先週月曜に掲載したダウン症の話には直接、間接にいろいろご意見をいただいた。有難いことです。少しでも知っていただけると嬉しい限り。
医師からの宣告を受けた当初は、もちろん、尋常じゃないほど動揺した。目に入るものすべてから色が無くなったような感覚だった。
私だって、もちろん人並みに葛藤する。しんどかった思い出がある。後から続く人の参考になるかもしれないので、簡単に振り返ってみる。
その頃ちょうど九州の病院で「赤ちゃんポスト」を設置する件が世間の一大関心事になっていた。いろんな角度からあの報道を見たことを覚えている。
少なくとも自分と無関係とは思えない次元でニュースを見つめていた。
私自身、幼稚園からエスカレーター式の私立校に通ったせいもあって学校生活の中で身近に障害児と接する機会がまったく無かった。
キリスト教系の学校だったため、折に触れて障害関連の学習は受けた。小学校の頃に宮城まり子さんのねむの木学園を取り上げた映画を見たり、中学時代も障害を持つ人が頑張る映画を見せられた記憶がある。
ただ、身近に接した経験がないと、何を見せられてもしょせん映像の中の話でしかない。現実感の中で障害を持つ人達のことを考えたことなど一度もなかった。
いや、あまりに遠い存在だったせいで障害を持つ人を蔑視するような言動を平気でしていた。
最近では、公立学校のなかで健常児と障害児が交流する取組みが活発化しているらしい。やはり無垢な状態の学齢で健常児が障害児と接することは、お互いの社会性向上のため大きな意味があると思う。
私の場合、周囲に障害を持つ人がいなかったことに加えて、学生時代はもちろん、大人になってからも障害者と実際に交流する機会がなかった。
突然、障害児の親に任命されちゃったわけだから正直「パニック」のひと言だった。
「この命には使命がある」、「ウチを選んだことに意味がある」、「障害はこの子の特徴だ」なんてフレーズを言い聞かせてはみたが、“悪魔の本音”は常に頭から消えなかった。
正直に言うと、手をかけるみたいな発想すら頭に浮かんだ。「このまま階段から落としてしまおうか」とか活字にするだけで胃が痛くなるようなことが脳裏をよぎる。
誰に非難されようがそれが現実だった。
手をかけるような勇気すら無いことに気付けば、次には捨ててしまおうという発想が出てくる。いま思い返せばまさに負の連鎖だ。
インターネットの世界には障害児の親の手記、支援団体のサイトなどが盛りだくさん。ネガティブなキーワードで検索をかければ、それなりの情報が出てくる。
「ヨーロッパでは障害児を育て上げた人達が昔の有意義な時間を懐かしんで障害児を特に指定して養子縁組をするケースがある」―――。
真偽はさておき、そんな記述を見つければ気持ちが揺れ動く。国際養子について調べてみたりもした。
わが子に手をかけられないから捨てるという傲慢な発想は、そのうち自分勝手な屁理屈と言い訳にカモフラージュされて頭の中で広がっていく。
「ウチよりもこの子がイキイキと暮らせる世界がある」、「親に困惑されて育つなら理解者の元で育ったほうが幸せ」とか、しまいには「安易に中絶せずに子どもをこの世に誕生させただけでも価値がある」などという滅茶苦茶な考え方まで頭に浮かぶ。
精神的におかしくなっていたのだと思う。恥ずかしい話だが、それが現実だった。
そんな経験のせいもあって、中絶をはじめ、子どもを手放す行為のすべてをただ安直に断罪することには少し違和感もある。異論もあるだろうが。
あの頃、いろいろな話を聞いて、世の中には様々かつ複雑な事情があることを思い知らされた。
私にも痛くて苦しい経験がある。ダウン症の子を授かったという共通点で知り合いになったお仲間の母子が突如、心中してしまった。励まし合おうと思っていた矢先の出来事だった。
自分達がなんとかネガティブモードから脱しつつある時期だっただけにキツい話だった。
今もつくづく惜しいと思う。可愛い子どもの成長を見てみれば良かったのに、と心から思う。
ネガティブな行為や発想を肯定するわけではないが、ただ闇雲に切って捨てるほどコトは簡単ではない。誰だって何かの拍子に想像も出来ない感覚にさいなまれる。
とにもかくにも、あの頃は後ろ向きな感情しか芽生えなかった。でもあのときの葛藤や悶々とした時間が今につながっていることも間違いない。
一連の傲慢かつネガティブな考えはそれこそ必要悪だったと思う。悪という言葉が的確かどうか分からないが、そんな感覚だ。
