味覚の好みが変わることは何度か経験してきた。若い頃に連日のように食べていた焼肉をすっかり食べなくなったことが象徴的だ。
焼肉屋に誘われてもちっとも嬉しくない。不思議である。一生分を食べてしまったのだろうか。
時々付き合いで出かけてもホルモンやタン塩をちょろっとつまんで焼酎を飲んでオシマイである。
あんなに愛していたカルビは一切れも食べなくなった。裏切り者のようで悔しいが、おそらく狂おしいほどに愛し過ぎた反動だろう。
こんな話を書き始めたのには少し理由がある。私が一番好きなはずの「寿司」に最近なぜかウキウキしない。
気のせいだとは思うが、カルビの二の舞になったらどうしようとアセっている。
なんだかんだ言って頻繁にお寿司屋さんの暖簾はくぐっている。でも以前のようにしっかり食べられないし、食後の感じがどうもスッキリしない。
コッテリしたものを欲しているわけではないのだが、酒も入った後だとサッパリし過ぎてるような終わりかたがピンとこない。
ここ半年ぐらいでそんなことを感じるようになった。私の身体に何か問題が起きているのだろうか。
ひょっとして寿司が嫌いになっちゃったのだろうか。だとしたら大問題である。人生設計?までおかしくなりそうだ。
狂ったように食べていた珍味も最近は人並み程度にしか食べない。健康面では良いのだろうが、なんだか自分がヘタレてきたようでちょっと残念。
画像は高田馬場・鮨源で食べたイバラガニの内子と外子である。なかなかお目にかかれない珍味界の隠れたスターである。
今でも大好きだし、出されるとバンザイと叫びたくなる。でも数年前ならバンザイどころか逆立ちしながら行進できるほど狂喜乱舞していた。
以前なら、さもしい顔でおかわりをねだったはずだが今はこのぐらいの量で大満足である。
往年の剛速球投手が引退して20年ぐらい経ってから始球式に招かれ、山なりのボールを投げるような寂寥感と似ている。
全然違うか。
こちらは銀座「さ久ら」の寿司飯リゾット?である。寿司飯が大好きで普通の握りも好きなのだが、ややジャンク路線に近いこういう一品のほうが食べたくなることが増えた。
加齢とともに味覚は幼稚化するのだろうか。先日も大衆酒場で食べた赤いウインナーに妙に興奮したし、このところ街にあふれるカレーや牛丼の看板がやたらと私の脳を刺激する。
許されることならジャンクなものだけ食べていたいのに、いっぱしの紳士を気取るためにそんな本音を隠して生きてきたことに疲れたのだろうか。
ちょっと大袈裟か。
水道橋の大衆酒場「でん」の骨煮という一品である。たしか300円ぐらいだ。ここ数ヶ月、これにかぶりついている時が一番幸せを感じる。
グワシっと噛みつくと口の中に幸福感が広がる。焼きトン屋だから豚肉だと思うが、何の肉だかよくわからない感じもまた魅力的だ。自分の中の野生が目覚めるような気分になる。
いにしえのテレビアニメ「ギャートルズ」に出てきたやたらとウマそうな骨付き肉を思い出して、子供の頃に戻ったような気がする。
こちらは軟骨煮込みである。ポン酢ベースの味付けだから他の煮込み料理と一緒に頼んでも味がかぶらない。ついつい注文する。
大衆酒場での飲み食いは小一時間だ。40分ぐらいで終わることもある。濃いホッピーをチャッチャとあおって、肉々しいしい食べ物をガッついてアッいう間に出来上がりである。
その安直な感じが心地良い。高級料理屋さんで仰々しい雰囲気の中、前菜を食べ終わったぐらいの所要時間で一丁上がりである。
風流な要素、文化的要素はまったくないが、これだって見方によってはイキな時間の過ごし方である。
まあ、モノグサ、メンドー 億劫といった中高年ならではのワガマママインド?と絶妙に折り合うのが大衆酒場の持ち味だと思う。
「寿司が嫌いなんじゃないか問題」から話が逸れてしまった。
なんだかんだ言って、数ヶ月周期で行動パターンや感覚は変化するものである。そのうちまた今日書いていたことと全然違う路線でアーダのコーだの言い始めるんだと思う。
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