2015年11月30日月曜日

ぐい呑み


心が熱くなる。実に良い言葉だ。ボンヤリと暮らす日常の中で、心が熱くなる場面など滅多にない。

色恋沙汰なら最高だが、あればかりは相手のある話なので思ったようにはいかない。

熱くなり過ぎないようにブレーキをかけるのもまた楽しい。イジイジする気分は案外と気持ちがいいものだ。

前振りが長くなったが、最近、自分自身でブレーキをかけているのが「葉巻」と「ぐい呑み」である。

タバコを「休憩」してはや5か月。なんとか続いている理由はおそらく葉巻だ。頻繁にプカプカしている葉巻はニコチンの塊である。

吸い込まない、ふかすだけと言っても、粘膜からニコチンを吸収しまくっている。おかげでタバコの禁断症状も気にならないのだろう。


今日は葉巻の話ではなく「ぐい呑み」の話。ここ数年、治まっていたぐい呑み収集癖が復活しそうなので、必死にブレーキをかけている。

10年以上前だが、病的にぐい呑み収集に励んだ時期がある。病的と書くと大袈裟だが、実際にトチ狂ったように連日、高いものから安いものまで買い続けていた。

ある時期は、外食も控え、潜水旅行も控え、使える小遣いはぐい呑みや徳利収集だけに投入していた。

いま思えばアホらしいが、その時はそれが何より楽しかった。探している時の楽しさ、気に入ったものを見つけた時の喜び、気に入らないものを買っちゃった時の後悔まで面白がっていた。

都内の陶器専門ギャラリーに出かけるのはもちろん、全国の窯場めぐりに精を出し、各地の骨董市も覗いた。

備前や唐津には何度も行ったし、東海地方、関西、山陰、九州あたりに焼物だけを見に行った。

ネットオークションのチェックも日課になっていた。現代の人気陶芸家の作品だと骨董とは異なりニセモノを掴んじゃうことは希だ。

オークションサイトでお気に入りの作家の名前を登録して、新規出品があったら自動的に通知されるように設定していた。

コレクションが増え過ぎちゃったので、酔っ払うと気前よく人にあげちゃうことも多かった。後になって青くなったこともある。


幸か不幸か、熱はある時を境に治まるもので、ここ5~6年は収集癖もすっかり無くなり、自宅での晩酌の際にお気に入りのぐい呑みを楽しむ程度で済んでいた。

ところが、この秋ぐらいから「マイ・ぐい呑み」を持ち歩くことが増えた。いくつか持っているビジネスバッグには昔から常にぐい呑みを入れてあるのだが、プライベートで飲む際には手ぶらで行く機会が多く、なかなかマイ・ぐい呑みを使う場面がない。

ところが、最近は手ぶらだったとしてもスーツの胸ポケットに無理やりぐい呑みを格納して持ち歩くこともある。これからコートの出番となればポケットのサイスモ大きくなるからマイ・ぐい呑みの出番はもっと増えそうである。

なるべく新しいものは買わないようにしているのだが、ここ1,2か月、夕暮れの街をさまよっていると、ついつい器を売る店を覗いてしまう。

覗いてしまうと、欲しくなる。悪循環である。我慢しようと自分に言い聞かせる一方で、一期一会だ、出会いだ等々、屁理屈が頭に浮かぶ。

結局、コレクションがいくつか増えてしまった。ヤバい傾向である。危ない危ない。

マイ・ぐい呑みを持参してウマいものを食べに行くのがまた楽しい。ひとり酒だったら尚更である。ぐい呑みは酒を満たすと表情が変わる。そんな変化を眺めながら過していると気分もゆったりする。

初めて訪ねた料理屋さんなどで、ぐい呑み一つで会話が弾むこともある。カウンターを挟んで初対面の店主と客が小さな土の塊をきっかけに打ち解けるのも「いとおかし」だと思う。

ひとり酒やひとり旅の話ばかりだと、友達もいない偏屈人間だと思われそうだが、温泉旅館にひとりで出かける時の相棒にもぐい呑みはもってこいである。

小さいから邪魔にならないし、小さいからこそ可愛く愛おしい。風情の異なるぐい呑みを3つほど選んで温泉旅館に持参すると夕飯の時間が無性に楽しくなる。

気分は三蔵法師である。3つのぐい呑みはそれぞれ孫悟空、猪八戒、沙悟浄だ。とっかえひっかえ酒を注ぎ、料理ごとに使い分けて楽しむ。

特別な準備はいらない。ただぐい呑みを並べて酒を注いで調子よく酔っ払うだけである。実に簡単だが、その割に風流な気分にもなれて大人の遊び方としては悪くない。

そんなことを書いているだけで、温泉旅館に籠もりたくなってきた。温泉に浸かるというより、温泉旅館の上等な夕食をマイ・ぐい呑みとともに楽しみたい気分だ。

日頃はぐい呑みをポケットに一つだけ忍ばせているから、もっぱらひとり酒専門だ。ひとり酒も悪くないが、時には人恋しい時もある。

お気に入りのぐい呑みを二つ持参して、差しつ差されつの時間を過ごすのも悪くない。そんな艶っぽい時間を過ごすためにはひとり旅ばかりではダメである。

頑張ろうっと。

2015年11月27日金曜日

銀座 鮨わたなべ


飲食店の新規開拓はどことなく旅に似ている。なんとなく興味を持って、勝手に想像して、実際に行ってみて、楽しかったり、失敗だったり・・・。二度と行きたくない店もあれば、何度も行きたくなる店もある。

今日は、最近初めて入ってみたお寿司屋さんの話。短期間に何度もリピートしたから私にとっては良い“旅先”だったのだろう。


銀座5丁目、並木通りと中央通りの間にあるビルの3階に構える「鮨わたなべ」。入口までのアプローチがウマいものへの期待を膨らませてくれる。

店内はモダン過ぎたり、無機質過ぎることもなく、適度なドッシリ感があって大人がくつろげる雰囲気だ。カウンターの奥行き、椅子の間隔ともに余裕があって心地良い。

店主が若造ではない点がとくに良い。なんか変な言い方だ・・・。でも飲食店の場合、「こだわりがありそうなオッサン」がカウンターの向こう側でデンと構えていてくれると妙な安心感がある。

この店の大将は、キッチリした寿司職人の雰囲気がプンプン漂っている。いい感じに年を重ねた風貌で、弟子の立場だったらきっと恐そうである。そういう感じが良い。

かといって無愛想というわけではなく、しっかりそれぞれの客に目を配り、余裕のある応対をしている。

若い店主の店で時々感じる気負った感じ、力んじゃった感じはない。だから居心地が良いのだと思う。

肝心の食べ物は極めて正統派だ。ツマミにしても握りにしても、奇をてらったものではなく、オーソドックスなものが中心。ただ、それぞれの産地や質に相当なこだわりがあるようだ。

カツオ、アジ、タコ。こう書くとごく普通のラインナップだが、目ん玉丸くして驚いたり、変なうなり声を出すぐらい美味しかった。凄いことだと思う。

ツマミも酒盗や塩辛、筋子、なめろうなど酒飲みが素直に喜ぶものをサラっと出してくれる。他にも香箱ガニは湯葉と和えて出したり、一夜干しの焼き物も出てきたり、短期間に続けて行ったのだが飽きちゃうことはなかった。

真っ当なお寿司屋さん。単純な言い方だがそれが一番的確かもしれない。ポツポツと無駄話を交わしていると大将のこだわりが随所に垣間見えて楽しい。

なんでもかんでも塩で食べさせようというヘンテコな風潮にブツクサ言う私にも激しく同意してくれた。でも、調子に乗った私がユズやダイダイ系も寿司屋には不要だと熱弁をふるったのに、大将は九州の出身で子供の頃からのユズ・ラバーだった。ちょっとシュンとする。

