先日、某政治評論家とダラダラと飲む機会があった。テレビにも頻繁に出ている御仁なのだが、さすがに今の時期、仕事が大幅に減ってそれなりに大変らしい。
いまどきの売れっ子といえば、原発や地震に関係する学者や専門家が中心。政治評論家の出番はめっきり少なくなった。
銀座あたりの料理屋さんでもよく聞かれるが、ここ数ヶ月、「キャンセルの大津波」という言葉をよく聞く。不謹慎と言われかねないセリフだが、商売上の死活問題ならば当事者にとっては大真面目な言い回しだ。
その評論家氏は、わが社との付き合いは結構古く、わが社の編集姿勢などにも共感を示してくれる。酒の勢いもあって大いに「大上段な話」で盛り上がった。
新橋とかのガード下で天下国家を語るオヤジみたいな時間を過ごしてしまった。
で、最終的なまとめは「政治主導という掛け声は、政治家が税金問題に詳しくなれば簡単に実現する」というもの。
そんな国民運動?を積極的に展開することにする。
その日、わが日本国におけるヅラ疑惑とその真相に関して、いろいろタメになる話を収集した。有意義だった。
評論家という稼業は、それこそ名乗ってしまえばなれる仕事だ。実際には独自のネットワークと情報量、分析力や分かりやすい話術、文才などが必要だが、自分の力ひとつで世の中を渡って行かなければならないから大変だ。
最近のテレビは予算削減の影響で、自前の報道部デスクとか系列新聞社の論説委員をコメンテーターにしている。確かに肩書き的にはもっともだし、それなりに話もできる。何しろギャラの心配がないから好都合だろう。
そうはいっても、しょせんは官製談合記者クラブ制度の中で生きてきた人達であり、身一つでその道を渡ってきたフリーの独立評論家が持っている情報や分析力に一日の長があるのは事実だろう。
芸能評論の世界が象徴的だろう。あの世界はそれこそパパラッチ稼業をいとわず何十年も活動してきたリポーター連中が強さを発揮している。報道機関が自前の社員コメンテーターを立てるのは難しい。
スポーツ方面に目を向けると、さすがに特殊技能を扱うわけだから、評論家になれるのは、その道のOBに限られるのが現状だ。昔は選手出身じゃない名評論家もいたが、いまでは引退選手の互助組織的機能にも見える。
野球解説者と野球評論家の違いを定義付けるのは難しいが、ただの解説ではなく評論レベルに達するためには、内側出身者ばかりではなく、外の人材にも目を向けて然るべきだろう。へたくそでバカみたいな解説者が多すぎる。
デーモン木暮の相撲評論あたりはその道のプロもビックリだろう。星野仙一や長嶋一茂あたりが、したり顔で政治ニュースにコメントするより、よっぽど素晴らしいし奥が深い。あくまでも内部出身者にこだわる現状の思考停止状態が惜しまれる。
さて、今日は何が書きたかったんだろう。最近、どうも行き当たりばったりに書き殴ってしまう。
もともとは、評論家の話をマクラに、自分は何について評論することができるか、どんな分野なら人よりも詳しく語れるのか、というテーマで書く予定だったのにズレっぱなしだ。
私が語れそうなものは、徳利やぐい呑み、珍味類、水中写真、南国リゾート、葉巻や靴、ついでに好色や薄毛対策ぐらいだろうか。どれも評論家を自称するには知識や経験がまだまだ中途半端だ。
一人旅とか一人酒ぐらいなら、評論家レベルと言えなくもない。でも、そんな評論に対する需要はあまり無いだろう。
そう考えると、40何年も生きてきて一体何を学んできたのか悩ましくなる。つくづく凡人だ。
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