2015年2月27日金曜日

イクメンとかカジメンとか


イクメン、カジメン。個人的にとても違和感を覚える言葉だ。率直に言えば嫌いな言葉である。

育児に一生懸命な男、家事を頑張る男といった意味だが、なんか4文字のカタカナになると窮屈な感じがする。

父親であれば可能な範囲で育児に精を出すし、家事だって然り。ごく普通のことだ。

ことさら馬車馬のようにコマゴマとしたことをさせたがる変な空気が気持ち悪い。何なんだろう。

ネグレストや児童虐待をするような異常者は別にして、普通の男性なら誰だって普通に育児や家事はしている。

「普通」の基準が家庭それぞれで違うだけである。画一的に尺度みたいなものを他人様に押しつけられる話ではないと思う。

家にいられる時間の長短で育児や家事に割ける時間が人によって違うのは当然だ。
どこかのヒマな旦那の武勇伝?を多忙な家の旦那に押しつけられたら堪ったものではない。

数週間の育児休業を取るのは立派だが、実際の育児の現場を考えれば「たかが数週間」でしかない。

育児はもっとももっと長い年月の積み重ねである。大所高所の考え方が大事であって、ちょこちょこした話ではない。

世間からイクメンと呼ばれることはまったく無かった私だが、ごく普通に子煩悩な父親だったと思う。

母親を助けるとか、そんな大げさなことではない。母親の長風呂の間にオシメが汚れれば交換したし、母親が家事で手が離せなければ食事の世話をした。時間が合えば寝かせつけたりもした。

母親抜きで子供と終日外出もしたし、読み聞かせだってしたし、幼い子供特有のエンドレスな会話にも普通に付き合っていたし、自転車訓練もかって出た。

別に自慢げに羅列するほどの話ではない。頑張った感覚すら無い。極端に多忙な父親でもない限り、大半の父親がそのぐらいはしている。それじゃあダメなんだろうか。

家事にしても、たまには食器を洗ったり、ときどき風呂掃除したり、家の周りの雑草処理や野良猫対策に精を出した。わが家の玄関前で犬にションベンさせるクソジジイとも闘った。

掃除洗濯や、スーパーへの買い物、近所のオバサンとの井戸端会議のような種類の家事は一切しなかったが、それだけで「非カジメン」なのだろうか。

協力的かどうか。どうやらこの一点がイクメンやカジメンの分岐点らしいが、それだって家庭ごとにさまざまだろう。要は大黒柱としての存在感を節目節目で発揮していれば済む話だと思うのだが、そんな考え方は通用しない時代なんだろうか。

私だって、靴下を洗濯機に入れる際に裏返しで脱がないように「指導」され、きちんと遵守していた。私にすれば協力である。

いま思えば専業主婦サマだった当時の嫁に随分と「指導」されたが、そんな従順?な姿勢自体が私に言わせれば立派な協力である。

そもそも共働きの家庭と専業主婦がいる家庭とでは比べようもないし、それ以前に100組いれば100通りのカラーがあるのが家庭だ。抽象的な概念を押しつけるのはバカみたいである。

イクメンもカジメンも結局は、育児や家事で煮詰まっている女性のSOSが根源にある。男として気付かなければならない。それが一番大切なことだ。でも無理に身代わりになることがすべてだとは思わない。大事なことは上っ面の行為うんぬんではない。煮詰まった女性に対する理解や配慮だろう。

それこそ、情が通った夫婦ならクリアできる問題だし、そんな夫婦ならイクメン、カジメンといったブサイクな言葉は使う必要もないはずだ。

こんなくだらない言葉を気にしている世の中の既婚男子や結婚予備軍の男子には、つくづく得体の知れない空気に踊らされるんじゃないと言いたい。力んだって仕方がない。

まあ、独り身になった私が主張したところで説得力はない。でも、普通の神経の人が普通の感覚でやれることをやれば問題はないと思う。

それでもダメならとっとと別れることを考えた方がいいのではないか。

追伸・・・個人的な意見なので怒りのコメントとかはご遠慮願います!

2015年2月25日水曜日

哀愁の豚肉


牛肉と豚肉。世間一般では牛のほうがエラそうな位置付けである。ゴージャスな御馳走といえば牛肉であり、豚肉はその地位には達していない。

不思議である。

ウルフギャングだルースクリスだ等々、オッシャレ~な肉レストランもあくまで牛を味わう世界である。

デートの店選びにしてもポークソテーの名店よりハヤリのステーキ屋のほうに軍配が上がりそうである。

肉の御三家?といえば牛、豚、鶏だが、鶏肉の場合、どことなくヘルシーなイメージのせいで肉業界のなかでも独自のポジションを獲得している。

それに比べて豚肉はどこか不相応に冷遇されている気がする。関西人なんて豚のことを肉と呼ばない。だから肉まんと言わずに豚まんと呼ぶ。実に厳しい。



黒豚のせいろ蒸しである。鹿児島のJAが経営に関わる銀座「華蓮」で食べた。この店、芋焼酎の品揃えも多いし、適度な高級感もあって使い勝手がいい。

一品料理にはトンコツもあるし、ヒレカツも絶品である。黒豚のアンテナショップとして優秀なのだが、残念なことは鹿児島黒牛とかいう牛肉も用意してある点だ。

「華の銀座に出店するには豚だけじゃ気がひける」とでも思ったのだろうか。豚好き男としては、豚一色で勝負していないことが引っかかる。

ちょっと偏屈だろうか。

豚肉を食べる文化は一部の地域を除き、明治維新後に広まったらしい。その後、大正の終わり頃から全国で養豚が盛んになり、いつのまにか「豚肉は手頃、牛肉は贅沢」みたいなイメージにつながっていった。


やきとんである。焼鳥には高級焼鳥というジャンルがあるが、やきとんはあくまで大衆酒場の象徴である。

うまい店のやきとんは魂が震えるぐらい美味しいのだが、少なくとも女性を初デートに誘う店としては100%選ばれない。それが現実である。

でも、気の利いたやきとん屋ならレバ刺しだって食べられる。牛レバが禁止された今、豚の面目躍如といった感じだが、豚のレバ刺しを食べて肝炎になる人が急増中という話もある。


いかんいかん、豚肉に不利な話を書いてはいけない。

豚肉の地位の低さは、北海道の一部で豚肉が材料の串焼きを今だに「やきとり」と称していることからも分かる。実に不憫である。

高級路線じゃないドンブリ業界にしても肩で風きって日本中を席巻しているのは「牛丼屋」である。BSE問題とかイレギュラーな事態になると豚肉がピンチヒッターで登場するが、あくまでサポートメンバー扱いである。