ネットの口コミによると、こちらの大将は江戸前仕事をウリにする名店の出身だそうで、実際に“仕事系”のネタがとても美味しい。

とくに印象的なのがアナゴや煮ハマグリなどに塗るツメだ。この店のツメはネタそのものと付かず離れずの絶妙な味わい。ツメ自体が突出するような感じがなかった。

コハダはもちろん、白身魚の昆布締めやヅケマグロの味の加減も強すぎず弱すぎず、いいあんばいだ。全体にもっと強い味を予想していたが、良い意味でさりげない風味だと感じた。バランスが良いのだろう。

イマドキのお寿司屋さんの中には、修行僧みたいな大将の気むずかしい空気がウリ?だったり、変にモダンで無理やりワインと寿司を組み合わせようとしたり、先日、このブログでも書いたような「おまかせ絶対主義」だったりと、「何だかなあ~」と言いたくなる店も少なくない。

それにくらべて、こちらの店は「ごく真っ当なお寿司屋さん」だと思う。「上質な普通」と言いたくなる。普通を上質に昇華させることは並大抵の技量では無理だと思う。

オシャレとかスノビッシュとか、本来はお寿司屋さんの世界に不必要な要素をしっかり排除している感じもかえってカッコイイ。

値段についても場所を考えれば真っ当だろう。平気で勘違いしたような値付けをする店が多いあの街では良心的なほうかもしれない。

アレコレと書いていたらまた行きたくなってしまった。

2015年11月25日水曜日

新橋がある幸せ まこちゃん


私の職場は池袋である。「富豪」という言葉にふさわしくないディープな街だ。池袋という魔界で働いているから「富豪」などという言葉を使いたくなってしまうのかもしれない。

松濤や一番町あたりだったら「松濤で働く“福”社長日記」とか「一番町ジャーナル」といった気取ったネーミングになったかもしれない。

大都会東京でも街ごとのカラーは厳然と存在する。新宿、池袋、渋谷。麻布、六本木、銀座。はたまた下北沢、中野、吉祥寺。ほかにも亀戸、錦糸町などなど。場所の名前を聞いただけでそれぞれの人が「特定のイメージ」を脳裏に描く。

マイケル富岡が歩いていそうな街、叶姉妹が歩いていそうな街、吉田類が歩いていそうな街、なぎら健壱が歩いていそうな街。なんとなくではあるが、その「なんとなく」こそが実際に東京を多種多様に彩っている。

で、本題。

今日は新橋について書く。「新橋がある幸せ」である。夜の新橋をほっつき歩いていると、いつも私の頭の中にはその言葉が浮かぶ。

「暖炉がある幸せ」とか「イングリッシュガーデンがある幸せ」みたいなそんな意味合いである。

東京にとって、いや、東京人にとって、いや、厳密にいえば東京のオジサンにとって新橋は聖地である。「新橋がある幸せ」である。

東京のカオスを象徴する新橋は、歴史のある料亭から違法風俗店まで何でもござれだ。大衆路線か高級路線かといった線引きが出来ない奥深さがある。

あの街のシンボルでもある「ニュー新橋ビル」を例に取っても、グルメな人々に高い評価を得ている江戸前寿司の名店と怪しげな呼び込みをするマッサージ屋が仲良く混在している。その近くにはエロ玩具を普通に売っている店もある。

カオスな新橋のエラい点として「怖くない」ことも見逃せない。実際には甘くない部分もあるだろうが、新宿的な怖さ、六本木的な怪しさは無い。オシャレな感じや高級な雰囲気をウリにしていない繁華街としては特筆すべき点だと思う。

そこまでベタ誉めするなら、日々、新橋をさまよえば良さそうなものだが、アマノジャクな私は新橋にはたまにしか行かない。

お隣の銀座にはちょくちょく出没するのに、新橋には逆に思い入れがあるのだろうか。ひょっとしたら「ふるさとは遠きにありて思ふもの」(by 室生犀星)みたいな感覚かもしれない。

新橋イコール大衆酒場である。大衆酒場イコールホッピーである。ホッピーイコールもつ焼きである。もつ焼きイコール「まこちゃん」である。いまや新橋に5店舗ぐらいあるみたいだ。

「まこちゃん」を知ったのは、吉田類の酒場放浪記である。BS―TBSはあの番組のおかげで何とかもっているという話を聞いたことがある。



もつ焼きは安定的にウマい。冒頭の煮込みの画像もまこちゃんである。レバフライやハムカツなどの大衆酒場の王道メニューが揃っていてオジサマ達を幸せにしてくれる。

ブリオーニやトムフォードのスーツを着た人が絶対にいないであろう新橋の大衆酒場は東京の「素」を感じる場所である。

カッコつけずに気取ることなくゲップしたりアクビしたり、爪楊枝でシーハーしながらお手軽に酔っ払える。磯野波平さんやマスオさん、アナゴさんだって新橋で飲んでいるような気がする。

オマケに「新橋で酔ったぜ」という有難い気分になる。こればかりは思い込みの強すぎる私だけの感覚だろうか。多分そうだ。

浅草の大衆酒場のように江戸情緒の残り香が少し漂うような雰囲気とは微妙に違うのが新橋の特徴だろう。

生粋の下町東京人だけが集まって醸し出す空気感ではなく、日本中から集まった人々によって作られたリアル東京が発するオーラみたいなものを感じる。「濃すぎない東京っぽさ」とでも言おうか。

私の場合、新橋をさまようと、ついつい煮込みとモツ焼きばかりだ。美味しそうな焼鳥屋も寿司屋も小料理屋もゴマンとあるのにちっとも開拓できない。

おまけに臓物ばかりじゃ豚に申し訳ないような気分になって、身の肉も食べようと豚丼専門店に突撃することもある。酔っ払い特有の考え方である。


ニュー新橋ビルに入っている「豚大学」の豚丼である。50歳を超えたような客は少数派みたいだ。そんなことは気にしない。温玉をぐちょぐちょにして豚丼にドッヒャーとかけて食べるのもタマランチンである。

某日、煮込みにホッピーでホロ酔いになってから豚丼ガッツリという流れになった。その後、無性に葉巻が恋しくなってテクテクと銀座8丁目のシガーバーに向かった。

ほんの5分も歩けば、一気に街の気配が変わる。夜の銀座の空気に包まれる。この急激な変わりようもまた面白い。池袋や新宿だったら、どこまで歩いたって池袋や新宿のままである。

でも、「新橋モード」にどっぷり浸ってから銀座のシガーバーに行くと、なんとなく落ち着かない。「なにを気取ってやがる!バカ!」と自分を叱りたくなる。

やはり、新橋に出向いた夜は新橋で完結させるのが正しいのかもしれない。

2015年11月20日金曜日

つぶやくのは難しい


文章は短ければ短いほどエラい。乱暴な言い方だが、文章の世界における真理?である。短い文章の中に言いたいことの要点を上手に盛り込むことは難しい。

短文の名手。つくづく憧れる。昭和の文豪と呼ばれるような人達は誰もが短文の名手だろう。長年書き綴った個人的な日記が後々、文学的に高い評価を得ていることがその証だ。

以前、永井荷風と谷崎潤一郎が終戦前夜に疎開先の岡山ですき焼きを食べた逸話をテレビのドキュメンタリー番組で観た。

二人の文豪が残した日記からそれぞれの思いを紹介していたが、さらっと書かれたような短い日記の中に当人のさまざまな想いが想像できて興味深かった。

ということで、日頃、冗長になりがちな当ブログの反省?を込めて、今日はここ最近の身辺雑記を短文にまとめてみた。


★その1

医者の問診の際、常用薬を聞かれて「太田胃散」と答えたら軽くスルーされた。愛する太田胃散に対してリスペクトが足りない医者に腹が立つ。
でも、ハゲ予防薬を毎日飲んでいることを恥ずかしくて言いそびれた私もダメである。ハゲ予防薬に対して失礼なことをしてしまったと反省。




