東京出身。富豪になりたい中年男。幼稚園から高校まで私立一貫校に通い、大学卒業後、財務系マスコミ事業に従事。霞ヶ関担当記者、編集局長等を経て現在は副社長。適度に偏屈。スタイリッシュより地味で上質を求め、流行より伝統に心が動く。アマノジャクこそ美徳が信条。趣味は酒器集め、水中写真撮影、ひとり旅、葉巻、オヤジバンドではボーカル担当。ブログ更新は祭日以外の月曜、水曜、金曜。 ★★★スマホでご覧頂いている場合には画面下の「ウェブバージョンを表示」をクリックしてウェブ画面に飛ぶと下側右にカテゴリー別の過去掲載記事が表示されますので、そちらもご利用ください。
2019年1月30日水曜日
嵐について
高校生の娘が嵐のファンクラブに入り直すそうだ。身近なところでも「嵐特需」が始まっているわけだ。
2年先の活動休止を発表したアイドルグループの嵐。報道ではこの2年で1千億円を売り上げるという試算も出ていた。
ジャニーズ事務所が上場会社だったら「買い」だと思う。
発表当日にメンバー全員で和気あいあいとした会見を長時間に渡って行い、好感度はかなり上昇したはず。
会見では終始、嵐側のポジティブイメージが強調された。事務所側の戦略としては、まさに完全勝利だろう。
残り2年という期限が定まったことで、一種の神格化、スーパーレジェンド化が確実に動き出した感じだ。
今後の紅白やオリンピック関連行事などで「残りわずか感」が強調され、ますます“特需”は広がるはずだ。
日本のショービジネスの世界にとって、かつてないビッグビジネスが展開されるのは確実だ。
ひねくれた見方をすれば、ある意味で、SMAP効果でもある。
かなり切ない終焉を迎えたSMAPが反面教師になったことは間違いない。結果論ではあるが、あちらも嵐と同じパターンで解散していれば、少なく見積もっても数百億円の特需が見込めたはずだ。
事務所側のコントロールと戦略の立て方次第で、莫大な損得の分かれ目になるわけだから、なんともシビアな話だと思う。
ちなみに、SMAPをやめた“非主流派”の3人は、今現在芸能界でどのような立ち位置なんだろう。
テレビのCMでは見かけるが、個人的にはどことなく気の毒な空気が漂っているように見える。ファンの人には申し訳ないが、痛々しい印象とでも言おうか。
やはり大元のグループがあってこそ個々の輝きに繋がるのだろうか。嵐のメンバーも事務所側としては2年経った後にどのように活動させるか悩ましいところだろう。
いっそのこと休止しないメンバーだけで「嵐」ならぬ「豪雨」とか「強風」といった名前で活動するのはどうだろう。
その後、ファンの枯渇感が高まった頃合いを見計らって「嵐」を再結成したら、また違った熱狂を呼ぶかもしれない。
世の中、いつのまにか40才ぐらいでもアイドルを続けるのが普通になった。寿命が長くなった分、厄介なことも増えるのは当然だ。
昭和のアイドルの寿命は短かった。山口百恵が引退したのは21才だし、私が大好きだった桜田淳子ちゃんだって、たかだか20才ぐらいでアイドルからの脱皮という路線変更で迷走していたことを思い出す。
そういう意味では今のアイドルは成功すれば息が長い。成功を手にするという意味では昔とは比べものにならないが、大人になれば息切れするのも当然だ。
嵐が活動休止するのは結成22年の時になるそうだ。しがないサラリーマンだって勤続40年前後で定年だ。普通の人より働いただろう嵐のメンバーが息切れするのも無理もない。
そう考えたら休止するのは不思議ではない。疲れているオジサン目線では当たり前のように思えてきた。
ちなみに、娘がファンだったせいで、4,5年前によく嵐の歌を聴かされた。大野君ってビックリするほど歌が上手でイメージを覆された覚えがある。
彼が嵐の歌の部分の活動を支えていたらしい。そういう立場の人ならそりゃあ疲れると思う。
2019年1月28日月曜日
珍味に悶絶
その昔、mixiのハンドルネームにもしていたぐらい珍味が好きだった。今でも好きだが、昔ほど食べなくなった。これも加齢だとしたら切ない。
7~8年前は偏執狂のように珍味ばかり攻めていた。肝系、魚卵系を中心に一種の変態男だった。
http://fugoh-kisya.blogspot.com/2013/04/blog-post_8.html