だいたい豚丼専門店で全国展開している店が見当たらないことが不思議で仕方がない。


街中の至るところに豚丼屋が溢れている帯広は実に偉大である。あんなにウマいものが全国的にポピュラーにならないことが不思議で仕方がない。

牛丼屋がサイドメニュー的に出している豚丼がウマくないことが豚丼が伸び悩みしている原因だと私は睨んでいる。あれもきっとワザとそうしているに違いない。

ヘタな牛肉料理より豚のほうがウマいことに気付く人を増やさないようにという牛丼シンジケートの恐ろしい陰謀かもしれない。

高級路線、贅沢イメージという世界で完敗しているのに、手頃なドンブリという世界においても牛の覇権を崩せない豚肉の現実が哀れである。判官びいきしたくなる。

加齢のせいもあるが、すっかり牛肉より豚肉派になってしまった私だが、このブログで豚の地位向上を主張したところで世の中は変わらない。



ブツブツいいながらウマい豚をがっつくだけである。トンカツ、メンチカツ、スペアリブ、生姜焼き、味噌漬け、角煮、しゃぶしゃぶ、チャーシュー、ハム・・・。すべてを愛して生きていこうと思う。

2015年2月23日月曜日

水中写真の今昔

もう1年半もダイビングをしていない。30年近くの潜水キャリアの中でこんなにブランクが空いたのは初めてだ。

このままやめちゃえば海で事故に遭うことはないから、それはそれでいいかとも思い始めていたが、新しいコンデジを買ったせいで、俄然潜りたいモードが高まってきた。

潜りたいというより、久しぶりに水中写真に熱中したいという気分である。

水中撮影歴はかれこれ30年近くになる。すべて我流なので大した写真は撮れないが、自分にとってはとても楽しい趣味だ。

25年ぐらい前から重い一眼レフを更に重い金属製防水ケースに格納してエッチラオッチラ潜っていたのだが、さすがに時代は変わった。

軽量小型のミラーレス一眼の普及とともに防水ケースもプラスティック(ポリカーボネート)製が主流になってきた。安価で軽いから昔の苦労に比べればラクラクである。

もっとビックリなのがコンパクトデジカメの進化である。昔と違ってシャッターのタイムラグも解消し描写力も凄く進化した。

一昨年、オリンパスのTG-1というコンデジを水中で使った時には大げさではなくただただビックリした。



端的に言って10~20年前の高価な一眼レフより綺麗に撮影できる。なんだか複雑な気持ちになったことを覚えている。

先日衝動買いしたのは、更に進化したTG-3というコンデジ。オリンパスは顕微鏡メーカーでもある。今回買ってみたコンデジにも「顕微鏡モード」なる超接写機能が搭載されている。

http://olympus-imaging.jp/product/compact/tg3/feature2.html

被写体とレンズが触れるような距離でもしっかりピントが合う。これは水中撮影にこそ威力を発揮するはずだ。

問題はストロボである。水中写真は光源無しで撮影すると青かぶりするので昼間でもストロボを使う。

顕微鏡モードだと被写体にくっつくぐらいの距離で撮影するから内蔵フラッシュはもちろん、外部ストロボの位置を調整してもカメラ本体が邪魔になる。上手く被写体を照射するのは難しい。

で、ネットの世界をウロウロ覗いていたら、水中専用のリングライトをオリジナルで作っている人を発見。


単純にいえば、カメラ本体のフラッシュの光をレンズ周囲に円形に設置したフィルターを介して均一に光らせる仕組み。この画像の商品のような機能を水中で使えるようにした商品だ。

Facebook経由で連絡を取ってみた。在庫切れとのこと。あきらめようと思ったが1か月も待てば制作可能だそうで、さっそく頼んだ。そのうち秘密兵器がやってくる予定だ。

これを装着すれば、老若男女どんな人でも簡単に持ち運びできるサイズのカメラセットでプロもビックリのマクロ撮影が可能になる。

その昔、タカアシガニみたいな撮影機材を使っていた頃に比べると、まさに隔世の感がある。長生きはするものである。

ニコンの水中専用カメラ「ニコノス」が主流だった30年ぐらい前までは、マクロ撮影は至難のワザだった。

25年ぐらい前に一眼レフを防水ケースに格納して撮影するパターンが一気に普及してから、水中写真の世界は大きく変わったような気がする。




タツノオトシゴの仲間である全長2センチ程度のピグミーシーホースとか、ガラスハゼとか、肉眼では確認できないようなちっぽけな生き物がダイバーにとってのアイドルになったのもマクロ撮影の普及が理由だろう。

全長1センチや2センチだとそれなりに撮影は大変だが、10センチ程度のハゼやクマノミあたりだったら初心者でも割と簡単に撮影可能だ。

広角レンズでの撮影のほうが構図や距離感、透明度との兼ね合いなど綺麗な写真を撮るのは難しい。

画角180度ぐらいの超広角レンズだったら尚更しんどい。ストロボの照射範囲、画面の歪みなども絡むので、かなり厄介なシロモノだ。



ということで、マクロ撮影が主流派のようになった昨今の水中写真事情だが、コンデジが顕微鏡レベルになっているのだから益々そうした傾向は強まるのだと思う。

私がダイビングを始めた頃には、見たことも聞いたこともなかったような小さなエビ、カニ類、極彩色のウミウシなど、ヘンテコな面々が注目されるようになったのもマクロ撮影の恩恵だ。




なんだか、誰に向けて解説しているのだか分からない書きぶりになってしまった。

ということで、新しいコンデジのマクロ機能を試したくて、近いうちに久々の水中撮影旅行を計画中である。

フィリピンやタイ、マレーシアあたりの自然豊かな島を攻めたいのだが、イスラム過激派の問題があるので目的地選びに難儀している。

東南アジアでのあの手の集団の襲撃・誘拐は、その多くが周囲から離れた孤島のリゾートがターゲットになっている。困ったものだ。

さんざん検討した結果、フィリピンのプエルトガレラを候補地にしている。10年ほど前に潜りに行ったことがある場所だ。

マニラから車と船で3~4時間、離れ小島的な位置関係ではなく、市街地の延長みたいな感じ。それなのに水中は適度な透明度があってやたらと生物層が豊富だった記憶がある。

日本人にはポピュラーではないが、世界中からダイビング目的の旅行者が集まってくる。ビーチ沿いには小さい宿とレストランとダイビングショップが数え切れないほどグチャグチャ並んでいる。