★その2

飲みすぎて気持ち悪くなってタクシーに乗りたくない時がある。そんな時にピッカピカのレクサスのタクシーにあたった時の喜びは、セクシーな女子とムフフになった時の喜びより大きい。いや、やっぱりセクシー女子のほうが嬉しい・・・。
でも「オンボロタクシーと同じ料金じゃ不公平だなあ」とか言ってチップを多めに置いていく自分のお調子者ぶりを後悔する。ついでに、そんなことを後悔する自分のセコさも後悔する。




★その3

スマホでメールを打つ際に老眼・近眼に加えて指がデカいから予測変換の候補一覧の違うところを押してしまう。「想像するだけで興奮する」と打ったつもりが、「相続するだけで興奮する」になっていた。自分が凄く不謹慎な人間に思えた。
ちなみに以前、元妻とのメールのやり取りの際に「扶養親族」を「不要親族」と間違えたことがある。「不要」になったのは誰なのか?オレか。。。




★その4

若い頃はカタカナが苦手な年寄りを小馬鹿にしていたが、どうも最近は自分もそっちの仲間入りである。「スワロフスキー」が思い出せずに「アダムスキー」と言ってしまった。それはUFOの種類である。
「あれあれ、なんだっけ、そうだ、ブレジネフ」と言ったこともある。昔のソ連の偉い人の名前だ。 「フ」しか一致してない・・・。


いろいろ書いてみたが、すべて実話である。アホみたいな日常が垣間見える。それにしても、やはり短文を作成するのは難しい。

ツイッターは140文字という制限があるらしいが、ここに書いた話はすべて字数制限をオーバーしている。

ツイッターを始める予定は無いが、あれを活用していれば短文能力を向上させる効果があるのかもしれない。

なんだかんだ言って、私は余計なことを書きすぎる傾向にある。上に列挙した出来事もオチをつけたがるからダラダラしてしまう。



★その5

10月にスペイン「トレド」を旅してきた私の話を料理屋の板前さんがフランスの「ルルド」と勘違いしているのに最後まで訂正できずに話を合わせた自分は優しい人間だ。



★その6

何となく恥ずかしくて使いにくい「オナニー」という言葉は、聖書に出てくる「オナン」という人の名前が語源だと知って驚く。世界中にいるだろう「オナン」という人の肩身の狭さに同情する。 


この2つのように簡潔明瞭にして余計なところに話を飛ばさないようにすれば正しい?短文になるのかもしれない。

ツイッターはやっていないのだが、Facebookにはマヌケな話をポツポツと投稿している。必然的に短文になるように意識しているので、あの感覚をもっと普段の文章にも活用すべきなんだろう。

ちなみにFacebook上で、最近わりとウケた投稿を引用してみる。



廊下ですれ違ったマンションの住人に挨拶して無視されたので「なんとか言えよ」と小声で毒づいたつもりが「どうもすいません」と切り返されてたじろぐ。


恥ずかしい話だが、実話である。年齢とともに感度が低くなったのか、心の中でつぶやいたつもりが普通の音量で口に出してしまったようだ。

それよりも、この投稿は短文の中に中年男が抱える世間への不満と様々な人生への葛藤や戸惑いが浮き彫りになっていて読む人の心を揺さぶる文章だと思う。

大ウソです。すいません。

でも、読み返してみると、短い言葉の中にスムーズに状況を描写できたような気がして我ながら悪くないと思った。

なんだか今日は身辺雑記が書きたかったのか、短文講座?だったのかよく分からない内容になってしまった。

2015年11月18日水曜日

銀座 鳥繁本店


肉の中でも鶏肉が一番好きなのに最近はなぜか焼鳥屋に行っていない。寿司、ウナギ以外には「モツ焼にホッピー」が定番?になっちゃったせいだろうか。

で、今まで10年以上、横を通り過ぎるだけで入ったことのなかった焼鳥屋に行ってみた。


銀座にある鳥繁本店。なぜかドライカレーが有名な老舗焼鳥屋だ。モダンにカッチョよく焼鳥を食べさせるイマドキの高級焼鳥屋とは一線を画したオジサマ達にとって居心地の良い店だ。

大衆的な価格の店ではない。でも、レトロっぽいというか、下町の雰囲気もあるような大人の男にとってシックリくる店だと思う。

ソムリエまで出てきちゃうようなオシャレすぎる焼鳥屋は落ち着かない、かといって煙モーモーでぎゅうぎゅう詰めの焼鳥屋もイヤだという場合、鳥繁はもってこいだろう。

接客も丁寧だし、喧騒も適度で肝心の焼鳥も普通に美味しい。値段には疑問を感じる人も多いだろうが、こればっかりは、いわば「銀座流」である。

おでんだって客単価1万円ぐらい取る店が珍しくない夜の銀座では、赤ちょうちん的な路線とは異なる焼鳥屋がゴロゴロしている。鳥繁はそうした系統の元祖みたいなものだろうか。

1本あたり500円ぐらいする。もっと高値の串もある。そうはいっても、1本あたりがかなり大きいので、小食の人なら5本ぐらいで充分、そうでなくても7~8本も食べれば満腹になる。

幸か不幸か、焼鳥以外のツマミがさほど用意されていないので、必然的に焼鳥を食べて、名物のドライカレ-で締めるパターンが基本である。

お酒もしっかり飲めば一人あたり7千円程度にはなる。値段だけみれば、晩酌ついでに焼鳥7~8本を楽しむコストとしては高い。

そうはいっても、食べ応えのある鶏肉で満腹になり、名物の銀のヤカンから職人芸のように注がれる燗酒で酔っ払うと、独特の満足感を味わえる。

銀座のお燗酒といえば、こだわりのヤカンでまろやかな味わいを演出する「やす幸」、「おぐ羅」あたりのおでん屋さんが有名だが、この店は「ヤカン+空中から注ぐ」パフォーマンスで酔客を楽しませてくれる。


鴨の串にこだわりがあるようで、鴨ロース焼きは肉厚で食感も良くジューシーで味わい深い一品。でも1本1400円もする。この日は初訪問だったし、このブログのネタ探しという側面がなかったら注文しなかったと思う。


こちらは鶉(ウズラ)。これまた店の自慢の一品らしい。通常の鶏とは違う食感で味もとても濃厚だった。でも、これも1串1500円である。

「富豪」と称するブログを書いている以上、注文しないわけにはいかない。そんな意味不明?な使命感がなかったら注文しなかったと思う。

そのほか、つくねやねぎ間、せせりなど一般的な焼鳥は普通に美味しく、真っ当で真面目な仕事ぶりを感じさせる。

デートに使うようなオシャレな感じはない、難しい相手を接待するような気張った感じもない、かといって、一人でどんよりタメ息つきながら演歌を聴いてイジケる感じもない。

うまく言えないのだが「ちょうど良い感じの店」だと思う。気心の知れた男の友人と差し向かいで飲むのも良い、3~4人で卓を囲んでも良い。キャピキャピしていない女性を連れてカウンターでしっぽりもアリだ。

ちなみに冒頭に画像を載せた名物のドライカレーは好みが分かれそうな一品だった。

あまり具が入っておらず、ご飯は硬めである。私にとっては最高である。グリーンピースなどロクデナシみたいな野菜が得意気に入っていたら興醒めだが、そういうふしだらな連中は見当たらない。

それより何よりベチャっとしていないことが素晴らしい。ボソボソ、ボリボリ、ポソポソ・・・。なんだかそんな書き方をするとマズそうだが、私にとってはそんな食感こそラブリー?である。

