2007年12月21日金曜日

壺中の天

陶器が好きな人にとって特別な言葉が「壺中有天」。壺中の天ともいわれるが、要は「壺の中は別世界」という話。徳利もそうだが、壺の口部分が小さいと中がのぞけない。だからこそ、そこにある別世界に行ってみたい感覚にとらわれる。

壺中の天の話は中国の故事からきている。露天商の老人が店じまいを終えると、するりと店先にあった壺の中に消えた。それを見ていた役人が翌日、老人に頼み込む。自分も連れて行ってくれと。一緒に壺の中に出かけてみると、そこには素晴らしい宮殿があり、老人から例えようのない歓待を受けたという話。

どんな境遇にあっても、他人には分からないその人だけの別世界を持っているとか、誰もが見かけからは分からない境地に達しているとか、解釈はさまざま。

私としては、自分だけの内緒の世界を持っていれば、どんな状況にあっても世俗のしがらみから解放されるという意味合いで捉えている。実に気持ちのいい言葉だ。

さて壺の話。徳利を集めていて、そのフォルムに魅せられていると、酒を注がない時でも掌でもてあそぶようになる。酒なしでも愛玩対象になってくるわけだが、そうするとデカい逸品にも目が行く。そこで壺の登場だ。酒器を集める際は、骨董より現代作家の作品が好きな私だが、壺となるとなかなか現代作家の作品に好みのものが見つからない。

高さ40~50センチほどのサイズの壺は確かに今の生活スタイルでは実用性に乏しい。陶芸家もあまり作らない種類で、仮に作っても、ちょっと作為が強くなる作品が多い気がする。「どうだ!」みたいな力強さを感じるが、どうにも、さりげなさが足りないものが多い。

その点、骨董品のなかには手ごろな価格で実に清々しい壺に出会うことが多い。もともと種などの保存目的に実用一本で作られてきた経緯があるため、たたずまいが実にさりげない。作った側もその壺が鑑賞されるとは思っていないわけで、必然的に質実剛健的力強さも備わっている。

器肌の豪快な変化が特徴の信楽の名品ともなれば、ウン百万円という金額を出さねば買えないが、その他の古窯であれば、グッと安く入手可能だ。

自宅の酒呑み専用部屋に鎮座している私のお気に入りは越前焼の古壺。一発でフォルムが気に入って手に入れた。器肌の変化は大したことないが、全体の丸味が妙に優しげで見ていて飽きない。業者は室町頃の古越前と断言していたが、購入金額から考えるとちょっと眉ツバものだろう。でも江戸中期ぐらいの逸品ではないかと勝手に決めつけて悦に入っている。

古い壺は、備前、信楽、丹波、常滑あたりを産地として大量に流通している。ただ、サイズと口部分の形状によっては、骨壺に使われていた可能性も高いため、なかなか厄介。さすがにどなたかの骨壺を肴に酒を飲むのは勘弁だ。本当はそんな心配をしないためにも現代作家の大壺を入手したいが、いまのところ自慢の古越前を凌ぐ作品に出会っていない。

小型、中型、大型といろんな壺を手に入れたが、眺めていて飽きないものはごくわずか。結構な数を人にあげてしまった。

江戸中期のものとの触れ込みで手に入れた古丹波の壺も、しっくりこなくて玄関先に放置している。今では傘立てに格下げしてしまった。結構富豪みたいな使い方かも知れない。

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