東京出身。富豪になりたい中年男。幼稚園から高校まで私立一貫校に通い、大学卒業後、財務系マスコミ事業に従事。霞ヶ関担当記者、編集局長等を経て現在は副社長。適度に偏屈。スタイリッシュより地味で上質を求め、流行より伝統に心が動く。アマノジャクこそ美徳が信条。趣味は酒器集め、水中写真撮影、ひとり旅、葉巻、オヤジバンドではボーカル担当。ブログ更新は祭日以外の月曜、水曜、金曜。 ★★★スマホでご覧頂いている場合には画面下の「ウェブバージョンを表示」をクリックしてウェブ画面に飛ぶと下側右にカテゴリー別の過去掲載記事が表示されますので、そちらもご利用ください。
2015年11月13日金曜日
暁の頃 「きぬぎぬ」
ひとくちに夜と言っても、朝や昼に比べて時間帯が長い。大ざっぱに分ければ「宵」、「夜中」、「曙」の時間帯に分類される。
暗くなってから明るくなるまでの時間帯すべてが夜だが、宵の口と明け方ではまるで意味合いが違う。
妻帯者の帰宅時間をこの3類型に当てはめていろいろ想像すれば「夜の幅広さ」を実感できる。「曙」に帰宅したら家庭不和になる。
さて、「曙」の前の時間帯が「暁」である。私が好きな時間帯である。そんなシャレたことを言ったところで普段はイビキかいて寝ている時間である。
幼稚園から高校まで通った母校は学校名の最初が「暁」だったし、思えば母親の名前にも「暁」が使われている。
「暁」には縁があるみたいだ。イビキかいて寝ている場合ではない。
空が白んでくる少し手前の時間帯が暁だ。まだ暗い。でも朝は近づいているという時間だ。
井上陽水が『帰れない二人』で歌っていた♪ もう星は帰ろうとしてる 帰れない二人を残して ♪ といった雰囲気の時間である。
夜が終わっちゃう切なさが良い。何かを追いかけたくなるような、取り戻したくなるような時間だ。一人ぼんやりするも良し、誰かと一緒ならそれも良しである。
そんな時間まで誰かと一緒にいたのなら、その人とは親しい関係だ。深い夜の闇に溺れた時間が暁の訪れとともに過去になっていく。
名残り惜しい時間である。名残り惜しさという感情ほど人の心を揺さぶるものはない。そんな想いに浸るのには暁の時間帯は最適だ。
男女の熱い夜の余韻は暁の頃に一区切りつけるのが正しいと思う。だらだら明るくなるまで引っ張るのはヤボだと思う。
極めて個人的な意見です。
朝どころか昼までだらだら絡まっているのも刹那的で悪くはないが、やはり暁の頃に一区切りつけたほうがイキだ。
「きぬぎぬ」という言葉がある。実に色っぽい言葉である。以前、色恋小説の大家である吉行淳之介の小説を読んだ時に知った言葉だ。
「きぬぎぬ」は「後朝」と書く。まるっきり当て字だ。もともとは「衣衣」だったものが当て字に変化したらしい。
「衣衣」と「後朝」。二つ並べただけで色っぽい雰囲気が漂ってくる。そう思うのはスケベな私だけだろうか。
平安貴族の世界では、男が女の家を訪ねるのが色恋の基本だったそうだ。互いの身につけていた衣を重ねて布団代わりに夜を過ごす。
朝が来てそれぞれの衣を身につける。そんな意味を持つのが「衣衣」(きぬぎぬ)だ。その後「後朝」という文字を「きぬぎぬ」と読むようになった。かなり艶っぽい語源である。
なんとも風雅な話だと思う。
ちなみに、男が女の家を出て行く時間帯は曙ではなく暁の頃だったそうだ。それが一種の常識だったらしい。まだ暗く、星や月の灯りのもと去っていったわけだ。
文明の利器が何もない時代である。電話もない、メールもない。そんな状況の中で愛しい人と離れる名残り惜しい気持ちは現代人には想像できないほど深かったはずだ。
そんな名残り惜しさを暁の頃に感じてキュンキュンするわけだからなかなかロマンチックである。
実際、想いの深さを伝えるための「後朝の文」という手紙を送る習慣もあった。要は「サンキューメール」である。いや、そんな軽薄な言い回しではイメージが違う。いわば、想いの深さを伝える恋文である。
逢い引きの後の手紙は、届くのが早ければ早いほど、想いの強さや深さを表していたそうで、百人一首にもその類いのものがいくつもあるらしい。
いわば、名残り惜しいという感性が芸術につながったわけだ。
若い頃の話だが、情熱のひととき?を過ごした後、何があっても次の日の朝はギリギリの時間まで居座る人がいた。
夜中や明け方に帰った方が仕事に向かう上でも楽なはずだから、そのように勧めても絶対に帰らない。たとえ、こちらが帰りたくてもそんなことはお構いなしだった。
やはりこれも若い頃の話だが、逆に必ず帰る人もいた。夜を過ごした後、こちらが朝まで一緒にいてくれと頼んでも必ず明け方に帰っていく。
次の日が休みだろうと、いつも決まって暁の頃に身支度を始める。ビジネスライクに感じるほど徹底していた。
でも、不思議なもので、私が「後朝の文」を出したいような気分になるのは後者のほうだった。
きっと、必ず居座る人の方が私と親しく馴染んでくれていたはずなのに、私にとってはペースが合わずにテンポがずれちゃう人だと感じたのだと思う。
私自身が外泊が苦手だったせいもあるが、どこかのタイミングで一線を区切る習慣を維持するのはスマートだと思う。
情念の海に溺れて、節度も見境いもなく漫然と時間を過ごし、お互いに相手の見たくない部分まで見てしまえば、出るのは溜息ばかりである。
男女に限らず、人付き合いのキモって結局そのあたりに尽きるのかもしれない。
距離感の中でもつい見逃してしまうのが「時間的な距離感」である。その人と快適に一緒に過ごせるのはどのぐらいかという意味だ。
3時間か、24時間か、はたまた10日間なのか半年でも平気なのか。こればかりは人と人の相性だから試してみないと分からない。困ったものである。
さてさて話がまとまらなくなってきた。
私自身は「夜から暁まで」一緒にいられる人しか求めていないような書きぶりだが、決してそんなことはない。
暁まではもちろん、朝までだって有難い、2泊でも3泊でも嬉しい、たぶん1週間だって平気だ。もちろん「ちょんの間」だって大歓迎である・・・。
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