味付けも少し薄いぐらいで、それまで美味しく食べていた焼鳥の余韻をブチ壊すようなこともない。

大袈裟かもしれないが、正しい大人のためのジャンクフードである。軽い感じのせいで、飲んだ後にガッツリ食いをしてしまう罪悪感に襲われることもない。

酔っ払って食べるチャーシュー味噌ラーメンや牛丼特盛りはファンタスティックな味がするが、翌日の夕方ぐらいまで調子が悪くなる。その点、鳥繁のドライカレーなら安心だ。

「持ち帰り用・3人前」という禁断?のメニューがあることも知ってしまった。

そう遠くないうちにテイクアウトしたドライカレーをバーかクラブに持ち込んで葉巻をくゆらせながら、デザート?としてウホウホ食べている自分の姿が脳裏に浮かんでいる。

2015年11月16日月曜日

「イマドキ寿司屋」の弱さ


今年の夏以降、料理屋さんやお寿司屋さんを新規開拓する機会が多い。きっかけはタバコを「休憩」しているからである。

禁煙ではない。しばし忘れているだけである。葉巻をふかす機会は増えちゃったから、健康面ではまるでダメだ。

でも、知らない飲食店に入った時にタバコを我慢するアノ面倒な感じから解放されたことは大きい。手持ちぶさたにならずに済む。でも、その分、お酒のピッチが上がってしまうのは困りものである。

さて、今日は少しばかり辛口の批評を書く。先日、ふらっと入ってみたお寿司屋さんの話だ。一度だけ行った店を悪く書くほど無礼ではないので店の名前はナイショだ。

某日、思いたってそのお寿司屋さんに電話してみた。早い時間なら入れるとのこと。電話の対応も丁寧だったから良い店の気配が濃厚だ。

店に到着。場所は銀座。細い路地に風情のある店構え。店内も清潔で気持ちよい空間だ。まだ30代後半ぐらいに見える大将の挨拶も清々しい。

銀座に店を構えて応対も丁寧で店も清潔、これならマズいものを出される心配はない。

さっそく料理が出てきた。問題なのはイマドキの寿司屋ならではの「おまかせ」を大前提にしている点だ。

「おまかせ」自体は構わないし、そのほうが助かるお客さんも多いのが現実だ。でも、「おまかせ絶対主義」とでも言いたくなるような窮屈さが見えちゃうと、なんだかガッカリする。言葉は悪いが「底の浅さ」を感じる。

予約の電話をした段階で、嫌いなものはないかと確認された。それはそれで丁寧な対応かもしれないが、後から考えてみれば、客の顔を見る前からすべて店側の都合だけで仕切ると宣告されたようなものである。

「おまかせ」といえども、客側の気分やペースに応じて少しは臨機応変に対応してこそプロである。フレンチや懐石料理の店ではなく寿司屋である。銀座あたりでそれなりの値段の店を構える以上、そんなことは当然だと思う。

この日、温かい一品料理からスタートした。出てくるものはすべて美味しい。手も込んでいるし、味付けも絶妙だ。器だってこだわっている。

ビールからお燗酒に変える際には、私が持ち込んだ「マイぐい呑み」をわざわざお湯で温めてくれるなど気配りも凄い。良いお店だ。単純な私は上機嫌になってグビグビ飲み始める。

こういう流れになったら、握りよりツマミを多めにもらいたくなる。これって、ごく当たり前の客の心理だ。

で、大将にそんな気分を伝えるとともに、握りはどのぐらい出す予定かを尋ねてみた。

なんと12貫から15貫ぐらい出てくるらしい。

とてもじゃないが、そんなに要らない。握りはせいぜい7,8貫にして、その分、ツマミを多くして欲しいと頼んでみた。

丁寧な応対をする店だから、それに対して不満そうな反応をされたわけではない。でも、明らかに少し困ったような様子になった。

もちろん、店には店の段取りもあるだろう。それでも、ここはカウンターで店主と対峙する寿司屋であり、それも高級路線の店である。私の要求はトンチンカンではない。

私のそんな単純なリクエストへの大将の答えは「ちょっとお時間がかかってしまいますが・・・」というものだった。

この時、私の他にお客さんは2組。満席でバタバタしていたわけではない。少し不思議な気分になる。

それでも出てくる料理はウマいし、多少お酒も入っていたから、特別難しいことは考えずにノンビリ過ごす。

しばらくすると、私と同じ時間に食事をスタートさせたお客さんに握りを出し始めた。

ふむふむ、リクエストしなかったら、このタイミングで握りに移行するわけだ。確かにタイミングとしては順当だろう。などとボンヤリその光景を眺める。

そして、私には刺身が出てきた。普通に美味しい。その後も2,3種類の刺身が出てきた。

結局、同じ時間にスタートした他の客に出している握りのタネを私にはシャリ無しで出しているだけだった。

まあ、美味しい刺身だったので、それはそれで問題ない。ただ、「ちょっと時間がかかる」と言っていたのは何だったのか意味不明だ。

その後、突然、握りが目の前に置かれた。突然、ぽんと置かれて少し慌てた。「おまかせ」専門なら文句も言えないのかもしれないが、ちょっとビックリだ。

普通の感覚だったら「そろそろ握りますよ」とか「次からは握りになります」とか言いそうなものだが、若い大将は段取りで頭がパンパンになっていたのだろうか。

些細なことなのかもしれないが、客の心理なんて些細なことで乱れたりもする。美味しい寿司なのだが、私としては素直に美味しいと感じられない「偏屈オジサン」のスイッチが入ってしまった。

もちろん、文句を言うほど野暮ではないし、初めての店でそんな指摘をするほど親切?でもない。

続いてはトロが出てきた。私が苦手なトロである。握りに移行する段階でマグロは赤身しか食べないと伝えようと思っていたのだが、一方的な展開になっていたので伝えそびれた。

その後も、いくつか握りを食べた。ウマかったはずなのだが、私としては「店の都合」を食わされているだけという偏屈な気持ちがどうにも収まらない。

仕方なく、最後の3貫は好きなものを注文させてくれと大将に伝えてそうさせてもらった。

「店主はプロなんだから、おとなしく黙って出されたものを食え。」。そういう考えもアリだろう。でも、おこがましく言えば私だって客としてのプロである。自分なりの基準やこだわりもある。

カウンターで店主と向き合うという世界でも希な日本の食文化の華である寿司屋で、ただ出されたものを食べるだけなら実に味気ない。

極端な言い方をすれば、こっち側に座る客は、魚のことも寿司のことも何も分かっちゃいないとレッテルを貼られているような感覚にとらわれてしまう。

考えすぎだろうか。

ブロイラー飼育場に閉じ込められている鶏じゃあるまいし、窮屈で仕方がない。あれでは客も店も勉強にならないし、同じく客も店も育たない。

この店、ネットでの評判を調べてみたら絶賛の嵐だった。グルメサイトに書き込む人達の年齢層などを考えるとそういう結果になるのだろう。

決まったものを一方的に出せばいいのなら、仕入れロスも考えなくていいわけだから経営上も楽だと思う。

幅広く客の希望に応じようとする路線の店より圧倒的に有利だろう。ならば、そういう店と同等の値付けをしていること自体が疑問だ。半額ぐらいでいい。

魚に詳しくない、恥をかきたくない、同行者との会話に集中したい等々、さまざまな客側の理由でこういう路線の食べ方が支持されるのも理解できる。

でも、そんなスタイルだけで通そうとする店はあくまで特殊な形態であり、一般化してもらいたくない。「おまかせ」以外にリクエストされるのが苦手なら、はっきりそれを掲げてもらいたい。

分かっていれば私だってそんな店には行かない。そのほうがお互いイヤな思いをしないで済む。

ここ数年、都内の一等地で凄く若い職人さんがお寿司屋さんを新規開業する話を頻繁に耳にする。ひょっとすると「おまかせ絶対主義」みたいな風潮も影響しているのかもしれない。