http://fugoh-kisya.blogspot.com/2012/05/blog-post_18.html
当時は血液検査のたびに尿酸値が高くて、お医者さんからも痛風発作が出ないのは不思議だといわれていた。
今は余裕で標準値をキープしている。無頼派ではなくなったという意味で残念なことだ。
そうはいっても、お寿司屋さんや小料理屋さんに行けば私の目の前には小皿がたまる。塩辛だカラスミだとチマチマした珍味を頼むから小皿大会になる。
死んだ祖父が食卓にいろいろと並べたがるタイプの人だったから、私もそれを受け継いでいる。
大きめの皿にドカンと一品というパターンは嬉しくない。目の前にちょろちょろいろんなモノが並んでいるほうが嬉しい。
そういう意味でも珍味はちょこっとずつ出てくるから目でも楽しめる。
しょっぱい系がアレコレ揃っていると酒が進む。こうなると「食事」ではなく「飲酒」だ。でも私にとっては酒が主役ではなく、珍味が主役だ。
うまい酒を飲むために珍味をつまむ、ではなく、珍味を楽しむために酒を用意するというのが「正しき珍味道」だと思う。
ちょこっとずつだから嬉しい。有難い感じがする。世の中のオッサンの中には有難い珍味が出てきても一口でパクッと食べちゃう人がいる。あれってどうなんだろう。
沖縄珍味の代表である豆腐ようなどは、それこそ爪楊枝でチロチロ食べるべきなのに、塊をまるごと食べている人を目撃したことがある。ある意味で衝撃だった。
カラスミとふぐの白子だ。ちょっとだけ出てきて、それをチマチマ味わうから美味しい。冬ならではの王道珍味だ。こういうものを味わうと心底日本人で良かったと思う。
ウナギの肝だ。今ではたいていの店が肝だけを別途輸入して用意するようだが、それでもウナギのタレ風味をまとって炭火で焼かれたら珍味界のスターである。
ここ2,3年は珍しい貝の肝や得体の知れない魚の卵など極端にヘンテコな珍味を追いかけることはなくなったが、王道的な珍味があれば条件反射のように注文する。
時々訪ねる某焼鳥屋さんは、常にレバ刺しを用意している有難い店だ。刺身もウマいが、少しだけ炙ってぽん酢で食べるのもウマい。
こちらはレバ煮。生で食べられるものを甘辛く煮てもらってネギをドッサリ投入。これに七味をブリブリふりかけて、焼酎とともに味わうと悶絶する。
今の私は尿酸値の数値が健康優良状態だから、こういう一品に出くわした時も、まるで罪悪感ナシで楽しめる。
そう考えると、以前より珍味追求欲求が減ってきたこともあながち悪くない。
2019年1月25日金曜日
靴は人なり
靴の画像をちょこちょこツイッターにアップするようになって2か月ほど経った。
そんな意味不明な習慣のおかげで靴の手入れをサボらずに済んでいる。
街中を歩いている時も銀座あたりで飲み歩いている時もキチンとした身なりの人の足元に目が向く。
自分の靴のほうが綺麗に手入れされているとホッとする。一種のマウンティングみたいな感覚かもしれない。ちょっとバカみたいだ。
それにしても世の中にはヨレヨレの靴を履いている人が思った以上に多い。パリッとしたスーツを着こなしているように見えても足元がダメだと台無しだ。
靴は人なり、などと書くと大げさだが、中年紳士に限ればマトを得た表現だと思う。
先っぽが尖って上を向いているような靴をオジサンが履いている姿は滑稽だし、革靴のフリ?をした運動靴もどきを履いているオジサマもカッチョ悪い。
まあ、人様の勝手だから私がどうこう言う話ではないが、中高年紳士の「人となり」を如実に表すのは靴である。
若い頃ならともかく、一定の年齢を過ぎた社会人なら身だしなみに意識を向けられないのは失格だ。
カッコばかりに囚われ過ぎるのも愚かだが、無頓着すぎるよりはマシだろう。なんだかんだ言って人は人を見た目で判断する。これは現実だ。
別に高い靴を履くべきという話ではない。ベーシックな靴をキチンと手入れしていれば充分だ。それすら出来ていない人は、世間からマイナス査定的な目線で見下されるリスクは高まる。
普段、茶系の靴ばかり愛用している私も自分に特別な気合いを入れる時は黒のベーシック靴を履く。画像は上がジョンロブ、下はオーベルシー。