問題はやたらと白人旅行者で賑わっている点である。静かな大自然のリゾートという雰囲気ではなく、ゴーゴーバーまで営業している雑多な感じ。

まあ、朝から夜まで退屈しないで過ごせる場所だから、多分一人旅になる私としてはちょうどいいはずだ。

2015年2月20日金曜日

オッパイ星人とお尻フェチ


今日は高尚な話を書く。

オッパイ星人とお尻フェチの話だ。

いつの頃からか、女性の胸に執着する男子をオッパイ星人と呼ぶようになった。巧妙にいやらしさを隠したうまい言葉だと思う。


男たるもの女性の象徴的部位である「乳」に目が行くのは至極当然だ。もっとも、胸に視線が吸い寄せられたからといって必ずしもオッパイ星人というわけではない。

私がその典型的なパターンだ。そりゃあこれ見よがしに胸が飛び出ていればジロジロ見つめる。

イマドキの言葉で言えば「ガン見」する。見て見ぬフリをするほど純情な若者時代はとうの昔に終わっている。

目の前でユサユサしていれば、つかみたくなるし、顔を埋めたくもなる。それでも私はオッパイ星人ではない。

なんか説得力がない・・・。


巨乳の人とお付き合いしたことはほとんどないし、自分史を振り返れば、胸がスリム?な人とのお付き合いのほうが圧倒的に多かった。

「乳の魔力」にそれほど惑わされない私だが、雑誌のグラビアなんかを見ると私の視線の照準はヒップ、すなわちお尻に向けられる。

雑踏や混雑した場所で、偶然女性の身体にぶつかってしまう時でも、胸に触れちゃうより、お尻の弾力を感じた方がドキドキする。

お尻星人という言葉が世の中に普及していないことが辛い。オッパイ星人という言葉はホノボノした感じだが、「お尻好き」とか「ケツ・ラバー」だとストレートにスケベな印象になってしまう。

心理学的な見地から見るとオッパイ星人は、乳離れできない幼いタイプの男性に多いらしく、女性に母性を求める傾向が強いそうだ。

対して「ケツ・ラバー」は成熟した男性に多いそうで無意識のうちに丈夫な子供を産んでくれそうな女性を求めているのだという。

ふむふむ、ということは私はスケベではなく真っ当な大人の男として正しい本能のままに女性のヒップラインに魅せられているわけだ。


お尻フェチの起源は一説によると太古の昔までさかのぼるらしい。まだ二足歩行に移行していなかった人類の祖先の記憶だ。

すなわち、四足歩行で目の前を歩いていたメスの姿にムフフ状態だったことがルーツだとか。ホントだろうか。

う~ん、でも実に深い話である。数千年にわたるDNAの成せるワザである。そう考えると女性のお尻を讃える私の性癖が崇高な嗜好に思えてくる。

的確なくびれをともなう女性のヒップラインはアートである。誰が何と言おうが、あの曲線の優美さは胸の膨らみの形状よりも数段上だと思う。

あくまで個人的な意見だが、乳の場合、まる出し状態になっていないとドキっとしない。でも、お尻は下着姿でもバッチグー!である。

どんなセクシーランジェリーだろうと、ブラジャーというシロモノは興醒めである。パンチラは拍手喝采したくなるが、ブラチラはどうでもいい。「もしもし、ヒモが出てますよ」と普通に注意できそうな感じである。そこが「オッパイの限界」である。

お尻の場合はランジェリーによってアーティスティックなヒップラインが余計に引き立つことさえある。

下着という邪魔な布きれにさえぎられても魅力を保つところがお尻の偉大さだと思う。


そんなこんなで南国リゾートに旅をすると女性達の水着姿に目が行ってしまう。今日のヒップ写真も旅先で撮影した「見知らぬ人達」の画像である。

「見知った人」にモデルになってもらったスペシャル水着画像もたくさんあるのだが、さすがにこのブログでは公開できない。

個人的には芸術性が高い作品ばかりだと思っているのだが、見る人によって印象は変わるので封印している。

でも、あの画像シリーズでフェチの人向けのサイトを開設したら間違いなくアフィリエイトで稼げるレベルだと思うからチョットもったいない。

軌道修正。

オッパイは授乳という機能を持つのに対し、お尻は一体何をしてるんだ?という声もある。確かに授乳器官としての胸の意味合いは強烈である。

でも、実はお尻にも凄い役割がある。女性のお尻の脂肪は授乳を通じて新生児に栄養を運ぶ役割を持っているそうだ。

実際にお尻がデカいお母さんから生まれた子供は頭が良いという大真面目なデータもあるらしい。

ホンマでっか?と言いたくなるが、お尻ラバーとしては本能的に信じたくなる話ではある。

オッパイ星人、お尻ラバーのどっちがどうだというテーマではないのだが、お尻好きの私としては、「オッパイ星人」と同様にカジュアルな「グループ名」が1日も早く誕生することを望んでいる。

ついでに書いておくと、もっともスケベなのは胸やお尻ではなく、「足フェチ」の男なんだそうだ。

まあ、女性の脚線美が嫌いな男などいない。結局、みんなスケベという結論にしておこう。

2015年2月18日水曜日

梅と温泉

花を愛でるといえば桜ばかりに注目が集まるが、私は断然「梅」派である。梅の花を見ると妙に嬉しくなる。

四季の中でも夏は過ぎ去っていくことを惜しまれるが、冬が去っていくことは大半の人が歓迎する。

梅は「そろそろ冬が終わる」と伝達する役割を持っているような気がする。実際には、梅が見頃になった後も寒い日は続くが、「あと一歩だよ」と梅の花がけなげに囁いているように見える。

桜よりも清楚な感じがいい。わざとらしくない。シュっとしている。可憐な雰囲気で香りもはかなげだ。

亡くなった祖母が「湯島の白梅」という大昔の歌を口ずさんでいたこともあって、毎年、季節になると湯島天神にふらふら出かけて梅を楽しむ習慣もある。手放しちゃった前の家にも母親が持ってきてくれた梅の木を植えていたし、私にとっての2月は梅の花と同義語みたいなものだ。

さてさて、梅干しや梅酒として大活躍するにも関わらず、梅の花は観賞用としても一級品だ。いわばスーパースターなのに、どうしても桜を前にすると地味なイメージになってしまう。

でも、その切ない立ち位置というか、ビミョーなポジションが梅の魅力である。桜には何の恨みもないが、梅の方が清らかな感じがする。

艶やかな桜が嘘つき女なら楚々とした梅は誠実で正直な女性のような感じがする。共に暮らすのなら桜よりも梅みたいな女性がいいと思う。

どんな人だ?