もちろん、そうじゃない店もいっぱいあるだろうが、なんだか「若い店」を色眼鏡で見るようになってしまいそうだ。

こんな事を書いていると、すっかり自分が懐古趣味的偏屈ジジイみたいだが、そう思われたとしても、この“問題”についてはブツブツ言い続けたいと思う。

2015年11月13日金曜日

暁の頃 「きぬぎぬ」


ひとくちに夜と言っても、朝や昼に比べて時間帯が長い。大ざっぱに分ければ「宵」、「夜中」、「曙」の時間帯に分類される。

暗くなってから明るくなるまでの時間帯すべてが夜だが、宵の口と明け方ではまるで意味合いが違う。

妻帯者の帰宅時間をこの3類型に当てはめていろいろ想像すれば「夜の幅広さ」を実感できる。「曙」に帰宅したら家庭不和になる。

さて、「曙」の前の時間帯が「暁」である。私が好きな時間帯である。そんなシャレたことを言ったところで普段はイビキかいて寝ている時間である。

幼稚園から高校まで通った母校は学校名の最初が「暁」だったし、思えば母親の名前にも「暁」が使われている。

「暁」には縁があるみたいだ。イビキかいて寝ている場合ではない。

空が白んでくる少し手前の時間帯が暁だ。まだ暗い。でも朝は近づいているという時間だ。

井上陽水が『帰れない二人』で歌っていた♪ もう星は帰ろうとしてる 帰れない二人を残して ♪ といった雰囲気の時間である。

夜が終わっちゃう切なさが良い。何かを追いかけたくなるような、取り戻したくなるような時間だ。一人ぼんやりするも良し、誰かと一緒ならそれも良しである。

そんな時間まで誰かと一緒にいたのなら、その人とは親しい関係だ。深い夜の闇に溺れた時間が暁の訪れとともに過去になっていく。

名残り惜しい時間である。名残り惜しさという感情ほど人の心を揺さぶるものはない。そんな想いに浸るのには暁の時間帯は最適だ。

男女の熱い夜の余韻は暁の頃に一区切りつけるのが正しいと思う。だらだら明るくなるまで引っ張るのはヤボだと思う。

極めて個人的な意見です。

朝どころか昼までだらだら絡まっているのも刹那的で悪くはないが、やはり暁の頃に一区切りつけたほうがイキだ。

「きぬぎぬ」という言葉がある。実に色っぽい言葉である。以前、色恋小説の大家である吉行淳之介の小説を読んだ時に知った言葉だ。

「きぬぎぬ」は「後朝」と書く。まるっきり当て字だ。もともとは「衣衣」だったものが当て字に変化したらしい。

「衣衣」と「後朝」。二つ並べただけで色っぽい雰囲気が漂ってくる。そう思うのはスケベな私だけだろうか。

平安貴族の世界では、男が女の家を訪ねるのが色恋の基本だったそうだ。互いの身につけていた衣を重ねて布団代わりに夜を過ごす。

朝が来てそれぞれの衣を身につける。そんな意味を持つのが「衣衣」(きぬぎぬ)だ。その後「後朝」という文字を「きぬぎぬ」と読むようになった。かなり艶っぽい語源である。

なんとも風雅な話だと思う。

ちなみに、男が女の家を出て行く時間帯は曙ではなく暁の頃だったそうだ。それが一種の常識だったらしい。まだ暗く、星や月の灯りのもと去っていったわけだ。

文明の利器が何もない時代である。電話もない、メールもない。そんな状況の中で愛しい人と離れる名残り惜しい気持ちは現代人には想像できないほど深かったはずだ。

そんな名残り惜しさを暁の頃に感じてキュンキュンするわけだからなかなかロマンチックである。

実際、想いの深さを伝えるための「後朝の文」という手紙を送る習慣もあった。要は「サンキューメール」である。いや、そんな軽薄な言い回しではイメージが違う。いわば、想いの深さを伝える恋文である。

逢い引きの後の手紙は、届くのが早ければ早いほど、想いの強さや深さを表していたそうで、百人一首にもその類いのものがいくつもあるらしい。

いわば、名残り惜しいという感性が芸術につながったわけだ。

若い頃の話だが、情熱のひととき?を過ごした後、何があっても次の日の朝はギリギリの時間まで居座る人がいた。

夜中や明け方に帰った方が仕事に向かう上でも楽なはずだから、そのように勧めても絶対に帰らない。たとえ、こちらが帰りたくてもそんなことはお構いなしだった。

やはりこれも若い頃の話だが、逆に必ず帰る人もいた。夜を過ごした後、こちらが朝まで一緒にいてくれと頼んでも必ず明け方に帰っていく。

次の日が休みだろうと、いつも決まって暁の頃に身支度を始める。ビジネスライクに感じるほど徹底していた。

でも、不思議なもので、私が「後朝の文」を出したいような気分になるのは後者のほうだった。

きっと、必ず居座る人の方が私と親しく馴染んでくれていたはずなのに、私にとってはペースが合わずにテンポがずれちゃう人だと感じたのだと思う。

私自身が外泊が苦手だったせいもあるが、どこかのタイミングで一線を区切る習慣を維持するのはスマートだと思う。

情念の海に溺れて、節度も見境いもなく漫然と時間を過ごし、お互いに相手の見たくない部分まで見てしまえば、出るのは溜息ばかりである。

男女に限らず、人付き合いのキモって結局そのあたりに尽きるのかもしれない。

距離感の中でもつい見逃してしまうのが「時間的な距離感」である。その人と快適に一緒に過ごせるのはどのぐらいかという意味だ。

3時間か、24時間か、はたまた10日間なのか半年でも平気なのか。こればかりは人と人の相性だから試してみないと分からない。困ったものである。

さてさて話がまとまらなくなってきた。

私自身は「夜から暁まで」一緒にいられる人しか求めていないような書きぶりだが、決してそんなことはない。

暁まではもちろん、朝までだって有難い、2泊でも3泊でも嬉しい、たぶん1週間だって平気だ。もちろん「ちょんの間」だって大歓迎である・・・。

2015年11月11日水曜日

自慢合戦

  
このブログは週に3回の更新だ。我ながらよくネタが尽きないなあと少し感心する。

でも正直に言うと、ネタがなくて苦悶?することはしょっちゅうだ。そうそう目新しいことなど起きない。

それなりにファンタスティック?な事件事故?に遭うこともあるが、さすがにナイショである。披露できないのは少し残念である。

そういえば、5~6年前にここでは書けないファンタスティック?な内容だけに絞ったちょっと危ないブログを書いてみたことがある。

自分が特定されないように最大限の注意を払って誰にも知らせずに不定期で書いていた。でも、高尚な?下ネタばかりだったので宣伝もしないのに短期間で閲覧者がどんどん増えた。

見てくれる人が増えるのは有難いが、結構なペースで増えちゃったので、なんとなく怖くなってすべてを削除してやめてしまった。

やめずに続けていたらどうなったのだろう。ひょっとすると、そっち方面で大成していたかもしれない。

さてさて、「ばびろんまつこ」という偽セレブが逮捕されたというニュースを見た。富豪?っぽいライフスタイルをツイッターに自慢げに載せていた妙齢の美人女性が低レベルの詐欺師だったという話。

私もせっかくエセ富豪として日常のアレコレを書き殴っているのだから、誰かを騙すようなトッポイ行動に走りたいが、そんな商才は無い。残念?である。

考えてみれば、ツイッターやFacebookに飛び交っている情報の多くが「自慢合戦」みたいな投稿である。どちらかといえば男性より女性のほうが「リア充」をアピールするのに必死な感じである。

まあ、私だって人のことは言えない。このブログにも「ただの自慢ですね」という的確な?コメントをもらったこともある。

自分を良く見せたいというのは人間の根本的な欲求だろう。ネット上の話にあまり目くじらをたてても仕方ない。でも、時々、無理に頑張っている人のイタ~い感じの投稿を見るとさすがに寒々しい気分になる。

