昭和の時代、娯楽と言えば野球だった。ちょっと大袈裟な表現だが、野球の存在感は今とは比べられないくらい重かった。
今でこそスポーツ新聞といえば、サッカーやフィギュアスケート、ゴルフに芸能など1面を飾る記事は百花繚乱だが、昔は野球新聞と表現する方が的確だった。
男の子の話題は当然野球一色。オッサンが飲み屋で熱くなる話題も野球が中心だった。
私自身も野球小僧だった。軟弱中学の軟弱野球部だったが、部活選びに躊躇はなかったぐらい野球のことしか考えていなかった。
オッサンになって当時の野球の話題を語り合える場面があると熱くなる。長島が引退する頃から俄然野球オタクになり、昭和40~50年代の野球事情は相当詳しいと自負している。
好きが高じて、遙か昔の野球事情なんかにも詳しくなり、戦前の沢村栄治だの影浦勝だのスタルヒン、その後に続く川上、水原時代とかも興味を持った。
今日、こんな話を書き始めたのは、先日、銀座のおでん屋で飲んでいた時に店主とひとしきり往年の野球談義に花を咲かせたことがきっかけだ。
店を訪ねる数日前、某週刊誌に某小説家が連載しているエッセイに、たまたまこの店の話が取り上げられていた。
結構なお年の店主をめぐるいろいろな事情が書かれていたのだが、その中で、若い頃は本格的に野球に打ち込んだ人だということを知った。
その日、ちょうど店主の目の前に座っていたので、ほろ酔いついでにエッセイに書かれていた野球の話題をふってみた。
少し近寄りがたい雰囲気もある店主なのだが、そこは野球好きだ。一気に柔和な表情になって、しばし野球談義に付き合ってくれた。
店主は往年の東京六大学野球に青春を賭け、大学卒業後は社会人野球に進んだそうだ。ヘッポコ中学野球部の私から見れば雲の上の人である。そんなことは百も承知で昔の野球事情なんかを聞かせてもらった。
昭和30年頃の六大学野球といえば、プロ野球を凌ぐ国民的スポーツだったことは知識としては知っているのだが、その渦中にいた人だけに興味深い話をたくさん聞くことが出来た。
立教の黄金時代と若き長島茂雄の卓越した才能とか、早慶戦での藤田元司の悲運とか、好き者には面白い話ばかりだった。
六大学野球だけでなく、昭和プロ野球の悲運の名将・西本監督の話題とか、怪童・尾崎の甲子園旋風の話題、はたまた昭和20年代に親善野球で来日したサンフランシスコ・シールズの試合を生で見た時の経験談なんかも聞かせてもらった。
今ではメジャーリーガーを大量輩出する日本の野球界だが、マイナーリーグのチームに過ぎないシールズ相手に全敗を喫したのだから隔世の感がある。
野球を語るその老年の店主は、実にイキイキとした表情で、白球への思い入れは思った以上に強い様子だった。いい時間だった。
それにしても、野球好きが野球を語る時の眼ってどうしてキラキラ輝くのだろう。今日はそれを書きたくてこのテーマを選んだようなものだ。
一個の小さなボールを投げて打つスポーツがこれほどまでに男たちを熱くさせる理由は何なんだろう。
攻める、守る、連携する、牽制する。失策は敗北につながったりする。時には敵をあざむいたり、盗塁という名の盗む行為とか、犠打という犠牲的行為もある。
代打、代走など身代わりの行為、中継ぎとか救援という役割、隠し球なんていうズルっこい行為もある。
人生の縮図などと言うとちょっとキザに過ぎるが、一つ一つの行為の相関関係や意味が複雑に絡み合うところが見る者を熱くさせるのだろう。
練習の基本であるキャッチボールだって、大げさにいえば実に深~い教訓がある。
失投、すなわち自分のミスの尻ぬぐいはキャッチボール相手が担うハメになる。アッチのほうに転がっていった球を拾いに行くのは失投した人間ではない。受け手だ。
迷惑をかけないような気配りを伴うやり取りができなければ成り立たないのがキャッチボールだ。うーん良い話だ。
エラそうに書いたが、そんな当たり前の真理を知ったのは30代の頃にしばらく熱中した草野球のおかげだ。
子どもの頃、生意気ピッチャーだった私は、エラーする仲間をマウンド上で叱ったり、全部自分で決めてやろうと気負ったり、傍若無人クンだった。
その愚かさに大人になってから気付くこと自体が情けないが、大人になってからの草野球のおかげで改めて野球が教えてくれる様々なことに気付いた。
いにしえの野球に心振るわせた体験を無心になって熱く語る。こんな子供っぽい時間は貴重だ。日頃の現実を束の間忘れさせてくれる。
最後にオススメの一曲を紹介します。
本文を読んでいる時点で既に私の脳内にはこの曲が流れていました。マジで。
返信削除県民さん
返信削除だよね~。シンプルなこの曲は、草野球のマウンドでヘロヘロになっていた時に常にリフレインしてました。