ということで、梅を見に出かけてきた。湯河原で温泉に浸かって、近くの梅林を散策しようと車を飛ばして行ってきた。

湯河原梅林より熱海の梅林の方が見頃だと聞いて、ちょこっと進路変更熱海に足を伸ばす。青空の下、白や紅の梅が美しく咲き誇っていた。




小川が流れる風流な作りの熱海梅園はかなりの見物客で賑わっていたが、桜の名所のピーク時に比べれば大したことはない。

そんなちょっとマイナーな感じこそが梅を愛でる楽しみかも知れない。昔のジャイアンツでいえば、江川に対する西本みたいな位置づけだろうか。張本に対する淡口みたいな感じ。意味不明でスイマセン。

今回の梅の旅、泊まったのは湯河原の旅館「海石榴」。昨年の秋にも訪れたのだが、館内の雰囲気、食事、風呂ともに間違いがない。


部屋の露天風呂は巨大ではないものの、圧迫感はなく週刊誌を持ち込んでタバコをくわえながら湯浴みするには最高である。

冬の温泉の良さは「頭寒足熱」に尽きる。顔は冷たいけど、身体はじんわりと温まる。のぼせそうになったら半身浴の姿勢になれば寒風が心地よい。

「梅と温泉」。日本人の中年が楽しむには抜群の組み合わせである。財布が許せば毎週でもこんな宿で週末を過ごしたいものだ。




食事に関しては何よりもダシのウマさを実感する。美しく盛られた前菜の一つ一つにしてもダシにこだわった味わいが嬉しい。

器も綺麗だし、盛りつけも洒落ているし、和食が世界遺産になるのは至極当然だと再認識できる。

コケオドシのような品は出てこないが、ぱっと見は地味に見える一品一品が丁寧に作られている。ゆったりした気分でカピカピと冷酒を飲み続けてしまった。

湯河原や熱海、伊豆方面の冬は、温泉と梅、そして小田原からの有料道路「ターンパイク」を使えば、この季節ならではの極上の富士山の絶景を堪能できる。

行楽シーズンを前にした今の季節こそ小旅行にもってこいだと思う。なんだか旅行会社の回し者みたいな書きぶりになってしまったが、そんなことを実感した時間だった。

2015年2月16日月曜日

エドワード・グリーン、人間国宝


前回、嬉しいことがあった時にはウマいものが食べたくなると書いた。
ウマいものを食べるだけでなく、特別な場面では普段と違ったことをしたくなる。誰にでもそんな傾向はあると思う。

ワクワクした気分で誰かに会いに行く時、いつもよりオシャレをすることだってその一つだ。

ビジネスマンの世界にも「勝負ネクタイ」という言葉があるように、ここぞという時は普段と違う気分を何らかの形で表したくなる。

私の場合、勝負ネクタイなど気にしたことはないが、靴は状況に応じて選ぶ。詳細は内緒だが、自分の中で「今日は〇〇だからこの靴にしよう」といったこだわりがある。

自分だけのおまじないみたいなものだろう。


取っ替え引っ替え似たような靴を履いているが、この画像の靴はなぜか自宅のリビングに放置中だ。徳利・ぐい飲み陳列棚の上にポツンと置いてある。

凄く気に入って購入したエドワード・グリーンである。とくに色合いに惚れた。とっとと履きたかったのだが、特別な日にデビューさせようと思っていたら部屋の飾りになってしまった。

自分で決めたくせに「特別な日」がいつなのかはサッパリ分からない。どうしたもんだろう。さっさと履きたい。困ったものだ。

仕事上の勝負靴にするなら紐靴がいいからその可能性はない。紐じゃないとはいえカチっとした感じなのでカジュアルな用途に似合う靴でもない。

果たしてデビューはどんな場面になるのだろう。

恋い焦がれた人との初デートなんかが最適か。いや、その後、ウマくことが進む保証はないからイヤだ。

娘の成人祝いの時にでも履こうか。でも、まだまだ先の話だからイヤだ。

せっかくだから「人生初の」とか「待ちこがれた日」とか「一生の思い出」とか、そういうスペシャルな時に履き始めたい。実に大げさである。

そう考えると「特別な日」ってなかなか無いものである。普通に暮らしていると、何かで表彰されることもないし、どっかに合格するわけでもない。

しょうがないから宝くじを買いに行く時にでもデビューさせようか。

話を変える。

私が「特別な日」のために温存しているものの一つが自慢のぐい呑みである。



人間国宝にも指定されていた今は亡き巨匠の逸品である。柔らかい風合いの独特な釉薬が特徴だ。

光りの加減や酒を入れて濡れた時の加減で白に見えたものが微妙にピンク系に発色して何とも色っぽい。

こんなちっぽけな土の塊のくせに私にとっては清水の舞台から飛び降りて死にかけたぐらい高価だった。

今どきの大卒初任給よりもはるかに高かったのだから、さすがに日常的に気軽に使うのは気がひける。普段は箱に入れて仕舞い込んでいる。

ぐい呑みは鑑賞陶器ではない。使ってナンボである。分かっているのだが、このぐい呑みは祝い事でもなければ使わない。

ということで、ちっとも祝い事がないから使う機会がなく悶々としている。祝い事の基準というか、ハードルを下げないと使わずじまいになりそうである。

尿酸値が下がったとか、体重が1キロ減ったとか、夜中にカップ麺を食べたい誘惑に打ち勝ったとか、夢の中で普段はできない変態プレイに励めたとか、そういう些細なことも全部「祝い事」にしないと使う場面がなさそうである。

この話を書くために久しぶりに引っ張り出してみたのだが、しばし手に取ってフムフム言っていたら、ここ数年収まっていた私のぐい呑収集癖が復活しそうなヤバい予感がした。

いろいろ散財の予定があるから控えないといけないのだが、「アリとキリギリス」の後者のような性格だから危険である。でも、お気に入りの器で楽しむ酒は大げさではなく人生を豊かにしてくる。

