知り合いが身内を殺めてしまった。
中年になるまで随分いろんなことを経験してきたつもりだが、さすがにこの話を聞いた時はしばし呆然。うなり声しか出なかった。
家族とのトラブルをきっかけに悲劇は起きてしまったそうだ。5年以上前からの知り合いなのだが、彼の複雑な家庭事情は知らなかった。
お互い身内の事情などなかなか話す機会はない。年に一、二度、顔を合わせる際には夜更けまで飲むような相手だったのだが、思えばプライベートの話はしてこなかった。
殺人事件など自分にはまるで関係のない世界で起きていると無意識に思っていた。そういう事件の当事者は自分とはまったく次元の違う人物だろうと無意識に思っていた。
「まさかあの人が・・」といったセリフをニュースでよく聞く。今回の事件を聞かされた時、似たような印象を持った。私が知る彼は、どちらかといえば穏やかな人物で激高するタイプには見えなかった。
人の心に潜む闇は、他人に推し量れるものではない。どんな人でも自分自身の心の闇と上手に折り合いをつけている。それでも何かの拍子に突発的な狂いが生じることがあるのだろう。
心の闇と書いてみたが、心に潜む魔物と言い換えた方が的確だろうか。誰でも魔物が暴れ出さないように抑止して生きている。
魔物が抑えきれなくなる瞬間は、それこそ巡り合わせで誰にでもやってくるのかもしれない。たいていの人は、たまたまその瞬間にぶつからずに済んでいるだけなのかもしれない。
知人が起してしまった恐ろしい事件を思うとそんな感覚にさえ陥ってしまう。そのぐらい知人は事件を起すタイプには見えなかった。魔物の怖さ、魔が射すことの恐ろしさに身体が震える思いだ。
いま、塀の中に彼の心には何が去来してるのだろう。
もの凄く単純な話になってしまうが、精神面の鍛錬の大切さを今更ながら痛感する。宗教心とか道徳という概念の大切さ、それを身に染みこませることの大切さぐらいしか思いつかない。
もちろん、罪を犯してしまった人達すべてにそういう概念が欠落していたわけではないだろう。それでも、ぎりぎりで踏みとどまるかどうかの線引きは、結局精神性でしかない。
宗教心があまり無い私だが、一応、“お天道様が見ている”とか“罰があたる”みたいな日本人特有の畏怖心のような感覚は持っている。
抽象的な感覚だが、抽象的だからこそ身に染みついているようにも思う。
日本人が大切にしてきたそうした畏怖心によって自然と臆病な心も生まれる。臆病でいることはある意味謙虚さにもつながる。
謙虚であれば不満や欲求もそれなりに抑えられる。結果、現状を肯定できる姿勢につながれば悪くない。何とか平穏でいられる。
ただ、現実の社会では、上昇志向や競争意識が無ければいわゆる負け組として痛い目にも遭う。この辺のバランスが難しい問題ではある。
理屈っぽいことを四の五の書いてしまった。あれこれと書くのは簡単だが、業のなかで生きている人間がそう簡単に完璧な理性を持ち合わせることは難しい。
何かの拍子に魔が射してしまう可能性は誰にでもあるのだろう。はたして何が分かれ目になるのか。
つくづく分からない。
今日は何が書きたかったのかも良く分からない。とっちらかった話でスイマセン。
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