東京出身。富豪になりたい中年男。幼稚園から高校まで私立一貫校に通い、大学卒業後、財務系マスコミ事業に従事。霞ヶ関担当記者、編集局長等を経て現在は副社長。適度に偏屈。スタイリッシュより地味で上質を求め、流行より伝統に心が動く。アマノジャクこそ美徳が信条。趣味は酒器集め、水中写真撮影、ひとり旅、葉巻、オヤジバンドではボーカル担当。ブログ更新は祭日以外の月曜、水曜、金曜。 ★★★スマホでご覧頂いている場合には画面下の「ウェブバージョンを表示」をクリックしてウェブ画面に飛ぶと下側右にカテゴリー別の過去掲載記事が表示されますので、そちらもご利用ください。
2016年2月26日金曜日
葉巻と巨乳の話
某所で飲んでいた時、バカでかくてキラキラの葉巻カッターを持参しているオッサンを目撃した。人の嗜好にアレコレ言うのもナンだが、ニッポンの葉巻文化はどうにもスタイリッシュ?に走りすぎている。
もうちょっとフツーに、カジュアルに葉巻を楽しむような風潮にならないものだろうか。
昭和の宰相・吉田茂は着物、白足袋に葉巻がトレードマークになっていた。大正、昭和の頃の写真を見るに連れ当時のオジサマ達の葉巻姿は今と違って実に自然に見える(画像はネット上から拝借しました。すいません)。
私が葉巻に目覚めたのは20代の終わり頃、カリブ方面に頻繁に潜水旅行に出かけたことがきっかけだ。
現地のおっちゃん達が道端で葉巻をウマそうにくゆらしている姿を見て興味を持った。「おっちゃん達のユルい感じの葉巻」が原点だから、ついカッチョ良すぎる葉巻環境にブツクサ言いたくなる。
そうはいっても、やはり夜の街でスーツに身を包んで葉巻をふかしていたらキザ男なんだろう。スカした野郎だ、気取った野郎だと思われても仕方がない。
でも、あの独特なユッタリ感に身を浸せる快感は捨てがたい。せめてもの抵抗?としてライターや灰皿などの葉巻グッズにはこだわらないようにしている。
火をつけるのも百円ライターで構わないし、灰皿だって何でもいい。小さいパンチカッターをキーホルダーにぶら下げているからカットする際もちょちょちょいである。
銀座あたりだと葉巻を見た途端にせっせとそれっぽいライターや灰皿を用意してくれる。あれはあれで小っ恥ずかしい気分になる。
さりげない感じでプカプカしたいのに、必要以上に大袈裟にされると野暮ったくなっちゃう。
野暮な言動ばかりの私だが、これでも粋と野暮を日々の行動の基準にしたいと思っている。だからバカでかい葉巻カッターや妙にカッチョ良い灰皿なんかは苦手だ。野暮ったい。
粋と野暮の定義や境目は分かったようで分からない微妙なものだが、突き詰めれば「小さいか大きいか」という点に集約できる側面もある。
「小体な店で小粋なおねえさんと小鉢を突つく」。
これ全部「小」である。小ざっぱり、小気味良いの「小」である。「大」なるものは野暮という基準だ。
おそらく江戸の町人のやせ我慢みたいな心理もあったのだろうが、大きいこと、デカいことは野暮で、小さいことは粋とみなされた。家の表札なんかも小さければ小さいほど格好良しとされる風潮まであったらしい。
確かに小料理屋には行きたいが、のれんに「大料理」と書かれていたら背を向けたくなる。
私の会社の近所の喫茶店にしょっちゅう座っている落語家の小三治師匠も人間国宝なのに「小」三治だ。その昔、わが社の近所をぶらぶら歩いていた「小さん師匠」も落語業界の最高峰なのに「小」のままだった。
大は小を兼ねるのは確かだが、だからこそ、その大ざっぱな感じが野暮ったさの裏返しになることもあるわけだ。
なんだか分かったようなことを書いたが、あくまでモノの見方の一例である。エラそうに書き進めるとオッパイの大きい女性に嫌われそうである。
巨乳は野暮、貧乳は粋。そんな事実はありませんので悪しからず。
とはいえ、巨根は野暮だと思います。
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