも遙かに楽しい時間だった。

オヤジバンドのライブも近づいているし、イチャイチャするより頑張って歌うことのほうが今の私にとって大事である。

うん、綺麗にまとまった。よしよし。

2014年10月17日金曜日

元気でいたいけど


「先生、昔から高血圧気味だったオイラの血圧が妙に低くなっちまって、どうにも気持ち悪いんです」

「ふむふむ、血圧計がオンボロなんじゃないの?」

「いえいえ、自慢の高級マシンだし、電池も新品にしたから間違いねえです」

「ナトリウム不足なのかなあ。でも、アンタいつも塩辛みたいなもんばっかり食べてるでしょ?」

「まあ、そりゃあ否定できねえですが、なのに上が90とか表示されちゃうから特別な病気かと心配しちまって・・・」

「じゃあ、ちょっと計ってみましょう」

「・・・」

「ん?アンタ寝ぼけてんとちゃいまっか。上が170で下も100以上あるよ」

「グヘッ。。。そりゃあ、さっき先生が超音波検査で胆のうにポリープ見っけ~とか言うから興奮しちまったんですよ」

先日、こんな会話を展開してきた。もちろん、私は先生のほうではない。高血圧野郎のほうである。

自宅の血圧計がいつも低い数字を表示していたのだが、どうやら思い違い、いや使い間違いだったみたいだ。

変な低血圧を真面目に心配していたから、ある意味、ホッとした。いやいや、ホッとしてはいけない。

自慢のマイ血圧計は手首で計るものではなく、ちょっと大げさなサイズの筒状の測定器を二の腕にはめるタイプだ。

あれって、かなり肩に近いほうで測定しないと全然ダメらしい。いままで割と肘に近い場所で計っていたから正しくなかったのだろう。

以前より10センチ弱、肩のほうに近づけて計ると、私らしい?数字が表示されるようになってきた。残念無念、オーマイガッ!である。

本業がドクターのオヤジバンド仲間にも聞いてみたが、血圧測定は末梢に近いところでは不正確なんだとか。医師の国家試験にも出る常識らしい

やっぱり塩分過多なんだろうなあ。先日も外食ばかりではいけないと思い、まっすぐ帰宅した。でも結局、出前を注文して味の濃い料理を平らげてしまった。

バカまる出しである。

血圧も問題だが、胆のうポリープも気持ち悪い話だ。中高年になると珍しいものではないらしい。経過観察してグングン育つようだったら手術で切除。育たなければ放置だとか。

Facebookで嘆いてみたら多くの同好の士が存在することが発覚。ちょっと安心した。それでも気持ち悪いことは確かである。

昨日は肺のCT検査も受けてきた。前年と変化無しだった。このところアレコレ検査づいている。毎年、誕生月には胃と腸と肺、あとは血液の状態をチェックしている。

考えてみれば、それ以外の部位は見ていないから、何かあったらお手上げである。脳ドックも受けたほうがいいのだが、以前、顔中を全部機械に覆われる脳のMRI検査をやった時に、あまりの閉塞感でパニックを起こしかけたから断固イヤである。

血液検査の結果は毎年大差ない。何項目かはダメ判定である。あんなもの全項目OKなどという赤ちゃんみたいな中高年は「新潟のトキ」のように希少である。だから気にしていない。

血液検査の数値を異様に気にする人がいるが、あれってどうなんだろう。もちろん、正しい認識だが、たかだか1割、2割程度、標準値の数値から外れただけで大騒ぎするのは大げさに感じる。

大げさに感じないとダメなのかなあ。

中性脂肪だのコレステロールだの尿酸値なんかのダメっぷりを中年特有の「不健康自慢」のネタにして喜んでいるだけに見えてしまう。ひねくれすぎか?もっと素直になったほうがいいのだろうか。

