本格的なレベルではないが私は昔から結構歴史モノが好きだ。マニアと言うほどではない。プチ歴史好きといったところか。
小学生の頃に忠臣蔵の世界にハマったことや姫路城の姿に興奮したことがきっかけかもしれない。
http://fugoh-kisya.blogspot.com/2013/12/blog-post_11.html
赤穂事件というより忠臣蔵の名で知られる四十七士の討ち入りは映画やドラマの世界では「12月14日」が定番。この日付は旧暦でのものだから今の暦に直すと2月1日あたりになる。
その後、義士達が切腹したのが今の3月。一般的に年末の風物詩としてイメージされる忠臣蔵は、実際にはちょうど今ぐらいの時期に当時の世間を騒がせていたのが史実だ。
というわけで、泉岳寺まで足を伸ばして義士達を偲んできた。最近、休日の散歩の際は都営浅草線を好んで使う。浅草が意外に近かったのと同じく、泉岳寺までも割とすぐに行けた。
言わずと知れた義士達の墓があるお寺だ。ブチ切れちゃって吉良さんに斬りかかった浅野の殿様の墓の横に一団にまとまって埋葬されている。
大石内蔵助をはじめとする義士達は、討ち入りの後に吉良邸のあった今の両国のあたりから泉岳寺まで歩いて移動した。
吉良さんの首を亡き殿様の墓前に供えて報告するためである。壮絶な殺し合いの後に両国から泉岳寺までを歩いたわけだから相当な体力だと思う。
大石は45才、他の義士にもオッサンは多かった。60代の義士もいたし、堀部安兵衛の父・弥兵衛などは70代後半だったらしい。
生きるか死ぬかの決闘の後にズンズン歩いたことは凄いと思う。アドレナリン効果だろう。
墓前には忠臣蔵ファンが供えたお線香や花もあって、義士達が300年以上に渡ってヒーローであり続けていることを実感する。
残念だったのはコロナのせいで記念館などが閉館していたこと。ボーッと展示物を見ながらその時代を想像するのが好きな私としては大ショックだった。
仕方なく境内をウロウロしていたら、吉良さんの首を洗った井戸や、瑤泉院(浅野の殿様の奥さん)が誰かに託した梅の木を移設したものなどがあって観光気分がちょっとアガる。
梅も咲き始めていたから「いとをかし」だった。時代の変遷に関係なく咲いては散り、咲いては散るを繰り返す花のはかなさが印象的だった。
お寺の境内近くには赤穂浪士ゆかりのグッズを売るお土産さんが数件並んでいる。義士の名前が入った扇子だとか湯飲みなど忠臣蔵ファンならついつい欲しくなる逸品?が揃っていた。
私もあやうく買いそうになったが、まず間違いなく不要品になる。ちゃんと我慢して通り過ぎた。
帰路、泉岳寺のそばに出来た山手線の新駅まで歩いてみた。その名も悪評高き「高輪ゲートウェイ駅」である。
確かにヘンテコな名前である。何の意味があってこんなネーミングにしたのだろう。実に居心地が悪い(好きな人、ゴメンナサイ)。
お隣の田町も「ライスフィールドタウン」とかに改称したら面白い。新橋は「ニューブリッジ」、目黒を「ブラックアイ」、私の職場の近くの宝町駅は「トレジャータウン」である。
銀座は「シルバーシート」。それもそれで面白いかもしれない。
変なまとめになってしまった。
高輪ゲートウェイは、なぜ素直に「高輪」にしないのか。山手線駅名の統一感を乱している気がします。他の路線ならまだしも山手線につけるとは残念です。
返信削除コメントありがとうございます。
返信削除ただただヘンテコですよね。それしか言いようがないです!