なんであそこまで必死になって虚飾に励むのだろう。「必死な感じ」が不自然過ぎると見ていて気の毒になる。

ゲップが止まらんとか鼻クソが溜まって困るとかヘソの穴から異臭がするとか、そういう普通の話?のほうが読むほうも共感できる。日常ってそんなにキラキラしているはずはない。

以前、とある観光地で必死になって自撮りに励んでいる一人の女性を観察したことがある。あれは誰もいないところでやるべきだとつくづく思った。

なんだか見てはいけないものを見てしまったような感じ。それまでボンヤリしていたのに、自撮りの時は別人のような表情を作り上げる。

周りに人がいてもお構いなし。自分の世界にドップリ入り込んで「素敵な自分」を作り上げることに夢中になっている。

家の中でやってるならともかく、公衆の面前だとチョット微妙である。通勤電車の中でメシ喰ったり、化粧したりする姿よりも見せられたほうはゾワゾワした気持ち?になる。

まあ、エラそうに書いたが、当人にとっては大きなお世話なんだろう。

ちなみに一人旅が好きな私も旅先では自撮りにトライする。一応、人のいない路地とかでコッソリ撮る。熱くなって何度も撮り直したりするから誰かに見られていることもあるだろう。

そんな画像は、やはり見る人が見れば滑稽に見えるらしい。一部の知り合いが私の旅先での自撮り画像をスマホの待ち受け画面にして爆笑してやがる。ちょっと腹立たしい。でも私自身、それを見せられるといつも吹き出す。

困ったものだ。でも、ギャグにしちゃった方がああいう画像は収まりがいいかもしれない。

なんだかんだ言って、誰だってカッコつけたい。人に良く思われたい。無意識のうちにそう思っている。それが世界的なSNS等の普及に一役買っていることは確かだろう。

普段は汚いカッコでカップ麺をすすっているのに、「トリュフやフォアグラなんか毎日食べてるぜ~」と言ってみたい心理。そんな人間の業みたいな感情がネット社会を支えているわけだ。

ネタがなくて困っていると言いながら、ダラダラと人間の心の闇?について書き殴ってしまった。

今日は実は「ゲロ」の話を書こうと企んでいた。いつの間にか、誰がどう見たって「若者」ではなく「オジサマ」になった私である。

それにともなってすっかりゲロを吐く機会が減ったという現実を哲学的かつ文学的?に洞察してみようと思ったのだが、すっかり違う話に終始してしまった。

ゲロの話を読みたい人などなかなかいないはずだから結果オーライである。



2015年11月9日月曜日

食べ比べ


食べる楽しみやウマいものを求めることって、結局は「食べ比べ」に行き着く。

ウマいとかマズいとかを四の五の語るのは、突き詰めれば何かと比べてみた結果である。

マックのてりやきバーガーをマズいなあと感じるのはモスのテリヤキバーガーが好きだからである。そういうことだ。

思えば、焼鳥屋であれこれ食べること自体が鶏の部位ごとの食べ比べであり、おでん屋も同じ味付けで異なる具材を食べ比べしている。

寿司も同じだ。握りの場合、シャリと渾然一体になる魚介類の味わいの違いを食べ比べしているわけだ。

楽しむための食事の場合、「比べる」ことが一種のキーワードなのかもしれない。


のどぐろの食べ比べである。いつも行く高田馬場・鮨源での一コマ。片や皮だけ炙った生の刺身、もう一方は塩をふって4日目だとか。

のどぐろの刺身は、悪く言えばちょっとビチョっとした柔らかさを感じることがある。塩をした刺身は適度に水分が抜けて食感が締まった感じに変化していた。

ハヤリの「熟成」という言葉が適当かどうか分からないが、「時の経過」という手間の大事さは鮮魚だって同じである。

2種類ののどぐろはいずれも美味しかった。ジュワッと脂ののりを楽しむ一品とウマ味が凝縮された締まった一品。どちらもアリだ。こういう食べ比べは楽しいし勉強になるから大好きである。


こちらは赤ウニとバフンウニの食べ比べである。エゾバフンはウニ界における不動のチャンピオンみたいな存在だが、秋の赤ウニも負けていない。少しマイナーでマニアックな存在だが好きな人には堪らない一品である。

面白いもので、シャリと一緒に味わう時とウニ単独で酒のツマミにする場合では味の印象が変わる。こればかりは好みである。いいかげんな言い方だが、その日の体調によってもどっちに軍配を上げるかが変わる。

ウニを複数用意してあるお店だったら少しずつ食べ比べさせてもらうと勉強になる。これ以上ウマいウニはないと大喜びした直後に、それ以上にウマいと感じるウニが出てきちゃったりする。

ウニに限らず、そんな経験をすると、つくづく自分の味覚なんてアテにならないと痛感する。それなりに殊勝な気分になる。

食べ物のウマいマズいを語る際には、この「殊勝な気分」が欠かせない要素だと思う。


イクラも今の季節は作りたての醬油漬けとまったくの生の状態のものを出してもらう。生のイクラに塩をまぶして即席塩漬けイクラを作って食べ比べしてみる。これまた楽しい。


寿司ばかりではない。ウナギの生醤油焼きと魚醤の付け焼きである。日本橋「いづもや」で楽しめる。酒飲みにとってはウットリの食べ比べである。

アホみたいにウナギが好きな私はこの2種類の他に普通の白焼きも注文してシメに蒲焼きも食べることがある。合計4種類の味だ。そういう日はデロデロに酔っ払う。


こちらの画像は題して「ウナギとうなじ」である。これもまたある意味「食べ比べ」みたいなもの?である。不謹慎でスイマセン。。。

いずれを食べる際にも「殊勝な気分」を忘れないことが大事である。オラオラではダメである。。。

おっと、いけない。話がそれた。

外食だけでなく、空腹バリバリの時に家で食べるレトルトカレーも「食べ比べ」である。日本風、インド風、タイ風などレトルトカレーもいろいろである。


空腹で頭がバカになっていると、どれにすべきか決められず、つい2種類を同時に食べてしまう。ご飯を中心にカレーが混ざり合わない形状の皿があったら同時に3種類のカレーを食べたい。そのうちチャレンジしてみよう。

「ゆで太郎」に行っても、ついつい温かい蕎麦と冷たい蕎麦を両方食べたくなるし、コンビニでおにぎりを買うにしても必ず種類の違うものを複数買ってしまう。1個だけでガマンしようと思っていても比べたくなるから無理である。


ついでに言えば、変な二日酔いの日に無性に食べたくなるカップ焼きそばも、コンビニの店頭で悩み続けたあげく二つ買ってきて両方食べちゃったりする。

これは食べ比べとはちょっと違うか。いや違わないか。いずれにせよバカである。


私の住むマンションの近くに抜群に美味しいアイスクリームの専門店がある。「スペールフルッタ」という店だ。値段はかなり高いのだが、ありえないほどウマい。

日替わりで10種類近くのフレーバーが楽しめるだけでなく、冷凍庫の持ち帰り商品には日々変わるストックがラインナップされるから常に知らない味に出会える。

時々、娘が遊びにくると必ず立ち寄って2人で4種類は注文する。これも食べ比べである。何を頼んでも甲乙付けがたいので親子揃ってデブに拍車がかかる。

ここまで書いてきて気付いたのだが、結局あれもこれも食べ比べしたくなるのは、「我慢ができないワガママなヤツ」だからだ。

今更ながら気付いているようじゃ情けないが、自分を律して節度を持って生きている人なら、私のようなムダな行動はしないだろう。きっと体脂肪率も低いはずだ。

反省しようと思う。

なんだか変な結論になってしまった。

2015年11月6日金曜日

味覚と気分


ホリエモンという人は世間の注目を集めるノウハウに長けている。うまい具合に物議を醸す発言をする。さすがに頭がいい。

最近話題になったのは寿司職人の話。何年も悠長に修行するのはバカだというツイッターでの発言だ。

オープンしてまもない寿司店がミシュランの星付きになって、おまけにそこの職人達が、短期間で寿司職人を育成するアカデミーの出身だというニュースを受けた話である。

堀江氏は以前から「下積み原理主義」みたいな板前の世界の風潮をこき下ろしてきたそうだ。らしいと言えばらしい主張だろう。

あながち否定できないというか、多分、寿司という限定的な世界なら、センスの良い人間なら短期間で一定の技術を覚えることは可能なんだろう。

修行を始めて1年は掃除と雑用、その後の1年は皿洗いだけなどという面倒なパターンを続けていれば、握り方を覚えたり、魚の目利きの訓練も出来ない。確かに遠回りといえば遠回りである。