γ-GTP?あれだって、大人が普通に酒をたしなめば、標準値をちょっとぐらい超えても仕方ないだろう。

もう現役を退いて10年ぐらいになる70代の知人男性は50代の頃、常にγ―GTPが200ぐらいだったのが、引退して酒量が減ったら、たちまち標準値になったそうだ。

もちろん、油断は大敵だが、ストレス社会で生きている中高年の男に対して、血液検査の数値がすべて基準値内に収まるよう求めるのは無理な相談である。

まあ、そんな居直りを書いているようではいけない。こういう考え方をお医者さんに伝えると間違いなく嫌われる。

お医者さんも人間だ。そんな客、いや患者には親身になってくれない。一応、健康を大いに気にしている雰囲気をアピールしないとダメである。

薄味の食事だけを食べて、酒はちょこっとにして、野菜をもりもり食べて、しっかり運動する。それを数ヶ月実践するだけで飛躍的に数値面では良い結果になるはずだ。

数ヶ月ならやれないことはない。凄いご褒美がぶら下がっていれば尚更可能である。ただ、その数ヶ月が過ぎたあと、そんな暮らしを維持できるかと言えば無理だ。

それが人間の煩悩である。

そこが問題である。

そのうち、何かの大病をした時に、間違いなく今日ここに書いたような考え方を反省するんだろうなあ。

分かっているのに何で生活習慣を変えられないのだろう。

人間だもの・・・。

まさにその一言に尽きる。

そんな立派な生き方が実践できていたら、きっと私も高僧とか偉人になっていたはずだ。

わが凡なる日常に乾杯である。

2014年10月15日水曜日

禁断の毛髪問題


格調高く良識ある?ブログを書く身としては、ネタの選別には少し気を遣う。間違いなく腹を抱えて笑ってもらえそうな話でも、下ネタが過ぎれば封印する。

12月にライブを控える我がオヤジバンドでも「つボイノリオ」の名曲「金太の大冒険」、「お万の方」、「吉田松陰物語」などは封印している。

バンマスがやたらと演奏したがるのだが、良識派のリーダーが認めない。私もリーダーの意見に賛成である。

「つボイノリオ」を知らない人はYouTubeで検索することをオススメする。

下ネタとともに、世の雑文?の世界であまり陽の目を見ないネタが頭髪問題である。いわゆるハゲ関係についてだ。

今日はそんな話を勇気を出して書こうと思う。

ブログを書く作業はクリエイティブな作業である。クリエイター?としては、やはり自らの身を削って執筆にハゲまないといけない。

無頼派作家のように自分自身の恥部までさらけ出してモノを書いてこそホンモノである。だからキッチリ毛髪問題と向き合わないといけない。

私も正しい中高年として頭髪問題に苦慮している。苦慮というと大げさだが、何とかハゲ散らかさないように努力を重ねている。

もともと、髪の毛が細く、子供の頃から薄毛だのハゲだのバカだの死んじまえなどと言われてきた。生まれ変わったら髪の毛問題など一切心配しないボーボーな男になりたいと切に願う。

7~8年前、自分が写っている一枚の写真を見てハゲしく動揺した。照明のせいだ、角度のせいだなどという弁解がまるで通用しない「ヤバい頭をした俺」がそこにいた。

年々、頭頂部が淋しくなっていたのは自覚していたが、あまりにハゲしい画像だった。めまいがした。死ぬかと思った。

その後、意を決してヅラ屋さんに出かけた。最後まで自毛が残る耳の上側から後頭部の下側の毛髪にヅラを結びつける方式の業者さんだった。

つけたままダイビングも出来る、サウナも行ける、手入れは月に一度だけ専用サロンに行くだけ。結んだモノをほどいて、自毛を散髪して再度結び直すというシロモノだった。

頭の型を取って発注するところまで話が進んだのだが、思うところあって急きょキャンセルした。支払ったウン十万円は帰ってこなかった。

頭をかきむしって泣いた。

そこからの「闘い」は薬物である。飲み薬と塗り薬である。

その昔は、インチキ発毛剤が天下を取っていたが、近年は医学的に発毛効果が確認された薬物が普及している。

それ以外にもシャンプーやサプリなんかも気をつけるようになって、幸いなことに一時期の最悪期は脱出したと思う。

どれが効いているのかは正直分からない。複合効果だと信じるしかない。

もともと、「滅びゆく大草原」を自然に任せず再生させようとしたきっかけは娘の存在だ。

7~8年前の娘はまだまだ幼く、このまま毛髪衰退現象に歯止めをかけなければ、娘が大きくなった時に認識する父親像は「ツルツル父ちゃん」である。

そして、いつか私が死んだあと、大人になっている娘が「優しかったお父様」をふと思い出す時、その姿は「ツルツル父ちゃん」である。

千の風に乗っていても、なびくモノがまったく無いのは淋しい。寒そうだ。

そりゃあ、女性の前でまだまだカッコつけたいとか、そういうフラチな意識もある。でも、そんな些末なことではなく、「ツルツル父ちゃん」として娘の記憶に残ることが耐えられなかったからサボらずクスリを使い続けたわけだ。