普段は黒い靴はほとんど履かない。単純にワクワクしないからという理由である。勝手な思い込みだが、茶系のほうがその靴のデザインや色っぽさが際立つように思う。
冒頭の2枚の画像はステファノブランキーニとマンテラッシだ。ともにイタリアの洒落靴である。カチっとした靴も大好きだが、このぐらいの崩し加減も好きだ。
いつまでも色気を忘れてはいけないという自戒?も込めて愛用している。不思議なもので、どこか心が浮き立つような感覚になる。
茶系の靴でも王道の英国靴だと雰囲気は変わる。
上がエドワードグリーン、下がガジアーノガーリング。どこかカッチリ感がある。紐をしっかり結んでいないのはご愛敬である。
ジョンロブとエドワードグリーンといえば、紳士靴の世界における二大巨頭のような存在だが、個人的にはエドワードグリーンに惹かれる。
ベンツとジャガーだったらジャガーを選びたくなる心理みたいなものだろうか。ヘンテコな例えですいません。
主観的な意見だが、エドワードグリーンには一種独特の色気を感じる。カチッとし過ぎないスタイリッシュ加減が絶妙だ。
実際、クラシックスタイルを好むイタリア人は、イタリア靴ではなく、あえてエドワードグリーンを選ぶという話もある。
話は変わる。
寒い季節になると、スーツにブーツを合わせることもある。紳士服をめぐる深い知識は持ち合わせていないが、一般的にはカジュアルになり過ぎるという理由でスーツにブーツというパターンは敬遠されがちだ。
とはいえ、スーツにも合わせたくなるショートブーツをいくつか持っているので、寒い日は迷わずに履く。
不思議なもので、スーツにショートブーツを合わせると、自分がいっぱしの伊達男になった気分になる。内田裕也みたいに意味もなく「ロッケンロール!」とつぶやきたくなる。
上からステファノビ、ステファノブランキーニ、ジョンロブである。
なかでもサイドゴアにベルトを追加しちゃうステファノブランキーニの美意識はイタリア靴ならではのスケベさだ。まさにアッパレだろう。
ちょこっと外した感じが“大人的ロッケンロール精神”を表していると思う。
ヘンテコなまとめ方になってしまった。
2019年1月23日水曜日
コメ活
ママ活やらパパ活の話ばかり書いても仕方がないので、今日はコメの話である。
炭水化物を避けるダイエットの影響でコメを毛嫌いする人が増えている。由々しき事態だと思う。
そういう私も正直に言うと夜はコメを抜いてしまうことは少なくない。新陳代謝がほぼゼロみたいな年齢だから許してもらおう。
とはいえ、朝からコメをドカ食いするし、週末はドンブリ飯をかっ込むことも多い。それなりに「コメ活」に精を出している。
ふるさと納税で取り寄せた「雪若丸」という名のつや姫の親戚銘柄米が最近のお気に入りだ。粒立った食感が抜群。硬めのコメ好きの私にとって最近のヘビーローテーションである。
最近はお寿司屋さんに行ってもキチンと握りを食べることが増えた。なんだか変な書き方だが、一時期はツマミばかりで酔っ払って握りを食べずに終わるヤボ状態が続いていた。
ある時から改心して、ツマミをいくつか食べたら握りをもらい、またツマミに戻って最後に改めて握りを食べるスタイルに変えてみた。
途中段階というか、前半で2貫ぐらい握りをもらっておくと、胃が適度に刺激されるのか、その後、ツマミばかりでダラダラ飲んでも、最後にしっかり握りを食べたくなる。
結果、トータルで握りを7~8貫ぐらい食べるようになった。これだと帰宅後に変な空腹感も感じないから何かと健康的である。
ウマいお寿司屋さんのシャリはもちろん、ウマい鰻屋さんにしてもカレー屋さんにしてもコメは硬めが定番だ。にもかかわらず軟らかめのコメを好む人は想像以上に多い気がする。
私にとっての謎だ。全国民を対象にしたコメの炊き方好み調査を国家事業として実施したらどんな結果が出るのか興味深い。
カキの炊き込みご飯である。炊飯器に入れるだけの帆立の炊き込みご飯の元を入手して、そこにカキを追加してみた。
炊き込みご飯用の出し汁を規定量で作ったら絶対にベチャベチャになるから、2合用の出し汁を1.5合分だけ使ってスイッチオン。
それでもコメの炊きあがり加減はまあまあレベルだった。規定量で作ったらリゾットになっちゃうような気がする。
