2018年8月13日月曜日

家族とか夫婦とか


「家族という病」「夫婦という他人」「極上の孤独」。ベストセラーになった下重暁子氏の新書シリーズだ。それぞれサラっと読んでみた。面白かった。いちいちウンウンとうなずける話が多かった。

平たく言っちゃえば、家族なんてあんまり期待しちゃダメ、夫婦なんてしょせん他人だ、一人で生きるのが快適だといった趣旨である。

お説ごもっともである。というか、イヤミったらしくいえば、こんな当たり前のことが支持されてベストセラーになることが世間の硬直化を表しているのかもしれない。

家族の絆は何よりも美しい、独身でいることは罪だ、みんなで一緒に連帯しましょうといった意識は一種の社会規範になっている。それが間違いだとは思わないが、闇雲にそれだけが絶対のように押しつけられるのは違う気がする。

家族が原因の不幸もあるし、夫婦関係で人生が壊れることだってある、仙人のような一人暮らしに無上の喜びを感じる人もいる。

当たり前だが、心が平穏であるかどうかは人それぞれだろう。事情を知らないヨソの人が杓子定規に価値基準を押しつけるのは醜いことだ。


先週、“元家族”と2泊3日の旅行に出かけた。今年も草津温泉である。離婚してから6年ぐらい経つのだが、夏の小旅行がなんとなく恒例行事になってきた。

このブログでも何度か書いてきたが、下の子はダウン症だ。何だかんだと手がかかる。

高校生の娘とは二人で旅行に行ったりするが、息子と二人での旅はちょっと厳しい。でも息子にもそんな楽しさを味あわせたい。そんな理由で元家族旅行をするようになった。

わが家のダウンちゃんは来年には中学生になる。チン毛ボーボーだから母親や姉と女湯に行かせるわけにもいかない。すぐに行方不明になりかけるし、男手として何かと私が奮戦することになる。

元嫁さんともさすがに小旅行の際は普通に過ごす。いまさらギスギスする必要もない。みんなでワイワイと食事をしたり、ボウリングに励んだり、カラオケをうなったり、花火をして楽しく過ごした。


で、人並みに家族というものの良さを感じてきた。気ままな独り身の快適さは何よりだが、家族単位で過ごす時間は、それはそれで趣がある?のも確かだ。

子ども達とのたわいの無いやりとりの中で成長を実感したり、親として喜んだり心配になったり、そういう一連の心の動きが、日頃ボケーっと暮らしている私にとっては人生の一種の潤滑油になっている。

もちろん、別々に暮らしていても子ども達のことはしょっちゅう考える。でも3日間とはいえ、ベタベタと一緒に過ごしたことで見えたものや感じたことは普段とは少し違う。

良くも悪くもいろいろな感情が湧き出てくる。それもこれも家族を持ったこと、子どもを持ったことで得られたわけで、今現在はどうあれ、そんな境遇を経験したことは幸運だったと感じる。

この時期、戦争関連のドキュメンタリーなどで若くして戦死した人達の話に触れる機会が多い。

家族を持ちたくても叶わなかった人、恋愛すら知らずに逝った人、幼子を残したまま無念に散った人。そんな先人達の犠牲を考えると、なんとなく自戒の気持ちが強くなる。

もちろん、冒頭で紹介したベストセラーのように家族という存在への過度な期待は自分の首を絞めかねないことも理解できる。親子という関係が絶対的なものでないことも現実だ。

シンドイのなら無理して家族を続ける必要はないと思う。頑張ってダメならしがみついたって仕方がない。スッキリした方が賢明だろう。

とはいえ、ただ安直に「家族なんて脆く幻みたいなものだ」と切り捨てちゃうのはさすがに淋しいことだ。それはそれで意味はある。

子どもに恵まれなかった夫婦でも、お互いをいたわりあって、長い年月を経た後は、互いが自分の一部みたいになる人もいる。そこで得る感覚や感情はやはり貴重なものだと思う。

親子関係にしても、確かに絶対は無いのだろうが、それでも「ほぼほぼ絶対」みたいなレベルにあることは間違いない。

個の時代と呼ばれる今、結婚に興味を持たない若者が増えている。その気持ちも分かるが、若いうちから刹那的にならずに、一度ぐらい家族作りにトライするのも悪くない。

ダメならダメでしょうがない。何とかなる。・・・はずだ。無責任なようだが、そのぐらいのノリで向き合わないと始まらないと思う。

そんなことを書いていると、まるで私が家族を求める淋しいオジサンみたいである。ちなみに、いまさらまた家族を作ることなど1ミリも考えていない。これから人に気を使って生きるのはキツい。無理だ。

70歳ぐらいをメドに生活の本拠を介護付きの施設にする計画も立てている。それが淋しいことだとは思わない。そこを拠点に外では好き勝手に出来たら最高だろう。

なんだか話がまとまらなくなってきた。

草津で花火をした際に指にヤケドをした。今も頻繁に薬を塗っているのだが、痛々しい指先を眺めながらも微笑ましい気分になる。これも子ども達のおかげだ。

花火の相手が違う相手だったら、指先を見るたびにイラついたかもしれない。

そんなもんだと思う。

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