これが現在の頭頂部である。こんな画像を撮影している姿はかなりマヌケである。これも「ブロガー魂」として御容赦願いたい。

もう中高年なんだから常識の範囲?だと思う。自分としては問題なしだ。ただし、正直に言うとドライヤーとヘアスプレーで盛っている部分もあるため、油断するともっと淋しげな感じだ。

でも、その程度の「盛り」でこのぐらいを維持できるならクスリの威力もバカにしたものではない。

先日、某テレビ番組に母校の同級生が出ていたのだが、頭頂部が結構キビシイ様子が全国に放映されていた。そもそも40代も後半になれば薄毛も自然なお年頃である。

ということで、ここ数年、数ヶ月に一度は思い出したかのように娘に尋ねてみる。

「オレはハゲか?」。

娘はキッパリと否定してくれている。いちいち抱きしめたくなる。子供は正直だから一安心である。

でも、最近はヤツも随分オトナっぽくなってきたからお世辞かもしれない。いや、お世辞以前に、メンドーだからそう答えて話を終わらせているだけかもしれない。

いやいや、クヨクヨしてはいけない。ストレスも毛髪を弱らせる。楽観的に受け取ることにしよう。

きっかけとなったアノ一枚の写真に比べれば上等である。これでもそれなりに改善されたみたいだ。

ここから先は、いつどんなタイミングでこの終わりなき闘いに終止符がうたれるかが問題である。

大病とかしちゃったら、きっといま使っているクスリは禁止されるだろうし、そもそも現状が無理に頼りない毛を保っている状態だから、いつ効き目が終了するかも分からない。

まあ、それはそれだ。将来の娘の記憶の中で、ある程度は「普通っぽい父ちゃん」の姿は確立されたと思う。

なんだかんだ言って娘のおかげである。アイツに感謝しないとなるまい。今度会ったらオデコでも舐めてやろう。

これが娘ではなく、息子だったら私の発奮材料にはならなかったように思う。同性より異性の子どもに対してのほうがどこかカッコつけたい心理が働いているように思う。

薄毛が心配な若者達には、つくづく女の子の親になることをオススメする。

2014年10月10日金曜日

思秋期


また一つ年を重ねた。つくづく時間が過ぎていくのが早い。肛門痔に注意、いや、光陰矢の如しである。

このブログのプロフィール欄には「40代男盛り」とか書いているが、そう言えるのも残り少なくなってきた。

まさに秋である。今の季節のことではない。人生における秋である。

青少年時代が春、社会に出て悶々と無器用に闘っている頃が夏、「終活」に励む年頃を冬に例えれば、私の今はまさしく秋である。

実りの秋である。これまで生きてきた歳月から得たものは限りないほどある。それらを糧に今を生きているわけだ。

随分、実っているはずだ。たぶん。いや、きっと、う~ん、どうだろうか。何も実ってないかもしれない。家も土地も財産分与しちゃったし・・・。それは関係ないか。

思秋期という言葉がある。思春期に対抗して使われる。子供から大人になる頃が思春期であるのに対し、大人から老人になる頃が思秋期というのだろう。

40代、50代あたりはまさに思秋期だ。まだ枯れてはいないけど、枯れる日が遠からず目に見えている感覚だろうか。

話は変わるが、その昔、岩崎宏美が「思秋期」という歌をヒットさせた。阿久悠の作詞である。

あれは思春期が終わってしまう女の子の切ない感情を歌ったもので、オッサン、オバハンの思秋期とはまるで意味が違う。

ホンモノの思秋期軍団に言わせれば屁のカッパみたいな若造の話である。

さて、大人の思秋期である。なんとなくうら寂しい雰囲気の言葉だが、世の思秋期軍団は実際には元気ハツラツである。

オバハンなんかは宇宙を自分が回しているぐらいの突き抜けた感覚で行動している。

オッサン達は疲れも目立つが、総じて皆さん元気である。肉体的には若い頃に比べて劣化が目立つのにナゼか元気である。

銀座のクラブで大騒ぎして明け方までアフターで騒いでも、平気な顔で普通に出勤するオッサンもゴロゴロいる。