人生を豊かにすることは贅沢とは言わない、などと都合の良い屁理屈をこねくり回して乗り切ろうと思う。

2015年2月13日金曜日

フカヒレをドカ食い


最近はシケた話ばかり書いているような気がするので、今日はちょっとだけ贅沢な話を書く。

贅沢といっても私の場合はタカが知れている。富豪などと名乗っていても、あくまで富豪を目指しているだけである。

ファーストクラスでパリに飛んでジョルジュサンクを定宿にするようなリッチマンではない。ファーストなんて航空会社の手違いか乗務員の手引き?で乗ったことがあるぐらいだ。

五つ星のホテルも物価の安いアジアでシーズンオフのダンピング価格で泊まるのが関の山である。国内の温泉なら露天風呂が付いている部屋に泊まるぐらいの贅沢はするが、支払いのたびにピーピーしている。

まあそれでも、見る人から見れば充分に贅沢な話である。新聞広告に載っている激安ソウルツアーとかに混ざってみたい気もするが、なんとなく敬遠する程度には余裕はある。

さてさて、最近の贅沢は飽きるほどフカヒレを食べてゲップしたことである。


大衆中華料理店ではなく、フカヒレの姿煮で評判の高い赤坂維新號で堪能したのだから結構贅沢である。

自分なりに嬉しいことがあった日にはウマいものが食べたくなる。

嬉しいことがなくても寿司やウナギを嬉々として食べているのだが、なんとなく心が躍るような時には、スペシャルな食べ物が欲しくなる。

とある日、そんな気分の私の脳裏に浮かんだのがフカヒレである。フカヒレそのものというより名店・維新號の姿煮のとろみのあるスープが無性に味わいたくなった。

この日訪ねたのは銀座新館。まずは蒸し鶏や海老料理などをツマミにして熱めの紹興酒にザラメを入れてグビグビ飲む。至福の時間である。基本的に和食党なのだが、時には「中華飲み」も悪くない。

エビチリ、エビマヨの気分ではなかったし、食べたくもない野菜と一緒に炒められたエビは有難くない。ということで、ワガママを言って海老と黄ニラだけで調理してもらった。

シンプルな海老料理は酒のアテにバッチリである。酒が進む。

で、姿煮がやってきた。オーダーの際に大きさを聞かれて、悩まずに「大きいヤツ」と暴言を吐いてしまった以上、すべてを平らげないといけない。

画像に写っているグラスや醬油差しと比べるとフカヒレのテンコ盛りな感じがおわかりいただけるだろうか。

最近、小食気味だからちょっとたじろぐ。値段にもちょっとたじろぐ。

でも、「たじろぐ」ことこそ贅沢の極みだろう。フカヒレの姿煮の量にたじろぐ場面など人生でそうそう無いと思う。

ドロっとしたスープがウマい。固形物じゃないのに酒のツマミとして大活躍である。紹興酒と組み合わせれば天国だ。

フカヒレもガッツリ食べる。でも減らない。食べても食べてもフカヒレが攻めてくる感じ。贅沢な気分になる。

そりゃあ100円マックを100人に御馳走できる値段だから間違いなく贅沢だ。いつもピーピー言ってる私だが、思い込んだらついつい散財してしまう。

ちなみに私は昔から童話「アリとキリギリス」が大嫌いである。老後の暗示に思えて恐ろしくて仕方がない。

でも、高いとはいえ、高級ステーキ屋でハヤりの熟成肉を仰々しく出されるよりは安い。大衆居酒屋に若造2,3人連れていって飲ませるよりも安い。

フグを食べに行ってももっと高いし、それなりのフレンチで大してウマくもないコース料理を食べるよりも安い。

行ったことないが錦糸町や亀戸のスナックで飲むより安いはずだ。

池袋のセクキャバだって調子に乗ってたら御勘定はこのフカヒレより高くなる。

そう考えると、贅沢だ贅沢だと書いてきたが果たしてそうなのだろうか。池袋のおっぱいパブに行くほうがよっぽど贅沢という理屈になる。

う~ん、なんだか屁理屈大会になってきてしまった。

話を戻す。

なかなか減らないフカヒレを前にしばし考える。物凄く美味しいのだが、正直言って少し飽きてきた。


ということでメシである。小どんぶりに白米を盛ってきてもらう。せっせとフカヒレ丼を制作してみる。米ラバーである私としてはこの食べ方が最上の幸せだ。

コメは偉大である。少し飽きが来ていたフカヒレが特製どんぶりに変身したことで再び輝き始める。「山盛りのフカヒレをご飯に乗っけてかっこむ」。これまた贅沢である。

店の人に「優雅な食事ですね~」と突っ込まれて恥ずかしかったが、人様に後ろ指?さされるぐらいじゃないと贅沢とは言えない。

結局、「非日常的な行為」のことを贅沢と呼ぶのだろう。

非日常的なもので贅沢気分を味わうのなら、何も高価という部分だけにこだわる必要はない。たとえば牛丼だってアレンジ一つで贅沢品に変身する。

牛丼の特盛りに更に追加の牛皿をトッピングして、超特盛りになったところで生卵の黄身を二つほどブチかけたら物凄く贅沢な気分になれる。

いかんいかん、せっかくフカヒレという富豪っぽいネタで書き進んだのに、結局は松屋ネタになってしまった。でも、「スペシャル超特盛り牛丼」は絶品なのでゼヒお試しを。

2015年2月9日月曜日

ソックリな人


「土偶やハニワみたいな顔しやがって」

人様の風貌に難癖つける時に私がよく使う言い回しである。

ひどい言い方である。今まで土偶やハニワ扱いをした人には素直に謝罪したい。

先日、とある飲み会に行こうか迷っていた時に「黒木瞳を若くしたようなコが来るからさ~!」とか言われて、がぜん興味が沸いていそいそ出かけてみた。

やはり人の話は簡単に信じるものではない。

いや、「黒木瞳を若くしたようなコ」という定義が実に曖昧である。目に映るものをどうイメージするかは人それぞれである。

黒木瞳を若くすると土偶みたいな顔になるのだろうか・・・。

いかんいかん、また土偶呼ばわりしてしまった。反省。

世界には自分とウリふたつな人が3人いるという俗説がある。日本人と似たような顔は、中国や朝鮮半島はもとより中央アジア方面にも存在する。

どこかで自分ソックリの人間が生きているかと想像すると実に興味深い。

何年か前、私がその時いるはずもなかった場所で私を目撃したという話を聞いた。親しい友人だったので、そうそう間違えないはずだ。

友人は車の中で信号待ちをしており、私(らしき人)は近くの路上でボーっと佇んでいたそうだ。

友人いわく、背格好、髪型、着ていた服も私っぽかった?らしい。ついでに言うなら元気が無さそうな様子だったとか。

私自身がその時そこにいなかったのだから単なる人違いである。でも、妙な気分がしたのも確かだ。

幽体離脱した私の生き霊が現実から逃れようとさまよっていたのか・・・などとオカルトチックな想像をしてしまった。

さてさて、「似ている人」の話である。

週刊文春の顔面相似形という名物企画が大好きである。著名人同士で似ている人を並べるだけではなく、動物やアニメのキャラクターと比べてみたり、いつもいつも笑わせてもらっている。


