東京出身。富豪になりたい中年男。幼稚園から高校まで私立一貫校に通い、大学卒業後、財務系マスコミ事業に従事。霞ヶ関担当記者、編集局長等を経て現在は副社長。適度に偏屈。スタイリッシュより地味で上質を求め、流行より伝統に心が動く。アマノジャクこそ美徳が信条。趣味は酒器集め、水中写真撮影、ひとり旅、葉巻、オヤジバンドではボーカル担当。ブログ更新は祭日以外の月曜、水曜、金曜。 ★★★スマホでご覧頂いている場合には画面下の「ウェブバージョンを表示」をクリックしてウェブ画面に飛ぶと下側右にカテゴリー別の過去掲載記事が表示されますので、そちらもご利用ください。
2015年3月2日月曜日
軽薄
昭和の終わり頃、世の中には「軽薄」という言葉が溢れていた。時代の空気を象徴する言葉として使われていた。
昭和軽薄体なる文体が話題になったことも懐かしい。「すごくEねえ」、「ヒジョーに楽しい」、「あーだこーだ」等々、変にくだけた文章表現がそう呼ばれた。
あの時代に青春を謳歌?していた私も昭和軽薄体にかなり影響されたようだ。このブログを読み返してみると無意識にそれっぽい言い回しを使っている。
まあ、私自身の日々の活動が軽薄だからそんな言い回しが普通になってしまったのだろう。「重厚な男」になってみたいが、いつも10秒ぐらいで挫折してしまう。
その後、バブル時代になって世の中の軽薄さには拍車がかかった。バカなこと、バカであることが美徳だった不思議な時代だった。
時は流れ世知辛い世の中になった今も「時代の軽さ」が話題になる。すべてが便利になったコンビニ・ネット社会を分析する際には「軽さ」がキーワードになる。
昭和晩期と現在それぞれにおいて「軽さ」が時代のキーワードになっているが、そこには少し違いがあるような気がする。
80年代やバブルの頃は、軽薄を自覚して、軽薄であることをある意味自虐的に認識していた気配があった。そこが今の時代の「軽さ」とは違う。
最近では軽薄という言葉自体、すっかり聞かれなくなった。ひょっとすると軽薄さを自覚できないほど世の中が「超軽薄化」しちゃったのかと心配になる。
ちょっと前の話になるが、「安倍首相のヤジ」にはビックリ仰天した。国会の委員会の場で野党議員に対して総理大臣ドノがヤジを飛ばす光景など前代未聞だ。
究極の「軽さ」だ。おまけにヤジの内容が正しくなかったと後になって訂正するお粗末ぶり。ブサイク極まりない話だった。
私は野党支持ではない。労働組合が支持母体の民主党はイヤだし、共産主義は嫌いだし、左翼にも興味がない以上、取捨選択すれば自民党寄りだ。そんな私でも総理大臣の軽薄さにはムシズが走った。
あの異常性は何なんだろう。昨年、ワーワーキャーキャー号泣して世間を呆れさせた元兵庫県議と大して変わらない。立場をわきまえていない軽さが実に不思議だ。
政治家の「軽さ」を感じるようになったのはいつ頃からだろう。そう感じるのは自分が年を取ったせいだと思っていたが、昨今の世相を見る限りそうではなかったみたいだ。
メディアの監視が昔より厳しくなり、いにしえの政治家が得意とした料亭政治みたいな荒技、裏技は影を潜めた。それはそれで結構なのだろうが、その結果はどうだろう。
「真面目な僕ちゃん」や「ガリ勉優等生」ばかりがもてはやされ、ぱっと見や大衆ウケだけがリーダーの条件になってしまった。
妖怪や怪物などと呼ばれるような一種独特なツラ構えの得体の知れないオッサンやジイサンが永田町を跋扈していた頃のほうが確実に「然るべき重厚感」があった。
重厚感こそ大事などとは言い切れないが、それでも国を率いる面々には相応のドッシリ感を求めたい。
ちなみに国会での暴言と言えば大昔の吉田茂内閣のバカヤロー解散が有名だ。大騒動というイメージがあるが、実際にはバカヤローと叫んだわけではない。
答弁を終えて席に戻りかけた吉田首相がボソっとつぶやいた一言をマイクが拾ったのがコトの発端。質問者をさえぎってヤジを飛ばす安倍さんの異常な軽さとは次元が違う。
「軽さ」を突き詰めれば「ひ弱さ」である。勇ましいことを言おうが、頼もしいことを言おうが、ひ弱な体質が透けて見えるようでは説得力などない。
なんだか堅苦しい話を書き殴ってしまった。この辺でやめよう。
やはり昭和軽薄体にのっとってお気軽な話題を書いていた方が楽しい・・・。
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