2019年7月10日水曜日

壺とパンチラ


自慢の徳利やぐい飲みを使いたくてわざわざ家で飲むことがある。たいして量は飲めないのにお気に入りの器を撫で回しながら過ごす時間が好きだ。



かなり処分して今は厳選した酒器だけが残っている。徳利は今も20本以上はあるのだが、すべて私の掌との相性が良いヤツばかりだ。

徳利の面白さは掌で包み込んだり撫で回すだけではない。見えない中の世界を想像するのも楽しい。

きっとカビだらけだ、などと夢のないことを言ってはいけない。中国には「壺中有天」ということわざもある。大ざっぱに言えば壺の中に酒池肉林の世界があるといった意味合いだ。

見えないと分かっているのに中を覗き込みたくなる。徳利の小さめの口からは闇しか見えない。いろいろ考えて哲学的な気分になったりする


こちらは先月の引越し後、置き場所がなくて困っている大きめの壺だ。白っぽいのは備前の土に志野の釉薬を流し掛けした現代有名作家の作品、もうひとつは越前の骨董だ。その昔、ウン十万円も出して買ったお気に入りである。

徳利のお化けみたいなものが壺だから、私はどちらも大好きだ。トランプさんみたいな豪邸に住んだら家中が壺だらけになると思う。

壺も徳利も表面からは中が見えないフォルムが良い。皿のように裏表がすべて見えるわけではない。その神秘性が魅力だ。

腹の内を見せないとか、あえて見なくていいものもあるといった、一種オトナの世界に通じる佇まいを感じる。

隠れているものを覗きたくなるのは人の習性だろう。たいしたことはないと分かっているのに週刊誌の袋とじグラビアを丁寧に開けちゃうのもそんな心理のせいだ。

ヨーロッパでは(日本でも)古来、女性の脚は徹底して隠すものと認識されていた。胸元がドッカーんと空いたドレスだろうとスカートは総じて超ロングだった。

あの裾の広がった超ロングスカートは、トイレ未発達の頃にところ構わずしゃがみ込んで用を足すために編み出された形だという説もある。

話がそれた。

とにかく人前で脚が見えちゃうのは大失態であり、事件みたいなものだったらしい。当時の男達が実に気の毒だ。


女性の脚線美は、ある意味ヌード姿そのものより男性を喜ばせる芸術品だと思う。いまやどこでもミニスカやショーパンを見かける時代だから、タイムマシンで中世ヨーロッパ人を現代に連れてきたら、鼻血ドバドバ大会になってしまうはずだ。

考えてみれば、男がパンチラに興奮するのも単純に隠されているものが見えたという一点だけが理由だ。女性の脚は今や普通に出す時代だから、男達がそれを見てもパンチラほどの衝撃はない。

超ミニの女性の姿にはドキっとするが、あれだって脚にドキっとしているわけではない。パンチラ寸前という状況にドギマギするわけだ。

何だかんだ言って、あくまで「普通は見えない」という前提条件があるかどうかがカギを握っている。

その昔、ランジェリーパブなる奇天烈な店がハヤリ始めた頃、会社の人間と大勢で押しかけたことがある。

感激したのは最初の2,3分だった。隠すものではなく見せるものという位置付けのせいで下着丸出し女子が何人歩いていようが、すぐに飽きてしまった。



見えないもの、見られたくないもの、見てはいけないもの。そういう要素がなくてはちっとも面白くない。

なんだか徳利と壺の話が異様に脱線してしまった。

というわけで、私は中が見えてしまうガラスの徳利が好きではない。

よくわからん話になってしまった。

2 件のコメント:

  1. 富豪記者さんが以前に書かれていましたでしょうか、胸からお尻に興味が移って行き着く先の脚線美こそが本当のエロスだ、ということが私も40を過ぎてから理解できました。
    先週のコメントを書き込んだ後に乗った飛行機のCAさんが大変美しい方で、目の前で席についてふくらはぎをマッサージしているのを見て確信してしまいました。
    もちろん話しかけてしまった私の野暮天ぶりに自分で呆れてしまいますが、オッサンの図々しさで結構話が弾んでしまうのが、少し枯れてきたからなのかとまたなんとも言えない気持ちです。
    これからも、真面目な話がエロ話になってしまうような投稿をよろしくお願いします。

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  2. コメントありがとうございます!

    実に正しいオジサマ的行動ですね。

    我々から図々しさを取ってしまったら、出がらしみたいなものですから、その調子でイキなフリしたヤボ道を突き進みましょう!

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