こちらは時々作る挽き肉炒めメシだ。具は挽き肉のみ。かつてマッシュルームやらタマネギやらその他諸々の追加具材も加えて作ってみたのだが、どれもイマイチで、結局は挽き肉だけで作る。
味付けは塩コショウと少しのウスターソース。それで充分。当然、かなり硬めに炊いたコメがあってこその食べ物である。
こちらは新宿にある「サムラート」で食べたビリヤニだ。インドの炊き込みご飯である。食管法の改正でインドのナントカ米が流通しやすくなった関係で、昔よりビリヤニを出す店が増えた。
インド料理屋のカレーはナンに塗りたくって食べるのもウマいが、メニューにビリヤニがあるとどうしても注文してしまう。
ビリヤニはそのまま食べるのが普通だが、食い意地の張っている私は、そのまま食べるだけでなく、カレーもぶちまけてしまう。
何種類かオーダーしてあるカレーをそれぞれをビリヤニに混ぜて味変を楽しむ。ナンのほうが絶対に相性が良いカレーだって、結局コメと混ぜ混ぜしたくなる。
こちらは銀座の小料理屋で出てきた特製カレーライス。飲み屋の特製カレーなどと言われると一種のプラセボ効果?が働く。
カレー屋さんで出てきたらごく普通の味でも、飲み屋さんだと妙にウマく感じちゃう。コメが硬めだったらなおさらである。
こんなものばかり食べていると、昨年後半にせっかく落とした体重がアッという間に元に戻ってしまいそうだ。
愛しいけどちょっと憎い小悪魔みたいなヤツ。それこそがコメである。
2019年1月21日月曜日
アメリカ料理
フランス料理、イタリア料理、中華料理などに比べて「アメリカ料理」という言葉はあまり聞かない。世界有数の大国なのに不思議ではある。
実際に思い浮かぶのは、ハンバーガー、ホットドック、アメリカ式?のピザぐらいだから仕方がない。あれはあれで時々やたらと食べたくなる。
昭和40年代の子供の頃に食べたハンバーガーは衝撃だった。よく考えればケチャップとマスタードだけの味だったが、逆にそれが子供心に響いた。
繊細さとは別のガッツリとした分かりやすい美味しさだ。ディスっているわけではない。だから今も気取った味付けのハンバーガーよりもケチャップ&マスタードの王道的ハンバーガーに惹かれる。
久しぶりにトニーローマに行く機会があった。麹町に昔からあったのだが、いつの間にかファミレス的な様子の店に変貌していた。
バーベキューリブの甘ったるい味は中高年にはさすがにキツいが、若き日に夢中になって食べた記憶を脳がしっかり覚えている。それなりに楽しく過ごせた。
これもアメリカ料理の代表格みたいなものだ。口に入った瞬間、すなわちファーストアタックだけで勝負している感じ。常に空腹だった若者には御馳走だった。
こちらはオニオンリングである。やけっぱちみたいな感じだ。まあ、こんなものが上品に出てきても仕方ない。豪快といえば聞こえがいいが、ぶっちゃけ乱暴というほうが的確だろう。
こういうフランクな感じ、無邪気な感じが時には楽しい。遊園地的な面白さだ。それもディズニーとかではなく、「としまえん」みたいなヌルさである。
さて、私にとってアメリカ料理レストランの最高峰?がトレーダーヴィックスだ。ホテルニューオータニの中に大昔からある店だ。
時々、思い出したように出かける。味も悪くないが、味よりも店の雰囲気が好きで、もうウン十年来のファンである。
野郎同士で行くタイプの店ではないので、この日は甘い酒が好きだという女子を連れて行く。この店の特徴はオリジナルカクテル(トロピカルドリンク?)の種類の多さである。
どさくさまぎれに私も甘い酒をドシドシ注文する。普通のバーだと抵抗があるのだが、この店の場合、名物ドリンクにかこつけて甘い酒をグビグビ楽しめる。
大のオトナが大手を振って甘い酒が飲める聖地みたいな場所だ。
スペアリブなどの盛り合わせや海老のカクテルをツマミにチューチュー酒を飲んでいると普段とは違うハッピーな気分になる。
一応、メインにラム肉を頼んだりして、ちゃんとしたディナーのように仕立ててはいるが、結局、トロピカルドリンクを何杯も味比べしているうちに料理はほとんど食べずに酩酊。
メイン料理までたどり着けなくても、そこはアメリカ料理である。あまり悔しくない。いや、そんなことを言うとアメリカ料理ファンの人に怒られそうである。
