骨董の世界では「備前の徳利、唐津の盃」という決まり文句がある。取り合わせの妙を例えたものだが、骨董に限らず、現代作家の作品でも、確かにこの組み合わせは悪くない。
唐津焼。佐賀県の伝統的な工芸品で、同じ佐賀の有田・伊万里焼と異なり、釉薬を使いながら土そのものの味わいを活かした素朴かつ艶っぽい焼物だ。
唐津の盃の良さは、藁灰を主とした釉薬が焼成段階で微妙に景色に変化をつける点だろう。
基本的には、暖かみのあるベージュ系、乳白色系の肌合いだが、焼成過程で、鉄分などが器の表面に溶け出し、青や黒のアクセントが加わり、独特の景色を作る(写真参照)。
お酒を注げば、濡れた盃の中は美しく光る。まさに小宇宙。飛び込んでみたい衝動に駈られる。
盃と書くと小さなお猪口のようなイメージなので、ここからはお猪口と区別する意味で「ぐい呑み」と表現したい。
真っ当な料理店は器にも気を配っているが、酒器という点では、なかなか感心できるものに出会うことはない。
酔っぱらいに乱暴に扱われることを思えば仕方ないが、器好きにとっては、ちょっと淋しい。なかには、ぐい呑みをたくさん詰め込んだカゴを持ってきて、好きなものを選ばせるお店があるが、妙チクリンなぐい呑みばかり揃っていることが多く、かえって興醒めする。
そんな私が実践しているのが、「マイぐい呑み」の持ち歩きだ。私にとってビジネスバッグを持ち歩く目的自体が、ぐい呑みの運搬である。あたかも重要書類でも入っていそうな雰囲気のバッグでも、中身は、ぐい呑みだけだったりする。
桐箱に入れて持ち運ぶわけにもいかず、保護用の巾着袋に入れて酒場にお供してもらっている。たまに酔ったついでに店に置き忘れるが、紛失した経験はない。
磁器と違い土っぽさがウリの唐津とか備前などの陶器は使い込むほどに色合いなどに味わいが出てくる。「酒を染みこませる」という名目でぐい呑みを使った後に、軽く布巾で拭くだけのモノ好きも器好きには少なくない(私もだ)。
いまは閉めてしまった文京区内の某寿司店に通いつめていた頃、あまり気に入らないまま購入した志野焼(美濃焼の一種)の大ぶりのぐい呑みを店に置かせてもらったことがある。お客さんにどんどん使ってもらって器がどのぐらい変化するかを見極めるのが目的。
2年ほど店に預けっぱなしにして使い込んでもらった。結果、購入した当時の堅い感じが失せ、実にとろっとした器に変貌していた。ざっと計算して約700日。毎日酒を何杯も注がれ、日によってはお客さんが2回転したこともあっただろう。嬉しい酒のときには軽やかに、辛い酒のときには痛いほど握られ、ぐい呑みにとっては激動の日々だったようだ。
今ではその志野焼、すっかり私のお気に入り。バッグに入れて持ち歩かれることはなく、自宅で悠々と鎮座するグループに昇格している。
でもやっぱり、自分自身の手で、気に入ったぐい呑みを味わい深く激しく変化させてみたい。肝臓との相談はこれからも続きそうだ。
2007年10月30日火曜日
ぐい呑み賛歌
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