身体は劣化しているのにますます意気盛んな不思議なオッサン、オバハンに共通しているのは「図々しさ」である。これに尽きると思う。

図々しさといっても、傍若無人な感じとは違う。いわば、自分自身に対する図々しさでも言えば良いだろうか。

長く生きてきたことで、若い時より遙かに多くのことが見えてくる。投げやりとは違う達観のような感性も強くなる。ウジウジすることの無意味さも充分に知った。

その結果、根拠のない楽観に身を委ねるようになる。これって図々しさの極みである。でも、この域に達すると割と日々幸福だったりする。

30代の人なんかにこの感覚は無いと思う。ご苦労様である。本気で同情する。いま死ぬほど苦悩していることだって10年経ったら笑顔で思い出すこともあるはずだ。

まあ、思秋期軍団はそのぐらい脳天気にならないとやってられないという現実がある。だからこそ、あえて日々をケセラセラで過ごしている。

ちっとも上達しない私のギターだって、よく考えれば随分トンチンカン、いや図々しい挑戦だと思う。

そもそもオヤジバンドが全国的に増殖していることも思秋期軍団の図々しさを端的に表している。若い頃なら変な照れと妙な自意識がそんな行動を抑えてしまう。

私にしても、子供の頃に音符の一つさえ読めなかったほど音楽的な適正がないくせに、頭の中ではいつの日か人様の前でカッコつけて弾き語りを披露する姿を思い描いている。

図々しいったらありゃしない。

そういえば、女性を口説こうという意識だって20代、30代の頃より図々しくなった気がする。

若い頃は、ウマくいかなかったらどうしよう、フラれるなんてカッコ悪いといったシミったれた根性が邪魔をしていたが、今ではそんなことヘッチャラである。

「数打ちゃ当たる」ぐらいのハチャメチャぶりである。

いかんいかん、こんなのを読まれちゃったら、いつ誰にアゲアシ取られるか分かんないから適当にしておこう。もとい、日々、真面目に過ごしているところです。

まあ、恋なんてするものではなく、落ちるものである。あまり四の五の理屈をこねずに出たとこ勝負で生きていれば何とかなるだろう。

世の中、面倒なことだらけである。生きていることすべてが面倒なことだと言い換えてもいい。

仕事、対人関係、日常の暮らし、すべて面倒なことの積み重ねである。だからこそ全部に対して事細かく精一杯向き合ったら、簡単に病気になってしまう。

どの場面に精力を傾けるか、どの局面にどれだけエネルギーを向けるか、その配分こそが思秋期軍団の力量の分かれ目である。

どうでもいいことにまで注力するほど余裕はないし、時間だってそろそろ残り少ない。自分の信じるままに、自分の感性に正直に、建設的な自分勝手を押し通す図々しさが大事なんだと思う。

社会に定着する数限りないほどの常識や固定観念のなかには、アホみたいなもの、実に無意味なものがいくつもある。

思秋期を迎えるまで、精一杯やみくもにそんな世間様の塀の中でチマチマ暮らしてきたのだから、思秋期になった大人は、必要の無い我慢などしないほうがい。

人様に迷惑をかけてはマズいが、そうじゃなければ、図々しく自分勝手に思うがままの言動を貫けばいい。

エラそうに書いてみたが、はたして自分はそんな感覚で生きているのだろうか。まだまだである。まだまだミミっちい感じが消えない。

もっと張り切っていこうと思う。

2014年10月8日水曜日

煉瓦亭の喜び


広島に行って味噌仕立ての牡蠣鍋が食べたいとか、帯広に行って豚丼が食べたいとか、北陸でズワイが食べたいとか、沖縄でソーキの煮付けで泡盛が飲みたいとか、暇な時はそんなことばかり考えている。

空想しているだけで太る。ウソではない。困ったものである。


グルメだ食通だなどと気取るつもりはないし、実際にそんな高尚?な知識もない。旅先は別だが、わざわざ食べ物のために遠出もしない。言ってみれば食い意地が張っているだけだ。

