根っからの凝り性だからこれまでいろんなものにハマってきた。中でも酒器収集には気が狂ったように熱中した時期があった。30歳を過ぎた頃から興味が強まり、その後10数年は「徳利、ぐい飲み」のことばかり考えていた気がする。
今も好きだが、当時の熱はさすがに冷めた。100個以上あったコレクションも売ったり人にあげたりして今は徳利が20本程度、ぐい飲みが30個ほど手元にあるだけだ。
家で飲む機会はあまり無いのでまさに宝の持ち腐れである。時折お気に入りを手にとって掌でもてあそぶことはあるがほぼ使っていない。
高価なものだろうと使ってこそナンボなのが器である。そろそろ考えなきゃならない断捨離の際に一連の酒器をどうするかで苦悩しそうだ。
以前はビジネスバックには常にぐい飲みを入れていた。巾着袋に入れた状態で唐津か備前の逸品を持ち歩いていた。最近はバック自体を持たないことが増えたから気の利いた店のカウンターで愛器を取り出して使う場面もなくなった。
https://fugoh-kisya.blogspot.com/2010/03/blog-post.html
なんだか劣化である。どんなジャンルであろうとこだわりを持つことは大事だ。歳とともにそれがどんどん無くなっていく感覚がある。ちょっと残念。
とはいえ、肩の力が抜けたというか、呪縛のようなものから解放された感覚もある。これも一種の年の功だろうか。そう考えるほうが建設的である。
これは3年ほど前に娘の大学入学記念という大義名分で購入した唐津のぐい飲みだ。名匠・田中佐次郎さんの出来の良い斑唐津である。
俗に「備前の徳利、唐津のぐい飲み」と言われるように酒器愛好家にとっては垂涎の作品。お金を出して手に入れた酒器は今のところこれが最後である。
記念で買ったのに購入直後に自宅で一人しっぽり使っただけである。実にもったいない。でも最近は家で日本酒を飲む機会が無いから仕方ない。
酒なんて気分で味が左右されるものだ。お気に入りの器も重要な役割を果たす。何かの記念で入手したのもしかり旅先で手に入れたものしかり。旅の思い出も飲んでいる際の気分をアゲる要素になる。
思えば唐津や備前の窯場には何度も足を運び、他にも信楽、美濃、常滑、有田、越前、丹波、砥部、益子、壺屋など日本中で窯場巡りをした。どこでものどかな日本の原風景みたいな光景の中を散策した。
作家さんの陶房を訪ねたり土地土地のウマいものを味わったり旅の記憶がそこで入手した酒器の使い心地を一層良くしてくれるのが楽しくて一種の中毒のように器のことばかり考えていた。
ベンツのSクラスぐらい余裕で変えるぐらい散財したと思う。もっとだろうか。でも自分にとって無駄な出費ではなかった。その分いろんな知識が身に付いた。
いい歳になってみると器の知識は雑学の中でも結構活躍?してくれる。料理屋さんでそのあたりの話題に専門用語も交えて語っちゃったりするといっぱしの教養人だと錯覚してもらえる。
口当たりも柔らかで注いだ酒も綺麗に映える実に素晴らしい盃なのだが、これも仕舞い込んだままだ。まめに使ったほうが器も喜ぶはずだから気分の良い日にはもったいぶらずに使おうと思う。
今の私はどう逆立ちしたって人生の後半戦にいる。いつまでも何も考えずにグビグビ飲める日が続くわけではない。昔はそんなこと考えもしなかったが、そろそろ人生終盤戦という現実の中での行動を意識しないといけない。
眠らせたままの酒器たちに活躍の場を与えることはそれだけ自分の身辺に活気がある証拠にもなりそうだ。肝臓と相談しながら適度に愛器たちを眠りから覚ましてやろうと思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