久しぶりに歌舞伎を観る機会があった。小中高の同級生が出演する舞台を見学しに同級生連中で徒党を組んで国立劇場まで出かけた。
今回は歌舞伎鑑賞教室というイベントで上演前に初心者向けに歌舞伎のイロハを解説してもらった。解説役は現役の若手歌舞伎役者が務めるのだが、この役を私の同級生の息子さん(21歳)が担当していた。
身振り手振り、時に実演を入れながら歌舞伎の決まりごとや舞台の仕組み、裏方さんの働きなどを紹介してくれるのだが、これが結構面白くてタメになった。
と同時に解説役の同級生の息子さんの立派さに感心した。我々の年代ともなると子どもの世代がそろそろ世間で活躍し始める。光陰矢の如しとはよく言ったもので、自分たちがちっとも進歩しないうちに時代は次の世代に移り変わっているわけだ。
先日、別の友人の息子が結婚した。その子が生まれる頃にその友人とバカばかりやっていたことを思い出すと感慨深い。
今もその友人と会えば人には言えないようなワイセツ極まりないバカ話で盛り上がるのだが、そうこうしているうちにヤツも遠からずオジイチャンである。
地方のマイルドヤンキーさん達に比べれば都会生まれの私の周りは若くして結婚するケースは少なかった。必然的にまだオジイチャンになった友人はほとんどいない。
でも時代を遡れば50代後半にもなると既に立派なオジイチャン年齢である。江戸時代だったら隠居どころかそろそろ死んでいる。そう考えると若者時代と変わらぬ感覚でバカをやっていられる今の時代に生きていることは幸せなんだろう。
人生が50年ちょっとだった江戸時代の町人から見れば、今もあいみょんの歌を聴いて胸キュン状態になる私のような生き物は宇宙人のように思えるはずだ。
江戸東京博物館に展示されていた江戸の町人の一生である。なんと私の年齢だと「死去」である。このヨレヨレしたイラストも何ともシュールである。
タイムマシーンで江戸に行って私が実年齢を公表したら、その若々しさに驚かれて有名人になって幕府に健康指南役として召し抱えられるはずだ。
そんな空想にふけるぐらいだから平和である。日々、衰えを実感する場面は増えたが、結局は30代ぐらいの頃からたいして変わらない感覚で生きているような気がする。幼稚なのだろうか。まあこの歳になったら幼稚ぐらいでちょうどいいかもしれない。
さて、6月である。梅雨の鬱陶しさだけでなく紫陽花の美しさに魅せられる季節でもある。梅も桜も金木犀もそうだが、季節の訪れを告げるためだけに姿を現すように思える。
鎌倉のお寺のような名所はともかく、道端に咲いている紫陽花に目を向ける人は意外に少ない。珍しくないせいかも知れないが、足を止めて見入ってみるとその美しさにハっとさせられる。
そんな感覚になったのはここ数年だろうか。これも加齢のおかげによる感受性の変化だったとしたら歳を重ねることは素敵なことだ。
今の季節は毎年、私が敬愛するハマショー師匠の名曲「紫陽花のうた」を聴きたくなる。人に知られてはならない道ならぬ恋を歌った切ない楽曲だ。
この曲を聴くと昔のいろんな思い出が甦る。思い出すことがたくさんあるというのも年の功である。やはり歳をとるのは楽しいことである。
どうせなら私も不倫に溺れてみたいものだが、そもそも独身だから無理である。実に残念だ。不倫するために再婚することを検討してみよう。
江戸時代なら「死去」の年齢なのにそんな冗談を書いていられるのだから実に平和である。
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