前回は「ハグしたい気持ち」をツラツラ書いたので、今日はチューの話だ。キスと書くのは何となく恥ずかしいからチューと書く。
私が子供の頃は、キッスという言い方がまだ残っていた。いま聞くとどこかイヤらしい気がするのは気のせいだろうか。
かのロックバンド「KISS」もデビューが今の時代だったら日本では「キス」と呼ばれていたはずだ。
さて、チューである。接吻である。接吻という言葉は比較的新しいらしく、江戸時代は「口吸い」と呼ばれたそうだ。「くちすい」。どこか色っぽい響きだ。
若い頃は私もチューをしまくっていたが、さすがに中年以降はそんな機会は減った。仲良しの嫁さんでもいれば、毎朝お出かけのチューをするのだが、我が人生にそんなシーンはない。
人間がチューをする起源は諸説あるらしい。相手の鼻と自分の鼻をこすりつけてお互いを知ろうとした原始人時代の名残りという説や「ツバをつける」と同じ意味で、自分の所有を主張するために相手の口に相手の口にツバをつけたことがきっかけという話もある。
他にも、幼い子供に親が食べ物を嚙み砕いて口移しで与えたことがルーツという説があり、これが一番しっくりくる起源だと感じる。
まあ、そんな真面目な話はどうでもいい。
ウソかホントか、女性の唇は男性よりも神経の数が多く感度が10倍は違うという話を聞いた。
ホントだったら羨ましい。男性の皆様、若かりし日のチューの気持ち良さを思い出していただきたい。あの10倍も気持ちよかったらそれだけで爆発してしまったはずである。
そんなに気持ちよかったらもっともっと男達のチューを受け止めてくれればいいのに、たいていの女性は簡単にチューをしてくれない。実にもったいない話だと思う。
私の初めてのチュー体験は15歳の冬だった。神宮外苑の絵画館広場前のベンチに陣取り、寒い中で長い時間タイミングを探ってようやく達成?した記憶がある。
私にもそんなウブな頃があったかと思うと、その後のフヌケた人生の歩みを反省したくなる。
あれからウン十年。思えば愛に満ちたチューもあったが、強引なチュー、ウソっぱちのチュー、おざなりのチュー、インチキみたいなチュー等々、初心を忘れた悪質なチューも多かった気がする。
年頃の娘を持つ親になってみて、ようやく反省と悔悟の日々である。自分の娘が悪質チューなどされようものなら、相手の男を八つ裂きにしたくなる。
人間はつくづく身勝手な生き物だと思う。
大学生の頃、ひょんなことから東京のキススポット特集という雑誌の企画のモデルをやったことがある。
結構なバイト代をもらえると聞いて引き受けたのだが、あの経験が純粋だった私を変えてしまったのかもしれない。
公園のベンチやデパートのエスカレーター、表参道の街角、羽田空港など5,6箇所でチューをした。途中から緊張もドキドキも無くなってしまった。
たった1日でスレた男に転落である。若者にとって神聖であるはずのチューを軽く扱ってしまった報いである。
今になって「正しいチュー」をしたくても手遅れである。相手がいないという以前に、中年男のチューはスケベな感じが滲み出て美しくない。
チュー文化が成熟している西洋ならば中年や老年夫婦のチューも絵になるだろうし、映画でも美しく描かれているシーンを見たことがある。
チュー後進国である日本では、なかなか難しい。映画「失楽園」での役所広司みたいなカッコいいチューは希有な例だろう。
そういえば、昨年大ヒットした映画「ボヘミアンラプソディー」では凄く印象的なキスシーンがあった。
フレディ・マーキュリー役の俳優が、マネージャー役の俳優から唐突にチューされる場面だ。ゲイの世界へ踏み込むきっかけになったような描かれ方をしていたシーンだ。
フレディ役の俳優の表情が実に情感豊かだった。驚きと喜びが混ざり合った表情で、揺れる感情を消化できていないもどかしさに満ちていた。
そっち方面に興味のない私でも鳥肌が立ったシーンだ。チューという行為の崇高さを如実に表していたと思う。
チューとは本来そういうものでなくてはならない。
なんだか話がまとまらなくなってしまった。
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