結局、ディスってしまった。
1960年代に生まれた我々の年代は、若い頃はアメリカに憧れた。正確に言うと、無理やり憧れさせられたといったほうが正しいかもしれない。
メディアのあおり方もアメリカが絶対だったし、入ってくる若者向け文化の情報もアメリカ一辺倒だった気がする。
なんてったって「ベストヒットUSA」というアチラのヒットチャートを紹介するテレビ番組が大人気だったわけだから今考えれば凄いことだ。
私自身、カウボーイブーツを履いて、ハンバーガーをかじって、ジョンクーガーを大音量で鳴らしてジープのハンドルを握っていた。
大学時代にアメリカ旅行に行った時も、目に入るものすべてがアメリカだったから(当たり前だ)やたらと興奮した。
なんだか話が支離滅裂になってきた。
というわけで、大ヒットしたDA PUMPの「USA」は、ある種の郷愁にも似た気分で聴いていた。意外にそんな感覚で聴いた中高年は多いのかもしれない。
話がとっ散らかってしまった。
というわけで結論。悪評も多いアメリカ料理だが、時と場合によっては美味しいということにしよう。 何じゃそりゃ。
2019年1月18日金曜日
インフルエンザ デブ 教訓
先週木曜の夜からノドに違和感があって咳きこみ始めた。熱はなかったので気にしていなかったのだが、金曜になっても咳がひどく、念のために昼間に職場近くの医者に診てもらった。
鼻をこちょこちょされた結果は「インフルエンザは陰性です。大丈夫」とのこと。ホッとしたものの、その日の夜から微熱が出る。
翌土曜の朝、目覚めるとなんだかダルい。熱をはかったら39度近い。微熱だと思っていた自分の感度の鈍さに驚く。
前の日に解熱鎮痛剤の錠剤ももらっていたので服用してダラダラ過ごす。でも、午後になっても熱がちっともひかない。
翌日会う予定だった娘にキャンセルの連絡をしたところ、「もう一度インフル検査すべし」と強く言われる。
不思議なもので、奥さんとか親とか恋人に同じことを言われても断固拒否しそうな気がするが、愛する娘に執拗に言われると素直に再度行かねばと思えてしまう。
幸いにもネット予約できる医者を近所に見つけたので、夕方の時間帯で予約。いそいそ出かける。待ち時間もほぼ無く、前日に引き続き鼻をこちょこちょ、いや、猛烈にグリグリされる。少し殺意を覚える。
待合室に戻って結果が出るのを待とうとしたら、猛烈グリグリの成果?なのか、ものの1~2分、まさしく速効で結果反応が出る。
A型だった。1回飲めば済むという薬を処方してもらう。「ゾフルーザ」という名前。体重80キロを境目に飲む量が2錠か4錠に別れるらしい。
デブには不利である。2錠と4錠では薬代も違うだろうから、デブは金がかかるわけだ。当然のように私は4錠だった。
2日続けてインフル検査と薬をもらうハメになった。結果1万円ほどが飛んでいった。前日にさっさと検査に行ってしまった自分の真面目さ、律儀さ、誠実さが裏目に出た感じだ。
で、発症後3日ほどで体調はほぼ普通に戻った。ゾフルーザ、なかなか良い。シンドかったのは2日間ぐらいだった気がする。
たまに爆発する扁桃腺炎で4~5日うなり続けることに比べれば大したことはなく済んでしまった。
ゾフルーザのおかげなのか、日々、マジメに摂取している青汁や各種のサプリの効果なのか。多分、後者のおかげだろう。
ここ10年ぐらい、インフルエンザの予防接種は欠かさず受けていたが、今シーズンに限ってサボったら、こんな結果になってしまった。
なんともビミョーである。
教訓1。早めのインフル検査は金の無駄。キツいけど発熱してから行くのが正解。
教訓2。持つべきものは愛すべき娘。離れて暮らしていれば感染させる心配もなし。
教訓3。インフル感染は一人暮らしの時に限る。気兼ねなく自宅でウイルスをバラまける。あの体調で不仲の家族なんかにバイ菌扱いされたらメンタルまでおかしくなる。
よくわからない結論でスイマセン。
2019年1月16日水曜日
ママ活
パパ活ならぬ「ママ活」が深く静かに世の中に浸透しているらしい。よく考えてみればうなずける話だ。
若い女の子に小遣い付きで食事や酒などを付き合わせるのがパパ活だ。その逆バージョンがママ活である。
