2016年9月5日月曜日

老舗フェチ うなぎ「高嶋家」


平和で豊かな時代の最大の幸せは「食」を楽しめることだろう。不遇の時代なら「生きるための食事」に必死で「楽しむための食事」など夢の話である。

先日、スーパーで売っていたカットフルーツのスイカを見てそんな感慨にふけってしまった。

あらかじめ食べやすくカットされているだけでなく、種がほとんど無い。もちろん、しっかり甘くてウマい。考えてみれば実に贅沢な一品だ。今風に言えば「贅沢すぎる」と表現したくなる。

飢えに苦しむ人が地球上に大勢いるだけでなく、時代をさかのぼれば日本だってロクに食えない悲惨な時代は幾度となくあった。そう考えると今の時代に生まれたことは宝くじに当たったぐらい幸運なことだ。

そんなことを思いながらも日々、好き勝手な暴食を続けている私は、いずれ「千と千尋の神隠し」のお父さんのように豚に変えられてブヒブヒした姿をさらすことになるのだろうか。

さてさて、今日も「楽しむための食事」についてだ。

家メシ、外メシで比べれば、当然、外メシのほうがレジャーの要素が強い。

外食の魅力自体が非日常性であり、そこに出かけてその場で感じる雰囲気に大きく影響される。

平たく言えば「空気感」である。供される食べ物の味と同じぐらい大事な要素かもしれない。

空気感を心地良く味わえるのが「老舗」である。オシャレでモダンな店でも非日常性は味わえるが、あまりカッチョいい店だと雰囲気自体がわざとらしい感じでソソられない。

ということで老舗の話である。

老舗が持っている雰囲気自体が客を喜ばせる。雰囲気、空気感を食べに行くようなものかもしれない。

江東区にある馬肉の「みの家」、お茶の水に程近いウナギの「明神下神田川」あたりは、店の風情そのものに趣があってワクワクする。

古いだけでなく、改築していようとも「老舗」というキーワードだけでアホな私はその店を贔屓したくなる。

東日本橋あたりの合鴨の店とか淡路町にあるあんこう鍋の老舗「いせ源」、銀座にある洋食の「煉瓦亭」、麻布十番の蕎麦「更科堀井」や新宿のカレーの元祖「中村屋」にも惹かれる。持ち帰りでも銀座木村屋のあんパンだったら何となく気分が上がる。

デパ地下の和菓子売り場に行っても、ついつい重厚感を押し出している老舗の商品を選んでしまう。ある種のミーハーである。

本当に味が分かる人はそんな「雰囲気」に左右されずにウマいマズいを判断するのだろうが、私の場合、その店の味が“標準”に毛が生えた程度でも老舗だと聞けばウホウホ喜ぶ。

ミーハーなことを嫌って、どちらかといえば斜に構えた目線を心がけているくせ「老舗」と聞くとスリスリしたくなってしまう。いわば、私の弱点みたいなところだ。

もちろん、老舗の中にもちっとも感心しない店はある。日本料理屋、蕎麦屋、天ぷら屋、洋食屋、どんなジャンルにも老舗という看板だけがウリで、実態は凄くマズい店はいくつも存在する。

「老舗ファン」の私が言うのだから間違いない。

老舗に限らず「有名店」と呼ばれる店だって当然ながらすべてがウマい店だとは限らない。行列店の商品が驚くほどマズイいことだってある。

老舗といえども観光地的?な路線になってしまった店と厳しい精進を続ける店と二極化しているのだろう。


先日、日本橋、というか人形町に程近いウナギの「高嶋家」に出かけた。日本橋周辺でウナギといえば「大江戸」か「いづもや」にちょくちょく出没するが、この店は初訪問。

昭和の雰囲気が色濃い古い建物が嬉しい。やはりウナギを食べる時はモダンな構えの店だと気分が上がらない。

まるで意味のないこだわりだが、老舗感プンプンの店だと、それ自体が調味料みたいな役割になる。





う巻き、うざく、白焼き、鰻重。どれも非常に丁寧に仕上げられていた。きっちり誠実に作られていることは一見の客でも分かる。

老舗という看板にアグラをかいちゃうとこうはいかないのだろう。まさに、正しくちゃんとした鰻料理を味わえた。

老舗フェチのようにアレコレ書いたが、まだまだ行ったことのない店はゴマンとある。もっとマメに探検したいものだ。

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