外食は太るから、時々まっすぐ帰宅して一人用おでんパックとかで凌ぐ日もある。ウマくないのだが、やけに低カロリーだから調整にはもってこいである。

ガッツリ食いとチョコッと食いを交互に暮らしていければいいのだが、ついついガッツリの誘惑に負ける。

先日、京橋で用があり、近くで夕飯を食べることになった。銀座方面も7丁目、8丁目ばかりしか行かないから、京橋側のエリアの店はなかなか思いつかない。

しばし考えて、バッチリの店を思い出した。洋食の老舗「煉瓦亭」である。京橋から歩いてすぐだ。気付いた途端、頭の中はニッポンの洋食のめくるめく魅惑の世界にドップリである。


この店、トンカツやオムライス発祥の店である。ニッポンの母みたいなものだ。

有名な老舗、いつも混雑、立地が良いとなれば変に気取った高い値段の店を想像するが、ここはいたって庶民的で良心的な店である。

昭和の喫茶店に毛の生えたような雰囲気の造り。ボーイさんもウェイターさんもどことなく昭和の香りで妙に落ち着く。

それにしても喫茶店に毛が生えるってどういう意味だろう。すいません。

まずはビール。画像の「上カツレツ」に抜群の相性である。トンカツソースが世の中になかった頃の名残りで、この店ではウスターソースで食べる。

不思議とトンカツソースよりウスターソースに合うカツだ。ビールが際限なく飲めそうな感じ。

この店の名物であるポークカツレツは薄めのカツが一枚まるごと出てくる。ナイフとフォークで食べる仕様である。

上カツレツの場合、値段はちょっとしか違わないが、小ぶりなカツが2枚で出てくるため、そのままかじることも可能だ。結局は人目を気にしてナイフを使っちゃうのだが、次回はガツンとかじりつこうと企んでいる。


続いてチキンコキールである。グラタンのパスタ抜き?みたいなものだ。洋食屋さんでは外せないメニューのひとつ。

この店の特徴はタマネギである。火加減が絶妙なタマネギが結構大きめにざく切りされているから、食感や味に良いアクセントになっている。

頼んだことはないのだが、きっとメンチカツも相当ウマいと睨んでいる。

このコキールもタマネギが良い感じだった。白ワインにも赤ワインにも合うから酔っ払うにはもってこいである。

そして冒頭画像のカニコロッケである。ここの店の揚げ物は総じてウマい。食後にくどさが残らないし、よく分からないけど、技術的な理由があるのだと思う。

クリームコロッケも洋食屋さんでは外せない。まろやかさにウットリである。デミソースも自己主張しすぎずに実に優等生な的味わいである。


オムライスが名物だが、この日はエビライスにしてみた。チキンライスのエビ版である。ここでもタマネギが活躍している。素直に美味しかった。

東京料理ともいえるこうした洋食屋さんのなかでも極めて正統な路線の店だ。値段の面でもお手軽だし、店の雰囲気もヘタな小細工無し。なにかが突出した感じではないところに好感が持てる。

味も濃すぎず、とがった感じもない。強い味をウマいと錯覚させる昨今の食い物とは一線を画す感じだ。

ニッポンの洋食をことさら高級にアレンジせず、普通のノリでシンプルに、でも味はしっかり高いレベルを維持している点が特徴といえるかもしれない。

わざとらしくない感じ、さりげない感じが東京人の矜持を感じさせる。名店だと思う。食い意地オジサンである池波正太郎が贔屓にしたのも分かる気がする。

それぞれの料理を比べれば煉瓦亭より美味しい洋食屋さんはいくつもある。それでも、トータルの価値みたいな尺度があったら、この店はトップレベルだと思う。

このブログに食べ物のネタを書くたびに、すぐまたそれが食べたくなるのが私の悪いクセである。

近いうちに煉瓦亭でドカ食いしている素晴らしく格好良く素敵でダンディーな紳士がいたら、きっとそれは私だ。

ホントにスイマセン・・・。

2014年10月6日月曜日

池袋の人


「嫌い嫌いも好きのうち」などと言われるが、最近自分の生活パターンが「池袋の人」みたいで少しドンヨリである。

池袋に会社があるせいで、毎日毎日「魔都・池袋」に来るのだが、会社から遠くに住むのもメンドーなので、住まいも池袋からさほど遠くないエリアである。

一応、文京区在住だが、限りなく池袋に近い。歩いて帰ったら30~40分程度で着いてしまう。いろんなことを手近に済まそうと思ったら何はともあれ池袋である。

時々訪ねる歯医者も池袋、常用薬をもらいに行くのも池袋、本屋に行くのも池袋、惰性で入る飲み屋も池袋、足を踏み入れちゃったセクキャバも池袋、オヤジバンドの練習も池袋、ギター教室も池袋である。