IT時代の寵児として既成概念に疑問を呈し、合理的な考え方をウリにしてきた堀江氏としては、因習的な修行のともなう職人の世界に違和感があるのだろう。

それはそれで一つの見識である。良いとか悪いではなく「それもそうだ」と思う人も大勢いるはずだ。

個人的な意見を言えば「ふむふむ、まあそうかもね」といったところか。それなりの寿司屋で過ごす時間に「ロマン」を求めたい私としては、堀江流合理主義はピンとこない。


いっぱしの顔した寿司屋の大将には、「必死に頑張った厳しい修行時代」というバックボーンを求めたくなる。そりゃあ寿司の味に関係ないのかもしれないが、そんなところにも惹かれる。

若造の時に、こんな経験をした、あんな事を学んだ、こんな目標を立てた等々、初々しい時代にキラキラした瞳で不条理に耐えてきたような歴史を歩んでいて欲しい。

ホロ酔い気分でウマい肴をつまんでいる時に、ボソっとそんな話の断片を聞かせてもらうのも客の楽しみかもしれない。

要は「気分」である。酒を飲む時も食事をする時も気分で味は変わる。ドンヨリ食べればドンヨリした味になるし、ウキウキ楽しく飲めば陽気でウマい酒になる。

それなりの寿司屋で過ごす時間も「気分」が大きく影響する。偉そうな大将に仏頂面で寿司を握られたってヒトカケラもウマいとは思わない。

なんだか一方的なおまかせ握りを40分ぐらいで食べさせられて3万ぐらいの御勘定を取る名人の店があるらしい。たとえ卒倒するほどウマかったとしても行きたくない。

あれこれ学びながら食べることも大事だろうが、個人的には無理だ。かしずきながら過ごす時間を「気分」が良いと思える人だったら快適なのだろう。

まあ、そういう店に喜んで行く人は、そういう店のそういう路線自体に「ロマン」を感じている。それはそれで特別な気分を味わうには大事な要素ではある。

結局は「気分」が大事という話である。

「気分」などという掴み所がない考え方は本来、味覚には関係ないのかもしれない。でも、ちょっと奮発してウマいものを食べたいとか、こだわったものを味わいたい時は「気分」が大事だ。

そこに登場する板前さんが、最近までアマチュアだったとしたら興醒めである。「数ヶ月もあれば綺麗に握れるようになりますよ」などというセリフは客の夢(ロマン)を壊すから聞きたくない。

物凄いウマい手打ち蕎麦が食べられると聞いても、場所が店主の家の一部を改造したスペースで、店主自体が2~3年前に脱サラしたばかりのオジサンだったりすると、どうしても高揚感は味わえない。

それって私の頭が古くさくて凝り固まっているだけかもしれない。あくまで個人の嗜好なので暴論だったとしても御容赦願いたい。

やはり、個人的には古色然とした造りの店で「それっぽい蕎麦」をたぐるほうが美味しく感じてしまう。


この画像は銀座の日本料理屋・三亀で一人ぼんやり食事をしていた時の一コマ。カウンターに陣取って熱燗を注文。カゴに無造作に積んであったぐい呑みから一つ選べと言われて手に取ったモノだ。

一見、ヘンテコな絵柄のぐい呑みに見えるが、実は美濃焼の名門の出で個性的な技法で人間国宝になった著名な陶芸家の作品である。その他もろもろの盃と一緒に無造作に混ざっていた。

一時期、アホみたいにぐい呑みや徳利収集に励んだ私にとっては、ウヒョヒョ~!って感じである。迷わずこれを一夜の相棒として掌でもてあそぶ。

当然のことながら「気分」はアゲアゲである。燗酒も普段よりウマく感じる。そんな気分だからもちろん料理もウマウマである。

「ワテの店のぐい呑みでっか?量販店で1個150円で仕入れてまっせ」。世の中の料理屋さんにはそういう店も多いはずだ。

“大事なのは酒の銘柄であって器ではない”と言われればその通りだろう。でも私はマニア垂涎の希少な純米大吟醸を150円の杯で飲むより、そこらへんの酒をこの画像の盃で飲んだほうが美味しく感じる。

そんなもんだと思う。

味覚って結局は、ロマンという名の勝手な思い込みや、頭の中に浮かぶ物語みたいなものに左右される。それが普通の人の現実である。

2015年11月4日水曜日

ミュージシャン気分


オヤジバンド、いや、素敵なオジサマバンドのライブがいよいよ今月末に迫ってきた。4年連続である。我ながらビックリである。

4年連続でマトモなライブハウスで結構な人数のお客さんの前で歌う。これって活字にするとまるでミュージシャンである。

5年ほど前、中学、高校の同窓会でギター談義に花を咲かせた友人が思いつきでアコースティックバンドをやろうと言いだしたのがすべての始まりだった。

その後、「アイツなら断らないだろう」という安易な理由でボーカルに誘われたのが私である。とくに楽しいことも無くボケっと暮らしていた私は当然の如く「面白そうだなあ。やるやる!」と応じて今に至っている。


先日、スタジオ練習の際、「マイ・マイク」を使っている自分にたじろいだ。自前のマイクを持っているなんて結構凄いことだ。ボウリング場に「マイ・ボール」を持参する人より珍しいかもしれない。

別に専用マイクが欲しかったわけではない。ライブ会場で使うエフェクター(音響調整装置)を諸々の理由で買うことになり、その機械で制御しやすいという理由でマイクまで購入したわけである。

そんな言い訳をしたところで「マイ・マイク」を持っている事実は変わらない。よっぽど上手に歌わないとみっともない。でも、音程が昔よりも狂いやすくなっているのも確かだ。加齢のせいだろうか。

ひょっとしたら年齢とともに歌に対する思い入れが強くなりすぎて、知らず知らずに情念の炎に包まれて音程が二の次になっているのかもしれない。

ウソです。

人間、半世紀も生きているといろんな機能がバテてくる。すべての感度が鈍感になっているわけだから、音感も狂うのかもしれない。メゲずに頑張って立て直そうと思う。

そういえば、腰痛治療をきっかけに年に何度か通うようになった謎の?整体師さんから興味深い話を聞いた。ろくに触りもしないのにナゼかこちらの身体のバランスを均等にしてくれる不思議な施術をしてくれるのだが、その人いわく身体の左右のバランスが狂っていると歌う際に音程が狂いやすくなったり音域がおかしくなるとのこと。ライブ直前にバランス調整に行ったほうがいいかもしれない。