しっかり育てていくという着地点にたどりつくために、通らなくてはならない寄り道だったような気がする。
もちろん、医師からの宣告後、すぐに迷いもなく育児に邁進する親だって多いだろう。でも、少なくない数の親たちが「悪魔の本音」「ネガティブな発想」としばらくは闘っている。
その渦中にいる人にとっては、とにかく自分を責めないでもらいたいと切に願う。
ネガティブなことは誰だって思い浮かべてしまう。でも、それで当然。そこを何とかしのぐしかない。
似たような経験を持つ人に思いを聞いてもらうだけでも「ほんの少し」気が晴れる。
大事なことは「ほんの少し」を積み上げること。人間のエネルギーはなかなか大したもので、そのうち目に入るものに彩りがしっかり戻ってくる。
困惑が大きければ大きい分だけ、何とか進み始めた時にしっかり地に足を付けられるのかもしれない。
なんか重たい話になってスイマセン。
いまわが家のダウンちゃんは、毎日毎日楽しそうに暮らしている。どこからみても幸せそうだ。
彼にしてみれば、生まれも育ちもダウン症なのだから、同情されたり、可哀想と言われるのは不本意なのかも知れない。
健常者の価値観では、哀れみの対象だろうが、彼にしてみれば、発達のスピード、色々なことの理解度など、すべてが「標準」であり、彼にとっての「普通」だ。
親としては、つい誰かと比べてしまったり、ムダなことをしがちだ。まだまだダメな部分だが、まあアイツが幸せでいてくれれば充分だ。
なんか自分に言い聞かせるような文章になってしまった。
まとまりがなくてスイマセン。
富豪記者様、はじめまして。
返信削除先日、私も障害児の親に任命されました。
生後直ぐに疑いを通知されてから、約1ヶ月後に告知を受けたところです。
数々の葛藤の末に、心の準備をして望んだつもりでしたが、まだ「彩り」が戻りません。
IT関連の会社を経営している仕事柄、ネット上で献身的に育児に取り組む親の姿と、厳しい現実の両方の狭で苦しんではいますが、貴方のこの記事を何度も読んで、何とか少しずつでも「彩り」を取り戻そうと努力しているところです。
幸いにも、私の娘も合併症が無くて今のところ、医療的な対応は何もしていません。
私の住む地域では、療育は医療でなく、福祉という見方が強く、医療機関では合併症が無い事で、療育的なアプローチにはあまり積極的に関与してくれなさそうなので、この先親として何をすべきなのかを模索している状況でもあります。
コメント有難うございます。
返信削除コメントをいただいていたことに気付かず、返信できずに心苦しく思っております。
ご心中お察しいたします。と言いましてもご本人様の葛藤は他人が思い知ることは難しいのが現実ですよね。
まずは「時間」に期待してください。「時間」がもたらしてくれる心の落ち着きはなかなか捨てたものではありません。
合併症がなかったことは今後の発育にも影響するため、それはそれで前向きに受けとめていただきたいと思います。
おめでとうございます。という言葉が空々しく聞こえてしまうはずだとは思いますが、お子様がいろいろな彩りを運んでくれることは間違いないはずです。
今のご心境を走り書きのメモにでも残しておかれることをお勧めします。正直に恨みつらみも書き残しておけばいいと思います。半年、1年、2年たった時に読み返した時に別な何かが見えてくるはずですので、その時にはその時のお気持ちに従って見ることが一番ではないでしょうか。
富豪記者さま
返信削除はじめまして。
自分も先日、障害児の父に任命されたものです。
先にコメントされた方と同様に、
合併症もなく自宅で普通に過ごせています。
告知から確定までの2週間の間に受け入れる気持ちを
つくれないかといろいろ検索しているうちに、
「ダウン症 坊主」でひっかかりました。
自分もお坊さんにはなれないのかな?とか
思ってたところでした。
いないのだけど考えた人いるんだと思いました(笑)
自分はすぐに気持ちの切り替えができない
タイプなので、まだ未知の生命体が
我が家に来てしまったという感覚で
あまり笑えなくなった自分がいます。
でも嫁さんが、がんばっているのと
小学生の娘が喜んでいるのをみると
自分もそうしなくてはと思う次第です。
(といいつつも奥さんには言えないような
どす黒い感情もまだ残っています。)
ところで、富豪記者さんの娘さんには
いつ下の子のことを伝えましたか?