ホストクラブに通うような金満オバサンだけでなく、30代ぐらいのキャリアウーマンなんかも足を踏み入れているらしい。
大学生などの若い男の子がターゲットだ。男子側にとってもご馳走してもらってオトナの女性をヨイショするだけで小遣いをもらえるならキツいバイトに精を出すよりマシかもしれない。
プライドとか自尊心などを捨てちゃえば割の良い話だから意外に需要と供給が成り立つのだろう。
私が若者だった頃にそんな話が舞い込んできたら応じたのだろうか。今の感性なら絶対無理だと即答するが、若い頃ならホイホイついていったかもしれない。
生活苦の学生だったら普通にバイト感覚で応じるのも不思議ではない。どこまでの付き合いになるかが問題だが、食事や酒に付き合って小遣いもらえるなら喜ぶ若者は多いはずだ。
女性側の心理もわかる。何だかんだ言って男性上位の社会だから、男には分からないストレスに日々さらされている。
仕事絡みの会食の席なんかでも必要以上に男に気を使う。女性だからというだけで下座に座ってお酌するのが当たり前という感覚の世代がまだまだ世間の中枢にいるわけだから何かと大変だ。
そんな環境の中で男と同等かそれ以上に奮戦していれば男性が思うより遙かにムシャクシャするだろう。
ママ活という立場であれば、そんな心配もない。あくまで自分主導で自分中心に行動できるし、心地良く上から目線で言いたいことを語ったり本音で過ごせる。
女性の社会進出が進めば、男社会で男が当然にしていたことが女性にも広がっていく。ホステスさんの接待を男が喜ぶのと同じ。若くて見栄えの良い男性をからかったり、チヤホヤされたい女性が増えるのも当然だ。
そういう点ではホストクラブは普通に考えれば成長産業だろう。ホストクラブには抵抗がある女性でも、サパークラブやショーパブ、イケメンのバーテンがいるような店で楽しむパターンは多い。
癒やしを得ているという意味ではどこに出向こうが同じである。店の形態ではない。男も女も根っ子は同じような感覚でひとときの癒やしを求める。
人間誰しも異性絡みの癒しは嬉しい。だから女性が男性化しているわけではなく、単に社会の中枢に女性が増えているだけの話だと思う。
韓流アイドルを追っかけたり、銭湯アイドル「純烈」に黄色い歓声を上げるオバサマ達は“芸能人”という偶像を応援する。ジャーニーズファンに中年女性が多いのも似たような感覚だ。
応援することで喜びを感じて、それが結果的に自分の癒しにも繋がる。女性向け水商売に通う女性や、ママ活に励む女性は、単にターゲットが違うだけだろう。偶像を追うか、リアルの世界を追うかが違うだけだ。
オジサマ社会でも水商売の女性より一般女子ばかりを追いかける人が多いのと同じで、ママ活というジャンルも“素人市場”に目を向けた女性陣が増えてきたという話だろう。
然るべきポジションで頑張って働き、恋愛や結婚はメンドーだけど、自分主導で異性との息抜きの時間を持ちたい。こう思う女性なら、金銭という壁をあえて作った上でそんな行動に出るのも不思議ではない。
まあ、私がそんなことを考察したところで何にもならない。こっちはこっちでせいぜいパパ活にでもトライしてみようか・・・。
2019年1月11日金曜日
器の余白 盛りつけ
今日はいつにも増してどうでもいい話を書く。「器の余白」についてだ。
皿いっぱいに料理を盛るか、余白の美にこだわるか。私にとって意外に気になるテーマである。
どうでもいい話だが、どうでもいいことを気にするのも「こだわる男」としては大事?だ。
かつて、異常なまでに器収集にこだわった時期があった。徳利やぐい飲みといった酒器が中心だったが、ツマミや料理を盛る器にもこだわり、全国の窯場をめぐっていろんな皿も集めた。
思い入れのある皿を使う際には、料理は二の次である。だから皿全体を覆うように料理が盛られることが苦手だった。
つまり、器の余白がしっかり見えないと楽しくない。そんな感覚のせいで外食に行っても「器の余白問題」が気になるようになった。
器のサイズと料理のバランスがこんな感じだとグっとくる。皿も料理も引き立っている気がする。余白の美しさである。
高級路線の日本料理屋だとこういう風情を頻繁に見かける。器選びにこだわれば、器の雰囲気も見せたくなるのも当然だ。