さて、今年のライブも昨年と同じく終演後、移動せずに大人数でも宴会が出来る六本木のライブハウスを選んだ。

ライブ後の高揚感のなか、来てくれた皆様から儀礼的にお褒めいただいたり、キツいダメ出しをくらったりしながら飲む酒は最高である。

思えば、今年、すでに10回は重ねてきた練習も終わった後に酒を飲んでバカ話に花を咲かせたことのほうが記憶に残っている。

全然話は違うが、以前、リーグ戦に加盟してまで結構真面目に取り組んだ旧友達との草野球も、考えてみれば、試合後の酒が楽しみだった。

大人の趣味って結局は「どうやってウマい酒を飲むことにつなげるか」という一点に尽きるのかもしれない。

いかんいかん、そんなフラチなことを書いてはいけない。あくまで自分たちを厳しく追い込んで高いレベルでライブを成功させようという崇高な一念のみで活動しているのが我がバンドの特徴である。

今年のライブでは、ついに私もギターを持ち込む。「マイ・マイク」に加え「マイ・ギター」である。まるでミュージシャンである。

残念ながらギターの腕前は正真正銘のヘタレである。始めて1年ちょっとだ。突然上手くなるはずもない。根性が足りないから言い訳ばっかである。

わがオジサマバンドは高い音楽性を誇る?ので、さすがに私のレベルだとギターを手にする時間はほんのチョットしか与えられない。

一応、ネタばらしは禁止なので詳細は書かないが、他のメンバーのソロ歌唱の際、1曲だけだが、私がバックでギターを弾く曲もある。

自分は歌わずコードストロークを担当するのだが、これが実に楽しい。5年近くになるバンド活動の練習の中でこれが一番楽しかった。なんてたって歌うことを一切気にしないでいいわけだ。おまけに、まがりなりにも私の演奏で人が歌うわけだ。驚天動地である。

「奏でる」などという私の人生には無縁だった美しい言葉が現実のものとして私自身から発生するわけである。ドッヒャー!って感じである。失禁しそうだ。

元々の音楽的素養の無さのせいで「生まれ変わったら楽器が出来る人になりたい」と30歳ぐらいの頃から言い続けてきた。そんな私がその瞬間は間違いなくギタリストになっているわけだ。やはり失禁しそうだ。多分すると思う。

いよいよ本番に向けて仕上げ段階である。メンバーから私への小言や叱責、罵詈雑言、罵倒、人格否定、ムチ打ち、ロウソク攻めの日々ももう少しで終わりである。

MCの基本構成を考えるという一番大事?な作業は残っているが、演奏に関してはライブの後半に参加してもらうドラムとベースを担当するゲストメンバーとの調整ぐらいである。

油断せずに緊張感を持って頑張ろうと思う。

★★★・・ブログをお読みくださっている方でライブ(11月28日夜・六本木)観覧ご希望の方がいらっしゃいましたら、当ブログのコメント欄にてその旨お知らせください。コメントは公開しませんのでお気軽にお声がけください。詳細をお知らせいたします。

2015年11月2日月曜日

汁と混ぜるメシ


今日のタイトルは何だかヘンテコだが、適当な表現が思い当たらない。

お茶漬けや味噌汁かけご飯などのソッチ系の総称を何と呼べばいいのだろう。

俗に猫まんまという言い方がある。鰹節をご飯にまぶしたものだったり、味噌汁メシを指したり、いずれにせよ安直な食べ方を意味する。

猫まんまの例でもわかるように汁をご飯にかけて食べる行為は、なんとなく下品なイメージで世の中に認識されている。あんなにウマいのに何でだろう。

かっ込むような食べ方になるから行儀が悪いというのが理由だと思われる。ずるずると音も出ちゃいそうだし。

でも、食器を手に持って食べるのは日本ならではの文化だ。「汁と混ぜるメシ」をワシワシ食べたくなるのは日本的食生活における当然の帰結?とも言える。

お茶漬けを好みのアレンジで食べる時のアノ幸せな気持ちは、大げさではなく「生きてて良かった」と叫びたくなる。

岩海苔の佃煮、梅干し、シャケのほぐし身、すぐきの漬け物、イカの塩辛にタラコ。こんなラインナップを全部まとめてドンブリ飯にぶち込んで特製茶漬けを作ることがある。

至福の時間だ。アチコチでウマいものを食べ、それを得意になってブログで書いていることが馬鹿馬鹿しくなるほど美味しい。

カオスである。

味噌汁ぶっかけメシもウマい。もちろん、味噌汁なら何でもアリってわけにはいかない。

「許せない味噌汁」だったら最悪である。味噌汁は家庭によって思った以上に違いがある。具の好みも人それぞれである。

個人的に苦手なのが芋の入った味噌汁だ。地域によっては味噌汁の具として定番らしい。私はダメだ。カレーだって芋が入っていたら食べる気が失せる。

芋が嫌いなわけではない。芋が少し溶けだして汁自体にグジャっとした食感が混ざるのがダメだ。だいたい、芋とコメは相性が悪いと思う。食感の点で大いに問題がある。

話がそれるが、私に言わせれば秋の定番である「栗ご飯」だって疑問だ。栗も芋みたいな食感だからコメとは相容れないと思う。

白菜やニンジン、ゴボウあたりも味噌汁の具としては私の天敵だ。拷問である。加熱された白菜の匂いが嫌いだし、ニンジンはウサギが食べるものだし、ゴボウは木の根っこだから泥の味がする。

「汁と混ぜるメシ」の話が味噌汁論争に変わりそうだから軌道修正。


「汁ご飯」が素晴らしいのは小量でも大量でも楽しめる点だ。おでん屋で飲んだシメの「おでん出汁茶漬け」も最高だ。小さい茶碗に少しだけよそったご飯でも満足感がある。

スープ状の餡をかけた蒸し寿司も小量だからこそ嬉しい一品だ。ちょこっとだから有難く愛おしい。


汁メシはドカ食いの場面でも活躍する。

子供の頃、私にとって夏の定番が麦茶のお茶漬けだった。暑い盛りにドンブリ飯にドカンとなめ茸を盛りつけて麦茶をぶっかけて一気にかっ込む。一度でコメを2合ぐらい食べていた覚えがある。

やはり子供の頃、夕食がすき焼きだとドンブリ飯にすき焼き鍋の中の煮汁を大量に投入して、牛丼屋で言うところの「つゆだく」状態にしてせっせとコメばかりガッついていた。

尿酸値を心配して、すき焼きの煮汁を避けるようになった今とは大違いである。


ちょっと前だが、遅い時間に銀座の日本料理屋「大野」に立ち寄った。出てきたのは上等な真鯛を使った炊き込みご飯。たっぷりの鯛をほぐして旨味を楽しむ。

味付けが薄いかと思ったのも束の間、途中から別途、鯛の刺身とゴマだれ、それにダシが登場。後半は“スーパー鯛茶漬け仕様”で楽しませるニクいアレンジだった。

段階的に味わいを変えるという点では、ウナギのひつまぶしも似たようなパターンだ。1膳目はそのまま、2膳目は薬味を投入、3膳目は出汁茶漬けでウットリである。

ウマいものをよりウマくするだけでなく、マズいものをごまかすにも汁ご飯は活躍する。

チャーハンがマズい時は付属のスープをぶちかけると美味しくなるし、チンするだけのレトルトご飯もコンビニで売っているお湯を入れるだけの簡単スープをかけるだけで割とイケるようになる。

際限なく話が広がりそうである。

そういえば、「サイダーご飯」をご存じだろうか。「汁と混ぜるメシ」の話を書く以上、これに触れないわけにはいかない。

もう40年ぐらい前の話だ。「月刊ジャイアンツ」という野球少年向けの雑誌に巨人の新浦投手は「ご飯にサイダーをかけて食べる」と書かれていた。


子供心にビビった記憶がある。新浦恐るべしと思って、自分も小量だけだが試してみた。でも、ちょびっと口にしただけでよく分からなかった。

なんだか禁じられた行為に手を染めたような変な罪悪感のせいでしっかり味わえずに終わってしまった。

もう50歳になったことだし、今度改めて挑戦してみようと密かに決意している。