黙ってボーッとする。ひたすら何もしない。これって案外大事なことだと思う。今の時代、そんな時間に没頭する人を見かけることが少なくなった。
電車の中ではスマホを眺める人ばかりで、それ以外は時折本を読む人か寝ている人だけだ。ボケーっとしている人はまずいない。
私も暇があればスマホを覗き込んでいる。中毒というほどではないが、かなりそこに時間を取られている。家にいるときも似たようなものだ。テレビを見ているか、スマホを見ているか、雑誌や本を読んでいる。風呂の中でさえ同じだ。
いわゆる沈思黙考という時間があまり無い。これって生きる上でちょっと損をしている気がする。黙ったまま何もせずにボーっとしていることで様々なことが頭の中を駆け巡り、ちょっとした気付きやアイディアにつながる。
何かに没頭していればその中でしか頭は働かない。思考は当然広がらない。当たり前のことだがそれって脳ミソ活用法?としては実にモッタイナイことだろう。
すべてスマホのせいにするわけではないが、スマホがない時代は誰もがもっとボーッとする時間を持っていたはずだ。大袈裟な言い方になるが、そんな時間が人間の深みや奥行きを作っていく大事な要素だったのではないだろうか。
イマドキの若者である私の娘をみていても常にスマホに目線が注がれている。クルマや電車での移動中も車窓から外の景色を眺めることなど滅多にない。誰がいつどこを見てようが勝手だが、移動の際の眺めは一種の情報の宝庫だ。そこに目を向けないのはやはりモッタイナイことだと感じる。
ちょっと話が飛躍しちゃうが、周囲への気配りが足りなかったり広い視野を持てない人が多かったりするのはスマホ依存的な日常生活を送っていることが理由ではないだろうか。日頃からアチコチに関心を向ける習慣がないから近視眼的な言動ばかりになるような気がする。
私が昔から一人旅や一人メシは好きな理由もおそらくボーっとする時間を堪能したいからだろう。街中ですれ違う人の人生を勝手に空想したり、ホロ酔いになった酒場で自分の破廉恥な日々の言動を反省したり、はたまた計画を練るのは案外楽しい。
そんな妄想にふけるだけではなく、ふと目にした光景からいろんな“気付き”が生まれるのも確かだ。散歩にしても同じ。誰かと連れ立って無駄話をすることも悪くないが、一人だと目に入る景色が変わる。季節の変化を感じるといった日常的なことだけでなく、そこから自然と派生して様々な思いを整理したり新たな感覚が生まれたりする。
別に孤独のススメみたいな話ではない。せわしない日々の暮らしの中で自分をリセットする時間は大事だという話である。仕事だろうが遊びだろうが絶対に必要になるのが「余力」であり「余白」だ。
詰め詰めで過ごしていると頭の中はパンパンになる。それでは斬新な考えなど生まれるはずもなく、下手すれば正しい思考からもズレ始めてしまう。
例えは極端だが、自殺する人の最後の頃はきっと「詰め詰めでパンパン」なんだろう。ちょっとした余白があれば踏みとどまった人は多いはずだ。やはりちょっとした余白を作るためにも「何もしないでボーっとする時間」を意識して持つことは大切だと感じる。
ニュースで見た話だが、どこかの中学だか高校で全員が一斉に短時間の昼寝を強制されるらしい。ほんのちょっとのそんな時間が頭をリフレッシュするのに効果的だという。これも余白の大切さを表している話だと思う。
エラそうに書いてきたが、私の場合は寝る前にあれこれ考えすぎる悪い癖があって、結局毎日のように睡眠導入剤のお世話になっている。それはそれで不健康だが、それでもスマホの電気の光を眺め続けて脳にヘンテコな刺激を浴びせるよりはマシかもしれない。
これを読んだ人の中には「そんなに暇じゃねえよ」と反発する向きもあろうが、どんなに忙しくても何もせずボーっとする時間ぐらい絶対に作れるものである。ほんの30分だって無意味ではない。それすら出来ないような人なら間違いなく何をやらせてもダメな人だと思う。
全く同感です
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