ソーセージといえば世のグルメ論評の外側に存在する食べものみたいなイメージがある。その割にはみんなの好物でもある。私も大好きだ。シャウエッセンなんて毎日でも食べたいぐらいだ。
ソーセージって考えてみれば凄い食べ物である。ケッタイな食べ物と称してもおかしくない。食肉用語を解説した書物にはこんな書き方がされている。
胃や腸、膀胱なんかに余り肉や血を混ぜ合わせて作ったわけだから想像するだけでゲンナリする。でも私は大好きだ。シャウエッセンなら毎日食べてもいい。
しつこくてスイマセン。
初めてトライした大昔の人の根性に感謝状を贈りたい。古代ギリシャ時代には既に兵士の携行食として確立されていたそうだ。人間の食への貪欲さの最たるものかも知れない。
普段、ソーセージは家で食べることが多いが、ドイツ料理屋を始めそっち系の店に行ったら必ず何種類も食べたくなる。太さ、長さ、味付けなど数え切れないほどの種類があるそうだが、私にとってはどれもウマい。
マスタードをベトっとつけて頬張り、ビールで流し込むとウホウホと叫びたくなる。「余り肉や血を胃袋や膀胱に詰め込んだ一品だ」という事実などどうでもいい。素直にアノ旨味に溢れたソーセージは愛しい。
数多くのソーセージの違いに関するウンチクを書きたいところだが、今日はそういうテーマではない。私のソーセージ愛を淡々と書く。
ソーセージには得体の知れない肉という世間の評価?がつきものだが、それを言ったらハンバーグだって同じである。大昔、マックのハンバーガーは猫の肉というデマを信じた子どもが大勢いたようにハンバーグやソーセージの肉は謎っぽいからこそそそられる。
カップヌードルに入っている四角い謎肉に誰もが惹かれるのと似たようなものかも知れない。
ハンバーガー屋さんでハンバーガーと共にサイドメニューのホットドックも一緒に味わえば何となく禁断の食べ物を食べ尽くしてしまうような背徳感も味わえる。
http://fugoh-kisya.blogspot.com/2021/08/blog-post_23.html
一般的にソーセージは酒場でアテとして食べる人が多いが、私は白米のおかずにソーセージを選ぶことが多い。
途中でブチュっとソーセージが割れたりするとそこから肉汁が滲み出る。フライパンの油とソーセージから漏れ出た脂が融合することが嬉しい。
そして皿に盛った後にウスターソースをドヒャっと投入。油と脂にソースが混ざる。ここがポイントだ。もはやソーセージのタレである。割れたソーセージの断面にタレをベトベト含ませ、それを白米にバウンドさせながら食べるのが最高だ。
私はいつもこれをシャウエッセンで展開する。抜群にウマい。「香燻」なども試したが燻製的な要素が強すぎるとちょっとイメージと違う。シャウエッセンのバランスの良さに軍配が上がる。
もはやニッポンの洋食と呼びたい味である。日本ならではのウスターソースに白米、そして日本ハムのシャウエッセンである。海外移住したら食べられない一品だろう。
昭和の子どもが愛した「赤いウインナー」も一種の日本料理である。日本独自の食べ物だ。昭和中期にそれこそ得体の知れない原材料で作ったソーセージを少しでも美味しく見せようと合成着色料ぶりぶりで完成させた先人の努力の賜である。
あえてあんな色にしちゃうわけだから着色する前はいったいどれほどマズそうな色だったのかが大いに気になる。今は一応、着色料の規制の範囲内のものしか製造されていないわけだからそんなに無気味に考える必要はない。
個人的に赤いウインナーはさきほど書いたような白米のおかずになりにくい。やはり中身の謎っぽさの違いだろう。割れて出てくる肉汁というか脂分の感じがシャウエッセンなどに比べると頼りない。
やはりアイツは素揚げしたうえで中濃ソースまみれにしてホッピーの相棒にするのがちょうどいい。薄めの衣で串揚げにしてソースに浸して食べるのもアリだ。アイツにアイツの居場所があるのだろう。
最後にソーセージを偏愛する私がオススメするちっとも参考にならないレシピを紹介しよう。
ソーセージをかなり小さめに細切れにして硬めに炊いた白米の冷や飯ととともにフライパンで炒める。味付けは塩胡椒、特に胡椒を多めにする。炒めながら適量のウスターソースを投入、隠し味程度にケチャップも使う。
レシピと言えるほどのシロモノではない。単なるソーセージ炒めご飯ではある。しかし、そこに作り手の真剣さと愛が込められればスペシャルソーセージチャーハンと呼べるほどの美味しさになる。
あくまでソーセージとソースが好きな人にオススメの一品なのでそれ以外の人はスルーした方が賢明だと思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