とかエラそうに言いながら私が自宅で手巻き寿司大会を開いた時の盛りつけがこの画像だ。全然ダメである。盛り過ぎ。
備前の角皿と唐津のまな板皿を愛でたい気分だったのに、器の余白がまったくない。まさに素人の盛りつけだ。
スペースを大胆に余らせてちょこっとだけ料理を盛ると、その食べ物はいやでも貴重かつ大事な一品に見えてくる。
こんな感じで出されると有難い気分になって、それだけで美味しく感じる。
以前、京都の料理屋で炊きたての白米を炊き時間ごとに三段階に分けて一口づつ出されたことがある。大ぶりの器にほんの一口づつ盛られていたから有難く食べた。
あれが安っぽいドンブリに大盛りで出されたら感激しなかったはずだ。人間の味覚なんてそんなことで左右される。
窮屈に盛りつけられると有り難さが半減する。
ガチョウの肉もエビフライも私の大好物だが、皿に余白がないとジャンクフードに見えなくもない。まあ、好きだからテンコ盛りを逆に喜んでガシガシ食べちゃうわけだからエラそうには言えない。
大衆酒場みたいな店ではだいたいが「余白無視」である。それはそれで一種のTPOみたいなものだ。良し悪しの問題ではない。
これはこれで野趣溢れた感じで「食らう」という本能が揺さぶられるからアリだ。そもそも器自体にこだわりがなければ余白うんぬんを考えても意味はないのだろう。
こちらはカレイとウニのミックス。余白は充分にあるが、何となく盛りつけがビミョーである。こうなると余白だの窮屈だのといった次元の話ではないかもしれない。
まあ、大衆酒場じゃない店だったから窮屈に盛られるよりも余裕があるほうがそれっぽいことは確かだ。
何だか言いたいことがよく分からなくなってきてしまった。
つまり、器にもこだわりがあるような路線の店では余白の美にこだわって欲しい。でも大衆酒場みたいな店ではテンコ盛りでこちらの本能を刺激して欲しいといった意味不明の結論に近づいている。
グダグダ書いてきたが、ガッツリ食べたいドンブリ飯だったら、余白なんて無用だ。余白どころか「ハミ出ちゃうバージョン」を誉めたたえてしまう。
自分でも何が書きたかったかよく分からないまとめ方になってしまった。。。。
2019年1月9日水曜日
ウーバーイーツ ダメ人間
ウーバーイーツ(Uber Eats)を使い始めた。若者風に言えば「ヤバい」のひと言である。なんともまあ便利な時代になったものだと思う。
いわゆる出前の話である。ウーバーイーツの登場で、通常は出前をしていない店の食べ物も手軽に家に届くようになった。
エンゲル係数が破たんしている中年独身男である私は出前をちょくちょく頼む。今までは「出前館」というアプリを利用していたのだが、年末年始はウーバーイーツばかり使った。
ウーバーイーツの特徴は、店の出前要員ではないウーバーイーツの配達員がその店に料理を取りに行って家まで持ってきてくれる点だ。
だからたとえば「マックデリバリー」だと待ち時間が120分と表示されていても、ウーバーイーツを使えばわずか20分程度で配達完了ということも起こりえる。
普通は出前していない店の食べ物が頼めるのも嬉しい。私の自宅エリアだと、牛丼の松屋、バーガーキングやケンタッキーフライドチキン、伝説のすた丼、銀だこ、リンガーハット、カプリチョーザといった有名どころのほか、クレープ屋やタピオカ屋までラインナップされている。
ほかにもデニーズやバーミャン、タコベル、スシローなんかもデリバリー可能だ。もちろん和洋中なんでもアリである。
配達料は店ごとに違う。110円、230円、420円あたりが主流だ。配達料うんぬんは問題ではない。玄関まで持ってきてくれるわけだからシングルオジサマにとっては単純明快に有難い。
普通のデリバリーでは、目安の待ち時間を大幅に過ぎちゃうようなインチキも珍しくないが、ウーバーイーツの場合、アプリ上で随時情報が更新されるから安心だ。
調理中なのか配達中なのか、さらに配達中にはGPSにより配達員の現在位置がスマホ上で確認できる。
到着予定時間が細かく更新されるだけでなく、GPSで現在位置を追えるので何となくワクワクする。
「いま出ました~」というウソは通用しないわけだ。配達員さんは客からの評価で歩合給が変わるらしいので頑張ってサクサクと運んできてくれる。
