2018年4月27日金曜日

居酒屋ぼったくり 記憶と味


変なタイトルだが、今日はそんな話。BS12で土曜の夜に放送されているドラマ「居酒屋ぼったくり」が最近のお気に入りだ。


姉妹が営む居酒屋が舞台の人情ドラマだ。どこでも食べられるようなモノを提供してお金をもらうから「ぼったくり」という店名なんだとか。

脇役のイッセー尾形ぐらいしか知らない。見たことのない俳優ばかりだから逆に新鮮だ。そんな地味な感じが良い。

出てくる食べ物も地味、ストーリーも地味。でもジンワリする。私はこういう番組が好きみたいだ。

昨年は大森南朋がいい味出していたドラマ「居酒屋ふじ」を欠かさず観た。どうってことのない食べ物が妙にウマそうで、ホッコリと酒を飲みながら見入った。

映画化もされた隠れたヒットドラマ「深夜食堂」も好きだった。小林薫が演じる店のマスターが渋くて、常連のヤクザ役を演じる松重豊も負けずに渋かった。


何の変哲も無い料理が人情話を彩っている。チマタのグルメっぽい風潮へのアンチテーゼのような潔さが観ていて心地良い。

ひょっとすると、こういう路線のドラマが着実に増えてきたのは「吉田類」の影響かもしれない。ちょっと突飛な解釈だが、ひょっとしたら当たっているかも。

http://fugoh-kisya.blogspot.jp/2014/01/blog-post_24.html

話を戻す。先週放送された「居酒屋ぼったくり」では、印象深いセリフがあった。

「食べ物って何かしら思い出のタグがついてる」。

「みんなそれぞれ思い出の味のタグがあるんだろうなあ」。

確かにカレーライスを例にとっても、誰もが子ども時代の家庭のカレーに郷愁を感じる。

他にも、初めて食べて感激したもの、好きだった人と仲良く分け合って食べたもの、死んだオジイチャンが好きだったもの等々、何かしらの“タグ”が人それぞれにあるはずだ。

高校生の頃、バタバタと慌ただしい朝に母親が即興で作ってくれた「挽き肉炒めメシ」のことは今も思い出す。

今になって自分で作ることがあるのだが、超簡単なレシピを聞いても再現できない。似た味にはなるが、記憶の中のウマさにたどり着かない。

昔好きだった人がやたらと魅力的に思えるのと似たようなもので、味にも「思い出補正」がかかるのだろう。

他にもある。今はすっかり見かけなくなった「すあま」も私には思い出というタグが付いている。

高校生の頃、学校から駅までの帰り道にあった小さな和菓子屋で買って、悪友達とバカ騒ぎしながら食べた味が原点だ。

大福やまんじゅうより安かったから買っていたのだが、今となっては青春の味だ。記憶の中の味は実際の30倍ぐらい美化されている。

中年になってからも、時々、すあまを見つけると衝動買いをする。ウマくもなんともない。この先たとえスペシャル極上すあまに出会っても、思い出の中の味には勝てないのだろう。

私の場合、思い出の味の多くが、やたらと簡素なものだ。卵かけご飯しかり、夏の暑い頃にほかほかメシになめ茸をドッサリ乗せて麦茶を投入した冷し茶漬けも大好物だった。

漬かり過ぎて茶色くなったキャベツのぬか漬けを細切れにして、醬油まで垂らした上でお茶漬けにして食べた至高の一品や、湯で戻したビーフンを具材ナシでソースでカリッと炒めた一品など、“料理”とは呼べないようなものばかり思い出す。

わが実家の名誉のために弁解するが、一応、幼い頃からあれこれとちゃんとした食べ物、エラそうな?食べ物もしっかり食べて育ってきた。

でも、思い出すのは、やっつけで口にしたような粗食系だ。おそらく、それらを食べた時のいろいろな思い出が混ざり合って、記憶の中の味を作り上げているのだろう。

ちなみに、ブログのタイトルの呪縛によって、ご立派な食べ物ネタをしょっちゅう書いているが、大衆酒場でホッピー片手にマカロニサラダやメンチカツを頬張っている時間も至福の時でもある。



「地味で美味しそうな番組」を見ていると、ドラマに出てくるような居心地の良い料理屋を開拓したくなる。

気取らぬ料理を前にユルユルと肩肘張らずにホロ酔いになることは、人生が平和で安定していることの証ともいえる。

ちょっと大げさか。でもスタれた暮らしの中からはそんな気分は生まれない。

最近はすっかり私も草食化?が進み、飲み屋さんに行った際に、親の仇のように嫌いなはずの野菜まで食べる。ようやく真っ当なオトナになったのだとしたら遅すぎる気もする。


冷やしトマトにカネを払うという発想は、ほんの数年前までの私には無かった。今ではムシャムシャ食べている。

まだ私にも伸びしろがあるということか。

正直に言うと、マヨネーズに吸い付きたい一心で食べている。

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