ブータン国王の来日をきっかけに「国民総幸福量」なる考え方が知られるようになった。国民総生産に対するアンチテーゼだ。
欲求ばかりが渦巻く先進国には分が悪い考え方だろう。私自身、何一つ不自由のない環境で生まれ育って生きているのに、口を平けば不平不満ばかりつぶやいている。
猛省しようっと。
幸福度合いの話をいきなり引用したのは、「尺度」の難しさを書きたかったから。幸福度合いを小難しく書こうというわけではなく、今日は「美人」について考えてみたくなった。全然脈略が無くてスイマセン。
美人の尺度ほど分かっているようで分からないものはない。実際、時代と共に変遷しているようだし、国が違えば美人の基準も随分違うらしい。
クレオパトラとか楊貴妃とか、さぞ絶世の美女のようなイメージだが、九分九厘、今の価値観でみれば非美人だったと思われる。数百年とか数千年前の価値観などあてにならない。
日本では下ぶくれの顔に長い黒髪が、昔の美女の条件だったらしい。いまどきの蚊トンボみたいに細く、髪を茶色く染めた女性なぞ見向きもされなかったのだろう。
時代の違いだけでなく、いま現在でも国が違えば美人の尺度も異なる。ポリネシアあたりだったら太ってることが大事なことらしいし、アフリカのどこかの国では、わざわざ太って見せるためのパッドなんかも売っているらしい。
他にも毛深いことが美人の尺度になっている国とか、長い首が魅力的だということで、変な首輪を使って首を伸ばすような人々もいる。
美人かどうかだけでなく、「好み」が加わったら一層混迷度合いは深くなる。
男性諸氏ならその名を知っている「成田アキラ氏」などは、非美人のあの時の顔に無性に興奮するという話を何かで読んだことがある。好きこそ物の上手なりである。意味不明か。
ミスユニバースとかで優勝したり上位に入るアジアの女性も、白人の尺度から見た美人なんだと思う。どこか野性的というかエキゾチックといおうか、日本人の平均的な尺度から見ると「うーん?」というパターンも珍しくない。
以前、バンコクの安飲み屋街を徘徊していた時に、「あっちの店のコは白人好み、日本人だったらこっちの店がいいよ」みたいな話をよく聞いた。
確かに見比べてみると、はっきりと傾向が別れていた。白人が好む女性が多い店では、「類人猿系」がずらり。昔の漫画「ゴリラーマン」の女性版みたいな感じ。ニカっと微笑まれると後ろ足でその場から去りたくなる感じだった。
それでも、居並ぶ白人男性は物凄く幸せそうで、「審美眼」のややこしさを痛感した。
そういえば、サッカー・なでしこの不動のエースは欧米ではモテモテらしい。
そういうことだ。
かくいう私も当然、美人は好きである。誰だってそうだろう。多分、自分の尺度は世間一般と同じだとは思うが、中学生ぐらいの頃は、毎朝のように電車で出会う「へちゃむくれ」ちゃんのことが気になって仕方がなかった。あの感覚は何なんだろう。
「好み」に関しては、あまり明確な基準はない。強いて言えば、猫顔より犬顔、キツネ顔よりタヌキ顔に惹かれる。
小太りグラマー系が好きだと思っていても、気になる人がスリムだったら、痩せ型が好みになるし、髪の長さとか背の高さとか、一応、好みはあっても、お相手によって変わったりする程度だ。
基本的に場当たり的な好みを貫いて生きてきたように思う。気になる人が好みであり、好きになった人が好みだ。いい加減なようでいて、それが真実だろう。
事細かに好みのタイプ、特徴を羅列できるような人は、逆に胡散臭いと思う。きっと誰かの幻を追いかけているだけだと思う。
それにしても、何をだらだらと書き綴っているのだろう。しょうもない話に終始してしまった。
まあ、いつものことだが。。。
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