2020年8月12日水曜日

ちょっと気取ってみた

 「お仕事ですか?」

 「いえ、ふらっと遊びに来ました」

 地方都市にありがちな寂しげな駅前通りを散策しながら目に付いた寿司屋の暖簾をくぐった。

 少し前に山形・庄内空港に降り立ち、ホテルに荷物を置いてふらふらと鶴岡駅周辺を歩いてみた。

 夕飯時である。若者がわいわい騒ぐ居酒屋は気分ではないし、カップルがしっぽり過ごすレストランも違う。

 中年男が居心地よく過ごせそうな店を探しながら目についたのがこの店だ。

 少しだけ敷居が高そうな構えの寿司屋「I」。平日、薄暮の時間である。うっすらと響く蝉の声に押されるように店に吸い込まれた。他に客はいない。

 カウンターを挟んで年配の親方がひとりで佇んでいた。年季の入った店のしつらえが落ち着く。

 ビールを注文し、地元の刺身をいくつかもらう。

 

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 「東京からです。体調は問題ありません」

 いつの間にかそんな仁義をきらないと済まなくなった世の中である。一見客の礼儀みたいな挨拶である。

 「何かと面倒でしょう。身内が東京にいるのでよく分かりますよ」

 今時の東京からの訪問者が歓迎されないことは覚悟していたが、おおらかに接してもらえたことに安堵する。

 当たり障りないよもやま話のついでに、ここ数ヶ月、藤沢周平作品を読みあさったせいで、この地を訪ねたことを話す。

 心なしか親方の表情や態度が開いたように見えた。

 藤沢周平は郷土の誇りだろう。たとえ私がにわかファンだとしても旅の目的がそこにあると知れば邪険に扱われることもないはずだ。そんなこすっからい思惑も少しはあった。

 いや、そんな思惑よりも鷹揚に構える親方を相手に素直にそんな旅の目的を話したくなったのかもしれない。

 肩に力が入り過ぎている職人相手では、こちらも壁を作りたくなるが、この親方の表情や物腰はあくまで穏やか。私の口数も多くなってしまう。

 若い頃は東京の四ッ谷の寿司屋で長く修行したそうだ。昭和の頃の界隈の話にも花が咲く。

 だだ茶豆、ゲソの煮物を肴に地酒を味わいながら藤沢周平作品に関する地元ならではの逸話も聞かせてもらう。

 

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 話の流れで私の苗字についての話題になった。私の苗字は東京では多いほうではない。実際に親戚以外で同じ苗字の人と知り合ったことはない。

 遡れば東北にルーツがあるとは聞いていたが正確には分からない。東北に親戚もいない今となっては曖昧な話でしかないのだが、奇しくもここの親方の母方の曾祖父の苗字が私と同じだという。もちろん漢字も同じ。

 奇遇である。辿り辿ればどこかで繋がっている可能性は充分にあるわけだ。

 始めて訪ねた土地、おまけに通りすがりに入った店でそんな不思議な共通項にぶつかったことは驚きだ。

 あてのない旅である。御先祖様に関わりがあるかも知れない場所に身を置きたくなって、親方の生まれ育った場所を詳しく教えてもらう。明日、羽黒山に向かうついでに回ってみよう。

 さんざん飲み食いした帰り際、早くも冬の庄内の景色を見てみたくなった私は社交辞令ではなく、雪景色の頃の再訪を約束した。

 肝心のお勘定が驚くほど安かった。親戚値段みたいなレベルである。一見の客に対して何とも粋な計らいだ。

 粋には粋で返さないと私も格好がつかない。かといって、キリが良い数字の勘定にどうやって粋を乗せるかはなかなか難しい。

 ひょっとしたら年配の親戚筋かもしれない。失礼と野暮は禁物だ。何とか自分なりに落としどころを見つけて店を後にした。

 ホテルへの帰り道。綺麗な月を眺めながら歩く。静寂に包まれた街にコオロギの音色が響く。しばらくぼんやりと佇む。時が止まった気がした。

 ひょっとしたら御先祖様もこのあたりから満月を眺めたのかもしれない。心地よい郷愁に浸りながら夜風を吸い込んでみた。ほのかに草の香りがした。


こんな気分を味わえるから旅はやめられない。



6 件のコメント:

  1. こんにちは。
    一人で入った寿司屋での情景が思い浮かびます。
    テレビは有ったのかなあ?まあ、有っても無くてもどちらでもいい雰囲気ですね。
    私は有ったと思いますが。
    時代物、藤沢周平の効果でしょうか、こういった文章、好きです。
    これから箱根に行ってきますが、こういった風景には出会えないでしょう。

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  2. 佃在住サマ

    ありがとうございます!

    テレビはありましたが消したままでした。

    頼んだ握りと違うモノが出てきちゃうのはご愛敬でしたが、心地よいお店でした。

    箱根も暑そうですが、楽しい時間になるといいですね!

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  3. 千葉のゆう2020年8月12日 13:07

    なぜかこの文章を読んだ後
    浅田次郎の「地下鉄(メトロ)に乗って」が
    頭の中をよぎりました

    内容は割愛させてもらいますが
    最初、映画をみてそのあと本をよみました
    映画は何度か見直しましたね

    今回の貴兄の話をふくらませて小説にしてほしいと思いました
    (個人的感想です)

    ふと立ち寄ったお店、そこでの大将とおかみさん、偶然にも
    自分の珍しいとも思える名前の関係、

    なにやら小説としてのこのはなしの続きが知りたく思いました

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  4. 千葉のゆうサマ


    ありがとうございます。恐縮です。

    メトロに乗っては名作ですよね。あんな名作を連想していただくとは恐れ多いです!

    寿司屋からホテルに戻って勢いでスマホに書き込んだ話を整理して載せてみました。

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  5. お盆に相応しい名作が出ましたね。富豪様のコロナ禍の謙虚な挨拶から全てが始まったようです。冬の続編が楽しみです。

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  6. コメント有難うございます!

    いえいえ、お恥ずかしい限りです。

    庄内エリアは随所に日本の原風景のような眺めが多いように感じたので、寒い季節も覗きに行きたいと思います!

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