かなり以前から、「綾瀬はるかジャイアントロボ説」を唱えていた私だが、週刊誌上で並列画像を見た時には、自分だけの思い込みではなかったことが確認できて妙に安心した。


港川原人である。教科書なんかに載っている見覚えのある画像だが、サッカーなでしこジャパンの象徴であり、女子ワールドカップ制覇の立役者であるアノ選手と並んで紹介されていた時は、卓越した眼のつけどころに卒倒しそうになった。

いずれにしても、当のご本人にとっては失礼極まりない話ではある。フムフムうなづいたことを反省する。

サッカーつながりでいえば、アルゼンチン代表のスーパースターであるメッシを見るたびにキアヌ・リーブスを思い浮かべる。

ついでにいえば、元ブラジル代表のロナウジーニョを連想させるのが、快進撃を続けるテニスの錦織選手だ。なんか似ている。


今日はアチコチから画像をパクってきてしまいました。スイマセン。

現在のブラジル代表と言えば、ネイマールだが、海外のインターネット上では日本代表の本田選手とネイマールの顔がソックリだと話題になっているらしい。

私から見ればネイマールは格闘家の魔裟斗に見えるのだが、魔裟斗と本田圭佑も似ていると言うことなのだろうか。

まあ、人の印象は結構いい加減である。あくまで主観なのでお許しいただきたい。

懲りずに続ける。

俳優の香川照之はウルフルズのボーカルにソックリだと思うし、最近では三浦翔平という俳優を「ウィッシュ!」で人気の竹下元総理の孫・DAIGOと同一人物だと思っていた。


私が「似ているシリーズ」に興味を持ち始めたのは野茂英雄投手がきっかけである。ご存じ、日本人メジャーリーガーのパイオニアである。

現役でバリバリ活躍している当時のことだが、その頃、人気が出てきたバンドの女性ボーカルがテレビに映るたびに「ノモ・ヒデコ・・・」とつぶやいていた。

たいていの人に同意してもらえないのだが私としては兄弟じゃないかと思ったほどだ。


ELTの持田香織嬢である。バンド名しか知らなかったので、私の中では今も「ノモ・ヒデコ」である。

さて、話のオチが見つからないので、私自身の「似ている人」について書いておく。

このブログに顔出しはしていないので、私の風貌はジョージ・クルーニーにソックリとか、リチャード・ギアと双子なのかとか、松坂桃李そのものとか、何を書いてもバレない。

実際は1年に5回ぐらい「船越英一郎」に似ていると言われるので、ジョージやリチャードや桃李とは似ても似つかない。

当たり前である。

でも、大昔には「ガッチャマン」に似ていると言われたことがある。主人公の「犬鷲のケン」である。ある意味、ジョージやリチャードに似ていると言われるより光栄なことである。


ヒーローもののアニメの主役なんだから無敵にカッコいいわけである。人生でこんなことを言われた経験が一度でもあるだけで成仏できそうだ。有難いことである。

あれから30年が過ぎた。年月は残酷である。「犬鷲のケン」もいまいずこ、すっかり左端の緑色みたいな風貌で今日も元気に暮らしている。

2015年2月6日金曜日

分かれ道


このところ寝る前に本を読むことが増えた。パソコンやスマホとニラメッコすると脳が活性化しちゃって寝付きが悪いそうだから、夜更けになると乱読気味に活字を追う。

難しい本を読めば眠くなるので、日々、哲学書でも読めばいいのだが、さすがにそれではつまらない。で、結局は気軽な短編をいくつか読むことが多い。

時々、本屋でまとめ買いをする。たいていは背表紙に書かれている簡単な筋書きだけで選ぶ。

短編の時代小説を探していたつもりが、ついつい中高年の葛藤や色恋を描いた話なんかを買い込む。

私自身は大殺界も終わり、脳天気にウキウキ過ごしているのだが、一応、葛藤を抱えたオトナのフリもしないといけない。だからそんな「葛藤小説」は参考になる。

最近も藤田宜永、角田光代などの短編を読んだのだが、変に共鳴できる作品にあたると、妙に脳が活性化しちゃって逆に眠れなくなる。

作家という人々はさすがである。人の深層心理を巧みに表現する能力には恐れ入る。若い人を中心に本離れが問題になっているが、実にもったいないことだと思う。

中高年を「素材」にした作品は高齢化社会の必然として今後もどんどん増えるはずだ。結構楽しみである。

高齢化社会の必然で、世の中を見回せば中高年ばかりである。文学に限らず音楽の世界でも、題材というか主役になるのは「若者」というイメージがあるが、徐々にそんな常識も変化していくのだろう。

私が熱烈に崇拝するハマショー師匠の楽曲も近年は中高年が主人公になるものが多い。

「君と歩いた道」というバラードがあるのだが、懐古しながら最終的には現状を肯定するという「中高年モノ」の王道である。出だしの歌詞を載せてみる。



もし 15のあの夏に戻って
そこからもう一度やり直せたら
どんな人生送るだろう?

