「この人は遊ぶために仕事をしている」。そんなことを人から言われた。なんだか小バカにされているように感じたが、よく考えれば当たり前である。
何のために仕事をするか。深く考えたことはない。アドレナリン欲求だの自己実現だの世界平和だのと立派なことを言う人もいるが、突き詰めれば生きるためである。
では、生きるって何か。おおむね衣食住や家庭形成が中心か。だとしたら、それぞれ楽しみながらこなすのは当たり前だろう。
衣食住。オシャレにうつつを抜かすのも結構だし、食い道楽も最高だ。住まいにこだわりを持つことだって素敵なことだ。楽しむためには遊び心抜きでは退屈なだけ。
家庭しかり、真剣に子育てするにも遊び心は必要だ。要は生きている上のすべての行動に「遊び」の精神はついて回る。
趣味だって衣食住の延長みたいなもので、人それぞれ自分が楽しいと思うことに夢中になればいい。
暴論みたいな繋げ方だが、極論すれば生きることは、いかに上手く遊べるかを追求することじゃないだろうか。
なんだか言い訳みたいな論法になってきたが、そういう点では私はそれなりに一生懸命遊べてきたと思う。
一生懸命遊んだということは、一生懸命生きてきたということだ。そういうことにしておかないと私の立場がない・・・。
マセガキ気味だったかお酒の楽しみは早くから覚えた。タバコも同じ。いつのまにか葉巻にまで詳しくなってしまった。
割と早くから色気づいたせいで、学生時代は随分とデートっぽいことに励めたし、大らかな昭和の頃は大らかにムホムホ遊んだ。
かなりヘンテコな世界も覗いた。そのあたりはさすがにここでは書けない。大人になってからも、一応“道ならぬ恋”とやらに励んだこともある。
一方でちゃんと家庭も持ったし、ちゃんと子育ても楽しく経験した。ちゃんと離婚の大変さも身をもって体験した。まあ、これは楽しくはなかったが。
趣味も30年以上前にハマった改造四駆でのオフロード踏破を皮切りに、その後もクルマは好きだったから、これまでに30台ぐらいは乗り換えてきた。
陶磁器収集に精を出し、全国の窯場巡りに熱中したこともある。オタクのようにはまったのだが、結果的にそれなりの教養につながったわけだからムダではなかった。
マニアックなレベルまで極めたつもりのダイビング・水中撮影は、家が買えるぐらいお金もつぎ込んだ。後悔はしていない。私の人生に潤いを与えてくれたのは確かだ。
旅行にしても国内海外を問わずアホみたいに行ったほうだろう。国内は山形県以外は全道府県に出かけた。別に山形が嫌いなわけではない。たまたまだ。
海外は40カ国近くに足を踏み入れた。チラっと覗いてきただけとはいえ、数多くの国の空気を吸ったことは少なからず私の血肉になっていると思う。
草野球に熱中した時期もあったし、短い期間だがカヌーを買って遊んだこともあった。中年になってからもオヤジバンドを10年近く続けている。
そう書いてみると「遊ぶために仕事をしている」のは確かだろう。でも仕事をしてきたから遊べたのも事実である。
不労所得があったわけではない。働いた分がそっくり“遊び心”に投下されたようなものである。
だから財産なんてちっともない。貯金だって老後が不安なレベルだ。アリとキリギリスでいえば、キリギリス側に近いことは確かだ。でもキリギリスはちっとも働かなかったわけだから私とは違う。
長い年数ではないが、寝る間も惜しんで働いた時期もあるし、仕事を通しての喜びや感激はもちろん、負の面も含めていろんな局面を体験したことで、いっぱしの中年として生きている。
グダグダ書いたが、無意識のうちに「楽しむ」をモットーに生きてきたことは確かだだろう。せっかくの人生、難しい顔して退屈な時間を過ごすのはもったいないと心から思っている。
いま、日本中、いや世界規模でドンヨリ感が広がっている。ウイルスという目に見えない敵のせいである。
正しく怖がるのは当然だが、闇雲にジッと沈んでいても仕方がない。いろいろ環境が変わってしまったが、その中で楽しいことを探すようにしたい。
いまこそ遊び心が大事だと思う。
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