2015年7月6日月曜日

止まり木の人


止まり木。しょっちゅう耳にする言葉だが、不思議と女性向きに使われることは少ない。男の止まり木といった使われ方が一般的だ。

イマドキは女性にだって止まり木は必要だろうが、「男は外へ、女はウチに」という固定観念のせいで、男ばかりが羽を休めたがる。


私もちょくちょく止まり木を求めて路地をほっつき歩く。止まり木になりそうな店を探してウロつく気分は結構楽しい。

さんざん歩き回って疲れちゃうと、小休止どころか夜を徹して止まり木を何軒もさまよう。バカである。

止まり木でのひと時は一体なにから小休止しているのだろう。一般的には家庭からの一時的な逃避みたいな意味合いが強い。

男が弱くなったのか、女が強くなったのかは知らないが、家庭が安らげる場所ではないという人は多い。

大昔だって、お気楽で呑気な父ちゃんは別として、多くの男達が家長の威厳みたいなものに縛られ、それ相応に気を張って暮らしていた。

一見、ワガママに威張っているように見えた当時の男達もフヌケた時間を過ごすための止まり木は必要だったはずだ。

威厳どころか、居場所を失ってオロオロしている現代のオヤジ達の多くは「帰りたいのに帰れない」といった心理状態なのかもしれない。気の毒である。私にも経験はある。

さて、家庭円満だろうと独身だろうと止まり木を求めたがるのが男である。止まり木は仕事とプライベートを切り替える装置みたいなものである。

シングルライフを過ごしている私ですら、職場からまっすぐ帰宅することに少し抵抗感がある。

そう言いながら、今の住まいが快適でまっすぐ帰宅することが増えているのだが、そんな夜は不思議と何か物足りない。

どうでもいい飲み屋に立ち寄って、どうでもいい酒を飲んで、帰宅したらホッと安堵する。

考えてみればムダな行動だ。寄り道せずに帰宅してとっととホッとすればいいのに、なぜだか一呼吸おいてから帰りたくなる。

なんとなく旅に似ている。家という安住の場所があるのに、知らない土地に行って馴れないベッドで眠り、落ち着かない気分とワクワク感の中で過ごす。

そして旅先から帰ってきた時、「やっぱり我が家はいいなあ」と安堵する。そんなに家が良いなら旅なんかしなきゃいいのだが、懲りずに何度も「帰宅した時の安堵」のために旅に出る。

そう考えると止まり木に立ち寄ることは、日常生活におけるちょっとした旅なのかもしれない。ムダのように見えて無意味ではない行為だ。

「旅先」はさまざまだ。同じ場所に何度も通う旅の形もあり、毎度違う場所を覗きに行くのも旅のスタイルだ。


ハジケたい気分の時の止まり木と黙って過ごしたい時の止まり木は当然違う。私自身、黙って飲みたい時には、見ず知らずの店に入ることも多い。

たいていは失敗するのだが、見知らぬ土地に足を踏み入れたようなアウェーな気分?も悪くない。誰からも話しかけられず、誰もこっちのことを知らない。

自意識過剰と言われればそれまでだが、有名でも何でもない私でも「まるっきり無所属」な状態でいることは心地良い。

何も気にせず、鼻毛を引っこ抜き、鼻くそをほじくり、ツメを嚙んで、ゲップをして、屁こきオヤジになって裸踊りしようかと思ってしまう感覚だ。

実際にそんな行動に走れたら幸せだと思う。きっと新しくてまったく違う世界が見えちゃうんだろうなあ。

止まり木に話を戻す。

止まり木というと、どうしても小料理やバーをイメージするが、場所だけが止まり木ではない。人間だって誰かの止まり木になり得る。

デンと構えて「基地」として待っていてくれる人は偉大だが、不思議とひと時の安らぎをくれる止まり木みたいな人に魅力を感じる。

男女ともに同じような願望があるはずだ。「止まり木の人」。なんだか演歌のタイトルみたいである。

そんな相手を求めている一方で、こっちだって誰かの止まり木になってあげたい願望もある。

「基地」になる自信はないが、「止まり木」なら務まりそうである。まあ、「基地」の役割を避けちゃうあたりが人としてダメダメである。

「止まり木の人」。演歌調のノリで作詞でもしてみよう。

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