ガサツな日常生活を過ごしているとキリっとする場面が少ない。それはそれで呑気で結構なことだが、時にはシュっとした気分になることは大事だ。
というわけで、珍しく日本文化を食べに出かけてきた。赤坂にある「辻留」。懐石料理の名店だ。シュっとした顔を作って訪ねてみた。
アプローチからどことなく凜とした雰囲気が漂う。若い頃なら変にビビったのかも知れないが、いっぱしのオジサマとなった今ではこういう風情に心が躍る。
店内も渋さが際立つ。こういう空間を喜べるのが正しい?大人の姿だ。茶の湯の世界に通じる詫びさびを体現した空間は過剰な装飾は無く清々しい。
床の間もあっさりと美しい。楚々とした一凜の芍薬が「これぞニッポン」という雰囲気を強めてくれる。
私は保守的な人間だからモダンよりも上質な古めかしさに惹かれる。古めかしいというと聞こえが悪いが、古いものが醸し出す空気感は一朝一夕では作れない貴重なものだ。
こういう場所に身を置くと、食事を楽しむだけでなく、漂う空気感に身を包まれることを喜ぶ時間を過ごせる。
なんだか堅苦しい書き方になってしまった。実は、こちらの若女将とは高校時代からの知り合いだ。だったら今まで何度も通っていても良さそうなものだが、ようやく機会を作って初訪問。
実際は若女将と高校時代のバカ話で盛り上がったりして普段と同じようにユルユルした気分で過ごした。
日本料理の華といえば椀物だ。これが一番楽しみだったので蓋を開ける前からワクワクした。この日は穴子しんじょ。
香りも最高、味わいも最高。自分のボキャブラリーの乏しさを痛感する。日本料理が世界遺産になったのはこういうことなんだと深く実感する。
出されたすべての料理に共通するのが塩梅の完璧さだ。強すぎず弱すぎず、まさに絶妙。自分が普段いかに乱暴な味付けのものを食べているのかを改めて思い知る。
素人ならもう一段階、いや二段階ほど味を強めたくなるその手前とでも言おうか。じっくり味わえば、薄くもなく濃すぎることもない絶妙な塩梅を感じる。
焼き魚はふっこ。スズキの若魚だ。これまたすべての加減が絶妙なのに加えて、添えられた蓼酢が抜群に美味しかった。きっとこれが本物の蓼酢なんだろう。本物を知らないことは恥ずかしいことである。
高級な料理屋さんの楽しみは食べもの以外にもある。器だ。「器は料理の着物」だから上質な料理を上質な器で楽しむ時間はとても贅沢な気分になれる。
一時期、日本中の窯場めぐりに励んだ私だが、家庭人生活を卒業して以来、器使いもガサツになっている。この日、魯山人の器を始めとする名品を使わせてもらったことで、今更ながら器を愛でる楽しさを思い出した。
今の住まいにも結構自慢できる器はあるのだが、最近はレンジでチンばかりだから無印良品で買った安皿が中心だ。心の豊かさを保つために時には上等な器を使わないとダメだと反省。
話を戻す。シメのご飯に意表を突かれたのも印象的だった。汁かけ深川飯のような一品である。アサリの質も抜群で、出汁と味噌のバランスが感動的。まさに次元の違う極上の味わいだった。
受け売りではあるが、懐石料理はもともと茶の湯の席で客人をもてなす料理だ。食後のお茶には心して向き合わないといけない。
とはいえ、茶の湯には不作法な私である。若女将にいろいろ教わりながら不器用に味わう。こういうところをシュっと決められない自分が情けない。
器収集に熱中していた頃、必然的に茶の湯の世界に足を踏み入れそうになったが、そっちの器に手を出すとお金がいくらあっても足りない。そんな理由もあって酒器や小皿、壺ばかりに目を向けていた。
あの頃、少しでもお茶の世界をかじっていればこういう場面でも、スマートに振る舞えたはずだ。激しく後悔する。
この粉引の抹茶碗は李朝の流れを汲む小林東五さんの器だ。酒器ですら現代作家の中ではトップレベルに高い値が付く作家だ。抹茶碗のやわらかい風合もそれはそれは魅力的だった。
正直、お茶の味は記憶に無い。その代わりに手のひらで感じた器のぬくもりは覚えている。
というわけで、空間、器、食事などをしっかり堪能させてもらった。何かとややこしい今のご時世、時にはこんな時間を過ごすのも悪くない。心の健康管理につながるような気がした。
こんにちは。
返信削除一番聞きたいのは、お酒が飲めたんでしょうか?
私はもっぱらこちらのテイクアウトを利用しているんですが。
やはり座敷でちょっと緊張してゆったりやりたいなあ、と思う今日この頃です。
今日、大手町で接種を受けたので7月からは活動開始かなあ・・・
佃在住さま
削除コメントありがとうございます。テイクアウトでもなかなかニクいメニューを揃えているようですね。
やはりお座敷でゆったりをオススメしたいです。