2009年2月3日火曜日

お通夜の時間

今年に入ってから2回ばかりお通夜に出かけた。冠婚葬祭のなかでも葬の部分は、どうしても笑顔とは無縁なせつない時間だ。
と言いながら、不謹慎覚悟で白状すると、今年うかがったお通夜では2回とも結構笑顔になる時間が多かった。

もちろん、焼香させていただく際は、ご遺族の心痛を思い、切なく辛い気持ちになって笑顔などは出ない。ただ、そのあとに用意された席では事情は変わる。

プライベートの友人知人関係のご葬儀であれば、弔問に集まる顔ぶれも当然内輪の知り合いが多くなる。懐かしい顔に出会ってわいわいガヤガヤ。故人のこと、ご遺族のことを語りながら、次第にアルコールも手伝って昔話に顔がほころぶ。いつのまにか宴会状態になる。

以前、身内の葬儀の際に、坊さんから言われた。「楽しく賑やかに送ってあげることが供養です」。その坊さん自身、楽しそうに酒を呑んでいた。若かったこともあって何か妙な気持ちがしたが、お通夜という場面は確かに闇雲にシンミリしているだけでは正しくないのは確かだろう。

お通夜の席にたくさんの人が集まること自体が、故人の御遺徳だ。お通夜の席で久しく会っていなかった知り合い同士が旧交を温めたりできるのは、まさに仏様のお導きなのだろう。信仰心の薄い私でも本当にそんな気がする。

同じ学校に長く通った友人の父上のお通夜では、大勢の旧友と合流した。おまけに私の幼稚園時代の恩師にまで会った。ウン十年ぶりだ。小学校時代の野球部顧問の先生にも会えた。

お通夜という場面が無ければ顔を合わせなかったような人と接点が生まれることは、その日のお通夜に限った話ではない。その日とは別のお通夜の席でも、お互い名前は知っていたがお会いしたことのない人と話すことができた。

人の輪というか、つながりみたいなものを再認識させられる独特の効果が、故人を偲ぶあのような場面には宿っているのだろう。

私自身、いずれやってくる自分のお通夜を考えてみると、やっぱりいろんな人がわいわいガヤガヤやってたほうが嬉しいと思う。変な表現だが楽しんでもらえたら嬉しい。一応、少しは私を偲んでもらいたいが、集まった人が賑やかに過ごせればこっちも気が楽だ。

そういえば私が敬愛する寅さんも映画のなかで言っていた。「ホトケほっとけ」。法要の場をいつも笑わせてしまう寅さんの主義は、前述した坊さんの話と同じ。賑やかに送ることが供養であり、残された人達がいつまでもクヨクヨしていたら故人だって困るという趣旨だ。

ところで友人の父上のお通夜は銀座に近い場所で行われた。お通夜のあと、なんだかんだ言いながら悪友達と連れだって銀座でハシゴ酒。喪服姿で泥酔。
不謹慎かつしょうもない自分を反省。

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