30年ぐらい前に一人暮らしした時には、すべてにおいて不便さとの闘いに明け暮れていた。アナログ時代だったし、給料は少ないし、不慣れもあってメタメタだった。コンビニだって今のように街に溢れかえっていなかった。
気づけば時代はやたらと便利に進化したわけだ。まるで異質な世界に生きている気がする。
クリーニングだって宅配が当たり前だし、メンドーな買物はネットスーパーで済ますことが可能だ。私もネットスーパーは3社ほど使い分けている。イマドキは風邪薬だって持ってきてくれる。
お茶が飲みたくなればウォーターサーバーのおかげで熱湯がすぐ使える。ドルチェグストがアッという間にコーヒーをいれてくれる。
ついでにいえば、私の場合は週1回来てくれる家政婦さんが家を綺麗にしてくれるから掃除に苦労することもない。
こんな状況に加えて、食べ物の出前ですら異様に便利になってきたわけだから、私の「人間力」は間違いなく低下しているはずだ。
先日も、タバコを切らしたときに、なんで宅配で頼めないのかと一人でイラついてしまった。
なんだか自分がダメダメ人間に成り下がりそうな気がする。
いや、もう成り下がっているはずだ。
2019年1月7日月曜日
カキ、紅白、新時代の独身生活
年末年始はホゲホゲ過ごしたから充電完了である。年末は遊びに奮戦してヘトヘトになった時もあったが、年始はひたすら静養できた。
家でカキを食べまくったのも効果的だったかもしれない。男としての疲れ?に効き目があるらしいから頑張って摂取した。
カキパスタにカキ炊き込み飯である。二つとも自作だ。
パスタのほうは、細かい味付け作業がメンドーだったので、レトルトのボンゴレパスタソースをベースに、市販の刻みガーリックを加えて、そこにカキとタコをドッサリ投入。
炊き込みご飯のほうも、市販の帆立釜飯のダシセットを流用。そこにドッサリとカキをぶち込んで炊飯器のスイッチを押すだけで完成。
いずれも正しくちゃんと美味しかった。おまけにそれぞれ1食でカキを10個以上食べたわけだから男性機能回復!?に効果があった。 はずだ。
ほかにも鹿児島からふるさと納税で取り寄せてあったウナギをムホムホ食べたり、年末に買い置きしてあった生ウニを頬張ったりして過ごした。
なんだか絶倫オヤジになりそうな食事ばかりだ。まあ、時にはそんな努力をしないと現役として試合に臨めないから良しとしよう。
中高年だからといって隠居みたいな感覚になってはいけない。まだまだ世の中のド真ん中でブイブイ言わないと面白くない。
そんなことを考えながらNHKの紅白を見ていたら、画面の中で繰り広げられていた光景はまさに中高年大活躍大会だった。
サザンにユーミンはもちろん、石川さゆりの後ろで派手にギターを奏でた布袋さん、椎名林檎のお株を奪うハジけっぷりだったエレカシの宮本さんなど「中高年の底力」がてんこ盛りだった。
裏番組のガキ使だって50才を過ぎたオッサン達が暴れていたわけで、いまや時代のキーワードは「元気ハツラツな中高年」ではなかろうか。
今年も紅白を観ながら、わがオジサマバンドメンバーとスマホでチャット状態。やれ、あいみょんの出番が少ないだの、松田聖子はキーを下げ過ぎだの、西城秀樹の追悼コーナーはナゼ無いのか等々を語り合う。
合間に娘からもLINEが入って、紅白の感想などを語り合う。それに留まらず紅白ネタをツイッターにあげてみたら、瞬時に大勢の人に読まれてビックリ。
気づけばすっかりスマホを駆使して複数の人とリアルタイムで繋がったり、やり取りしていた。
ひとり侘びしく年越しそばを味わうつもりだったのだが、スマホを片手にバタバタ過ごした。これってある意味で平成という時代を象徴する行為だと感じた。
中年の独身男が一人で過ごす大晦日といえば、淋しいイメージが付きものだが、今の時代、スマホやSNSというインフラのせいもあって、昔とは様相がまるで違っている。
時代の変化を身をもって体験した。ちょっとずつ変わっていく流れに身をまかせているうちに、気づけば世の中の大きな変化の渦の中に巻き込まれていたみたいだ。
昭和にタイムスリップして若い頃の自分にそんな姿を語っても信じてもらえないだろう。なんだか大げさだが、そう思うほど感慨深かった。
まさに「昭和は遠くなりにけり」である。