2019年1月11日金曜日

器の余白 盛りつけ


今日はいつにも増してどうでもいい話を書く。「器の余白」についてだ。

皿いっぱいに料理を盛るか、余白の美にこだわるか。私にとって意外に気になるテーマである。

どうでもいい話だが、どうでもいいことを気にするのも「こだわる男」としては大事?だ。

かつて、異常なまでに器収集にこだわった時期があった。徳利やぐい飲みといった酒器が中心だったが、ツマミや料理を盛る器にもこだわり、全国の窯場をめぐっていろんな皿も集めた。

思い入れのある皿を使う際には、料理は二の次である。だから皿全体を覆うように料理が盛られることが苦手だった。

つまり、器の余白がしっかり見えないと楽しくない。そんな感覚のせいで外食に行っても「器の余白問題」が気になるようになった。



器のサイズと料理のバランスがこんな感じだとグっとくる。皿も料理も引き立っている気がする。余白の美しさである。

高級路線の日本料理屋だとこういう風情を頻繁に見かける。器選びにこだわれば、器の雰囲気も見せたくなるのも当然だ。


とかエラそうに言いながら私が自宅で手巻き寿司大会を開いた時の盛りつけがこの画像だ。全然ダメである。盛り過ぎ。

備前の角皿と唐津のまな板皿を愛でたい気分だったのに、器の余白がまったくない。まさに素人の盛りつけだ。

スペースを大胆に余らせてちょこっとだけ料理を盛ると、その食べ物はいやでも貴重かつ大事な一品に見えてくる。


こんな感じで出されると有難い気分になって、それだけで美味しく感じる。

以前、京都の料理屋で炊きたての白米を炊き時間ごとに三段階に分けて一口づつ出されたことがある。大ぶりの器にほんの一口づつ盛られていたから有難く食べた。

あれが安っぽいドンブリに大盛りで出されたら感激しなかったはずだ。人間の味覚なんてそんなことで左右される。

窮屈に盛りつけられると有り難さが半減する。




ガチョウの肉もエビフライも私の大好物だが、皿に余白がないとジャンクフードに見えなくもない。まあ、好きだからテンコ盛りを逆に喜んでガシガシ食べちゃうわけだからエラそうには言えない。

大衆酒場みたいな店ではだいたいが「余白無視」である。それはそれで一種のTPOみたいなものだ。良し悪しの問題ではない。



これはこれで野趣溢れた感じで「食らう」という本能が揺さぶられるからアリだ。そもそも器自体にこだわりがなければ余白うんぬんを考えても意味はないのだろう。


こちらはカレイとウニのミックス。余白は充分にあるが、何となく盛りつけがビミョーである。こうなると余白だの窮屈だのといった次元の話ではないかもしれない。

まあ、大衆酒場じゃない店だったから窮屈に盛られるよりも余裕があるほうがそれっぽいことは確かだ。

何だか言いたいことがよく分からなくなってきてしまった。

つまり、器にもこだわりがあるような路線の店では余白の美にこだわって欲しい。でも大衆酒場みたいな店ではテンコ盛りでこちらの本能を刺激して欲しいといった意味不明の結論に近づいている。

グダグダ書いてきたが、ガッツリ食べたいドンブリ飯だったら、余白なんて無用だ。余白どころか「ハミ出ちゃうバージョン」を誉めたたえてしまう。



自分でも何が書きたかったかよく分からないまとめ方になってしまった。。。。

2 件のコメント:

  1. 富豪さんがお食事を美味しく召し上がっていることがよくわかりました! いいなあ〜。食べることは基本ですよね。

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    1. あやね様

      ありがとうございます。

      いずれ食べられなくなる日も来るでしょうから、元気なうちに食べます!

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