やたらと遊びたがる中年。私の周りにも結構いる。いや、私だって人のことを言えないか・・・。
いえいえ、私のように中途半端ではなく、異常なほどエネルギー全開で弾けているオジサマがやたらと目につく。
家庭を持っている人、家庭を持っていた人。タイプはそれぞれだ。元気な中高年という意味では大いに結構だが、そういう次元ではない。何かに追いかけられているように必死に遊んでいる。
今日は「狂い咲き中高年」について考えてみたい。
一般的に中年になると、人生後半戦ということで誰もが多少なりとも悶々とする。男も女も同じだ。
自分の人生はこんなものだったのか、これでいいのか、まだまだ軌道修正したい等々、若い時とは違った葛藤が生まれる。
もちろん、そんなこと気にせず淡々と日々を過ごす人も大勢いるが、どこか満たされない想いを持つ人は「悶々派」に所属?することになる。
考えてみれば思春期と似たようなものだ。あの時代だって、淡々と学業に励んで大過なく青春時代を過ごす若者もいれば、必要以上にセンシティブになって熱く暴れるヤツもいる。
尾崎豊の「15の夜」の世界みたいな世界だ。
♪ 誰にも縛られたくないと 逃げ込んだ
「誰にも縛られたくない」。熱くなっていた若者の基本姿勢?である。そんなこと言いながら、その後、大人になるにつれ、縛られてばかりである。
この夜に 自由になれた気がした
15の夜 ♪
仕事に縛られ、恋人や奥さんに縛られ、子供に縛られ、常識に縛られ、世間様にガッチガチに縛られて生きているのが普通の人である。
それ自体は普通のことであり、縛られているからこその安定も否定できない。
でも、中には「15の夜」ならぬ「50の夜」みたいな感じで熱くなっちゃう中高年もいるのだろう。
そのエネルギーを仕事に向ければいいのに、ついついギラギラ遊ぶ。青臭い若造がエネルギーを学業に向けられなかったのと一緒だ。
♪ 自由になれた気がした 50の夜 ♪
弾けて遊ぶことで、そんな感じになれるのだろうか。
なんだか、そう解釈すると、必死に遊んでいる中高年がちょっと愛おしくなる。
若い頃、冷めたヤツより熱いヤツのほうが魅力的だったのと同じだ。
ふてくされたような顔ですべてがわかったような雰囲気でしらけちゃってるオッサンよりも、ギンギンギラギラ遊んでるオジサンのほうがステキだと思う。
いい歳してバカみたいと批判するのは簡単だが、人生半世紀も経つと仲間が亡くなったり、身近に大病している人もいる。元気に弾けられるなら弾けておけばいいと思う。
そういう自分はどうなんだろう。エラそうに分かったようなことを書き殴っているが、どんな心理状態で遊ぶことと向き合っているのだろう。
冷静に考察してみると、焦燥感と欠乏感、枯渇感みたいな要素は多分にあると思う。そんなものは誰もが同じだろうが、結局はそこに辿りつく。
どこか満たされていない、何かが足りない。今の状態でいいのか。将来はどうなるのか。誰かに必要とされたい、誰かを求めたい等々、そんな欲求みたいなものが行動を支配しているような気もする。
いわゆる煩悩みたいなものだろうか。
まあ、こんな感覚自体が思春期の少年みたいでカッチョ悪いが、ひょっとすると今の私ぐらいの年頃は人生の第二思春期なのかもしれない。
「赤ちゃん返り」という言葉がある。高齢者の言動や態度が徐々に幼い子供のようになっていくことだ。
赤ちゃんから子供になって思春期を経て大人になって老人になっていくサイクルが、その後、どこかで反転して、また赤ちゃん時代に向かって戻っていくのなら、時間の流れの上では、50歳前後の中高年は思春期の段階だろう。
うん、なかなか面白い解釈?である。がむしゃらに遊びたがる中高年、何か満たされない想いの中でもがく中高年、すべてこれで説明がつく。思春期のやり直しみたいな感覚なのかもしれない。
今日は若い女性を年甲斐もなく追いかけるオジサマの醜態を書こうと思っていたのだが、途中から考えが変わった。
オジサマ達はどんどん女性のお尻を追いかければいい。思春期だったらガマンしたって制御は効かない。
「思春期イコール醜態」である。それなら開き直って弾けたほうが世の中がよっぽど明るくなる。
暴論になってしまった・・・。
富豪記者様
返信削除記者様のブログはいつも微妙であいまいな表現で、ご自身の本音をすれすれのところで
抑えている気がします。
恋、愛よりともに費やした時間を大切にするべきなのかなと思ったりしている私です。
コメントありがとうございます!
返信削除鋭いご指摘、恐れ入ります。
確かに話を一般論にすり替えて、自分には関係ないみたいな書きかたになっちゃうことは多いかもしれません。。。
「費やした時間」。こればかりは重いものですよね。ただ、共に過ごした時間が長くても、どれだけ共感する時間があったかが大事かもしれませんね。
今後とも宜しくお願いいたします。