うちは1年ぐらいは言うのを待とうと思って
いますが、そのときはそのときで
娘もショックなのかなとか、考えてしまいます。
今回のことで今まで上の子を奥さんまかせ
で甘やかして来てしまったとか、
いろんなことに気づかされた
きっかけにはなっており、
上の子も大事なので富豪記者さん
の読まれた本も読んでみようと
思っています。
自分も贅沢な外食が好きなタイプなので、
子育て以外のブログも楽しみにしています。
今後ともよろしくお願いします。
新米おやじ
匿名様
返信削除コメントありがとうございます。
まずはお子様のご誕生おめでとうございます。
おめでとうという言葉が残酷に聞こえちゃう時期だとは思います。
5年以上経った私でも、このブログで綺麗事を書いたりしてますが、納得できない感情は消えるものではありません。
それはそれで当然だと思いますし、そんな気持ちとなんとなく上手に付き合っていくしかありませんよね。
魂が試されているような感覚でしょうか。
まずは合併症がないとのことですので、淡々と可愛い部分を探していってあげてください。少し経てば笑ったり可愛い仕草を見せてくれて、こいつも頑張っているんだなあと思えるようになると思います。
どす黒い感情、当然だと思います。人様には見せられなくても、自分自身の心の中では、そういう気持ちを隠す必要はないと思います。そんな感情になる自分を責めたくなるときもあるでしょうが、世の中に出回っている受け入れたあとの親の手記だって、皆さん、そういう部分を表に出さずに書かれたものだと思いますし、それはそれで、お子さんの笑顔と愛くるしさの前で薄まったりします。
もちろん、感情ですから起伏はあります。受け入れたつもりに慣れても、鬱々としちゃうときもあるでしょう。
そういう時は外の力を遠慮なく借りたほうがいいです。地域のファミリーサポートみたいな制度に登録されている親切な人が大勢いらっしゃいます。そういう方々を頼っちゃて、つかの間でも息抜きをすることは大事なことだと実感しています。
保育園でも療育機関でもなんでも構わないので、外の力をしっかり借りることは、親にとって頑張りすぎてマズい事態になることを避けるには絶対に必要だと思います。
うちの場合、娘は下の子が生まれたときにまだ4才ぐらいでした。どうしても親の様子が変なことを察知していましたから、自然と下の子の障害のことは理解したようでしたし、こちらもやんわりと説明しました。
子供は親が思う以上に純粋で、ただひとりの兄弟の誕生と存在を無心に喜び、親が心配するまでもなく、せっせとストレートに弟を可愛がってくれています。
上のお子さんには、ダウンちゃんのポジティブな部分を中心に、発達が遅いだけなんだという点に重点を置いて話をしてあげれば、無心に愛情を注いでくれるように思います。
うちの事例なので、一方的に思われてしまうようでしたらすいません。でも、おねえちゃんの力は親にとっても想像以上に大きいものです。下のお子さんの発達にも必ず良い影響があります。
おねえちゃんがいじりまくることで下のお子さんの刺激は想像以上に高まります。僭越な言い方で恐縮ですが、おねえちゃんも家族である以上、特別な環境に入ってしまったことは間違いのないことですから、自然に理解してもらうためにも、あまり伝えることを先延ばしにしないほうがかえって、下のお子さんを特別視せずにすむのではないかと思ったりもします。
なんか一方的に自分の考えを書いてしまってお気を悪くなされたら申し訳ありません。
なんとか少しでも楽しい部分を見つけて、面白がれる瞬間に出会えることを切に願っています。
ケセラセラ!ぐらいの感覚で、時に投げやりになってしまうぐらいの感覚で、笑える日が来ることをお祈りしています。