今の家に住み始めてもうすぐ7年になる。当初こだわった部分の多くが今思えばどうでもいいように思える。そんなものだろう。
作り付けの棚の下を少し浮かせて、足元照明を設置してみたり、吹き抜けの天井にシーリングファンを吊ってみたり、そんなムダが結構目につく。
ホームシアターも新築時に設置すると安くスマートに仕込めると聞いたので、リビングには100インチの電動スクリーンと天井埋め込みの専用スピーカーをスッキリ設置してもらった。
通常はリビングのテレビスペースなのだが、格納されているスクリーンが降りてくれば100インチで映像を楽しめる。このあたりの理屈は随分前にここのブログで書いた。
http://fugoh-kisya.blogspot.com/2009/08/100.html
大画面に加え、サラウンドの音響効果もあって結構満足していたのだが、根っから映画好きというわけでもない。正直、ここ2、3年ぐらいは放置していた。
そんな悲運の?ホームシアターが最近、がぜん活躍しはじめた。
デジタル化によって通常のテレビ番組でもでも映像の質が上がり、プロジェクターで照射するにも問題がなくなったことが大きな理由だ。
先日も、2週に渡って放映されたNHKのドラマスペシャル「蝶々さん」を大画面でじっくり見た。
テレビのデジタル化だけでなく、ツタヤのオンラインレンタルを始めたのも我が家のホームシアター大活躍の理由だ。便利な時代が到来したことに驚いている。
DVDプレイヤーが壊れたので、新調してみたら、新しい機械から簡単にネットに接続して映画のレンタルが出来るらしい。
レンタルビデオ屋に行かないで、家に居ながらにして見たい映画が見られる。アナログ世代の人間にとっては凄いことだと思う。
で、登録してみた。アダルトを見たい気持ちがブリブリなのだが、いまどきの機械の機能は履歴とかをお節介に表示しやがるので、子どもの手前、普通の映画しか選べないのが切ない。
まだまだ居ながらにしてレンタルできる作品数はさほど多くはない。その点が問題だが、そうは言っても視聴可能作品を検索すれば、それなりに見たい映画は見つかる。
最近立て続けにみたのが「阿修羅の如く」と「火宅の人」。CGを使ったドンパチ映画を見たい気分ではなかったので、しっぽり系にした。
前者は言わずと知れた向田邦子の代表作で、8年前に映画化された作品。ひょんなことから老いた父親の秘密を知ってしまった4人姉妹の葛藤が描かれている。
コメディーの雰囲気も漂わせつつ、上手に人間の欲や業、葛藤が表現されている。大竹しのぶの演技力に圧倒され、8年前の黒木瞳に萌え~って感じだった。
「火宅の人」は1986年の作品。緒方拳が主役。当時、映画そのものより原田三枝子、松坂慶子の全裸ベッドシーンがやたらと評判になっていたことを思い出す。
100インチのスクリーンに映し出される全盛期?の松坂慶子のベッドシーンは確かにドキドキものだった。
緒方拳扮する「壇一雄」と言えば無頼派作家の代名詞みたいなイメージがある。私自身、「好き勝手に遊んだ破滅型のおっさん」という印象しかない。
その印象はおおむね正しいのだろうが、「火宅の人」という作品は私が思い描いていたイメージとは随分違っていた。
今までは「浮気男の身勝手な放蕩生活」を描いただけの作品だろうと思っていたのだが、さすがにそんな単純なものではなかった。
心優しく繊細で苦悩に満ちた大人の男の情念が生々しい心情の吐露という形で延々と描写される。
社会性という曖昧な秩序を許容しきれない反骨と達観が、退廃とは違う浪漫になって全編を覆うような感じとでも言おうか。
下手糞な三流批評文みたいになってしまったが、そんな感じ。家庭を投げ出し、無頼に生きていく人物を描こうとすれば、どこか厭世的、退廃的な空気に支配されがちだが、この作品から感じるのは「潔い浪漫」。
情念、欲といった煩悩に抗わない人間臭さに、ある意味小気味良さを感じた。
エッチシーンも満載、それを彩るかのように流れる原作本から引用される朗読。なんとも文学的(そりゃそうだ?)で、ドップリとディープな昭和の変人の世界にはまった。
ラストシーンというか、結末の描き方はちょっと気に入らなかったが、独特な世界観を堪能した。お腹いっぱい。
というわけで、原作本もじっくり読みはじめた。実に面白い。新潮文庫から出ているのだが、奥付を見て感心した。昨年8月が「五十刷」だ。そのせいか、昔の作品にしては文字の級数が小さすぎず読みやすい。
五十刷。いやはや、いったいどれほどの数の大人の男達が、情念のしじまで苦悶する世界を疑似体験したのだろう。実に興味深い。
寝る前のひととき、昭和の煩悩にドップリ触れると疲れる。おかげですぐ眠くなる。
でも、読み進むほどに、考えさせられる点、妙にうなずける点、激しく否定したい点等々。いっぱしの年齢をまとって生きていれば、人間臭く生きる道筋についてあれこれと思いがめぐる。
私自身、年甲斐もなくクドクド根に持っていた小さな諍いの根を馬鹿馬鹿しく感じて、さっさとこっちから詫びを入れようなどと殊勝な気持ちにもなった。
1冊の本のお陰で救われたりする。いとをかしだ。
キリがないのでこの辺にしておく。最後に映画の中でも朗読されていた筆者の胸中を象徴するような一節を紹介したい。
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この火宅の夫は、とめどなくちぎれては湧く自分の身勝手な情炎で、我が身を早く焼き尽くしてしまいたいのである。しかし、かりに断頭台に立たせられたとしても、我が身の潔白なぞは保証しない。いつの日にも、自分に吹き募ってくる天然の旅情にだけは、忠実でありたいからだ。
それが破局に向かうことも知っている。
かりに破局であれ、一家離散であれ、私はグウタラな市民社会の、安穏と、虚偽を、願わないのである。かりに乞食になり、行き倒れたって、私はその一粒の米と、行き倒れた果の、ふりつむ雪の冷たさを、そっとなめてみるだろう。
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