今よりも若く強い体
学んだ知恵 活かして
曲りくねった道を行こうと 迷わない

過ちやつまづきを繰り返すことなく
夢の段階 真っ直ぐに駆け上がってゆく 
                 ♪


私の場合、15の夏は、飲酒喫煙不純異性交遊?で停学になって坊主頭にさせられたので、ちっとも戻りたくはない。

それでも、10代の頃に戻ってやり直すとしたら、どんな時間を過ごすのか凄く興味はある。

小説や音楽の世界で中高年が主人公になっている作品の多くが「あの頃の自分に戻ったら、どんな判断をすべきだったか」、「あの時の自分が違う道を選んでいたら、どんな人生だったのか」といったテーマで成り立っている。

ウン十年生きてくれば、選択を迫られた場面は結構あったわけだから、誰だって自分が選んだ道が正しかったかどうかが気になる。

男の場合、人生の一大重要課題が仕事だ。私も人並みに憧れの職業ややってみたい仕事はあった。とはいえ、ずっと昔から今の仕事に就くつもりだったので、進路に関してシビアに悩んだ記憶が無い。

どっちの道に進むかという選択をしたことがないわけだから面白味?に欠ける。違う道を選んだ自分を想像しようにもピンとこない。この点だけは、自分自身に開拓精神がなかったことを少しだけ憂いたい気分にもなる。

でも大きな問題も無く半世紀近く笑って生きてきたわけだから、世界レベルの諸事情を思えば相当幸せなことだと思う。

あの時、楽器を習っておけばよかった、語学を習得しておけばよかった、もっと法律を専門的に学べばよかった等々、人生のパーツ?に関しては後悔はゴロゴロある。

でも、いずれも中高年から始めてマスターする人もいるのだから、しょせん私の場合はウジウジ言っているだけだ。どの道を選んでいてもやらずじまいだったような気もする。

でも、ギターはいまだに断念せずボチボチやっている。きっといつの日か「ギターが弾ける人」にはなる予定だ。

さてさて、「あっちの道を選んでいたら・・・」という点で、私が具体的に空想するのは20代の頃に親しかった女性のことぐらいだ。

4歳年上の人だったので、結婚するしないで意見が合わず離ればなれになった。その人はすぐに結婚して東京を離れた。

若かった私はその後も随分長い間、消化不良のような気持ちを抱えて過ごした。苦いような甘酸っぱいような思い出だ。

その後、10年以上経ったある日、旅に出た合間に一度だけその人に会ったことがある。以前のままの様子で懐かしそうに接してくれた。短い時間だったがとても嬉しい一時だった。

いま思えば、あの日が私にとって青年時代が終わった日だったのだと思う。

これまで数多くの出会いがあったが、心の芯みたいな場所に綺麗な残像が残っているのはその女性ぐらいである。

あの人と家庭を築いていたら自分の人生はどうなっていたのだろう。ふとした瞬間にそんなことを思う。私も人並みに「おセンチ」である。

でも、あの頃の自分を思うと今よりも数段アホだったからビミョーだ。だいたい20代という幼さはそれだけで凶器みたいなものだ。平穏無事に過ごせたかどうかは怪しい・・・。

素敵な恋愛も家庭という形に変化すれば、いつの間にか異種格闘技戦みたいになっちゃうことが多い。あの人とはそんな不穏な関係になりたくなかったから余計な空想はしないほうがマシだ。

やはり大事な思い出は美しいままで心の中に閉じ込めたおいたほうがいい。

なんだか今日は自問自答みたいな書きぶりになってしまった。

おセンチな懐古趣味に浸るのは爺さまの役目だから、そんなことをウジウジ書いていてはいけない。

「あの時、どっちの道を選んでいたら・・・」。誰もがふと思うことだが、今現在ニコニコ暮らしているなら、選んできた道は全部正しかったと言うことである。それが真実だと思う。

2015年2月4日水曜日

味覚の劣化、ラーメン、ウナギ


寒いせいか最近ラーメン屋に行く機会が増えた。さほどラーメンが好きなわけではないが、ハフハフすると身体が温まるので冬場は行きたくなる。

でも、なぜかマズいラーメンにやたらと遭遇する。私の店選びが悪いのだろうが、空腹なのに半分ぐらいで残しちゃうこともある。

ギトギト、ベトベト、口に残る不快感等々。結構混雑した人気店でもそんなのが珍しくない。

味覚は極めて個人的なものだから、私の感想が正しいとは言えないが、それにしても「何じゃこれ?」みたいなラーメンが多すぎる。

世の中の大半のラーメンは今や若者限定の食べ物になってしまったのか、私の味覚が老化しているのか、きっといずれかかだろう。

先日も馴染みの「ゆで太郎」でかき揚げ蕎麦を食べようといそいそ出かけたのだが、すぐそばに大人っぽい?ラーメン屋を見つけて入ってみた。

店先に数々の雑誌で紹介された記事のコピーが自慢げに貼ってある。きっと人気店なんだろう。

食べてみた。残して帰っちゃうほどではなかったが一言でいうと「変な味」。醤油味といいながらドロッとしたくどいスープ、おまけに意味不明なユズの香りも漂う。

メニューの写真にはウマそうなチャーシューが写っていたのに、現物は白い部分ばかりの肉片だ。ラードの固まりを引き延ばしたような感じ。箸で持ち上げるだけで切れちゃう。

ゆで太郎に行かなかったバチが当たったのだろうか。

さてさて、味覚にも老化はあるらしい。ラーメンの失敗続きがそのせいだとは思いたくないが、最近は昔より味覚が劣化している気がする。

年齢とともに味覚センサーの役割を果たす味蕾(みらい)が減るらしい。普通は60歳を過ぎてからそうなるとのこと。私にはまだ早い。

老化以外にも味覚がダメになる理由は亜鉛不足である。インスタント食品ばかり食べていると正しい味を感知する機能が狂ってるくるそうだ。

やはり日頃の食生活をもっと大事に考えないといけない。


そうは言っても好きなものに対しては、しっかり自分なりにウマいマズいは判断しているつもりだ。

寿司を食べに行ってもネタが上等なのにシャリがウマくないとか、冬のカジキはもっと旨味があるはずだとか、ウナギを食べに行っても、自分の味覚を信じて結構コト細かく味のバランスをはかったつもりになっている。

相変わらずウナギラバーなので、暇な休日には近場の鰻屋さんで日本酒片手にまったりするのが好きだ。

今の住まいに引っ越してきて2年以上が経つが、自宅から半径1~2キロ圏内の鰻屋さんは大体覗いてみた。

専門店かつ、そこそこの体裁の店ならダメダメな店は希だ。酒の肴もあってウナギがそれなりにウマければ普段使いには充分である。

以前から自宅からほど近いJR大塚駅近くの某店に酒飲みがてらちょこちょこ出かけていたのだが、3ヶ月ほど前に別な店を見つけてからはそっちばかりになった。

家から歩くには少し遠いのだが、タクシーでワンメーター、タイミング良くバスが来れば10分もしないでたどりつける。

「大塚宮川」がその店。私が訪れる時間のせいなのか混雑しているのを見たことがない。初めて行った時は無人の店を見て逃げ出そうと思ったが、白焼きも鰻重も標準以上にウマい。

