2013年9月25日水曜日

秋の味


秋である。土瓶蒸しだ。今年は早くから松茸が出回っていたが、さすがに土瓶蒸しは涼しい風が吹き始めないと食べる気にならない。

これぞ秋の味である。ジンワリする。

そもそも松茸はホッペタが落ちるほどウマいものではない。その証拠に松茸大好き!と叫ぶ子供はいない。冷静に味わえば何のことはない。キノコである。気分で味わう代表的な食べ物だろう。

土瓶蒸しだって松茸以外の投入物がアノ旨みタップリのダシ汁を作り上げているわけで、松茸はいわば、官僚機構の上に乗っかっている名誉職の大臣みたいな位置付けだ。

そんなアマノジャクなことを書いていると感じ悪いので、適当にしておこう。でも、あの食感と香りは秋の風物詩である。


秋といえばサケである。酒ではない。鮭だ。秋は産卵のためにワンサカやってくる季節だ。腹の中にはイクラがタップリである。

今の時期に採れるイクラが、塩漬けや醤油漬けにされて、冷凍保存されたうえで、日本中で365日活躍してくれる。有り難い限りだ。

で、今の時期は「生のイクラ」を味わえる貴重な時期だ。何事も「ナマ」は嬉しい。最高だ。なんてったって気持ちいい。間違えた。何よりフレッシュな感じが堪らない。

いつもの高田馬場「鮨源」でおいしく戴いた。醤油をちょろっと垂らして味わえば、究極の生卵かけごはんになる。ウットリである。


生イクラだけをツマミに酒を飲んで、その後、小鉢にシャリを盛ってもらい、生イクラをドバっと載せてもらうミニ丼も堪能する。

コレステローラーである。

秋はこれだから素敵である。

さてさて、秋の味といえばサンマも忘れてはならない。

私の場合、若い頃は極端に偏った食生活を送っていた。肉偏重だったので魚はあまり食べなかった。食べるとしても骨のない切り身がせいぜいだった。

そのせいで、旬のサンマの塩焼きのアホみたいなウマさを実感したのは、恥ずかしながら結構な大人になってからである。

30代半ばぐらいだっただろうか、オトナっぽい酒の飲み方に憧れて、アチコチの渋い飲み屋や割烹に足繁く通った。

秋になると大半の店がサンマの塩焼きを勧めてくる。心の中でチェッと舌打ちしながら顔で笑って「いいですね~」とか言って喜ぶフリをしていた。

骨との闘いだった。お育ちが良かった?せいでサンマに慣れ親しんでいなかったことを悔やんだ。子供の頃は住み込みの執事が魚の骨をすべて取り除いてくれた(大ウソです)のでラクチンだったが、大人になって執事を連れて歩くわけにも行かない。

オトナっぽい自分を演じたい私としては、綺麗に平らげないとカッチョ悪い。だから必死に食べた。小骨が刺さりまくって泣きそうだったが、そんなことはオクビにも出さず食べた。

今では、相当こなれてきたから、無理をしないでも綺麗にやっつける。チョチョチョのチョイだ。

初めのうちは美しく食べることばかり考えて味わっている余裕がなかったが、そのうち、あのウマさにとことんハマった。ハラワタなんて最高の酒肴だ。

先日、とある割烹のカウンターでしっぽり飲んでいた時のこと、無性にサンマが食べたくなって黙々と骨の髄まで食べ尽くした。

小骨の間の身も逃すまいと変質者のように集中して味わった。ホジホジしながら、カッコつけてサンマと格闘してきた若い日々の記憶が甦った。

見栄を張ってホジホジする行為が、オトナになってからの私を育ててきたような気がした。妙に感慨深かった。

オッサンバリバリでブイブイ言っている今の私を形成してきたのはサンマとの格闘だったわけだ。

いくつになろうとも男が男であるためには、若い時のような背伸びしたい気持ちが大事だ。悪アガキと言われようとアガかないよりはマシである。

カッコつけたい、こなれたヤツだと思われたい、粋な男と呼ばれたい等々、そんな馬鹿みたいな思い込みが男として現役でいられる源だと思う。

逆に言えば、そういう一生懸命さを怠り始めたら現役生活ともオサラバという結末になる。

ちょっと面倒くさい。

いや、そんなことではイカン。悪あがきはまだまだ続けねばならない。

サンマをオトナっぽく食べられるようになると同時に、カニの身を殻からほぐす技術も達人レベル?になってきた。

今、いっぱしの大人として偉そうに振舞っている私だが、そのルーツは血みどろになりながらのホジホジという行為である。

草食系と呼ばれる若者達に足りないのはきっと「血みどろホジホジ」である。彼らも血みどろホジホジの鍛錬を必死になってするべきである。そのうち、男の何たるかが見えてくるはずだ!?。

松茸の話がどうしてここまでぶっ飛んでしまったのだろう。

錯乱してるのかしらん・・・。

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