どう考えても「池袋の人」になっている。その気はなかったのに知らぬ間にドップリはまっている。まるでASKA被告である。

最近、住みたい街ランキングで池袋が上位になったそうだが、たぶん何かの間違いだと思う。

垢抜けない感じ、怖い感じ、汚い感じ等々、池袋には昔からネガティブイメージがある。残念ながらそれが現実だ。

江戸時代から既に「池袋村出身の女は嫁にもらうな」という伝承がまかり通っていたし、東条英機ら戦犯が首を吊られたのも今のサンシャインのあたりである。

爽やかさ、オシャレな感じとは無縁だし、かといって、下町特有のイキでいなせな空気もまるで無い。

いまでは中華街やコスプレ系のオタクが特徴で、違法薬物のメッカにもなっている。西口、北口周辺はいつでも低速でパトロールするパトカーがウロウロしている。

そういえば、昔、わが社の社員が、突然近づいてきた中国人らしき男にいきなりナイフで刺されて財布を持って行かれたこともあった。

彼は財布に5千円しか入っていなかったのに全治3ヶ月である。池袋恐るべし!である。

池袋の場合、殺されない限り、ニュースにすらならない。実にシュールな街である。

昭和の頃、結構ヒットした(らしい)「池袋の夜」という歌謡曲がある。歌ったのは青江三奈である。


昭和の時代に流行ったご当地ソングの一つだが、数多くの爽やか系の歌手がいただろうに、よりによって青江三奈である。

ファンの人、すいません。

でも、青江三奈で正解である。いまも夜になると青江三奈チックな人がいっぱい闊歩している。

仕事を終えて、近場で軽く飲み食いしようと歩いていると、呼び込みのウザッたさに閉口する。

表通りには大型チェーン店しかないので、ちょっと外れた路地に気の利いた小料理屋はないだろうかとウロウロしてみる。すぐに呼び込みが寄ってくる。

気の利いた小料理屋など、ここ20年ぐらい見つけたことがないのにウロウロしちゃう自分がすべて悪い。

ついでに言えば下品な風俗店がやたら増えた気がする。昔はもう少しわきまえて営業していたイメージがあったがが、いまやバンバン前面に出ている感じ。

青江三奈を若くしたような風貌の女の子がその手の店に堂々と入っていく。ご出勤だ。昔はもっとこっそり入っていったイメージがあるが、いまや威風堂々である。

デパートや家電量販店がいっぱいあって、街自体が小さいエリアに窮屈にまとまっているから便利といえば便利である。

便利なんだけどな~。まさにその一言である。便利なんだけど愛着が湧かない。ここを自分の陣地にしてはいけないと感じる。

でも、充分に陣地にしちゃっている最近の自分の行動パターンが残念である。池袋の軍門にくだったような変な敗北感がある。


で、先日も、通りすがりのイマドキっぽい飲み屋に入ってみた、ウマい鶏、ウマい豚の串焼きが食べられると看板で豪語していたからトライすることにした。

やたらと元気なお兄さん達がやたらと感じよく動き回っている。鶏や豚の串はごく普通だった。池袋の割には強気な価格設定だったから期待したのだが、池袋であまり過大な期待をしてはいけない。

でも、梅たたきサワーはやたらとウマかった。なんといっても池袋である。私としてはあれが飲めれば合格である。

鶏、豚の他に「ダチョウ肉」をウリにしているらしく、当然のように注文してみた。
上からダチョウのたたき、ダチョウユッケである。



初体験である。恐る恐る食べてみたが大正解だった。馬肉をもっとアッサリさせた感じ。ニンニク醬油と合う。クドさもなく、臭味もなく、食感、喉ごしともに中々のものだった。

まあ、人様にわざわざ勧めるようなものでもないが、食べ物の質にさほど期待せずに入った池袋の飲み屋でこういう掘り出し物に出会えると妙に感激する。

この歪んだ?感覚が池袋の楽しみ方だろう。「どうせ池袋」、「しょせん池袋」などと言いながらエラそうに飲み始めたクセに、時々ウマいものに遭遇してビックリする感じが楽しい。