誰からも逃げ隠れはしていないが、私にとっての隠れ家みたいなものである。

ウナギ以外のツマミは少ないし、お値段も高めだ。でも、それはそれでガサツな酔客を排除する効果にもなっているから、ゆったりマッタリ一献傾けながらウナギを食べたい時には悪くない。

「宮川」と名がつく店は日本中に無数にある。実は大塚駅周辺には、ここで書いている店とはまったく別の「宮川」まで存在する。実に不思議だ。

同じ店名を名乗っていても暖簾分けが基本だから、当然店ごとに路線も味もそれぞれだ。

同じ名前だとついつい手垢のついたチェーン店みたいな雰囲気を連想して、漠然と敬遠したりしていたが、そんな先入観は正しくない。

最近でも荻窪の宮川も予想以上にウマかったし、銀座の宮川も悪くなかった。


こちらの宮川では、白焼きもバツグンだ。醬油ベースの専用タレを出すこだわった感じが嬉しい。お酒もキッチリ湯煎しているのか、実に正しい燗酒が出てくる。

いつも白身魚の薄造りやトロロあたりをツマミに燗酒をチビチビ楽しむ。ちょうど良いタイミングで白焼が登場すると冷酒に切り替えてグビグビする。

イチロー選手のカレーライスのように「白焼きと冷酒」は私の大事なルーティンである。最強の組み合わせである。生きている喜びを実感する。

抱かれてもいい、と書こうとしたのだが、ヌルヌルしたウナギの姿が頭に浮かんだからそれはパスだ。変態地獄になってしまう。

そして、ほろ酔い加減になったあたりで真打ち・鰻重の登場である。とはいえ、いきなりガッツクことはしない。蒲焼きの半分ぐらいは白米を無視して酒のアテにする。

チョロッとつまむたびに冷めないように蓋を開け閉めするイジイジした感じがまた楽しい。なんだかウナギ道?を書き始めるとキリがない。

今日は味覚の劣化について深く考察しようと思ったのだが、結局いつものウナギ賛歌になってしまった。ウナギの話を書いているだけですぐにまたウナギが食べたくなる。

いずれにせよ、ネットの風評やグルメ本とも無縁な近場のウマい店でホゲホゲしていると妙に嬉しく感じる今日この頃である。

ついでに言えば、私の大殺界は節分を機に終結である!。でも今年は厄年なんだとか。なんだか美人局に引っかかったようなサエない気分である。

ウナギでも食べて鋭気を養おうと思う。

2015年2月2日月曜日

クマムシ 自粛 ピケティ


♪あったかいんだから~♪


売り出し中のお笑いコンビ「クマムシ」のヘンテコな歌が頭から離れないで困っている。

職場で難しい顔で腕組みしている時も私の頭の中には、あのメロディーが鳴り続けている。

刷り込みってヤツだろうか。それにしても、あのメロディーラインは秀逸だ。「ラッスンゴレライ」よりも心に染みる。

話を変える。ハヤリものもその一つだが、世の中に漂う空気ほどよく分からないものはない。曖昧で頼りないものに思えて、その一方で凄いパワーを持っている。

いつの間にか社会を覆い始めている「窮屈さ」もそうした空気が影響している。インターネット社会を「私刑社会」と評していた人がいたが、ひと昔前までとは確実に世の中の空気が変わってきている。

神経質に相互監視が行われ、異質な意見や目立った存在はすぐに攻撃の対象になる。結果、事なかれ主義が安全策となり、自粛や萎縮が広範囲に広まる。

なんだか今日は話がまとまらない。

また話を変える。

萎縮した自粛社会を形作っている世の中の空気はいつの時代も「目に見えない力」が生み出している。

目に見えない力にも、自然発生的なものと作為的に作られたものがある。権力を持つ側は必然的に自分たちがコントロールしやすい社会を目指す。その手段として世の中の空気を自分たちに有利な方向に導こうとする。

安全保障をめぐるタカ派優勢の近年の「空気」だって戦略的に作られているわけで、数年後には「目に見えない力」がどんな事態を引き起こすのか不安になる。

古今東西、世論操作や世論誘導はあらゆる分野で巧妙に仕掛けられてきた。普通に暮らしている普通の人々は、漂ってくる空気を「そういうものだ」と漠然と認識することになる。

経済の分野でいえば、消費税の在り方などその典型だろう。導入するしないで大騒ぎしていた頃は、それこそ鬼っ子のようにイメージされていた。

あれから四半世紀。今ではすっかり「高齢化社会の福祉財源として必要不可欠なもの」という位置付けで認識されている。

税率アップへの拒否感こそあっても、いまや廃止はおろか税率引き下げを求める声すら聞かない。四半世紀かけて作られてきた「空気」の成せるわざだろう。

税金の話ついでにもう一つ。

「ピケティ現象」なる言葉が生まれるほど分厚い経済書が世界中でベストセラーになっている。

フランスの経済学者・トマ・ピケティ氏の「21世紀の資本」がそれ。昨年12月に発売されたばかりの日本語版も大人気だ。

過去200年にわたる世界の経済データを分析しつつ、観念論ではない資本主義における不平等を説いているのが特徴だ。

内容はさておき、お堅い経済書が世界的に大ヒットしている背景がどうにも気になる。すなわち、課税強化を狙う勢力がピケティ現象を味方につけようという思惑があるように思えてならない。

財政当局や御用学者にとって増税名目は何でも構わないのが本音だ。ピケティ現象が話題になればなるほど、増税したい面々は大喜びだろう。

問題は“悪ノリ”である。ピケティ本が言いたいのは財産税(富裕税)の導入など「超富裕層」への課税強化である。「上位中間層」に対して闇雲に増税しろという話ではない。

ただ、ごくごく簡単に言えば「金持ちにもっと税金をかけろ」が主眼だから、本が話題になればなるほど、「金持ちには重税を」という総論部分だけが先走っていく。

「お金持ち」の定義が曖昧なまま「増税すべし」という空気が広まっていくと、結局はスーパーリッチには程遠い「上位中間層」が割を食う結果になる。

年収3~4千万円の人と年収ウン十億円の人が同じ税率の所得税を課せられているように、現状の税制では「お金持ち」の定義が実にテキトーだ。

ピケティ現象も増税したい勢力からすれば、総論だけを拡大解釈して広めてしまえば「目に見えない力」になるから万々歳なのだろう。

うがった見方かもしれないが、ピケティ現象に便乗してニンマリしている連中の顔が目に浮かぶ。