2017年10月25日水曜日

おひとりさま 自意識過剰


今の世の中、おひとりさま需要を取り込むことがいろいろな商売のキーワードになっている。

カラオケの世界での「ヒトカラ」もそうだし、一人旅歓迎の宿しかり、あらゆる分野で「おひとりさま歓迎」というフレーズを聞く。

ラーメンの人気店「一蘭」がひとりひとりのスペースをつい立てで仕切っているのも「個」の世界を重視しているからだろう。


ラーメン屋のつい立てを初めて見た時は違和感があった。そんなものに魅力を感じる人は自意識過剰だと思ったわけだ。

でも、アレはアレでうら若き女性がズルズルとラーメンをすするのを隠したい心理に配慮しているからアリだろう。

「おひとりさま」といっても、仕方なく一人なのか、積極的に一人を好むのかでは意味合いが異なる。

わざわざ好んで「おひとりさま」で行動したがる人の心理は、結局は自意識過剰のなれの果てなのかもしれない。

群れたくない、つるみたくないという気持ちが一人酒や一人メシ、一人旅を好む人の行動原理だ。

私自身も同じだ。一人行動が好きだが、その理由には多分に自意識過剰な部分があるのだろう。

相手に好感を与えたい、自分のヘンテコな姿を見られたくないといった気持ちのせいで誰かとつるむのが億劫になって一人が気楽だと感じる。

あけっぴろげに接すればいい相手にでも、格好良く見せたい、退屈なヤツだと思われたくないなどと考えること自体が自意識過剰だ。

そんなバカみたいなクセのせいで気疲れしちゃって、一人でボケっとしたくなるわけだから、何だか御苦労なことだ。

以前、気疲れするのは気遣いや気配りがキチンと出来ている証拠だと慰めてもらったことがある。でも、実はそんな立派な話ではない。

気遣いや気配りが相手を思ってのことならともかく、自分が良く思われたいという邪念が強すぎて気疲れしているならバカみたいだ。

誰かと旅行に行っても、その人の見たい場所に付き合ったり、食べたいものに合わせたりして内心イラつく。でも、それを顔に出すのはヤボだろうと悠然としているフリをしてドッと疲れる。

ヤボだと思われたくないという自意識過剰が自分の首を絞める悪循環に陥る。

いっぱしのオジサマなのにこういう点のコントロールが苦手だから困ったものだ。

なんとか改善しようと決意しても習性みたいだから毎度失敗する。克服しないと孤独死が待っていそうでちょっと恐い。

私の場合、血気盛んな独身男とはいえ、ケジメとして自宅を“試合会場”にはしないと決めている。何かとメンドーだし、居座られても困る。

とはいえ、流れとか不可抗力とか、過度の欲求不満?などいろんな理由で、ごくまれに人を招くことがある。

そういう機会には私の悪い習性が出てしまう。しまい込んであったバカラのグラスを出してみたり、ポテトチップスのために唐津の大皿を引っ張り出す。

もっといえば、やたらとストックしてある高級レトルトだの高級缶詰なんかを土産に持たせたりする。

“試合”でバテて、つまらない気配りでバテて、我ながら「アホちゃいまっか!」とつぶやきたくなる。

女性のいる飲み屋さんでも、悠然とマイペースで過ごせばいいのに、オドオドしているオネエサンがいれば気の毒になって意味もなく盛り上げる。

仕事の商談相手に毅然と対応しなきゃいけない時でも、相手の緊張をわざわざほぐすような冗談をカマして、結局、相手のペースにまんまとハマることさえある。

これじゃあ単なる「お人好し」である。中年紳士としては稚拙だろう。決して誉められたものではない。

お人好しの意味は「騙されやすい人」、「人間が甘い人」、「幼稚な人」といったところである。

いい歳してバカみたいである。どうすれば「利口者」に変身できるのだろうか。

人生後半戦である。そりゃあ悪人よりは善人でいたい。でも「善人」と「お人好し」では意味合いが違う。

どうせなら「利口な善人」になりたい。遅ればせながら、ガリガリと我を通すような訓練に励もうと思う。

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