2019年12月18日水曜日

エロ煩悩と闘う


頭の中に浮かんでいることは若い頃とたいして変わらない。50代の中高年まっさかり世代だが、実際はそんなもんだと思う。

仕事のこと、子供のこと、はたまた自分の老後のことなど、若い頃と違った課題が頭の中で結構な割合を占めるのは確かだが、そうした課題は浮かんでは消え、消えては浮かびを繰り返す。

普段の頭の中はどうでもいいことばかりである。アレが食いたい、あそこに行きたい、コレが欲しい等々、煩悩ばかりである。

モテたいという感情だってこの歳になっても消えやしない。ご苦労なことである。

パリっとしたスーツを着るのも、ピカピカにした靴を履くのも、はたまたバンド活動に精を出すことだって、突き詰めればモテたい願望が根っこにあるのだろう。

若い頃と同じである。そんなことでいいのだろうか。おまけに年齢相応の相手に目を向けるならともかく、いまだに若いオネエサンとネンゴロになろうと画策するわけだからタチが悪い。



自分が若い頃、50代のオトナたちはもっと達観の境地で渋く生きているものだと思っていた。今になってそれが幻想だったと思い知ってちょっと複雑な気分だ。

煩悩に振り回されているのは私ぐらいなのかとビビっていたのだが、旧友達とのワイ談ばかりの飲み会に参加すると、似たような感覚のヤツが多くて安心する。

頼みもしないのに自分で撮ったエロ画像を自慢げに見せるバカ、パパ活の成果を得意気に語るバカ、最近読んだエロ本の中身を丁寧に解説するバカ、風俗店のおトク情報を語り合うバカ等々、百花繚乱である。

さすがに内容のエゲツなさは若い頃とは変わったが、10代の頃と同じようにゲスな話で騒ぐ。

バカバカ書いているが、私はそういう話は大好きである。そういう空気の中で騒ぐのも大好きである。だってバカだから仕方がない。

考えてみれば、30年、いや40年ぐらいに渡って喜色満面でそんな話で盛り上がってきた。男という生き物の習性なんだろう。

でも、バカも突き詰めれば一種の文化である。若い頃のゲス話より中高年になってからのゲス話のほうが愛嬌?がある。クスっと笑えるようなオチがついて回る。

いや、それはウソかも知れない。自己弁護フィルターをかけようと綺麗事をいってしまった。反省。

ゲスはゲスである。



でも、そんな話で盛り上がったり、あわよくば実践したりするのにも限界がある。あと56年もすれば還暦である。さすがに気力体力ともに厳しくなってくるはずだ。

恐ろしいのは、ゲス煩悩がいつになったら消えてくれるかということである。60代、70代になっても消えていなかったら大変である。ある意味で恐怖である。

今はまだダンディーぶったオジサマという仮面をかぶって現役みたいな行動をしていられる。事実、世の中にはナイスミドル好き?な有難いオネエサンもそれなりにいる。

でも、そろそろ最終局面は近づいている。「おじいさん」というカテゴリーが着実に迫ってきている。

「おじいさん」である。漢字で書いたら「お爺さん」である。そんな次元にカテゴライズされるわけだ。大変なことである。

適当な時期にゲスな煩悩が治まってくれないと生きていること自体が切なくなりそうだ。

先日、長いエスカレーターののぼりで、数段前に立っていた女性のミニスカートが気になってしょうがなかった。

靴ヒモを締め直すフリをすればパンチラが拝めるのかなあなどと大真面目に考えていた自分のアホバカぶりに切なくなった。

そんな自分のバカっぷりのせいで、今日はこんな話を書きたくなった。反省の日々である。






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