月曜にアップした「知ってしまった哀しみ」というテーマにも通じる話だが、今日はホドホドの大事さについて考えてみたい。
私自身、このところ「ホドホド」を心がけるようにしている。とはいえ、うまくホドホドに済ませると嬉しいような悲しいような複雑な気分になるから厄介だ。
ここ最近、寿司屋のあとでフィレオフィッシュを2つ食べたり、焼鳥屋の後に豚丼を食べるような奇人みたいなことをしていない。
当たり前か。。
最近、食べ方や飲み方が攻撃的ではなくなってきた。歳のせいだろうが、それはそれで残念でもある。
剛速球投手が年齢とともに技巧派投手に変わっていくような淋しさがある。江夏豊や鈴木孝政みたいなことだ。例えが分かりにくくてスイマセン。
コロナのせいで会食が激減したことをきっかけに、だいぶ酒も弱くなった気がする。まったく飲まない日も増えた。
若い頃は飲むたびに吐くような時もあった。ホドホドを知らなかった頃は無茶な飲み方をしていた。
タバコの量も確実に減っている。世の中に吸える場所が無くなってきたせいもあるが、昔に比べればかなり少ない。職場でもタバコ吸い放題だった30年前は1日4箱が普通だった。
何事もホドホドが肝心。古今東西それが真実だろう。ホドホドに収まりたくない無邪気さを封印しながら人は大人になり、そして晩年に向かっていく。
ペヤングのバカでかいサイズを時折見かける。いつもトライしたい衝動に駆られるが、間違いなく途中から大好きなペヤングが敵に見えるはずだから手を出さないでいる。
ペヤングは標準サイズのあの量だから愛おしいのだろう。ちょっと物足りない感じこそがホドホドの大切さを象徴している。
「ホドホドとはペヤングのことなり」という格言があるように(ウソです)、満足の一歩手前、もしくは半歩手前ぐらいが何事においても大事なのは確かだ。
とはいえ、私の日常はコンビニに入れば目に付くスイーツをいくつも買い込み、ウーバーイーツだって必ず3人前ぐらい注文してしまう。ホドホド精神を逸脱してしまう。
娘に渡す小遣いだってきっと過分だ。多過ぎると本人のためにならない。息子に食べさせる食事だって常にドカ盛りにするから太らせるだけだ。これまた逸脱である。
一緒に暮らしていれば、自然とホドホドに収まったのだろうが、そうじゃないからブレーキが効かなくなる。家庭生活をホドホドにこなせなかったツケである。
分かっちゃいるのにヤメられないことは多い。ホドホドを目指すためには自分を厳しく律する以外に道はない。
トランプ前大統領だって、何事もホドホドにしていれば落選することはなかった。ビルゲイツだってホドホドの稼ぎだったら別れた嫁に7兆円も払わなくて済んだわけだ。
なんだか脱線してきた。
脱線ついでに言えば、エロの道だってホドホドが何より大事な心がけだろう。
昔のロマンポルノは情緒があったが、AV時代全盛になってボカシが薄くなって、いまやネット上は丸出し天国になった。
ホドホドを超えちゃうと時には興ざめだ。ゴールが見えなくなって迷走しちゃうのが世の常だと思う。
少年時代は水着グラビア程度で充分にムホムホしたのに大人の階段をのぼっているうちに興奮する素材はエスカレートする。
痴漢を例にとっても、最初はたまたま混雑する電車で女性の尻に手が触れてしまったところからエスカレートして犯罪にまで進んでしまうらしい。
SMマニアだって、最初は軽い目隠し程度が出発点だろう。徐々にヤバい方向に進んで、首締めプレイで間違って殺人事件になっちゃうこともある。恐い恐い。ホドホドを顧みなないと身を滅ぼす。
先日、飲んでいる席で好みの女性のタイプを聞かれた私は「スケベな人」と答えてみた。
多分に場を盛り上げるためのジョークだが、あながちウソでもない。若い頃はウブな女性こそ最高だと思ったが、この歳になってウブな女性に遭遇しても面倒なだけだ。
既にこの発想がホドホドを逸脱しているのかも知れない・・・。
「スケベな女性」と一口に言っても私が思っているレベルと高校生の男の子が思っているレベルでは、きっと天と地ほどの開きがあるのだろう。
いま私が思い浮かべるそのスケベさのレベルは、ウン十年前の私から見ればきっと変質者レベルだ。それをウッシッシと喜べる自分が残念!である。
高校生の頃の自分が今の私のスケベオヤジっぷりを見たら、きっと早い段階で人生計画を真面目に考え、若いうちに修行僧にでもなる決意をすると思う。
ホドホドの枠内を少しずつ逸脱し続けると、気付けばヤバい人になってしまう。今更だがホドホド精神をキチンと重視しようと思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