結局、私は池袋の支持者なのだろうか。池袋を愛しているつもりはないが、気付けばホームタウンかのように詳しい。

たまたま顔を出す大衆酒場のライオン丸みたいなママさんとも、いつのまにか顔なじみだ。いつも軽口を叩き合っている自分に気付いてチョッピリ困惑している。

どうでもいい飲み屋の大将と盛り上がった話題が、昔の池袋は夜中になるとアチコチにゲロが散乱していたという思い出話だったりする。

いつのまにか池袋のペースにはめられてしまった感じだ。池袋に依存しないで済むような街に引っ越そうと考えているが、いざとなると面倒になって、ズルズルと暮らしている。

このまま自分の中の「池袋濃度」が強まっていくのだろうか。複雑な心境である。

2014年10月3日金曜日

ふるさと納税に学べ


カニとかコメや肉がお礼として送られてくる「ふるさと納税」が何かと話題を集めている。

地方自治体に対する寄附金のうち、2千円を超える部分が一定限度額まで税額控除される制度だ。2千円の実費であとはそのまま税金が安くなるのだから人気になって当然だろう。

寄付する相手はふるさとである必要はない。どこでもOK。各自治体もお礼としてさまざまな特産品などをラインナップ。一種の競争みたいな感じで賑やかだ。

インターネット上でも各自治体の特産品を比較できるサイトが存在する。まさに百花繚乱である。

言い方は悪いが、全国名産のお取り寄せ通販みたいな状態である。

先日、地方創生とやらが御担当の石破大臣が特典がどんどん豪華になっていくことに苦言を呈したそうだ。

税の趣旨から逸脱しているという論調だったようだが、どうも違和感がある。自治体の“企業努力”にお上意識まる出しでケチをつけているようにしか聞こえない。

税金を納めることは国民の義務である。そんなことは百も承知だ。子供だって分かる。そうはいっても、税負担の不公平感、使われ方への不満を表す手段がない。

ふるさと納税制度は、納める先を自分の意思で選べるという意味で画期的な制度である。わけの分からない使われ方をされるより、故郷に納めたい、好きなエリアに納めたいという希望が叶えられる。

もちろん、景品目当ても多いだろうが、そういう納税者の見えざる意思が働いているのだから、ある意味、不満解消のちょっとした受け皿でもある。

お国を預かるエラい人は、そうした納税者心理にケチをつけるより、あえて国以外に納めようという風潮が強まっていることを謙虚に認識すべきだろう。

納税に対して特典などというと、不真面目だという印象を抱く人がいる。はたしてそうだろうか。特典がない方が不自然だ。

いまの時代、どんな分野でも特典の提供で顧客満足度を高めている。お客様を大事にする目線がなければ何事もうまく進まない。

国だって自治体を見習って納税者への特典を考えたっていい。いや、考えるべきだろう。その昔は高額納税者は国会議員(貴族院議員)になれたし、一定の納税額がある人だけが選挙権を持つ時代だってあった。

そこまで大げさな特典を考える必要はないが、いくらだって「お礼」は考えつく。

国宝の特別鑑賞会に招待するとか、迎賓館でパーティーを開催したっていい。潜水艦乗船体験とか、戦闘機や戦車にちょこっと乗れますとか、流氷観測飛行に混ぜてもらえるとか、いくらだって楽しい?企画は浮かんでくる。

なんだったら政府系金融機関から特別な金利で借り入れが出来るとか、長年高額納税を続けている人には抽選で1千万円がキャッシュバックされるとか、政府専用機で遊覧飛行が出来たり、東京オリンピックでは優先席が割り当てられたりなど、真面目に納税して良かったと思ってもらえるサービスを考えたってバチはあたらない。

そんなことを言い出すと、金持ち優遇というお決まりの批判が起きるだろうが、人より頑張って人より多くの税金を納めた人に一切感謝しない現実そのものが「金持ち冷遇」である。

どんなに頑張って税金を納めても、感謝状一つ出す発想すら出てこない現状こそがよくよく考えればおかしなことだと思う。

2014年10月1日水曜日

魚を食べる


健康には気をつけている。と言いたいところだが、実際の食生活はロクなものではない。

とはいえ、血液検査の結果は特別大きな問題があるわけでもなく、変な話、今の独身生活を選ぶ前の状態よりよほど状態はいい。

やはり、ストレスこそ健康の最大の敵だと思う。自分の身体を実験台?にして改めて痛感する。

最近は血圧も低値安定である。こんなことは過去25年ぐらい経験がない。

家系的にも血圧は高めだ。多忙でストレスをためまくっていた20代後半の頃は、職場で血圧を計ると上が200ぐらいあったし、その後も170前後が標準だった。

手首に巻き付ける血圧計は誤差が多いと聞き、ちゃんと二の腕に巻き付ける本格タイプの測定器を使っている。だから最近の計測値はある程度間違いはない。

何と上の血圧が100前後である。驚異的だ。起きてまもないと80だったりする。私にとっては低血圧と言ってもおかしくない。

このところ昔より朝起きるのが辛いのだが、ひょっとすると慣れない低血圧のせいかもしれない。かつての高い数値から見ると異常である。逆に大丈夫かと心配になってしまう。

以前、血圧を抑える目的で黒酢の錠剤を毎日飲むようにしていた。でも胸焼けに直結するので、数ヶ月前から飲むのをやめた。それなのに低血圧状態である。キツネにつままれた感じである。

やはりストレスたっぷりの暮らしから脱出したことが大きいのだろうか。他に理由はない。社会性に乏しいと言われればそれまでだが、一人気ままに暮らすようになって以来、なんとなく健康である。

自分が思っているよりストレスが大きかったのだろうか。何だか少し複雑だが、無理して頑張って病気になって死んじゃうよりマシだから結果オーライである。

さて、食生活である。肉より魚を食べた方がいいという常識のせいで、意識して魚を食べようとしている。


ただ、外食だと魚は魚でも、キモとか白子とか魚卵などの珍味を酒のツマミとして過剰摂取してしまう。身体に良いわけがない。

焼魚、煮魚も食べるように意識しているが、あれって朝食や昼食っぽいイメージがあって、ついつい夜は食べる機会が少ない。

昼飯はほとんど食べないので、食べるとしたら朝である。以前、このブログでも書いたが切り身の魚を専用箱に入れて電子レンジで2分ぐらい加熱するだけで、結構まともな焼魚が完成する。

朝、そんな作業を寝ぼけまなこでこなしている。ただ、面倒だから西京漬けとか麹漬けとかの漬け魚が基本である。あの手のものに添加物がどのぐらい入っているのかは分からない。身体に良いのだろうか。謎である。

それ以外には湯煎するだけで食べられる真空パックの鮭やサバ、サワラあたりの出来合いの焼魚も食べる。あれも賞味期限が2~3週間もある。防腐剤ブリブリなんだろう。身体に良いと言えるのだろうか。謎である。


夜の外食は酒が主役だ。焼魚、煮魚を食べようと思っても、刺身や珍味で終わってしまうことも多い。それでも、お寿司屋さんで上等なサンマを1本まるごと塩焼きにしてもらうこともある。

まあ、それも目当てはキモだったりするから、多めに振り掛けられた塩の問題も考えると、そんなに健康食ではないのかもしれない。

最近食べた魚料理は、サンマの蒲焼きだったり、シマトロホッケの塩焼きだったり、どうも「ガッツリ系」が多い。味も濃いめだし、健康を考えて選んでいるとは思えない感じだ。


結局、魚よりも肉の方が好きなんだろう。魚といっても拡大して「魚介類」ということで、カキとかウニ、エビやカニ、ウナギといった贅沢不健康方面?ばかりに目が行ってしまう。

魚介類はやたらと摂取しているが、世間様が言うところの「魚食」とはちょっと違うかもしれない。

マカロニサラダを食べてサラダを食べたから大丈夫!と言っているようなものだ。

突き詰めて考えると、健康的な魚料理って一体どんなものなのか分からなくなる。

干物あたりなら堅実なイメージで良さそうだが、あれはプリン体が物凄い多い。干しシイタケなどとともに尿酸値が高い人は避けた方が良い食べ物である。

普通の焼魚なら無難だろうが、美味しく調理されている焼魚は間違いなく塩分過剰である。薄い塩味で大根おろしにポン酢で食べればいいのだろうが、なかなかそんな機会はない。

亡くなった祖父が時々、タラちりを食べていたことを思い出す。健康メニューの一つだったので白子なんかは無しである。子供心にちっともウマくなかった記憶しかない。

やはり身体に良いモノはウマくないものばかりである。残念無念である。

何だか結論がない話を書き殴ってしまった。

今後の人生後半戦、魚料理をもう少し研究して健康にハッスルしようと思う。